第9話 仕組まれた小さな悪意
その異変は、あまりにも些細な形で始まった。
昼の講義が終わり、生徒たちが次の授業までの短い休憩へ散っていく時間だった。王立学園の回廊には、教本を抱えて急ぐ者、友人同士で談笑する者、窓辺に寄って外の庭園を眺める者が入り混じっている。
ルシアンはその流れの中を、一人で歩いていた。
ここ数日、アルベールとの会話や昼餐会の話が頭から離れず、完全に平静とは言い難い。それでも以前のように感情をむき出しにすることなく、少しずつ日常をこなせるようにはなってきていた。
視線にはまだ慣れない。
だが、その視線の中に含まれる色が少し変わったことも分かっていた。
以前のような露骨な嫌悪や警戒だけではない。戸惑い、探るような興味、ほんの少しの好意。そうしたものが混ざり始めている。
それ自体は悪くない。
少なくとも“断罪される悪役令息”として一方的に塗り固められるよりは、ずっとましだ。
問題は、その曖昧な揺れを快く思わない人間もいるだろうということだった。
それを、ルシアンはまだ甘く見ていたのかもしれない。
「大変……! セシリア様のお持ち物が見当たらないのです!」
甲高い声が、回廊の端から響いた。
その一声だけで、空気がざわりと揺れる。
ルシアンの足がわずかに止まる。
声のした方を見ると、セシリア・フォルナンとその友人たちが、窓際の小さな休憩スペースで慌ただしく辺りを見回していた。侍女見習いらしき少女まで青ざめており、どうやら単なる落し物というより、少し騒ぎになりつつあるらしい。
「確かに先ほどまではここへ……」
「本当に? もう一度袋の中も見てみて」
「見ました、でも……」
セシリアは困ったように眉を寄せている。淡い栗色の髪が揺れ、その表情は明らかに戸惑っていた。
なくしたのは何だろう。
ルシアンは一瞬だけ、関わらずに通り過ぎるべきかと考えた。
正直に言えば、その場へ近づくこと自体が危険な気がした。セシリアが中心にいて、人が集まり、何かの紛失騒ぎ。ゲーム知識がなくても嫌な予感しかしない。
だが、だからといって露骨に避ければ、また別の意味で目立つ。
しかもここで背を向けることが“何か知っているから逃げたのでは”という解釈へ繋がる可能性すらある。
ルシアンは小さく息を吐き、慎重に距離を詰めた。
「何があった」
その一言だけで、数人の視線が一斉にこちらへ向く。
セシリア自身も目を上げ、ほんの一瞬だけ複雑そうな表情を浮かべた。以前ならその表情の中に警戒がもっと濃くあったのだろう。だが今は、警戒と戸惑いと、少しの安堵が混ざって見える。
「ルシアン様……」
「なくしたものは何だ」
できるだけ感情を乗せず尋ねる。
セシリアの代わりに、そばにいた令嬢が答えた。
「小さな香水瓶ですわ。フォルナン伯爵家の紋が入った、大切なお品だとか」
香水瓶。
胸の奥に、ぞくりとしたものが走る。
ゲーム本編にも、なくし物や小さな私物のすり替え、あるいは“偶然見つかった証拠品”が、後々の断罪材料に使われる場面はいくつかあった。もちろん今のこれはそのまま同じとは限らない。だが嫌な連想を呼ぶには十分だった。
「最後に見たのは」
ルシアンが問うと、セシリアが答える。
「先ほどの礼法実習の後です。こちらで友人たちと少し話して、そのまま次の準備をしようとしたら……」
「落とした可能性は」
「……あると思います。でも、この辺りはもう見ました」
周囲の床や長椅子の上には、すでに何人かが目を走らせた形跡がある。だが見つからないのだろう。
ルシアンは一瞬だけ目を伏せ、考える。
ここで焦って誰かを疑うのは最悪だ。
