第11話 離れようとするほど近づいてくる
それから数日、ルシアンは意識してアルベールと距離を取ろうとしていた。
いや、正確には“取り戻そうとしていた”のかもしれない。
もともと第一王子とは、そう簡単に私的な接点を持つべき相手ではない。身分差という意味でもそうだし、何より今のルシアンにとってアルベールは、断罪ルートを乱しながらも強引に物語の中心へ引き戻してくる、最も危うい存在だった。
頼れと言われた。
次は自分から来いとも言われた。
そう言われた時、確かに少しだけ救われた気持ちになったのは事実だ。だがその“救い”に安易に寄りかかってしまえば、きっと自分はもう戻れない。
だからこそ距離が必要だった。
冷静になるための距離。
噂をこれ以上悪化させないための距離。
そして何より、自分自身の心がこれ以上揺れすぎないための距離。
ルシアンはそれを徹底しようとしていた。
授業が終わればすぐに教室を出る。
昼休みもできるだけ人の多い場所を避ける。
王子が学園へ来る可能性の高い時間帯をなんとなく避ける。
夜会の招待状は、侯爵家の都合を理由に最小限しか受けない。
視線を感じても振り返らない。
そうして“目立たず波風を立てず、それでいて露骨すぎない程度に自然に距離を置く”という、我ながらひどく面倒な方針を取っていた。
もちろん完璧ではない。
だが少なくとも、ここ数日はアルベールに直接呼び止められることも、レオンハルトが教室へ現れることもなかった。
そのことに、ルシアンは安堵するべきか、奇妙な物足りなさを覚えるべきか、自分でも分からなかった。
「……駄目だ」
昼休み、図書塔へ向かう途中で小さく呟く。
物足りない、などと考えること自体が危険だ。
ルシアンは無意識に足を速めた。
王立学園の図書塔は、本館から少し離れた静かな場所にある。古い石造りの塔を改装したもので、内部は吹き抜けの構造になっており、高い位置まで本棚が並んでいる。魔法史や古文書、王国の制度史など、授業では扱いきれない専門資料も多く、真面目な生徒ほどここへ足を運ぶ。
ルシアンも最近は図書塔に来ることが増えていた。
断罪ルートの知識を持っているとはいえ、それはあくまでゲームの筋書きだ。現実のこの世界で何がどこまで同じように進むかは分からない。ならばせめて、王家や侯爵家、貴族社会の仕組み、学園の行事の意味など、現実に役立つ情報だけでも拾っておきたかった。
それに図書塔は静かだ。
余計な会話も、噂話も、社交界のような笑い声も少ない。
だから落ち着ける――はずだった。
塔の入口をくぐり、いつものように奥の棚へ向かったルシアンは、数分後、その認識が甘かったことを知る。
高い本棚の間を進み、目的の資料がある区画へ入った瞬間、そこに人影があったからだ。
濃紺の上着。
整いすぎた横顔。
静かな空間に溶け込むように立ちながら、それでも圧倒的に場を支配してしまう存在感。
アルベール・リュミエール。
ルシアンの足が、ぴたりと止まった。
なぜ、と思う。
なぜここにいる。
もちろん王族が図書塔を使ってはいけない理由はない。学園の資料は王家にも開かれているし、第一王子が政治や歴史の文献を閲覧していても何の不思議もない。
だが、よりにもよって今、ここで。
しかもよりによって、自分がこの時間を選んで来たその日に。
逃げよう、と反射的に思った。
気づかれていないなら、そのまま静かに引き返せばいい。別の資料を探すふりをして区画を変えればいい。今日はたまたま運が悪かっただけだと割り切ってしまえばいい。
そう決めて、一歩だけ後ろへ重心を移した瞬間だった。
「来たならそのまま帰るな」
低い声が、本棚の間へ静かに響いた。
見つかっていた。
当然といえば当然だ。あの王子が、こんな近い距離で人の気配に気づかないはずがない。
ルシアンは観念したように小さく息を吐き、ゆっくりと足を進めた。
「……ごきげんよう、殿下」
形式通りの挨拶を口にすると、アルベールは閉じていた本を棚へ戻し、こちらを振り向いた。
蒼い瞳がまっすぐルシアンを捉える。
逃げようとしていたことまで見透かされている気がして、ひどく居心地が悪い。
「ごきげんよう、ルシアン」
落ち着いた声。
