第15話 王立学園公開式典へ
毒。
その言葉は、翌日になってもルシアンの中から消えなかった。
朝食の席でも、馬車の中でも、学園の廊下を歩いている時でさえ、ふとした瞬間に脳裏へ浮かんでくる。
毒と呼ぶほど強いものではない。
医師はそう言った。
だが、それが慰めになるはずもなかった。
強くない毒。
命を奪うほどではない成分。
体調によっては危険もあり得る程度のもの。
つまり、それは“殺すため”ではなく、“騒ぎを起こすため”のものだったのだろう。
セシリアを倒れさせる。
会場を混乱させる。
そしてその場で、誰かがルシアンの名前を出す。
まさか、と。
また、と。
偶然が続きすぎる、と。
昨夜、確かにその流れは作られかけた。
もしアルベールが事前に配膳と動線を確認させていなければ。
もしレオンハルトがすぐに証言できなければ。
もしセシリアが意識を取り戻し、自分の口で「ルシアン様ではありません」と言ってくれなければ。
ルシアンは今頃、どんな立場に置かれていただろう。
想像しただけで喉が詰まる。
王立学園へ向かう馬車の中、ルシアンは膝の上で指先を組み、じっと窓の外を見ていた。
王都の街並みは今日も美しい。春の光を受けた白い石壁、花を飾った店先、朝の市場へ向かう荷馬車。どれも穏やかで、昨日の晩餐会で起きたことなど、まるで遠い世界の出来事のように見える。
けれど、あれは現実だ。
セシリアが倒れたことも。
自分の名が疑いと結びつきかけたことも。
アルベールが冷たい声で場を制したことも。
すべて、現実に起きた。
そしてたぶん、これで終わりではない。
アルベールは言った。
――あると思え。
次があると。
その言葉を思い出すたび、背筋に薄い冷気が走る。
馬車が学園の門をくぐる。
いつもより空気が重く感じられた。
昨夜の晩餐会に出席した生徒は多くない。だが、上級貴族の家から家へ、王宮の出来事がそのまま伝わるのに一晩あれば十分だったのだろう。校門付近の生徒たちは、ルシアンの馬車を見ただけで微妙に表情を変えた。
好奇心。
警戒。
そして、恐れ。
以前向けられていた悪意とは少し違う。
あの晩餐会で、ルシアンの無実はかなり早い段階で示された。だからこそ、単純に“やはり悪役令息が何かしたのだ”とは言いにくくなっている。
代わりに、別の恐怖が生まれていた。
ルシアン・エヴラールの周囲では、何かが起きる。
そういう目だ。
自分自身が何かをしたというより、自分の周囲に不穏なものが付きまとっているように見られている。実際、それは完全な間違いではないから厄介だった。
馬車を降りた瞬間、数歩離れたところに見慣れた人影があった。
レオンハルト・シュタイン。
王子付きの近衛騎士である彼が、学園の正門付近に立っている。それだけで周囲の視線はさらに集まった。
ルシアンは内心で小さく呻く。
警戒を増やす、とアルベールは言っていた。
まさか登校時からとは思わなかった。
「おはようございます、ルシアン様」
レオンハルトは周囲の空気など意に介さぬように一礼した。
「……おはようございます」
ルシアンは少しだけ声を落とす。
「これは、殿下のご指示ですか」
「はい」
即答だった。
「本日より、必要に応じて私、または殿下配下の者が学園内で周辺警戒にあたります」
周辺警戒。
いかにも実務的な響きだ。だが、周囲から見れば“第一王子がルシアンへ護衛をつけた”に等しい。噂にならないはずがなかった。
ルシアンは額を押さえたくなるのを堪える。
「……目立ちます」
「承知しております」
「承知していてなさるのですか」
「殿下のご命令ですので」
そこには一切の迷いがない。
