第14話 毒と偽証の影
第一王子アルベールが昼餐会で放った宣言は、その日のうちに学園中へ広がった。
――ルシアン・エヴラールを侮辱することは、私の判断を侮辱することと同義だ。
あの場にいた者たちは、誰もがその言葉の意味を理解していた。
それは単なる庇護ではない。
気まぐれな情けでもない。
第一王子が自らの名と判断をもって、ルシアンの立場を守ると示したに等しい。
だからこそ、翌日の学園は異様に静かだった。
誰もルシアンへ露骨な棘を向けない。
誰もセシリアとの一件を面白半分に口にしない。
誰も第一王子との関係を正面から尋ねてこない。
だがそれは、噂が消えたという意味ではなかった。
むしろ逆だ。
声に出せなくなった分だけ、視線が増えた。
教室へ入れば、何人かが一瞬だけ顔を上げる。
回廊を歩けば、囁きかけた口が途中で閉じられる。
食堂へ向かえば、空いているはずの席の周辺に微妙な間が生まれる。
畏れ。
好奇心。
警戒。
そしてほんの少しの嫉妬。
以前のような分かりやすい悪意ではない。だが、ルシアンを見る者たちの目の中に、確実に新しい色が増えていた。
“第一王子に庇われた者”。
その肩書きが、自分の意志とは無関係に、ルシアンの上へ重く乗せられている。
「……息が詰まる」
放課後の回廊で、ルシアンは誰にも聞こえないほど小さく呟いた。
守られたことには感謝している。
あの場でアルベールが止めてくれなければ、昼餐会での話題はもっと厄介な方向へ転がっていただろう。セシリアの涙、ブローチの件、舞踏会でのダンス。それらを一つの悪意ある物語へ束ねようとする者は、確実にいた。
アルベールの言葉は、その流れを切った。
だが同時に、その言葉はルシアンを別の場所へ押し上げた。
もう単なる“悪役令息”ではない。
第一王子の判断に関わる存在になってしまった。
それがどれほど危ういことか、ルシアンにも分かる。
王族に庇われるということは、庇われるだけの価値があると見られることでもある。
同時に、王族を動かすだけの弱点だと見られることでもある。
周囲はもう、ルシアンだけを見ていない。
ルシアンを通して、アルベールを見ている。
それが怖かった。
自分が傷つけられるだけなら、まだ耐えようもある。
だが、自分のせいでアルベールの判断や評判まで問われるようになれば――。
「また一人で考え込んでいる」
背後から低い声がした。
ルシアンは肩を跳ねさせそうになり、寸前で堪えた。
振り返ると、いつの間にか回廊の柱の陰にアルベールが立っていた。濃紺の上着、端正な立ち姿、感情を読み取りづらい蒼い瞳。いつも通りの第一王子だ。
だが、その“いつも通り”が、今のルシアンにはひどく危険に感じられた。
「……殿下」
「人の少ないところへ逃げたつもりか」
「逃げたわけではありません」
「では?」
「少し、静かな場所へ来ただけです」
「同じだな」
即座にそう返され、ルシアンは言葉に詰まる。
アルベールは近づきすぎない距離で足を止めた。最近、彼は時折こうして距離を測る。以前なら一歩で逃げ場を塞いできたのに、今はあえて半歩分だけ残すことがある。
その配慮に気づいてしまう自分が、また厄介だった。
「昨日のことを気にしているのか」
アルベールが静かに問う。
昨日のこと。
昼餐会での宣言。
ルシアンは視線を落としかけ、すぐに戻した。
顔を上げていろ、と言われたことを思い出したからだ。
「……気にしない方が無理です」
「そうだろうな」
「分かっていて、あのようなことを仰ったのですか」
「必要だった」
短く、迷いのない答え。
ルシアンは小さく息を吐いた。
「必要だったとしても、私には重すぎます」
「なら少しずつ慣れろ」
「殿下は時々、ひどく無茶を仰います」
「時々ではないだろう」
平然と返されて、ルシアンは一瞬だけ返答を失った。
自覚があるのか。
あるのに直さないのか。
そう思った瞬間、胸の奥にあった重さが、ほんの少しだけ形を変えた。息苦しさの中に、奇妙な可笑しさが混じる。
だが、その微かな緩みは長く続かなかった。
回廊の向こうから、レオンハルトが姿を見せたからだ。
彼は足早に近づき、アルベールへ一礼する。いつもより僅かに表情が硬い。ほとんど感情を表へ出さない男だけに、その変化はかえって目立った。
「殿下。今夜の晩餐会について、席次と出席者の最終確認が届きました」
「変わったか」
「はい。フォルナン伯爵令嬢も出席されます。また、カルヴァン家、ヴァレリオ公爵家の関係者も同席予定です」
ルシアンの胸がわずかに沈む。