変わらず冷静なのに、こうして本棚の間という半ば密室のような場所で向き合うと、夜会や応接室とはまた違う近さがある。周囲の騒音が少ないぶん、互いの呼吸や衣擦れの音まで妙に意識してしまうのだ。
「……お一人でいらしたのですか」
「表向きはな」
つまり近くには護衛がいるのだろう。
当たり前だ。第一王子が完全に一人で学園の中を歩くはずがない。けれど“表向きは一人”という言い方が、余計にこの空間を私的なものへ変えてしまっていた。
ルシアンは視線を少しだけ本棚へ逃がす。
「私は少し資料を取りに来ただけですので、すぐに」
「逃げる口実にしては出来が悪いな」
即座に返されて、ルシアンは唇を引き結ぶ。
やはり見抜かれている。
この王子の前では、妙な誤魔化しほど通じない。
「……逃げるつもりではありません」
「では、なぜここ数日、私と会わないようにしている」
ど真ん中を突かれた。
ルシアンは一瞬、言葉を失う。
問い詰める声音ではない。ただ事実確認をするような静かな口調だ。だがだからこそ逃げ道がない。
ここで曖昧に笑っても無駄だろう。
偶然だと言ってもたぶん通じない。
ルシアンは少しだけ視線を伏せ、それから覚悟を決めて答えた。
「……会いすぎだと思ったので」
自分で言っていて、なんとも間抜けな理由だと思う。
だが本音だった。
アルベールはほんのわずかに目を細めた。
「会いすぎ」
「殿下が私へ何度も声をかけてくださること自体は……ありがたい、のかもしれません。ですが、そのたびに噂が増える。周囲も余計に勘ぐる。私も、その……」
そこで言葉が止まる。
“心が揺れる”とは言えなかった。
言えるはずがない。
アルベールは続きを待っているようだったが、ルシアンが口を閉ざしたままなのを見て、小さく息を吐いた。
「私と会うこと自体が負担だと?」
「そうではありません」
思わず即答してしまい、自分でも少し驚く。
そうではない。
少なくとも、今の返答は本心だった。
アルベールと会うことそのものが嫌なのではない。怖いし、困るし、振り回されるし、噂も増えるし、心が追いつかない。だが“会いたくない”とは少し違う。
その違いを自分で認めてしまうのが厄介だった。
アルベールはその即答をどう受け取ったのか、少しだけ表情を和らげたように見えた。
「なら問題ない」
「あります」
今度はルシアンが即答する番だった。
さすがにそれは違う。
だがアルベールはまるで意に介さず、一歩こちらへ近づいてくる。
本棚の間はもともと広くない。二人が向き合えば、それだけで距離はかなり近い。そこへ王子が半歩詰めるだけで、ルシアンには逃げ場がなくなる。
「殿下」
「なぜそんなに私を避ける」
低い声が、静かな塔の空気へ落ちる。
ただ問いかけているだけなのに、その一言は妙に熱を持っていた。
ルシアンはとっさに視線を逸らしそうになる。だがそれをすれば、余計に答えを認めるような気がして、どうにか堪えた。
「……避けているつもりは」
「ある」
ぴしゃりと言い切られる。
「お前はこの数日、私の視線を感じるたびに目を逸らした。昼休みも放課後も動線を変えている。夜会の招待も減らしている」
そこまで把握しているのか、と半ば呆然とする。
監視だ、と言いたくなる。
だがアルベールの前では、その手の非難はたいてい意味をなさない。彼にとっては“見ている”ことが自然であり、必要であり、ほとんど正しいことのように扱われるからだ。
ルシアンは息を整えようとして、うまくいかない。
「……あなたに関わると、私の周囲が動きすぎるのです」
ようやくそれだけ言えた。
「噂が増える。皆の見方も変わる。小さな悪意まで浮き上がる。私はまだ、それにうまく対処できません」
言いながら、胸の内が少し痛んだ。
自分の未熟さを、こうして口にするのはやはり苦手だ。だがアルベールの前では、なぜかこういう言葉が出てきてしまう。認めたくない弱さや混乱まで。
アルベールは少しだけ黙った後、静かに言う。
「それは理解している」
「でしたら」
「だが、それとお前が私を避けることは別だ」
また逃げ道を塞がれる。
ルシアンは思わず眉を寄せた。
「別ではありません。私は……あなたに近づきすぎるのが怖いのです」
言ってしまってから、空気が一瞬で変わるのが分かった。
