第13話 王子の宣言
セシリアが泣いていたあの放課後から、二日ほどのあいだ、学園の空気はまた少し質を変えた。
以前はただ「ルシアン・エヴラールは気難しく、近づきにくい」という単純な悪評だったものが、今はもっと曖昧で、だからこそ面倒なものになっている。
第一王子と踊った。
最近少し態度が変わった。
セシリアの件でも、あからさまな敵意は見せなかった。
だがだからといって「実は良い人だ」と素直に評価が覆るわけではない。むしろ人々は、理解できないものに対して余計に解釈を増やしたがる。
打算でそうしているのではないか。
第一王子へ取り入ろうとしているのではないか。
いったん大人しく見せて油断させ、もっと大きなことを企んでいるのではないか。
――悪役令息が改心するはずがない。
言葉にされなくても、そういう空気が至るところに滲んでいた。
ルシアンはそれを、教室の会話の切れ目や、回廊ですれ違う令嬢たちの視線や、教師が何気なくこちらへ向ける注意深さの中に感じ取っていた。
善意一つでは何も変わらない。
いや、変わり始めることはあっても、その分だけ別の疑いが生まれる。
それは分かっていた。
分かっていたが、分かっているからといって平気でいられるものでもない。
「……見られすぎだ」
昼休み直前、ルシアンは誰にも聞こえない声でそう零した。
教室の窓際に差し込む春の光は穏やかなのに、気分は少しも穏やかではない。最近は視線そのものに敏感になりすぎている気もする。だが実際、見られているのだから仕方がない。
そして、その日の昼餐会は、そんな学園内のざわつきとは比較にならないほど厄介だった。
王宮の一角で開かれる、若い貴族子弟向けの昼餐会。
形式としては和やかな交流の場だが、実際には家格や繋がりを測る小さな社交戦だ。ルシアンのような侯爵家嫡男が欠席すればそれだけで余計な憶測を呼ぶし、第一王子と噂になっている今、出席を避ける選択肢など最初からなかった。
大理石の床に陽光が反射し、白と金を基調とした食堂は昼の明るさをそのまま閉じ込めたように輝いていた。長い卓には季節の料理が並び、軽やかな談笑があちこちで交わされている。格式は高いが夜会ほど仰々しくはないぶん、人の本音や敵意が少しだけ出やすい場でもあった。
ルシアンは侯爵家の立場に相応しい位置へ座り、いつも以上に言葉数を減らしていた。
今日は静かに終わってくれ。
それだけを願っていたのに、現実はたいていそう甘くない。
「ルシアン様、最近はずいぶん落ち着かれましたのね」
向かいの席に座っていた若い伯爵令嬢が、グラスを傾けながら柔らかく微笑んだ。
一見すると何の問題もない会話だ。
だが、その言い方にはわずかに“以前は落ち着きがなかった”という前提が混じっている。しかも周囲に聞こえる絶妙な音量だった。
ルシアンは表情を崩さずに返す。
「そう見えるなら、以前の私が未熟だったのでしょう」
数日前の自分なら、もっと棘のある返しをしたかもしれない。だが今は、ここで角を立てる意味がない。
令嬢は「まあ」と軽く目を見開いた。
「素直でいらっしゃるのですね。少し意外でしたわ」
周囲に小さな笑いが漏れる。
これもまた一見すると他愛ないやり取りだが、空気としては完全にこちらを試していた。
どこまで耐えるのか。
どの瞬間に以前のように刺してくるのか。
その期待混じりの視線が、卓のあちこちから向けられている。
ルシアンは指先にわずかに力を込めた。
挑発に乗るな。
侯爵家の名に泥を塗るな。
そして何より、自分自身がまた“分かりやすい悪役”へ戻ってはならない。
だが、耐えれば終わるわけでもないのがこういう場の厄介さだった。
「でも、急にお変わりになると、周囲は戸惑ってしまいますわよね」
別の令嬢が会話へ加わる。
「何か心境の変化でもございましたの?」
また小さな笑い。
悪意は露骨ではない。露骨ではないからこそ厄介なのだ。誰もが“善意からの会話”を装いながら、その実、ルシアンの反応を品定めしている。
