王立図書館
アルスを外で待たせて王立図書館に入ると、静寂の中に本の匂いが漂っていた。
高い天井を支える白い石柱、陽光を受けて輝くステンドグラス――。
四方を囲む巨大な本棚が、まるで知識そのものの森のようにルーナの前にそびえ立つ。
「わぁ……! すごい本の数……!」
「王立図書館はね、このノール王国で出版された本がすべて保管されてるんだよ!」
「よく知ってるのね、ベル」
「えっへん! 私、本が大好きだから!」
胸を張るベルの姿に微笑みながら、ルーナはゆっくりと奥の閲覧区画へ進む。
空気はひんやりとしていて、遠くでは司書のペンが紙をなぞる音がする。
ルーナが手に取ったのは、海の生物をまとめた図鑑だった。
厚い装丁を開くと、精緻な筆致で描かれた魚や海獣の絵が並ぶ。
「ルーナちゃんって、海が好きなの?」
「ええ。わたし、昔から海が大好きなの」
「先日のノール湾クルーズでも、ずっと笑顔でいらっしゃいましたからね」
「そうね、ナミ。あの景色は忘れられないわ……」
ページをめくるルーナの指先が、ふと止まる。
あの海――アルスと再会したあの日の潮風、波の音、陽光が胸の奥に蘇る。
「……あそこでアルスに会えたのも、きっと運命だったのね」
ルーナが再びページをめくると、ノールイルカの姿が目に飛び込んだ。
「見て、ナミ! これ、ノールイルカだわ!」 「確かクルーズでも芸を披露していましたね」 「ええ、こんなに可愛らしい姿だったのね……!」
ノールイルカ、サエズリイルカ――どの絵も、前世で見た水族館の仲間たちにそっくりだ。
だがページを進めるうちに、ルーナの表情から笑みが消えていく。
「……おかしいわ。シャチが、載ってない……」
静寂がルーナの耳を包む。
どのページを探しても、アルスのような姿はどこにもなかった。
「じゃあアルスは、この世界でたった一頭のシャチ……?」
その事実が、胸の奥にずしりと落ちた。
仲間もいない広い海で、どんな思いで生きてきたのだろう。
――再会するまで、どれほど孤独だったのだろうか。
(アルス……あなた、ずっとひとりだったのね)
ルーナの指先から、ぽたりと涙が落ちた。
「ルーナちゃん? どうして泣いてるの……?」
ベルの声で我に返り、ルーナは慌てて涙をぬぐう。
「……なんでもないの。ただ、ちょっと思い出してしまって」
「そうなんだ。ねえねえ、この魔法の本すごいんだよ! 一緒に読も!」
ベルが手にしていたのは、魔法理論の入門書だった。
ルーナは微笑んで隣に座る。
「――この世界にも、こんなにたくさんの魔法があるのね……!」
「うんっ! 読んでるだけでワクワクするよ!」
ベルの瞳が、朝の光のようにきらきらと輝いていた。
その明るさに、ルーナの心も少しずつ和らいでいく。
そこへ、ナミが静かに分厚い本を差し出した。
「お嬢様。こちらの一節をご覧くださいませ」
それは「魔物取引と召喚獣登録に関する法典」――後の騒動へと繋がる一文が、ルーナの視線を引き寄せた。
「――この世界では、生きた魔物の取引は禁止されているのね……」
法典の頁を指でなぞりながら、ルーナは眉をひそめた。
細かな条文がぎっしりと記された紙面からは、王国の厳格な姿勢が伝わってくる。
「それだけではございません。無許可での飼育も、重大な犯罪とされています」
「……そうなると、昨日ギルドで聞いた話は本当にただ事じゃないわね」
胸の奥にざらりとした不安が広がる。
ルーナは思わずアルスの顔を思い浮かべた。
「――アルスのところへ戻りましょう。なんだか嫌な予感がするの」
「承知いたしました、お嬢様」
図書館で魔法理学の入門書を借りたあと、ルーナたちは急ぎ足で広場へ戻る。
すると、そこでは――
『じゃーん!』
人々に囲まれて、アルスが得意げにポーズを決めていた。
「わぁー!」
「すごい!」
「かわいいー!」
巨大な体で尾びれをくるりと回し、陽光を反射して水の粒を散らす。
まるで空を泳ぐ宝石のように、観客の子どもたちは歓声を上げた。
「ふふっ、アルスったらもう……」
ルーナは安堵と呆れの入り混じった笑みをこぼし、前に進み出る。
「皆さん! こちらはアルス――シャチという、海の王者なんです!」
アルスが得意げに体を反らせると、再び拍手とどよめきが起こった。
その勢いのまま、ルーナはアルスと共に広場の中央へ。
「それでは、王都ノールセントのみなさんに――特別なパフォーマンスをお見せします!」
ルーナの声に、観衆が息を呑む。
アルスは空を宙返りし、尾びれでルーナの水魔法を使って虹の輪を描いた。
その輪をルーナが今度は氷魔法で煌めく結晶に変える。
光と水が舞い、広場は歓声の渦に包まれた。
「ありがとうございました~!」
拍手とともに投げ銭が飛び交い、ナミが優雅にそれを受け取って回る。
「今回も大盛況ですね」
「当然よ! だってアルスが最高の相棒なんだから!」
『キュイッ!(えっへん!)』
ルーナとアルスが笑い合うその時、ナミは観客の中に一瞬の違和感を感じ取った。
(……この視線は?)
群衆の中、黒い外套の人物がじっとこちらを見ていた。
だが次の瞬間、その影は人の波に紛れて消えた。
「どうしたの、ナミ?」
「……いえ。風のせいかもしれません」
ナミは微笑みを崩さずに答えるが、心の奥でざらりとした不安が残った。
「はぁ……人が多すぎて、やっと追いついたよ~!」
人混みをかき分けてベルが合流する。
ルーナは笑って肩をすくめた。
「ごめんね、ベル。そろそろ宿に戻りましょうか」
「うん!」
夕焼けに染まる王都の通りを歩き出した、その時だった――。
市場の方角から、甲高い悲鳴が響き渡る。
「何事!?」
『あっち!』
アルスが鋭く鳴き声を上げ、宙を泳いで先行する。
ルーナはすぐにその後を追った。
辿り着いた市場は、すでに混乱の渦に包まれていた。
屋台が倒れ、人々が逃げ惑い、泣き叫ぶ声が響く。
そしてその中心に――。
「あれは……!?」
腐った果実のように膨れ上がった肉体、丸太のような腕、血走った目。
それは、醜悪な巨人――ブラッディトロールだった。
「ブフフホホホホホホホッ!!」
下卑た笑いとともに屋台を叩き潰し、肉塊をまき散らす。
「ブラッディトロール!? なぜこんな場所に……!?」
「理由はどうでもいいわ! 今は止めなきゃ!」
ルーナの声が震える。怒りと恐怖、そして覚悟が胸を焦がした。
「ナミ、避難誘導をお願い!」
「……承知しました。ご武運を」
ナミが人々を導く間、ルーナはアルスと視線を交わす。
『ルーナ、行こう!』
「ええ!」
その瞬間、風が巻き、二人は市場へ駆け出した。