静かだった図書塔の一角が、別の意味で張り詰める。
アルベールの瞳が、ほんのわずかに揺れる。驚きというより、待っていた答えへようやく辿り着いた時のような揺れだった。
「何が怖い」
その問いはやけに優しいのに、ひどく残酷でもあった。
何が怖いのか。
そんなもの、一つではない。
噂が大きくなること。
セシリアやジュリアンとの関係がさらにこじれること。
侯爵家が自分を政略の駒として扱い始めること。
断罪ルートへ別の形で近づいてしまうこと。
そして――アルベールの言葉や視線や手の温度に、少しずつ自分が絆されていくこと。
その最後だけは、絶対に口にできない。
「私は、あなたに相応しくありません」
結局また、それに逃げてしまう。
いつもと同じだ。言葉に詰まると、最後にはその一言に戻る。自分で自分を低く置き、先に線を引くことで、相手の期待も何もかも遠ざけようとする。
アルベールの表情が、静かに変わる。
怒っている。
もうルシアンにも分かる。声を荒げずとも、目元や口元のわずかな硬さだけで、彼がこの言葉をどれほど嫌うのか。
「またそれを言うのか」
低い声だった。
図書塔の静けさの中では、その低さだけで十分に圧になる。
「価値の話はしていない」
「ですが」
「していないと言っている」
言葉が重なる。
アルベールは一歩、さらに距離を詰めた。
本棚を背にしたルシアンは、気づけばほとんど逃げ場を失っていた。左右には本棚、後ろは木の背板、前には王子。物理的にも、心理的にも、完全に追い詰められている。
「私は、お前が私を避ける理由を聞いている」
蒼い瞳が真っ直ぐに向けられる。
「それを、相応しい相応しくないの話へすり替えるな」
図星だった。
ルシアンは喉がひどく乾くのを感じる。
アルベールの言う通りだ。自分はいつも、踏み込まれたくないところまで踏み込まれそうになると、身分差や価値の話へ逃げてしまう。そうすればそれ以上、個人的な感情へ触れられずに済むからだ。
だが今、それが通じない。
ルシアンはとうとう視線を落とした。
「……あなたの近くにいると、普通でいられません」
自分でも驚くほど素直な言葉だった。
言った瞬間、心臓が大きく脈打つ。
だが一度出てしまったものは戻せない。
「周囲も、私も、全部おかしくなる。だから少し距離が必要だと思ったんです」
それは嘘ではない。
全部ではないにせよ、かなり本音だった。
アルベールはしばらく何も言わなかった。
静かな沈黙の中で、ルシアンは自分がとんでもないことを口にしたのではないかと今さら青ざめそうになる。王子相手に“あなたの近くにいると普通でいられない”など、どんな意味にも取れてしまう。
だがアルベールは、意外にも怒らなかった。
むしろほんの少しだけ、気配が和らいだ気がした。
「そうか」
短い一言。
その声音は低いままだが、先ほどまでの鋭さが少し引いている。
ルシアンは恐る恐る顔を上げた。
アルベールはすぐ近くに立ったまま、まるで何かを確かめるようにルシアンを見ている。
「なら、なおさら離す気はない」
「……は?」
思わず間の抜けた声が出た。
今、自分はわりと精一杯、本音に近いものを伝えたはずだ。距離が必要だとも言ったはずだ。なのに返ってきたのが“離す気はない”とは、どういう理屈なのか。
アルベールはわずかに身を屈め、ルシアンと目線の高さを合わせるようにした。
「お前が自分一人で整理できる程度の揺らぎなら、ここまで無理に避けたりはしない」
その言い方は静かだが、どこか確信に満ちていた。
「お前は放っておくと、整理するのではなく切り捨てようとする」
また、見透かされる。
距離を置くと言いながら、実際のところルシアンがやろうとしていたのは、少し落ち着くまで離れるというより、“これ以上深入りしないように切り離す”ことに近かったのかもしれない。
それをアルベールは正確に嗅ぎ取っていた。
ひどく悔しいのに、否定ができない。
「……殿下は、いつもそうやって」
苦し紛れに言葉を継ごうとした瞬間、アルベールの手が伸びた。
触れるのは一瞬だけだった。
ルシアンの額へ、指先がかすめるように触れる。
熱くも冷たくもない、けれど確かな感触。
「顔が熱い」
