第10話 侯爵家の温度
香水瓶の騒ぎがあった日の夕方、ルシアンは侯爵邸へ戻ってから、ひどく静かな怒りのようなものを胸の底へ沈めたまま過ごしていた。
怒りといっても、誰かへすぐぶつけられる種類のものではない。
もっと冷たい感情だ。
もしレオンハルトがあの場へ来なければ、自分はどうなっていただろう。明確に犯人扱いされなかったとしても、“セシリアの私物がルシアンの鞄の近くから出てきた”という印象だけは確実に残っていたはずだ。
しかも厄介なのは、あれがあまりにも小さな出来事だったことだ。
大きな事件ではない。
泣き叫ぶような騒ぎでもない。
翌日には“ちょっとした誤解でしたのね”と、表向きには片づけられる程度のことかもしれない。
だが、そういう小さな“何となく怪しい”が積み重なることの恐ろしさを、ルシアンは前世のゲーム知識から嫌というほど知っている。
断罪は、たいてい突然ではない。
周囲が「ああ、やっぱり」と言えるだけの下準備があって初めて成立する。
だからこそ、今日の件は軽く見てはいけない。
「……見ているだけでは、駄目かもしれない」
自室の机へ片肘をつきながら、ルシアンは小さく呟いた。
窓の外では夕暮れの光が庭園の木々を斜めに照らしている。穏やかな景色だ。けれどその静けさが、かえって胸の内のざわめきを際立たせる。
誰がやったのかは分からない。
ジュリアンか、その周辺か、それともまだ顔の見えない別の誰かか。
ただ少なくとも、“ルシアンがセシリアに何かする構図”を作りたい者がいるのは確かだ。
その事実を頭の中で反芻していると、控えめなノックの音がした。
「ルシアン様。旦那様がお呼びです」
執事の落ち着いた声だった。
ルシアンは小さく息を吐く。
やはり来たか、と思う。
今日の出来事が侯爵の耳へ入らないはずがない。むしろ、とっくに報告は済んでいて、呼び出しの理由を整理した上で待っているのだろう。
「……すぐに行く」
上着の皺を整え、鏡で最低限身なりを確認してから部屋を出る。
侯爵家の廊下はいつだって静かだ。敷かれた絨毯が足音を吸い、使用人たちは必要以上の気配を立てない。豪奢というより、徹底して整えられた静けさがこの家の気風そのものだった。
エドモン侯爵の執務室の前まで来ると、扉の前に控えていた老執事が一礼する。
「どうぞ」
中へ入ると、父は大きな机の向こうに座っていた。
窓際にはすでに夜の気配が降りている。机上の燭台に灯された明かりが書類の端を照らし、エドモン侯爵の横顔へ深い影を落としていた。その顔は相変わらず端正で、感情を読み取らせない。
ルシアンは机の前で礼を取る。
「お呼びとのことで」
「座れ」
短い言葉に従い、向かいの椅子へ腰を下ろす。
すぐには話が始まらない。
侯爵は手元の書類を閉じ、少しだけ沈黙を置いてから息子を見た。その視線は冷静そのものだ。怒っているのか、呆れているのか、それとも別の計算をしているのか、一見しただけでは分からない。
「学園で小さな騒ぎがあったそうだな」
ようやく落ちた第一声は、それだった。
やはり遠回しにはしないらしい。
「……はい」
「フォルナン伯爵令嬢の私物がなくなり、お前の鞄の近くから見つかった」
事実だけを、削ぎ落とした言い方だ。
そこに余計な感情はない。けれど感情がないからこそ、ルシアンにはその言葉が重く響いた。
「私は、それに触れておりません」
「そうだろうな」
即答に、ルシアンはわずかに目を瞬いた。
もっと疑われるものだと思っていた。少なくとも“本当に何もしていないのか”くらいは言われる覚悟で来たのだ。
だが侯爵は、あまりにあっさりとそう言った。
「……信じていただけるのですか」
思わず尋ねると、侯爵は軽く眉をひそめた。
「信じる、信じないの話ではない。現時点で、そのやり方はあまりにも浅い」
冷たいが、論理的な口調。
「お前が本気でフォルナン伯爵令嬢に何かを仕掛けるつもりなら、あんな見つかりやすい形にはせんだろう」
褒められているのか、貶されているのか、よく分からない。
だが少なくとも、“犯人扱い”はされていないのだと理解して、ルシアンはほんの少しだけ肩の力を抜いた。
「では」
「問題はそこではない」
侯爵の言葉が、すぐにそれを許さなかった。
「お前がやったかどうかではなく、お前がそう見られ得る位置にいることが問題だ」