かといって“では探しましょう”と人の輪へ入り込みすぎるのも危険だ。セシリアの私物紛失騒ぎに、悪評のあるルシアンが積極的に関われば、それ自体が後でどう見られるか分からない。
だが、立ち去るわけにもいかない。
「……落としただけなら、今すぐ見つかるはずだ」
ルシアンは周囲を見回す。
「人が集まりすぎると余計に分からなくなる。いたずらや持ち去りでないなら、移動経路を絞った方が早い」
言いながら、自分でも少し驚いていた。
以前の自分なら、こういう場面でこんな冷静な言い方ができただろうか。たぶんできなかっただろう。自分が疑われるかもしれないという焦りから、むしろ先に苛立っていた気がする。
セシリアはぱちりと目を瞬かせた。
「移動経路、ですか」
「ああ。実習室からここまで、寄り道をした場所は」
彼女は少し考え、それから友人たちと顔を見合わせる。
「中庭側の廊下を通って……その途中で一度、資料棚の前に」
「ではそこから辿るべきだ」
ルシアンは必要以上に近づかないよう気をつけながら、落ち着いた声を保った。
「ここで全員が同時に探しても混乱するだけだ。手分けするなら、最後にいた場所から順番に。誰がどこを見たかもはっきりさせた方がいい」
いつの間にか、周囲で聞いていた生徒たちまで静かになっていた。
それは単純に、ルシアンが妙に筋の通ったことを言っているからだろう。
彼はその沈黙の意味を深く考えないようにした。今はただ、下手に騒ぎを膨らませないことが大事だ。
セシリアが小さく頷く。
「ありがとうございます。では、そのように」
彼女の友人たちも頷き合い、数人ずつに分かれて動き始めた。
ルシアンはそこで一歩引こうとした。
自分がこれ以上深く関わるのは危険だ。助言だけして離れる。それが最善――そう思った、まさにその時だった。
「あった……!」
別方向から、ほとんど歓声のような声が上がる。
皆の視線が一斉にそちらへ向いた。
回廊の角に近い位置で、下級貴族の令嬢が小さな硝子瓶を手にして立っていた。琥珀色の液体がわずかに揺れ、金の蓋には確かにフォルナン家の紋章らしきものが刻まれている。
「これですわ!」
セシリアが安堵したように声を上げる。
だがその直後、持っていた令嬢の顔色がみるみる変わった。
なぜなら、その香水瓶が出てきた場所が問題だったからだ。
「……え」
誰かが息を呑む。
そこは、壁際に置かれていた男子生徒用の鞄の近くだった。いや、正確には――ルシアンの鞄のすぐ脇だ。
空気が、一瞬で冷えた。
ルシアンの思考も、数秒だけ白く飛ぶ。
そんなはずはない。
今日、自分はセシリアに近づいていない。少なくとも物に触れる機会などなかった。なのに彼女の紛失した香水瓶が、自分の持ち物の近くから出てきた。
あまりにも出来すぎている。
ゲームで何度も見た“雑な罠”そのもののようだった。
だが現実は、雑であっても十分に人を傷つける。
周囲のざわめきが、一気に質を変える。
「どうして……」
「まさか」
「でも、あそこって……」
視線。
好奇心と、疑念と、ちょっとした期待。面白いものを見つけた時の空気だ。
ルシアンは胸の奥がすうっと冷えていくのを感じた。
ここで取り乱せば終わる。
否定しても、感情的になればなるほど“図星だからだ”と受け取る者がいる。
呼吸を整えろ。
まず状況を見ろ。
そう自分へ命じながら、ルシアンはゆっくり口を開いた。
「……私は、それに触れていない」
静かな声を保つ。
震えていないか、自分では分からない。
香水瓶を見つけた令嬢は青ざめたまま、慌てて首を振った。
「わ、私も、ただ鞄の近くで見つけただけで……」
悪意はないのだろう。だがその言葉は、ルシアンにとって何の助けにもならない。
“鞄の近く”という事実だけが残る。
