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『断罪予定の悪役令息ですが、冷酷第一王子にだけ求婚されています』  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第12話 ヒロイン枠の涙

 その日の放課後、ルシアンはいつもより少し遅れて校舎を出た。


 図書塔で借りた資料を抱えたまま、すぐに馬車寄せへ向かう気にはなれなかったからだ。理由は自分でも分かっている。数刻前、本棚の間でアルベールに額へ触れられたことが、まだ妙な熱を残しているせいだ。


 逃げるなと言われた。


 次は一言よこせとも。


 まるで当然のように、自分がどこへ行くにも関わる権利があるかのような口ぶりだった。


 普通なら腹を立てるべきなのかもしれない。実際、理屈で考えれば横暴だ。けれど、あの蒼い瞳を前にすると、怒りだけでは片づけられない感情が混ざる。強引で、身勝手で、逃げ道を塞いでくるくせに、こちらの顔色や息の乱れには妙に敏い。


「……厄介すぎる」


 小さく呟き、ルシアンは夕方の中庭へ足を向けた。


 王立学園の庭園は、昼間の華やかな喧騒が嘘のように静かだった。噴水の水音が遠くに聞こえ、よく手入れされた低木の間を春の風が抜けていく。西に傾いた光は柔らかく、花壇の花を淡く照らしていた。


 こういう時間の庭は嫌いではない。


 誰かの視線が少ないぶん、ようやく呼吸が自分のものに戻る気がする。


 ルシアンは人目の少ない小径へ入り、薔薇の生垣の脇を抜けた。少し歩けば中庭の外縁にある石造りの休憩所が見えてくる。ここなら少しだけ頭を冷やせるだろうと思った、その時だった。


 かすかな嗚咽が聞こえた。


 足が止まる。


 風の音ではない。水音でもない。はっきりと、人の泣き声だ。


 ルシアンは反射的に視線を巡らせる。声は休憩所の奥、蔦の絡む石柱の向こうから聞こえてきた。誰にも見られたくなくて隠れているような、抑えた泣き方だった。


 行くべきではない。


 そう思う。


 関われば面倒になる。今の自分は、誰かを慰めるような立場ではない。特に相手が学園内の令嬢なら、余計な誤解の種にもなりかねない。


 その判断は正しいはずだった。


 はずなのに。


 次の瞬間、ルシアンはほとんど無意識に一歩を踏み出していた。


 泣き声の主が誰であれ、そのまま見過ごすことができなかったのだ。


 石柱の陰を回り込んだ先にいたのは、やはりというべきか、セシリア・フォルナンだった。


 薄い藤色のリボンが結ばれた栗色の髪は少し乱れ、蜂蜜色の瞳は涙で滲んでいる。彼女は休憩所のベンチに腰かけ、両手で口元を押さえながら、必死に泣き声を殺していた。


 ルシアンは一瞬だけ息を詰めた。


 最悪の相手、という意味ではない。むしろ逆だ。今、このタイミングで最も“見て見ぬふりをしにくい”相手だった。


「……フォルナン嬢」


 小さく呼ぶと、セシリアの肩がびくりと跳ねた。


 彼女は慌てて顔を上げ、ルシアンの姿を認めるなり大きく目を見開く。


「ル、ルシアン様……!」


 その声には驚きと気まずさと、少しばかりの怯えが混じっていた。


 そりゃそうだ、とルシアンは思う。


 ここ数日、二人の間にはすれ違いばかりが積み重なっていた。セシリアはルシアンの態度を測りかね、ルシアンはルシアンで彼女との接触そのものを警戒している。そんな相手に、泣いている姿を見られたのだ。