低く囁かれ、ルシアンは息を呑んだ。
「それだけ動揺しておいて、まだ私を避ければ何とかなると思うのか」
言葉が出ない。
図書塔の静けさの中、その声音だけが妙に近い。
触れられた額から全身へ熱が広がっていく気がする。たった指先だけの接触なのに、どうしてこんなに心臓がうるさいのか、自分でも分からない。
「……卑怯です」
やっとそれだけ言えた。
アルベールは少しだけ目を細める。
「何が」
「そうやって……何でも見抜いたように言うのも、急に触れるのも、全部です」
ほとんど八つ当たりだった。
だがアルベールは気を悪くした様子もなく、逆にどこか納得したように息を吐く。
「そうかもしれないな」
否定しないのが腹立たしい。
そしてその腹立たしさの底に、別の感情が混ざっていることに気づきたくなかった。
アルベールはようやく半歩だけ距離を取った。
それだけで呼吸が少し楽になる。だが完全には落ち着かない。額に残った感触が消えないからだ。
「距離が必要なら、それは私が決める」
またしても独断的な言葉。
ルシアンは思わず眉を寄せる。
「殿下には、私の都合というものをお考えいただけないのですか」
「考えている」
「とてもそうは思えません」
「お前が逃げるたび、私は余計に確信するだけだ」
アルベールの声音は落ち着いている。
だがそこにある執着は、もはや隠そうとすらしていないように思えた。
ルシアンは本棚の背に軽く寄りかかったまま、しばらく何も言えなかった。
頭の中がうるさい。
断罪ルート、噂、距離、身分差、セシリア、ジュリアン、侯爵家――そういう理屈を全部並べても、今この場で自分を最も揺らしているのは、アルベールの手が額へ触れた感触ひとつなのだと思うと、情けなくてたまらなかった。
やがて王子が少しだけ声を落とす。
「今日のところは見逃してやる」
「……見逃す、とは」
「これ以上逃げようとした件だ」
さらりと言われ、ルシアンは言葉に詰まる。
アルベールは続けた。
「だが次からは、少なくとも私に何も言わず距離を取るな」
それは命令のようでもあり、要求のようでもあり、妙に個人的な約束のようにも聞こえた。
ルシアンは視線を落としたまま、小さく息を吐く。
「……善処します」
完全な同意はできない。
だがここで反発するだけの気力も残っていなかった。
アルベールはその曖昧な返答を咎めなかった。代わりに、ほんの一瞬だけルシアンの額へ落ちていた前髪を指先で払う。
今度こそ、ルシアンは本気で息を止めた。
「で、殿下」
「顔が見えない」
そんな理由で許されると思っているのか、と言いたかった。
だが声が出ない。
アルベールは手を離し、ようやくいつもの冷静な表情へ戻った。
「資料を取りに来たのなら取って行け。私はもう戻る」
そう言って踵を返す。
あまりにも自然な幕引きだった。
だが数歩進んだところで、アルベールは立ち止まり、振り返らずに言う。
「ルシアン」
「……はい」
「次は逃げる前に、せめて一言よこせ」
その言葉だけを残し、王子は本棚の向こうへ消えていった。
しばらく、ルシアンはその場から動けなかった。
図書塔は静かだ。
さっきまでそこにあった低い声も、濃紺の背も、もう見えない。なのに空気だけがまだ残っているようで、ひどく落ち着かない。
ゆっくりと手を上げ、自分の額へ触れる。
当然、何の痕もない。
ないのに、そこだけが妙に熱い気がした。
「……何なんだ、本当に」
誰へともなく呟く。
問い詰めたいのはこちらの方だ。どうしてあんな風に距離を詰めてくるのか。なぜ自分だけへああいう言葉を向けるのか。どうして、自分が逃げると追いかけてくるのか。
分からない。
分からないのに、少しずつ慣らされていくのが恐ろしい。
ルシアンは深く息を吐いた後、ようやく本来の目的を思い出した。資料を取りに来たのだった。逃げるつもりで見つかり、そのまま捕まって、結局何も取らずに帰るのではあまりに間抜けすぎる。
棚から必要な本を探し出し、腕へ抱える。
その作業をしながらも、頭の中ではアルベールの言葉が何度も反響していた。
――お前が逃げるたび、私は余計に確信するだけだ。
その“確信”が何なのか、ルシアンはまだ聞けないでいる。
聞けば、戻れなくなる気がするからだ。