セシリアは明らかに困惑していた。彼女はルシアンと香水瓶を結びつけたいわけではない。だが目の前の状況がそう見えてしまうことに、自分自身も戸惑っているのだ。
その時、背後から柔らかな声が割って入った。
「これは少し、おかしな話だね」
ジュリアン・ヴァレリオだった。
最悪のタイミングで、最悪の人物が現れる。
彼は普段通りの優しい笑みを浮かべながら人の輪へ入り、床に置かれた香水瓶とルシアンの鞄を見比べる。
「ルシアンがわざわざこんな露骨なところへ置くとは思えないし、偶然にしては出来すぎている」
一見すると、庇っているような言い方だ。
だがルシアンには分かる。
その言い回し自体が、“誰かがルシアンへ罪を着せようとしている”か、あるいは“ルシアンがわざとあからさまに見つかるよう仕組んだ”か、どちらにでも転がせるよう作られている。
決して無害ではない。
ジュリアンはセシリアへ視線を向ける。
「フォルナン嬢、最近こうしたことが他にも?」
「い、いえ……少なくとも、私は」
彼女が答えきる前に、またざわめきが広がる。
ルシアンは内心で強く奥歯を噛みしめた。
駄目だ。
この流れは駄目だ。
誰も明確に自分を責めていない。だがそのぶん、疑いだけが空気の中へ滲み出していく。一番厄介な形だ。
「落ち着け」
不意に、低い声がした。
場が一瞬で静まる。
レオンハルト・シュタインが、いつの間にかそこにいた。
王子付き近衛騎士の登場は、生徒たちにとってそれだけで十分な威力を持つ。彼は香水瓶の位置と鞄を一瞥し、簡潔に言った。
「見つかった場所だけで人を疑うな。誰がいつその周辺へ触れたか、まだ何も分かっていない」
その言葉は正論だった。
そしてこの場に必要な、最初の“ブレーキ”でもあった。
ルシアンはほんの少しだけ、胸の内で安堵する。
レオンハルトはさらに続けた。
「エヴラール様は、この件が発覚する前から複数名の前でここにいた。私も確認している。少なくとも、発見直前に隠し置いたという線は薄い」
その一言で、ざわめきの矛先が少し変わる。
誰かが置いたのなら、ルシアンではない別の誰かがいる。
そう考え始めたのだろう。
だがそれはそれで、新しいざわめきを呼ぶ。
「では誰が……」
「いたずら?」
「でも、どうしてそんなことを」
ルシアンはそこでようやく、自分の指先が冷たくなっていることに気づいた。
危なかった。
本当に、紙一重だった。
もしレオンハルトが来なければ、あるいはもっと遅ければ、空気はそのまま自分に傾いていたかもしれない。はっきりと糾弾されなくても、“何となく怪しい”という印象だけで十分に傷になる。
それを、自分はよく知っている。
「この件は私が報告する」
レオンハルトは冷静に言う。
「フォルナン嬢の持ち物は返却しろ。エヴラール様の鞄にも、勝手に触れるな」
誰も逆らわない。
近衛騎士の声音には、それだけの強さがあった。
香水瓶は侍女見習いの手を経て、セシリアへ返される。彼女はそれを受け取りながらも、まだ不安げな目でルシアンを見ていた。
ルシアンはその視線を、責めだとは思わなかった。
むしろ逆だ。
彼女自身、この場がどう転びかけていたかを理解し、どう言葉をかければいいのか分からずにいるのだろう。
「……私は、やっていない」
気づけば、ルシアンは小さくそう言っていた。
セシリアだけへ向けた言葉ではなかったのかもしれない。だが彼女はそれを聞き、はっとしたように頷く。
「分かっています」
その答えが、今のルシアンには少しだけ救いだった。
本当にそう思っているのか、それとも混乱の中でそう言っただけなのかは分からない。けれど少なくとも、彼女は今この場で自分を一方的に疑う側へ回らなかった。