ルシアンは静かに水を口に含み、喉を潤してから言った。
「自分の振る舞いを見直す機会があっただけです」
「まあ」
「どなたかに諭されたのかしら」
その一言に、今度は空気の温度がわずかに変わる。
諭した相手。
この場にいる多くが同じ人物を思い浮かべたのが分かった。
第一王子アルベール・リュミエール。
最近の噂の中心にいるその名前を、誰も口にはしない。だが口にしないからこそ、場全体がそれを共有しているのがよく分かる。
ルシアンは曖昧に微笑むこともできず、ただ平坦に答えた。
「さあ。私自身の問題ですので」
その返しは正解とも失敗とも言い難かった。
明確に否定すれば不自然だし、肯定すれば火に油だ。だから曖昧に流すしかない。だが曖昧さは時に、人の想像をもっと自由にする。
事実、卓の端にいた青年が、半分冗談めかして言った。
「最近の殿下は、たしかにルシアン様へよくお声をかけておいでですものね」
静かだった空気が、明らかにこちらを向いた。
来た、と思う。
今もっとも面倒な話題が、ついに真正面から卓上へ出てきたのだ。
「そうそう、舞踏会でも」
「学園でも何度か」
「体調まで気遣っていらしたとか」
重なる声。
どれも決定的ではない。だが少しずつ、周囲の認識を“特別扱い”の方向へ寄せていくには十分すぎる。
ルシアンは胃のあたりが重くなるのを感じながらも、あくまで冷静を装った。
「皆様、噂がお好きなのですね」
それは反発というより、少し距離を置いた言い方のつもりだった。
だが空気は簡単には引かない。
むしろ一人の令嬢が、意味ありげに微笑んだ。
「だって、誰もが気になりますもの。冷酷と名高い第一王子殿下が、どうしてあなただけをそのように気にかけておいでなのか」
その一言は、ついに一線を越えていた。
場のあちこちで息を呑む気配がした。そこまであからさまに言う者はいなかったからだ。
そして同時に、誰もが聞きたかったのも、それなのだろう。
ルシアンは一瞬、返答を失った。
どう答えても面倒だ。
知らないと言えば白々しい。違うと言えば火消しに見える。黙れば肯定と取られる。何より、ここにはセシリアもいる。少し離れた席で静かに食事をしていた彼女が、今は明らかにこちらを気にしているのが分かった。
最悪だ。
こんな形で彼女まで巻き込みたくない。
ルシアンは深く息を吸い、言葉を選ぼうとした、その時だった。
「それ以上はやめておけ」
低い声が、卓全体を静かに切り裂いた。
音量は大きくない。
だが場にいた全員が、その一言だけでぴたりと動きを止める。
ルシアンの心臓がひどく跳ねた。
振り向かなくても分かる。
けれど振り向かずにはいられなかった。
食堂の入口近く、数人の近侍を従えて立っていたのは、アルベール・リュミエールその人だった。
どうしてここにいるのか、という問いは一瞬だけ頭をよぎったが、そんなものは些末だった。この場で重要なのは、第一王子が今まさにこちらの会話を聞き、しかも口を挟んだという事実だ。
空気が変わる。
先ほどまでの面白半分の好奇心が、一気に張りつめた緊張へ変わっていく。
アルベールはゆっくりと卓へ歩み寄り、そのままルシアンの少し後ろ、場を見渡せる位置で足を止めた。蒼い瞳が冷たく卓上を巡る。誰もが息を潜めていた。
「噂を話題にするなとは言わない」
王子の声は静かだった。
「だが、私の前で、私の意思を勝手に都合よく解釈するな」
その言い方は、場にいた全員を一度で制した。
令嬢たちが青ざめる。先ほどまでルシアンへ意味ありげな質問を投げていた者たちは、もう視線すら上げられないようだった。
それでも、完全に沈黙して終わるほど甘い場ではない。年長の子爵令嬢が、おそるおそる口を開く。
「も、申し訳ございません、殿下。ですが私どもはただ――」
「ただ?」
アルベールの視線が向く。
その一瞬で、令嬢の声が止まった。
「ただ何だ」
追い詰めるような声音ではない。
だが逃げ道も与えない。