「……申し訳ありません、すぐに失礼いたします」


 セシリアは慌てて立ち上がろうとした。だが涙を拭う手も、声も、どう見ても取り繕いきれていない。


 ルシアンは咄嗟にそれを止めた。


「待ってくれ」


 セシリアがびくりと足を止める。


 自分でも、ずいぶん優しい声音が出たと思う。だがここで冷たく切ってしまえば、彼女はきっと余計に傷つくだろう。


 ルシアンは数歩分の距離を保ったまま立ち、視線を少しだけ逸らすようにして言った。


「……今のあなたを見なかったことにはできない」


「でも」


「無理に話せとは言わない。ただ、その顔で一人にするのも違うと思っただけだ」


 自分でもひどく不器用な言い方だと思う。


 もっと自然に慰める言葉を知っていればよかった。だがルシアンには、こういう場面で気の利いた優しい台詞を並べる才能はない。だから結局、思ったままを少しだけ整えて言うしかなかった。


 セシリアは涙で濡れた睫毛を伏せる。


 しばらく沈黙が落ちた。


 噴水の音が遠くに聞こえ、風がベンチ脇の蔦を揺らす。その静けさの中で、セシリアはようやく小さく息を吐いた。


「……皆、優しいのです」


 唐突な言葉だった。


 ルシアンは何も挟まず、ただ続きを待つ。


「優しいのに、優しいからこそ、時々とても苦しいのです」


 セシリアは自分の指先を見つめながら、途切れ途切れに言葉を継いだ。


「ブローチのことも、皆、私のためを思って探してくださいました。心配してくださって、慰めてくださって……でも、そのたびに、誰かが疑われそうになるのが分かってしまって」