ルシアンは息を詰める。
それは、あまりにもこの家らしい言い方だった。
個人の心情や無実より先に、“どう見えるか”を問題にする。
けれど悔しいことに、今はその指摘が正しすぎた。
「……否定はできません」
「お前の評判は、一朝一夕にできたものではない」
侯爵は淡々と続ける。
「そこへ第一王子殿下との不自然な接近が加わっている。学園でも社交界でも、今のお前はひどく人目を引く。そんな時に小さな騒ぎでも起きれば、いくらでも話は作られる」
小さくも鋭い言葉の連なりが、ルシアンの胸へ真っ直ぐ刺さる。
まさにその通りだ。
今日の香水瓶の件だって、もし自分が以前のままの悪評高いルシアンでなければ、ここまで嫌な空気にはならなかったかもしれない。逆に言えば、これまでの積み重ねがあるからこそ、誰かがその評判を利用しようとするのだ。
「……父上は、誰かが意図的に仕組んだとお考えですか」
侯爵は少しだけ視線を細める。
その反応だけで、質問の重みが増した気がした。
「可能性は高い」
「では、やはり」
「だが現段階では、相手を断定するな」
切るような一言だった。
「証拠もないうちに名を挙げれば、それ自体が短慮として返ってくる。お前はそれでなくとも、周囲から感情的だと思われやすい」
またしても図星だ。
以前の自分なら、ここで誰かの名を出していただろうか。ジュリアンを疑い、苛立ちのままに言葉をぶつけていたかもしれない。
だが今は違う。
違いたいと思っている。
「……では、どう動けば」
気づけば、そんな言葉が口から出ていた。
自分でも少し驚く。
これまで父へこんな風に、助言を求めるような言い方をしたことがあっただろうか。
侯爵も一瞬だけ目を止めたが、すぐに表情を戻した。
「まず、自分の持ち物から目を離すな。人に預けるな。混雑の中で不用意に場を外すな」
ひとつずつ、明確に告げる。
「次に、フォルナン伯爵令嬢の周辺では特に慎重に振る舞え。必要以上に近づくな。だが露骨に避けすぎるな。今のお前が彼女を避ければ、それもまた別の話になる」
ルシアンは苦い気持ちで頷いた。
その“必要以上に近づくな、だが露骨に避けるな”という加減こそが一番難しいのだ。だが難しいからといって、できないでは済まされない。
「それから」
侯爵は少しだけ間を置いた。
「第一王子殿下についてだが」
その名が出た瞬間、ルシアンの指先が無意識に強張る。
「お前は、どこまで関わっている」
やはり来た。
遅かれ早かれ問われると思っていた。夜会で踊り、学園で呼ばれ、近衛騎士が教室まで来る。ここまで続けば、侯爵家当主として無視できるはずがない。
ルシアンは慎重に言葉を選ぶ。
「殿下は……私に、以前よりもよく声をかけてくださいます」
「それは見れば分かる」
「ですが、私にも理由のすべては分かりません」
嘘ではない。
実際、アルベールの感情や意図を自分はまだ掴みきれていない。幼い日の記憶を覚えていたこと、逃げるなと繰り返すこと、自分を人前へ引き出そうとすること。どれも繋がっているようでいて、最終的な形は見えない。
侯爵はしばらくルシアンを見つめ、それから低く言った。
「分からぬ、では済まぬ局面が来る」
その言葉に、胸が少し重くなる。
「殿下がただの気まぐれでお前へ接近しているなら、いずれ興味を失うだろう。だが、そうでないなら、侯爵家も無関係ではいられん」
「……はい」
「喜ぶなよ」
思いがけない言い方だった。
ルシアンは顔を上げる。
侯爵の表情は相変わらず硬い。だがその言葉の中には、ほんの僅かに父としての苦さが混じっていた。
「王族に見初められることが、常に幸福とは限らない。ましてお前は、まだ足元が固まっていない」
ルシアンは答えられなかった。
喜ぶ、という発想自体が自分にはほとんどなかったからだ。むしろずっと混乱と警戒しかない。だが侯爵から見れば、若い息子が王子の関心を浮き足立って受け止める可能性を危惧しているのかもしれない。
それは少しだけおかしかった。
いや、おかしいというより、ずれている。
父はたぶん、息子が“王子の特別視”へどう揺れるかを想像していても、“王子の言葉を信じていいのか怖がっている”とは思っていないのだろう。
「父上」
気づけば、ルシアンは口を開いていた。
「もし……仮に、私が何もしていないのに、何度もこうしたことが起きたなら」