それだけでも十分だった。
人の輪が少しずつ解けていく。
しかしジュリアンだけはすぐには動かず、いつもの穏やかな顔でルシアンを見た。
「災難だったね」
その言葉に、ルシアンは何も返さなかった。
返せばまた何かが生まれる気がしたからだ。
ジュリアンは軽く肩をすくめ、それ以上は何も言わず去っていく。
だがその背中を見送りながら、ルシアンの胸の中にははっきりとしたものが残った。
これは偶然ではない。
あまりにも都合がよすぎる。
セシリアの私物がなくなり、それが自分の鞄の近くから出てくる。しかも騒ぎになった直後という、最も印象に残る形で。
誰かが“ルシアンがセシリアへ何かをした”という構図を作ろうとしている。
今日のこれは、ただの小さな試し打ちかもしれない。
だが、小さいからこそ恐ろしい。
この程度のことなら、時間が経てば多くの人は忘れるだろう。けれど印象だけは残る。何度も何度も小さな疑いを積み重ねれば、やがて誰かが言うのだ。
“やはりルシアン・エヴラールは危うい”と。
ゲームの断罪ルートへ至るまでの流れを思い出し、ルシアンの背筋が寒くなる。
そうだ。
あれは、いきなり公開断罪から始まったわけではなかった。
小さな嫌がらせ。
誤解。
なくし物。
周囲の証言。
“らしい”という印象。
そうした積み重ねの先に、断罪はあった。
レオンハルトが近づいてきた。
「エヴラール様」
いつも通り感情の見えにくい顔だが、その声音にはわずかに配慮があった。
「殿下へ報告いたします」
「……お願いします」
それしか言えない。
レオンハルトは短く頷いた。
「しばらくの間、持ち物から目を離されぬよう」
その忠告に、ルシアンは小さく息を呑む。
つまり彼もまた、これは偶然ではないと見ているのだろう。
「承知しました」
「それと」
レオンハルトは少しだけ声を落とした。
「今のような場で、取り乱されなかったのは賢明です」
思いがけない言葉だった。
ルシアンは目を瞬く。
「……褒められているのでしょうか」
「事実を申し上げているだけです」
それだけ言って、レオンハルトは一礼する。
近衛騎士らしい、そっけない返しだ。だがルシアンには、それがかえってありがたかった。必要以上に慰められるより、ずっと受け取りやすい。
騒ぎが収まり、生徒たちがそれぞれの日常へ戻っていく中で、ルシアンだけが少し取り残されたような気分でその場に立っていた。
小さな香水瓶一つで、ここまで空気が変わる。
誰も大声で責めなかった。
誰も直接“お前がやったのだろう”とは言わなかった。
それでも十分だったのだ。
数秒の沈黙、あの一斉の視線、息を呑む音。あれだけで、人は簡単に“怪しい誰か”になり得る。
ルシアンは鞄の持ち手をぎゅっと握る。
怖かった。
今さら認めるまでもなく、怖かった。
けれど同時に、妙なほど頭は冷えていた。
これは始まりかもしれない。
そして自分は、もう一度同じ形で嵌められる可能性がある。
だったら、今度は待つだけでは駄目だ。
小さくても、仕込みの痕跡を見つけなければならない。
断罪ルートを避けるというのは、ただ大人しくしていれば叶うことではないのかもしれない。
誰かが能動的にこちらを悪役へ戻そうとしているのなら、こちらもそれを見抜かなければならないのだ。
ルシアンはゆっくりと歩き出した。
回廊の窓の外では、午後の光が中庭を静かに照らしている。その穏やかな景色とは裏腹に、胸の内では不穏な確信が広がっていた。
――仕組まれている。
それも一度きりではない。
今日の香水瓶は、小さな悪意の形見のようなものだ。
そしてその悪意は、もう確実に、自分のすぐ近くまで来ていた。