この主従は本当に似たところがある、とルシアンは思う。決めたら動く。目立つかどうかより、必要かどうかで判断する。そしてその“必要”の中に、ルシアン本人の居心地はあまり含まれていない。
けれど今は、完全に抗議する気にもなれなかった。
昨夜のことを考えれば、警戒は必要だ。
それを理解しているからこそ、文句だけでは済ませられない。
「……分かりました」
ルシアンは諦めたように頷いた。
レオンハルトは静かに一歩下がる。
「通常通りお過ごしください」
「それが難しいのですが」
「可能な範囲で結構です」
真面目な顔でそう返され、ルシアンはもう何も言えなくなった。
教室へ入ると、空気はさらに分かりやすく変わった。
昨日までの噂の中心が“王子の寵愛”や“セシリアとの関係”だったとすれば、今日はそこに“毒騒ぎ”が加わっている。誰も直接その話を持ち出そうとはしない。だが、会話の端々、視線の動き、沈黙の間に、確かにその影が落ちている。
セシリアは登校していた。
顔色はまだ少し白いが、少なくとも歩ける程度には回復しているらしい。彼女はルシアンと目が合うと、はっきりと会釈した。
その仕草には、昨日までよりも強い意思があった。
ルシアンも会釈を返す。
言葉は交わさない。
けれどそれだけで、少しだけ胸が軽くなった。
彼女が無事でよかった。
それは本音だった。
その一方で、ジュリアン・ヴァレリオはいつものように笑っていた。
いつものように、穏やかに。
いつものように、誰にでも親しげに。
そしていつものように、目の奥だけは読ませない。
「おはよう、ルシアン」
彼は自席へ向かう途中で声をかけてきた。
「昨夜は大変だったね」
その言葉の選び方に、ルシアンはわずかに警戒する。
大変だった。
それは、誰にとっての話なのか。
セシリアにとってか。
疑われかけたルシアンにとってか。
それとも、場を収めたアルベールにとってか。
「フォルナン嬢の体調が戻られたようで、まずは何よりだ」
ルシアンはそう返した。
自分の話には乗らない。
セシリアの安否を軸にする。
それが今できる一番安全な返答だった。
ジュリアンは少しだけ目を細める。
「本当にね。彼女もずいぶん勇気がある。あの場で君を庇うなんて」
教室の空気がわずかに揺れた。
まただ。
彼はいつも、“事実”を使って空気を動かす。
セシリアがルシアンを庇ったのは事実だ。
だがそれをどう言うかによって、意味は変わる。
「庇ったのではなく、事実を述べただけだ」
ルシアンは静かに返した。
「私が彼女の席へ近づいていないことは、殿下の配下の方々も確認している」
「もちろん。そうだったね」
ジュリアンは微笑んだまま頷く。
「ただ、皆がそう冷静に見てくれるとは限らないだろう?」
「なら、冷静に見られるよう努めるだけだ」
「君、本当に変わったね」
またその言葉。
だが今度のルシアンは、少しだけ違う受け取り方ができた。
変わった。
それを恐れる必要は、もう以前ほどないのかもしれない。
変わったから不自然に見られる。
変わったから疑われる。
変わったから利用される。
それでも、変わらなければあの断罪の未来へ近づいていくだけだ。
「変わらなければならない時もある」
ルシアンは短く言った。
ジュリアンの笑みが、ほんのわずかに薄くなる。
「……そうか。君がそう言うなら、そうなのだろうね」
それだけ言って、彼は自分の席へ戻った。
午前の授業は、ひどく長く感じられた。
講義の内容は王国法制史だった。普段なら興味を持てる分野のはずだが、今日は頭の半分が別のことに取られていた。
昨夜の毒。
ジュリアンの言葉。
セシリアの会釈。
レオンハルトの警戒。
アルベールの指示。
そして、これから先に待つ“大きな場”。
それが何か、ルシアンはもう分かっていた。
王立学園公開式典。