令嬢は唇を震わせ、視線を伏せるしかなかった。
アルベールはそこで彼女をそれ以上責めなかった。代わりに、卓全体へ聞かせるように、はっきりと言った。
「ルシアン・エヴラールを侮辱することは、私の判断を侮辱することと同義だ」
その言葉は、食堂の空気を完全に変えた。
誰かが小さく息を呑む。
誰かが視線を逸らす。
誰かが理解の追いつかない顔で固まる。
ルシアン自身も、すぐにはその意味を飲み込めなかった。
今、アルベールは何と言った。
ルシアンを侮辱することは、自分の判断を侮辱することと同義。
つまりそれは、ルシアンが王子の“側”にいる存在だと、少なくともこの場にいる全員へ示したことになる。庇護よりも、もう一段深い場所だ。
卓上の誰もが、それを理解していた。
だからこそ空気が凍りついている。
ルシアンは喉がひどく乾くのを感じた。こんな形で守られることも、選ばれることも、まるで想定していなかったからだ。
アルベールはなおも静かに続ける。
「誰が何を見たか、何を聞いたか、そこに興味を持つのは勝手だ。だが、その興味を悪意に変えるな」
蒼い瞳が卓上を一巡する。
「私がそれを許すと思うな」
完全な宣言だった。
庇う、などという生易しいものではない。公然と、自分の意思で、ルシアンを守る側へ立つと告げている。
ルシアンは視線を落としたくなるのを堪えた。ここで俯けば、あまりに守られるだけの存在に見える気がしたからだ。
だがどうしても、心臓の音までは抑えられない。
アルベールはやがてルシアンのほうへ視線を向けた。
「立て」
短い命令。
ルシアンは反射的に立ち上がる。
すぐ近くに王子が立つ。近すぎる。皆の前だというのに、その距離の近さがひどく個人的に感じられた。
「こちらへ」
それだけ告げる。
ルシアンは一瞬だけ迷った。だが今この場で拒む選択肢などない。第一王子がここまで明確に線を引いた以上、その意図に背くような振る舞いは、自分だけでなく侯爵家にも余計な波を立てる。
ゆっくりと、アルベールの隣へ移動する。
それだけの動きなのに、周囲の視線がまた新しい意味を帯びた。
誰の目にも分かるのだ。王子が自分のすぐ隣へルシアンを立たせた、その事実が。
アルベールは食堂の責任者らしき人物へ短く視線を送り、「昼餐を続けろ」とだけ告げた。
その一言で、凍りついていた場がようやく動き出す。とはいえ、先ほどまでの和やかな空気が戻るわけではない。皆が慎重に息をし、慎重に食器を扱い、慎重に会話を選んでいるのがありありと分かった。
ルシアンは王子の隣に立ったまま、ひどく落ち着かない気分を抱えていた。
座れとも言われない。
戻れとも言われない。
ただ隣にいるだけ。
それだけなのに、まるで“ここがお前の立ち位置だ”と示されているようだった。
少し離れた席にいるセシリアが、驚きと戸惑いの混じった表情でこちらを見ていた。そのさらに向こうで、ジュリアン・ヴァレリオが微笑みを崩さずにグラスを傾けている。だが目だけが、以前よりもずっと冷たく見えた。
この光景は、間違いなく何かを変える。
今日この場にいる全員が、それを覚えて帰るだろう。
「……殿下」
ルシアンはようやく、誰にも聞こえない程度の小さな声で呼びかけた。
アルベールはわずかに顔を傾ける。
「何だ」
「ここまでなさる必要が、あったのでしょうか」
問いながら、自分でもそれが愚かな質問だと分かっていた。必要があると思ったからやったのだろうし、必要がないと思えば、王子はこんな公然たる介入などしなかったはずだ。
それでも聞かずにはいられなかった。
アルベールは数秒だけルシアンを見つめ、それから本当に小さな声で返した。
「お前は、ここまでしなければ分からないだろう」
その言葉に、ルシアンの胸がまた大きく揺れる。
何を、分からないというのか。
自分が守られていることか。
王子が本気で線を引いていることか。
それとも、もっと別の、口にされない何かか。