今夜の晩餐会。
王宮主催の、より正式な社交の場だ。
昼餐会より規模は大きく、招かれる家格も高い。王族、上級貴族、有力派閥の関係者が多く集まる。学園生徒だけではなく、その親世代や後見人に近い人物も交じる場だ。
当然、エヴラール侯爵家にも招待状は届いている。
そしてルシアンも出席しなければならない。
「……フォルナン嬢も」
思わず小さく呟くと、アルベールがこちらを見た。
「不安か」
「不安にならない理由がありますか」
セシリア。
ジュリアン。
カルヴァン家。
そしてアルベール。
その面々が揃う場で、何も起きない方が不自然に思えてしまう。
以前なら、夜会や晩餐会はただ面倒な社交の場だった。
だが今は違う。
どの席で誰が何を飲み、誰が誰へ何を言い、どの瞬間に誰が倒れるか――そんなことまで想像してしまう。
断罪ルートの記憶が、頭の奥で警鐘のように鳴る。
毒入りの杯。
泣き崩れる令嬢。
糾弾する貴族たち。
悪役令息の名。
あれはゲームの中の出来事だったはずだ。
まだ先の、大きな断罪イベントの一部だったはずだ。
だが、現実はすでに小さな悪意を見せ始めている。
ならば、今夜も何かが起こらないとは言い切れない。
アルベールはレオンハルトへ短く命じた。
「配膳と給仕の動線を調べろ。会場へ入る者の記録も取れ。厨房、控室、卓上の配置、すべてだ」
「承知しました」
「それと、フォルナン嬢の周辺には目を置け。ただし露骨にするな」
「は」
レオンハルトは一礼し、すぐに去っていく。
ルシアンはその背を見送ってから、アルベールへ視線を戻した。
「……まるで何か起きる前提のようですね」
「起きないようにするためだ」
「殿下は、今夜何かが起こるとお考えですか」
「可能性はある」
その言葉に、胸が冷える。
やはり、アルベールも同じように見ているのだ。
ここ最近の小さな出来事が、偶然の連続ではない可能性を。
「もし何も起きなければ、それでいい」
アルベールは静かに続けた。
「だが起きてから動くよりは、前もって潰す方が早い」
「……私は何をすれば」
そう尋ねた瞬間、アルベールの瞳が僅かに和らいだ。
その小さな変化に、ルシアンは自分の失言に気づいた。
また、頼ってしまった。
いや、頼るとまでは言わないかもしれない。だが少なくとも、自分一人で抱え込むのではなく、彼に尋ねた。それ自体が以前とは違う。
アルベールは何も指摘しなかった。
ただ、低く答える。
「お前は余計な挑発に乗るな。フォルナン嬢へ必要以上に近づくな。だが避けすぎるな。誰かに何か言われても、まず周囲を見る」
「……難しい注文ですね」
「できるだろう」
あまりにも当然のように言われ、ルシアンは少しだけ眉を寄せた。
「ずいぶん私を買いかぶりますね」
「そう思っているのはお前だけだ」
また、その言葉。
ルシアンは何も言えなくなる。
アルベールは一歩近づきかけ、だがそこで止まった。先ほどと同じ、半歩分の距離を残したまま言う。
「今夜、何かあれば私を見ろ」
「……殿下を?」
「声を出せない状況なら、目だけでもいい」
それは、奇妙なくらい具体的な指示だった。
ルシアンの胸が、わずかに詰まる。
「見れば、分かってくださるのですか」
「分かる」
即答だった。
迷いがない。
それがあまりにも重く、そして危ういほど頼もしかった。
ルシアンは小さく頷くしかできなかった。
晩餐会は、王宮西翼の大広間で開かれた。
昼餐会とは比べものにならないほど華やかで、そして重苦しい場だった。
高い天井から吊るされた水晶灯が黄金色の光を散らし、壁には王家の歴史を描いた織物がかかっている。長卓には白い卓布が敷かれ、銀器、硝子杯、季節の花をあしらった装飾が寸分の狂いもなく並べられていた。
美しい。
だが、ルシアンにはその美しさが妙に冷たく見えた。
今夜の席順は、奇妙に絶妙だった。
ルシアンはアルベールから遠すぎず、近すぎない位置。
セシリアは少し斜め向こう。
ジュリアンは彼女の近くではないが、視線を向ければすぐ様子が分かる位置。
エミール・ド・カルヴァンも同席している。昨日の昼餐会で遠回しにルシアンを突いた青年だ。
エドモン侯爵は少し離れた上位席にいる。
こちらを見ていないようで、時折視線だけが鋭く動いているのが分かった。
宴は和やかに始まった。
前菜、白身魚の香草蒸し、薄いスープ、果実を使った口直し。料理は完璧で、給仕たちの動きも流れるようだ。王宮の晩餐にふさわしい統制が取れている。
しかしルシアンは、料理の味をほとんど感じられなかった。