年に一度、王族、貴族、学園関係者、有力家門の後見人たちが一堂に会する大きな行事。生徒たちの成果を披露し、礼法や学問、魔術、剣術、弁論など、貴族子弟としての資質を公に示す場。
ゲームでは、そこが最大の断罪イベントだった。
ルシアン・エヴラールが、多くの証言と証拠によって糾弾される舞台。
セシリアへの嫌がらせ、毒、偽造文書、使用人の証言、過去の悪行。
その全てが積み上げられ、逃げ場を失った悪役令息が壇上で崩れ落ちる場所。
ゲームの中で見たその場面を、前世の自分は“当然の報い”として見ていた。
だが今は違う。
断罪されるのは自分だ。
しかも今の現実では、その舞台へ向けて、まるで誰かが意図的に材料を集めているように見える。
ブローチ。
庭園で泣くセシリア。
昼餐会での侮辱。
晩餐会の毒。
どれも一つだけなら偶然や誤解で済ませられる。
だが積み重ねれば、“ルシアンならやりかねない”という印象を作れる。
そして公開式典は、その印象を一気に爆発させるには最適の場だった。
授業が終わると、担任教師が連絡事項を告げた。
「来月初めに行われる王立学園公開式典について、本日より準備期間に入る。各自、担当発表および儀礼演習の予定を確認するように」
教室がざわりとした。
生徒たちにとって公開式典は大きな行事だ。名誉であり、評価の場であり、家の面子にも関わる。気を引き締める者もいれば、純粋に華やかな行事として楽しみにする者もいる。
だがルシアンにとって、その言葉は処刑台の告知に等しかった。
来月初め。
思っていたより近い。
いや、ゲームの記憶通りなら、確かにその時期だった。
脳裏に、画面越しに見た壇上が蘇る。
大勢の前で自分の名が呼ばれる。
証拠が差し出される。
セシリアが青ざめる。
攻略対象たちが冷たい目で見ている。
父が沈黙する。
そして第一王子アルベールが、淡々と罪を告げる。
その記憶と、今のアルベールが重ならない。
だから余計に怖い。
何が変わり、何が変わっていないのか分からない。
担任が式典の役割分担を読み上げていく。
貴族史の弁論。
外交儀礼の実演。
魔術理論発表。
剣術演武。
式典進行補佐。
ルシアンの名は、弁論部門と貴族代表挨拶の補佐役にあった。
つまり、壇上に上がる。
ゲームと同じように。
ルシアンは手元の紙を握りしめそうになり、寸前で堪えた。紙が皺になれば目立つ。震えていると思われる。だからただ、指先へ力を入れず、静かに座っていた。
授業後、教室を出ようとしたところで、セシリアが近づいてきた。
周囲の視線が一瞬で集まる。
だが彼女は怯まなかった。
「ルシアン様」
声はまだ少し弱いが、昨日よりしっかりしている。
「昨日は……ご心配をおかけしました」
ルシアンは言葉を選んだ。
「無事で何よりです」
それ以上踏み込まない。
だが冷たくもしない。
セシリアは小さく頷いた。
「それと、あの場で……私は、もっと早く言えればよかったのですが」
「あなたは十分に言ってくれた」
ルシアンは静かに遮った。
「体調の悪い中で証言すること自体、本来なら負担だったはずです。こちらこそ、巻き込んでしまった」
「巻き込んだのは、私の方では」
「違う」
思ったより強く言ってしまった。
セシリアが少し目を見開く。
ルシアンはすぐに声を整えた。
「……少なくとも、あなたのせいではありません」
その言葉は、自分にも向けていたのかもしれない。
セシリアは何かを言いかけたが、最終的には小さく頷いた。
「ありがとうございます」
その時、教室の入口からレオンハルトが現れた。
周囲がまたざわめく。
ルシアンは半ば諦めた気持ちで彼を見た。
「殿下が?」
「はい」
やはり。
今回はセシリアも一緒にいたため、周囲の意味づけはさらに複雑になりそうだった。だがレオンハルトは淡々と続ける。