 その声は震えていた。


 ルシアンは静かに聞いていたが、胸の奥に少しずつ何かが沈んでいくのを感じていた。


 やはり彼女は悪意で動いているわけではない。


 むしろ周囲の善意に押し流されそうになっているのだ。


「今日も、昼休みに友人たちが何度も“やっぱり変ですわよね”“最近のルシアン様、何を考えているのか分かりませんもの”って……」


 セシリアはそこで言葉を切り、唇を噛んだ。


 ルシアンは視線を伏せる。


 予想していたことではある。だが当人の口から聞くと、やはり少し痛い。


「私は、そんなふうに思いたくないのです」


 セシリアが顔を上げる。


 涙の残る瞳は、まっすぐだった。


「ルシアン様が何を考えていらっしゃるのか分からなくて、戸惑っているのは本当です。けれど、だからといって、すぐ悪い方向へ決めつけるのは違うと思うのです」


 その言葉に、ルシアンは一瞬だけ息を止めた。


 思いのほか真っ直ぐな信頼だった。


 完全な味方ではないだろう。まだ戸惑いも不安もある。だがそれでも、“決めつけたくない”と言ってくれること自体が、今のルシアンには重かった。


「……ありがとうございます」


 自然にそう言えた。


 セシリアは少しだけ目を丸くしてから、力なく微笑む。


「お礼を言われるようなことではありませんわ。私はただ、曖昧なことを曖昧なままにしておけなくて……それで、かえって皆を困らせてしまっている気もします」


 自嘲するようなその言い方に、ルシアンはゆっくりと首を振った。


「それは違う」


 セシリアが目を瞬く。


「優しいことと、弱いことは別だ」


 口にした瞬間、少しだけ驚いた。


 それはまさに、数日前から自分が考えていたことだったからだ。父の忠告や、学園での小さなやり取りを通してようやく掴みかけていた言葉。それが今、するりと口から出た。


「あなたが迷っているのは、優しいからだ。誰かを悪役にして安心したくないからだろう」


 ルシアンは静かに続ける。


「それは、たぶん弱さではない」


 セシリアはしばらく何も言わなかった。


 やがて小さく、今度は泣きそうではなく、本当に安心したように笑った。


「……そのように仰っていただけるとは、思いませんでした」


「私も、言うつもりはなかった」


 半分本音、半分は照れ隠しだった。


 セシリアは少しだけ笑みを深める。涙で濡れていた顔が、ようやく少しだけいつもの柔らかさを取り戻したように見えた。


 ルシアンは迷った末、自分の懐から白いハンカチを取り出した。


 本当にただの反射だった。


 差し出してから、はっとする。


 これではまるで――


 幼い日の庭園で、アルベールにそうされた時のようではないか。


 一瞬だけ手が止まりそうになる。だが今さら引っ込めるわけにもいかない。


「使うか」


 セシリアは驚いたように目を見開き、それからそっと受け取った。


「……ありがとうございます」


 その礼は小さかったが、ひどく真っ直ぐだった。


 ルシアンは少しだけ視線を逸らす。


 どうにも慣れない。


 素直な感謝も、真っ直ぐな善意も、未だに受け止め方が分からない。昔の自分なら、それを鼻で笑うか、ぶっきらぼうに受け流していたのかもしれない。


 だが今は少なくとも、それを踏みにじりたくはなかった。


 数秒の沈黙の後、セシリアがぽつりと言う。


「私、少し怖かったのです」


「……何が」


「ルシアン様が、急に変わってしまわれたように見えて」


 その言葉は責めるものではなかった。


 ただの正直な戸惑いだ。


「以前は、もっと……近づいてはいけない方、という印象でした」


 言いづらそうにしながらも、彼女は続ける。


「それが最近は、急に遠くへ行ってしまったような気もして……どう接すれば良いのか、本当に分からなくて」


 ルシアンは少しだけ苦く笑いそうになった。


 近づいてはいけない相手が、急に遠くへ行った。


 妙な表現だが、たぶん言いたいことは分かる。以前のルシアンは分かりやすく棘を持っていた。だから怖くても、どう怖いのかは見えた。今のルシアンはその棘を引っ込めようとしているが、そのぶん距離の取り方が不自然で、相手からすると余計に測りにくいのだろう。