アルベールはそれ以上何も言わない。だがその横顔には、いつもの冷静さの下に、ひどく決意の固いものが滲んでいた。
昼餐会は、その後ひどく静かなまま終わった。
誰ももうルシアンへ不用意な話を振らない。先ほどまでのような半端な挑発も、面白半分の探りも、一切消えた。代わりに残ったのは、腫れ物に触るような慎重さと、“王子が明確に庇う相手”を見る目だ。
それが良い方向へ働くか、悪い方向へ働くかはまだ分からない。
少なくとも今は、単純に気が重かった。
昼餐会の後、食堂を出る時も、廊下を歩く時も、ルシアンは周囲の視線を感じ続けていた。だがその質はもう明らかに違っていた。以前のような侮りや、気軽な品定めではない。もっと慎重で、もっと複雑な色だ。
アルベールは少しだけ歩調を緩め、ルシアンと並んだまま短く言う。
「少しは静かになる」
ルシアンは苦く笑いたくなった。
「別の意味で騒がしくなった気しかしません」
「それでも、先ほどまでよりはましだ」
否定できない。
たしかにあのまま好き勝手に噂を弄ばれるよりは、王子が線を引いたほうがまだましなのかもしれない。少なくとも“悪意を向けてもいい相手”ではなくなった。
ただ代償として、“王子が公然と庇った相手”という新しい重みを背負うことになったのだが。
廊下の窓から差し込む昼の光が、二人の影を長く床へ落とす。
ルシアンはしばらくその影を見つめていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……もう戻れませんね」
思わず零れた本音だった。
以前の悪役令息ルシアン・エヴラールとしても、静かに背景へ消えようとする今の自分としても、もう戻れない。王子がここまで明確に関わった以上、自分の立ち位置は決定的に変わってしまった。
アルベールは隣を歩いたまま、わずかに視線を向ける。
「戻るつもりがあるのか」
「そういう意味ではありません」
「なら問題ない」
即答。
ルシアンは半ば呆れながら、でも少しだけ救われる自分に気づいてしまう。
王子にとっては、自分が何を失ったかよりも、これからどこへ立つかのほうが重要なのだろう。そういう思考の強さに、時々息苦しさを覚える。だが同時に、その迷いのなさに引っ張られてしまうこともある。
廊下の分岐で、アルベールは足を止めた。
「午後はもう大人しくしていろ」
「子供扱いしないでください」
「子供ならまだ扱いやすい」
そんな返しをされて、ルシアンは一瞬だけ言葉を失った後、珍しく小さく息を漏らした。
笑った、というほどでもない。
だが、先ほどまで胸を締めていた緊張がほんの少しだけ緩んだのは確かだった。
アルベールはその変化に気づいたのか気づかないのか、いつもの無表情に近い顔で言う。
「放課後、迎えはいらない」
その言い方に、ルシアンは少しだけ眉をひそめる。
「毎回迎えに来ていただいているように聞こえます」
「違うのか」
「……違わない場面が増えているのが問題なのです」
そう返すと、アルベールはほんの僅かに目を細めた。
「なら今後も増えるかもしれないな」
「殿下」
「冗談だ」
冗談に聞こえない。
だがそれ以上言い返す前に、王子は踵を返した。近侍が少し離れた位置で待っている。彼らに合流するその背を見送りながら、ルシアンは胸の奥にまたひとつ、新しい重みが増えたことを自覚していた。
王子の宣言。
それは確かに、自分を守る線になった。
だが同時に、それは王宮と社交界と学園の全てへ向けて、“ルシアン・エヴラールは私の側だ”と示したも同然でもある。
それがどれほど大きな意味を持つのか、今の自分にはまだ測りきれない。
ただ一つ確かなのは、もう誰も、以前のように気軽に自分を扱えなくなったということだ。
そしてそれは、味方だけでなく、敵にとっても同じではない。
「……ますます面倒になった」
小さく呟いてから、ルシアンはゆっくりと教室への廊下を歩き出した。
周囲の空気は変わった。
決定的に。
問題は、ここから先、それがどちらへ転ぶのかだ。