「フォルナン伯爵令嬢にもお話があるとのことです」
セシリアが驚いたように息を呑む。
ルシアンも一瞬だけ目を細めた。
アルベールが、自分だけでなくセシリアも呼ぶ。
それはたぶん、昨夜の毒と公開式典へ向けて、彼女にも警戒を共有するためだ。
レオンハルトの後について、二人は学園の応接室へ向かった。
距離は少し開ける。
並びすぎても、離れすぎても不自然だ。
そういう加減に気を使う自分に、ルシアンは内心で疲れを覚えた。
応接室には、アルベールがすでにいた。
彼はルシアンとセシリアの姿を見て、すぐに席を勧めた。セシリアには医師の診察後であることを気遣い、温かな茶まで用意させている。
セシリアは緊張しながらも、丁寧に礼を述べて席へついた。
アルベールは無駄な前置きをしなかった。
「昨夜の件については調査中だ。だが、私は単発の騒ぎとは見ていない」
セシリアの顔色がわずかに変わる。
ルシアンは黙って聞いていた。
「近日、公開式典の準備が始まる。多くの者が出入りし、証言や記録、成果物、発表資料などが行き交う。何かを仕掛けるには都合がいい」
やはり。
ルシアンの胸が冷たくなる。
アルベールは続ける。
「フォルナン嬢。今後、口にするもの、身につけるもの、受け取る手紙、贈り物には注意しろ。侍女や友人にも確認を徹底させる」
「……はい」
セシリアは緊張した面持ちで頷く。
次に、アルベールの視線がルシアンへ向いた。
「ルシアン」
「はい」
「お前もだ。式典までに、お前を悪役として固定する材料がさらに出てくる可能性がある」
その言い方は容赦がない。
だが、曖昧にされるよりずっといい。
「……分かっています」
「分かっているなら、逃げるな」
また、その言葉。
ルシアンは思わず苦い顔をしそうになった。
「逃げないとは、どういう意味ですか」
「式典を欠席するな。役割を降りるな。必要以上に姿を隠すな」
言われる前に考えていたことを、全て潰された。
ルシアンは唇を引き結ぶ。
実際、頭のどこかでは公開式典を欠席できないかと考えていた。体調不良、侯爵家の都合、何でもいい。舞台に立たなければ、断罪イベントは成立しにくくなるのではないかと。
だが、アルベールはその逃げ道を許さなかった。
「……なぜです」
ルシアンは低く尋ねた。
「出なければ、それはそれで後ろ暗い証拠にされる」
アルベールは即答した。
「逃げた者は、いない場所で好きに語られる。お前が反論できない場で、お前の物語が作られるだけだ」
返す言葉がなかった。
正しい。
悔しいほどに正しい。
出なければ安全になるわけではない。
むしろ不在のまま悪役として完成させられる可能性すらある。
アルベールは静かに言った。
「出ろ。今度は私が、お前を壇上から降ろさせない」
その言葉に、ルシアンは息を止めた。
セシリアも驚いたように二人を見比べる。
ルシアンは、胸の中で何かが大きく揺れるのを感じた。
恐怖は消えない。
公開式典は怖い。
壇上も、大勢の視線も、証拠も、糾弾も、すべて怖い。
けれど、アルベールの言葉は、その恐怖の中に一本の杭を打ち込むようだった。
逃げるな。
出ろ。
私が降ろさせない。
それは守りの言葉であり、命令であり、そして信じろという要求でもあった。
ルシアンはすぐには答えられなかった。
だが沈黙の後、どうにか小さく頷く。
「……出ます」
声は震えなかった。
アルベールは短く頷いた。
「それでいい」
それだけなのに、少しだけ胸の奥が軽くなった。
式典は近づいている。
断罪の舞台は、もう目の前にある。
それでも、今のルシアンは一人でそこへ立つわけではない。
そのことを、信じたいと思った。
まだ完全には無理でも。
ほんの少しだけなら。