「……自分でも、上手くできているとは思っていない」


 正直にそう答える。


「ただ、以前のままでは駄目だと思っただけだ」


 セシリアはハンカチを握りしめたまま、小さく頷いた。


「そうだったのですね」


 そこでまた少しだけ沈黙が落ちる。


 気まずくはない。


 だが穏やかとも違う。まだ互いに、適切な距離を測りかねているのが分かる。


 その時だった。


 足音がした。


 軽いようでいて、わざと響かせることもできる足取り。


 ルシアンの背筋がわずかに強張る。セシリアもすぐにそちらを振り向いた。


「……やはりここでしたか」


 現れたのは、ジュリアン・ヴァレリオだった。


 夕方の光の中でも崩れない微笑み。人当たりの良さそうな顔。けれどルシアンには、その笑みが以前よりずっと信用ならないものに見えていた。


 ジュリアンは二人の姿を見て、ほんの少しだけ目を細める。


「探しましたよ、フォルナン嬢。皆、心配していました」


 表向きは完全に気遣う声音だ。


 だがその視線は一瞬だけ、セシリアの手にある白いハンカチへ向いた。


 ルシアンのものだと気づいたのだろう。


 ほんのわずかだったが、その瞳の奥に何かが閃いた気がした。


 嫌な予感がする。


「ヴァレリオ様……」


 セシリアが立ち上がる。彼女の声には、先ほどまでより少しだけ落ち着きが戻っていた。


「心配をおかけして申し訳ありません。少し、一人で考えたくて」


「そうでしたか」


 ジュリアンは穏やかに頷く。


「でも、見つかってよかった。近ごろ色々ありましたからね」


 その“色々”にどれだけの意味が込められているか、ルシアンにはよく分かった。


 セシリアが泣いていたこと。


 その傍にルシアンがいたこと。


 手にはルシアンのハンカチ。


 これだけで、周囲が好き勝手に解釈するには十分すぎる材料だ。


 ルシアンは静かに言う。


「フォルナン嬢は少し疲れているだけだ。余計な誤解を招く言い方は控えるべきだろう」


 ジュリアンはにこやかに笑ったまま、肩をすくめる。


「誤解? 僕はただ、心配しているだけですよ」


 その返しがあまりに整いすぎていて、逆に腹が立つ。


 セシリアが間に入るように言った。


「本当に、大したことではありませんの。私が勝手に気持ちを整理したくなっただけで……ルシアン様も、たまたま通りかかってくださっただけですわ」


 その“たまたま”が本当かどうかなど、今は大して重要ではない。


 重要なのは、セシリアがわざわざそう説明しなければならない空気が生まれてしまっていることだ。


 ジュリアンはすぐに「もちろん」と頷いた。


「それならよかった。皆にもそう伝えておきます」


 その言い方が、またひどく引っかかった。


 皆にもそう伝える。


 つまり、伝えるべき話題として持ち帰るということだ。


 ルシアンは言い返しそうになり、寸前で堪えた。ここで刺々しくなれば、それこそ“悪役令息がヒロイン枠の令嬢を泣かせたあと、発見者へまで噛みついた”という都合のいい物語が完成する。


 セシリアはまだハンカチを握りしめたまま、ルシアンを振り返った。


「あの……これは、洗ってお返しいたします」


「そのままでいい」


「ですが」


「……今日はそのまま持っていてくれ」


 なぜそう言ったのか、自分でもはっきりとは分からなかった。


 返されるまでにまた何か余計な騒ぎが生まれるのが嫌だったのかもしれないし、泣いていた彼女の手から今すぐそれを奪うような真似をしたくなかったのかもしれない。


 セシリアは少しだけ目を丸くし、それから小さく頭を下げた。


「ありがとうございます」


 ジュリアンの視線がそのやり取りを静かに見ている。


 何も言わない。


 何も言わないからこそ、その沈黙の中で何かを計算しているのが分かってしまう。


 ルシアンはこれ以上この場にいるべきではないと判断した。


「私は失礼する」


 セシリアが慌てて顔を上げる。


「本日は……ありがとうございました」


「礼を言われるほどのことはしていない」


 そう答えてから、ルシアンは一礼し、休憩所を後にした。


 背中に二人分の視線が残る。


 歩きながら、胸の奥にじわりとした疲労が広がっていくのを感じる。


 善意は、ひどく扱いづらい。


 セシリアは敵ではない。少なくとも今の彼女は、自分を陥れようとしているわけではないだろう。だからこそ余計に、彼女とのやり取りひとつで周囲の物語が勝手に動き始めることが恐ろしい。


 今日の場面だけを切り取れば、きっとこう語る者もいるはずだ。


 “セシリア様が泣いていらしたところへ、ルシアン様がいた”


 それだけで十分だ。


 理由など後からいくらでも付け足せる。


 ルシアンは足を止め、夕方の庭園を振り返らずに小さく息を吐いた。


 誰かが小さな悪意を仕掛ける。


 誰かが善意で動く。


 誰かがその善意と悪意を都合よく繋ぎ合わせる。


 そうして、自分という存在を中心にした“それらしい物語”が勝手に出来上がっていく。


 あまりにも厄介だ。


 だが一方で、セシリアの涙も、彼女の戸惑いも、全部が嘘ではなかった。


 そこまで含めて、この世界はややこしい。


 ゲームの画面越しに見ていた“ヒロイン枠”は、ただ守られるだけの記号ではなかったのだと、今のルシアンにはよく分かる。


 彼女は彼女で、周囲の期待や善意や視線に押し潰されそうになっている。


 そしてその傍に、たまたま今の自分が立ってしまった。


 それだけのことなのに、ひどく重かった。


「……もう少し、上手くやれればいいのに」


 独り言は風に紛れて消える。


 だがその願いに、すぐ答えが返るわけではない。ルシアンはまだ、自分がどう振る舞えば最も被害が少ないのかすら完全には掴めていないのだから。


 それでも、今日のことは忘れられないだろう。


 セシリアの涙も。


 差し出したハンカチも。


 そして、それを見つけたジュリアンの静かな目も。


 あの目はきっと、この一件を何かの形で使う。


 そう思うと、夕方の空気は少し冷たすぎる気がした。

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