誰がセシリアに近づくか。
誰が自分を見るか。
誰がどの杯へ手を伸ばすか。
給仕がどの順番で動くか。
そんなことばかり見ている。
アルベールの言葉を思い出す。
――まず周囲を見る。
だから見る。
見落とさないように。
すると、いくつか気になることがあった。
セシリアの席へ一度だけ別の給仕が回った。
直後、彼女の隣にいた令嬢が話しかけ、セシリアの視線がそちらへ逸れた。
その間に、卓上の杯がわずかに動いたように見えた。
気のせいかもしれない。
だが、ルシアンの胸がざわついた。
セシリアはその杯へまだ口をつけていない。
ルシアンは反射的にアルベールを見た。
ほんの一瞬。
目だけで。
アルベールは別の貴族と話していた。だが、その視線が一瞬だけルシアンを捉える。次いで、セシリアの方へ流れた。
気づいた。
それだけで、ルシアンはわずかに息を吐いた。
だが、事態はそれより早かった。
「セシリア様?」
セシリアの隣席の令嬢が、不安げに声を上げた。
セシリアの顔色が変わっていた。
彼女は片手で胸元を押さえ、もう片方の手で卓の縁を掴んでいる。唇が白く、呼吸が浅い。次の瞬間、彼女の身体がぐらりと傾いた。
会場が一気にざわめいた。
「フォルナン嬢!」
「医師を!」
「どうなさったの!?」
令嬢たちの悲鳴が上がる。
ルシアンは椅子から立ち上がりかけ、寸前で止まった。
駄目だ。
ここで不用意に近づけば、また構図ができる。
セシリアが倒れた。
ルシアンが近づいた。
先日の庭園。
ブローチ。
すべてが繋げられる。
だが、動かなければ冷たい人間に見えるかもしれない。
一瞬の迷い。
その隙を突くように、誰かの声が響いた。
「まさか……またエヴラール様が?」
小さな声だった。
だが、十分に聞こえる声だった。
会場の空気が凍る。
ルシアンの背筋に冷たいものが走った。
来た。
予想していたのに、実際にその言葉を聞くと、胸の奥を直接掴まれたような衝撃があった。
「先日もフォルナン嬢が泣いていた時、そばにいらしたわ」
「ブローチの件も……」
「偶然が続きすぎでは」
囁きが広がりかける。
まだ断定ではない。
だが、流れはできかけている。
その瞬間、アルベールの声が場を切った。
「黙れ」
低く、冷たい一言。
それだけで会場のざわめきが止まった。
アルベールはすでに席を立っていた。表情はいつも通り冷静だ。だが、その冷静さが今は刃のように鋭い。
「医師を呼べ。フォルナン嬢を休ませろ。給仕長、彼女の口にしたものと卓上の杯を全て保全しろ。誰も触れるな」
命令が次々に飛ぶ。
レオンハルトが即座に動いた。控えていた騎士たちも会場の出入り口を押さえる。給仕たちが青ざめながらも指示に従い、セシリアは令嬢たちと侍女に支えられて隣室へ運ばれていく。
ルシアンはその場に立ち尽くしていた。
近づけない。
声もかけられない。
ただ、自分の名が疑いと結びつきかけた瞬間の冷たさだけが、喉の奥に張りついている。
そこへ、エミール・ド・カルヴァンが慎重な声で言った。
「殿下、念のため、エヴラール様にもお話を伺うべきでは。フォルナン嬢とは最近、何かと接点が――」
「不要だ」
アルベールは即座に切り捨てた。
「しかし」
「彼には接触の機会がない」
会場に静かな緊張が走る。
アルベールは視線だけでレオンハルトを呼ぶ。
レオンハルトは淡々と報告した。
「確認済みです。ルシアン様は着席後、配膳されたもの以外には触れておられません。また、フォルナン嬢の席へ近づいた記録もありません」
「杯に触れた者は」
「現在確認中ですが、少なくとも給仕二名、隣席の令嬢、挨拶に立ったカルヴァン家の従者が接近しています」
エミールの顔色が一瞬だけ変わった。
それはほんの僅かな変化だったが、ルシアンは見逃さなかった。
アルベールも、おそらく見逃していない。
「私は言ったはずだ」
アルベールの声が、さらに冷たくなる。
「憶測で人を侮辱するな、と」
エミールはすぐに頭を下げた。
「……失礼いたしました。フォルナン嬢を案じるあまり、軽率でした」
「軽率が過ぎれば、意図と見なす」
会場が凍りつく。
それは、警告だった。
王子の名による、明確な警告。
誰もそれ以上、ルシアンの名を口にできなかった。
やがて医師が隣室から戻ってきた。
「命に別状はございません。ただ、軽い眩暈と吐き気を誘発する成分が口に入った可能性がございます。毒と呼ぶほど強いものではありませんが、体調によっては危険もあり得ます」
会場がざわめく。
毒。