侯爵は黙って聞いている。
「その時、侯爵家は私を守ってくださいますか」
部屋の空気が、ほんの一瞬だけ止まった。
ルシアン自身も、こんな風に聞くつもりだったわけではない。ただ、今日の香水瓶の件があまりにも嫌だったのだ。誰も大声で責めてはいないのに、少しずつ“怪しい者”として形作られていくあの感覚が。
それを前にして、自分の家はどうするのか。
それを知りたかった。
侯爵はすぐには答えなかった。
その沈黙が、妙に重い。
やがて彼は、慎重に言葉を選ぶように言った。
「証拠と理屈があれば、守る」
ルシアンの胸の奥で、何かが静かに軋んだ。
情ではない。
理屈と証拠。
侯爵家らしい答えだ。あまりにも、この家らしい。
「……そうですか」
それしか言えなかった。
悲しいのか、怒っているのか、自分でも少し分からない。ただ、期待してはいけなかったのだと、今さらのように思う。
父は悪人ではない。
けれど、まず家を守る人間だ。
息子を無条件で信じる父ではない。
そしてそれはきっと、昔から何も変わっていない。
侯爵はそんなルシアンの内心をどこまで読んだのか、少しだけ目を伏せ、それから低く続けた。
「勘違いするな。守らぬと言っているわけではない」
「……はい」
「だがこの世界は、“信じている”というだけで人を救えはしない。お前もそれくらい分かるだろう」
正しい。
正しすぎて、余計に苦しい。
ルシアンは静かに頷いた。
父の言葉は正論だ。無実を証明するものがなければ、貴族社会では“怪しい”という印象だけでも十分な傷になる。だからこそ、先ほど父が言ったこともまた正しい。証拠を集めろ、感情で動くな、自分の立場を守れ。
間違っていない。
ただ、息子としては少しだけ寒いだけだ。
しばらく沈黙が落ちる。
侯爵は机上の書類へ指先を置いたまま、ふと別の話題のように言った。
「近く、王宮から正式な昼餐会の招待が届く」
ルシアンの背筋がまた強張る。
「第一王子殿下が関わっておられるのでしょうか」
「十中八九な」
侯爵はあっさり認めた。
「断る理由も、今のところはない」
それはつまり、出席が決定したも同然ということだ。
ルシアンは小さく息を呑む。
アルベールが言っていた“内々の昼餐会”が、本当に動き始めている。しかも王宮から正式な招待状という形なら、侯爵家としても拒否しづらい。
「準備を怠るな」
侯爵の声音は冷静だ。
「今のお前は、人に見られている。それを不快に思うか好機と見るかは自由だが、いずれにせよ無様は晒すな」
ルシアンはゆっくりと頷いた。
「承知しました」
それ以外に言えることはなかった。
話は終わりらしく、侯爵は「下がれ」と短く告げる。ルシアンは一礼し、執務室を後にした。
廊下へ出た瞬間、肩に入っていた力が一気に重くなる。
怒鳴られたわけではない。
責められたわけでも、見捨てられたと明言されたわけでもない。
それなのに妙に疲れた。
「……家、か」
誰にも聞こえない声で呟く。
守る、とも守らない、とも言い切られなかった。だがそれがこの家なのだろう。情だけでは動かず、理屈と立場と証拠で物事を決める。冷たいが、その冷たさの中でしか家を維持できない人間でもある。
それが分かるから、単純に責めることもできなかった。
自室へ戻る途中、廊下の窓から見える庭はすっかり夜の色に沈んでいた。灯りに照らされた噴水だけが、静かに白く浮かび上がっている。
ルシアンはその景色を少しの間見つめ、そっと指先を握った。
誰かが仕掛けている。
侯爵家も完全な避難所にはならない。
第一王子は、なぜか自分を人前へ引き出そうとする。
そして自分は、その全ての間で揺れている。
状況は少しも楽になっていない。
むしろ、これから先のほうが厄介になる気配しかない。
それでも一つだけ、今日の父の言葉から得たものがあるとすれば、それは“証拠と理屈があれば守る”という現実だ。
温かくはない。
けれど、まるきりの絶望でもない。
ならば、自分で揃えるしかない。
誰かの悪意の痕跡を。
断罪へ繋がる小さな仕掛けの証拠を。
自分を守るだけの理屈を。
ルシアンは長く息を吐いた。
「……やるしかない、か」
それは誰かへ向けた宣言ではなかった。
けれど静かな廊下の中で、その独り言だけが、やけにくっきりと自分の耳へ残った。