強くはないとしても、その言葉が出た瞬間、事態は一段階重くなった。
ルシアンは手のひらが冷えていくのを感じた。
毒と偽証。
ゲームの記憶が、脳裏で嫌な形に重なる。
これは本当に、単なる嫌がらせではない。
誰かが、セシリアに危害を加えた。
そして、その疑いをルシアンへ向けようとした。
そう見える。
あまりにも、そう見える。
少しして、セシリアが意識を取り戻したと告げられた。
会場の空気はまだ張り詰めている。正式な取り調べは後日になるだろう。だが、今この場で最低限の証言だけは必要と判断されたらしく、医師と侍女に支えられたセシリアが、隣室から姿を見せた。
顔色は悪い。
だが意識ははっきりしているようだった。
彼女の視線が、まずルシアンを捉える。
ルシアンは息を止めた。
責められるとは思っていない。
だが、この場で彼女が何を言うかによって、流れは大きく変わる。
セシリアは弱々しくも、はっきりと口を開いた。
「……ルシアン様では、ありません」
会場が静まった。
「ルシアン様は、私の席へ近づいていません。先日のことも、ブローチのことも、庭園のことも……私を傷つけるためではありませんでした」
声は震えている。
だが、言葉はまっすぐだった。
「私は、ルシアン様に傷つけられてなどいません」
その瞬間、ルシアンの胸の奥で何かがほどけた。
完全な安堵ではない。
むしろ、苦しさの方が強かった。
彼女は今、体調が悪い中で、自分を庇うために立っている。
それはありがたい。
けれど、本来なら彼女自身が守られ、休むべき場面だ。
それでもセシリアは言った。
“ルシアン様ではありません”と。
その言葉は、これまで曖昧に積み上がりかけていた疑念のいくつかを確かに砕いた。
アルベールは静かに頷いた。
「フォルナン嬢を休ませろ。以後の調査はこちらで行う」
その場は、それで終わった。
晩餐会は当然中断された。
出席者たちは形式上の礼を保ちながら退席していく。だが誰もが分かっていた。
これはただの体調不良ではない。
そしてただの社交上の騒ぎでもない。
誰かが、何かを仕掛けた。
その影が、ついには“毒”という形で姿を見せ始めたのだ。
人々が去っていく中、ルシアンはしばらくその場から動けなかった。
すると、アルベールが静かに近づいてきた。
「大丈夫か」
その一言に、ルシアンは小さく笑いそうになった。
大丈夫なはずがない。
疑われた。
セシリアが倒れた。
毒が使われた。
そして自分の名は、また悪意の構図の中へ置かれかけた。
だが、アルベールの声がそこにあった。
レオンハルトの報告があり、セシリアの証言があり、自分を信じる言葉があった。
だから、まだ立っていられる。
「……大丈夫ではありません」
正直に答えた。
アルベールの目が少しだけ細められる。
「そうか」
「ですが、倒れるほどではありません」
「ならいい」
そう言いながらも、アルベールの表情は少しも緩まなかった。
むしろ、ひどく冷えている。
怒っているのだ。
ルシアンではなく、この状況を作った誰かに対して。
「殿下」
「何だ」
「これは、次がありますか」
問いは震えなかった。
アルベールは数拍だけ黙り、それから答えた。
「あると思え」
その言葉に、ルシアンは静かに目を伏せた。
やはり。
これで終わりではない。
ブローチ。
庭園の涙。
昼餐会での侮辱。
そして今夜の毒。
小さな悪意は、少しずつ形を変え、強さを増している。
この先に待つものが何か、もう想像したくなくても分かってしまう。
断罪の舞台。
自分を悪役として固定するための、もっと大きな場。
アルベールは低く告げた。
「今夜から、お前の周囲の警戒を増やす」
「……また噂になります」
「構わない」
「私は構います」
「それでも増やす」
譲る気のない声音だった。
ルシアンは反論しかけ、やめた。
今夜のことを見れば、もう“目立ちたくない”だけで安全を削るわけにはいかない。自分だけならまだしも、セシリアまで巻き込まれている。
ルシアンは小さく頷いた。
「……分かりました」
その返答に、アルベールが僅かに目を見開いたように見えた。
「素直だな」
「今夜は、反論する余裕がありません」
「それでいい」
少しだけ、いつもの調子が戻る。
だがその裏にある緊張は消えない。
会場の外では、王宮の廊下が長く静かに続いていた。燭台の灯りが壁に揺れ、遠くで騎士の足音が響いている。
美しい夜だった。
美しすぎるほどに。
その静けさの裏で、確かに何かが動いている。
ルシアンはその気配を、もう無視できなかった。




