第16話 優しい人ほど、傷つきやすい
公開式典の準備期間に入ってから、王立学園の空気は目に見えて変わった。
普段から礼節と格式を重んじる学園ではあるが、この時期だけはさらに緊張が増す。回廊には式典用の花飾りが少しずつ運び込まれ、講堂では演台の位置が調整され、広間では礼法教師が生徒たちの歩幅や礼の角度まで細かく確認していた。
王族、貴族、学園関係者、後見人、各家の使者。
多くの視線が集まる一日。
生徒たちにとっては名誉の場であり、同時に家の面子を背負う試練でもある。
ルシアンにとっては、もっと別の意味を持っていた。
断罪の舞台。
その言葉が、どうしても頭から離れない。
式典準備のために講堂へ足を踏み入れるたび、壇上の床板がやけに冷たく見えた。まだ誰も立っていない演台。整えられていく客席。磨かれる燭台。ひとつひとつが、未来の光景を先取りする道具のように思えてしまう。
ここで、自分は名を呼ばれるのか。
ここで、証拠を突きつけられるのか。
ここで、また大勢に見られるのか。
そう考えるだけで、胸の奥が固く縮む。
けれど、逃げないと決めた。
いや、正確には、逃げないと口にした。
アルベールの前で。
セシリアの前で。
その言葉はもう、自分一人の胸の中だけにしまっておけるものではなくなっていた。
「エヴラール様」
講堂脇の控え室で、式典用の進行表を確認していたルシアンは、控えめな声に顔を上げた。
そこに立っていたのは、以前、教本を貸したことのある下級貴族の少年だった。名前はアーノルド。最初に声をかけてきた時には、ルシアンの顔を見るだけで緊張していた彼だ。
今も緊張はしているようだったが、その目には以前ほどの怯えはない。
「どうした」
「その……次の弁論練習で使う資料なのですが、エヴラール様が以前教えてくださった参考文献を読んでみました。とても分かりやすくて」
アーノルドは、手にしていた薄い冊子を胸元へ抱きしめるようにした。
「お礼を申し上げたくて。ありがとうございました」
たったそれだけの言葉だった。
けれどルシアンは一瞬、返答に困った。
礼を言われるほど大したことをした覚えがない。たまたま必要そうな資料を見かけ、書名を伝えただけだ。以前なら、それすらしなかったかもしれないが、今の自分にとっては小さな行動の一つにすぎない。
それなのに、相手にとっては違うらしい。
「役に立ったならよかった」
そう返すと、アーノルドは少しだけ表情を明るくした。
「はい。あの、式典の弁論……エヴラール様の発表も、楽しみにしています」
その言葉に、ルシアンの指先がかすかに止まった。
楽しみにしている。
誰かからそんなふうに言われるとは思っていなかった。
公開式典は、ルシアンにとって恐怖の場だ。壇上に上がることを考えるだけで息が詰まる。けれど、彼にとっては違うのだろう。単純に、学園の優秀な生徒がどんな弁論をするのか楽しみにしている。
その素直さが、少しだけ眩しかった。
「……期待に添えるかは分からない」
ルシアンは視線を落としそうになりながらも、どうにか言った。
「だが、準備はする」
「はい」
アーノルドは深く頭を下げ、足早に去っていった。
その背中を見送りながら、ルシアンは手元の進行表へ目を落とす。
紙面には、式典の流れが整然と記されている。貴族代表挨拶、弁論、魔術理論発表、剣術演武、来賓挨拶。どれもただの予定のはずなのに、ルシアンにはその裏に見えない罠が潜んでいるように思えてしまう。
だが、今しがたの少年の言葉が、ほんの少しだけその恐怖の色を薄めていた。
自分を疑う視線ばかりではない。
自分を試す声ばかりでもない。
ただ、期待してくれる人もいる。
その事実が、胸の奥に小さく残った。
控え室を出ると、廊下の隅で侍女見習いの少女が小さく会釈した。
以前、資料箱を一緒に運んだ少女だ。彼女は何かを言いたそうにしていたが、周囲に人がいるせいか迷っているようだった。
ルシアンが足を止めると、少女は慌てて背筋を伸ばした。
「エヴラール様、その……これを」
差し出されたのは、小さく折りたたまれた紙だった。
ルシアンは一瞬だけ周囲を確認する。
手紙。
この状況で差し出される手紙には、警戒すべき理由が多すぎる。毒の件もある。偽証の可能性もある。誰かが罠として使うこともできる。
少女もそれを理解しているのか、すぐに付け加えた。
「危ないものではありません。あの、もしご不快でしたら、ここで開いていただいても……」
その顔は真剣だった。
ルシアンは数秒だけ迷い、それから紙を受け取った。折り目を開く。
中には、丁寧だが少し幼い文字でこう書かれていた。
――式典、どうかご無事で。私たちは、エヴラール様が怖い方ではないと知っています。
たったそれだけ。
署名もない。
けれど、文末には小さな花の絵が描かれていた。
ルシアンはしばらく、その紙から目を離せなかった。
ご無事で。
怖い方ではないと知っています。
あまりに拙く、あまりに素朴な言葉だ。
それなのに、胸の奥がきゅっと締めつけられる。
「……これは」
「あの、資料室の者たちで……その、皆で書いたわけではありません。ただ、何人かが、そう思っております」
少女は緊張で声を震わせながらも、懸命に言った。
「最近のエヴラール様は、私たちにもちゃんと声をかけてくださいます。重いものを持っていた時も、落とし物をした時も。だから、その……どうか、あまりご自分を責めすぎないでください」
ルシアンは何も言えなかった。
自分を責めすぎないでください。
その言葉を、使用人側の少女から向けられるとは思っていなかった。
これまでの自分なら、彼女たちはむしろ恐れていたはずだ。機嫌を損ねないように距離を取り、失敗しないように息を潜めていたはずだ。
その相手が今、自分の心配をしている。
「……ありがとう」
ようやく、それだけ言った。
少女はぱっと顔を上げる。
「は、はい!」
「この手紙は、預からせてもらう」
「はい……!」
彼女は深く頭を下げて走り去っていった。
ルシアンは折りたたんだ紙を、上着の内側へそっとしまう。
胸のあたりに、小さな熱が残った。
ほんの数日前なら、こういうものを受け取ること自体が怖かったかもしれない。罠かもしれないと疑い、素直に受け取れず、結局突き返していたかもしれない。
今も怖くないわけではない。
けれど、怖いからといってすべてを拒めば、自分はまた以前の場所へ戻ってしまう。
周囲を疑い、誰にも手を伸ばせず、傷つく前に遠ざけるだけの自分へ。
その時、廊下の向こうから足音が近づいてきた。
セシリア・フォルナンだった。
今日は以前より顔色がよく、歩き方もしっかりしている。とはいえ、晩餐会で倒れたばかりだ。周囲には彼女を案じる友人が数名いたが、セシリアはその場で彼女たちに何かを告げ、一人だけこちらへ歩いてきた。
ルシアンは無意識に身構える。
だが逃げなかった。
避けすぎるな。
アルベールの言葉が頭をよぎる。
「ルシアン様」
セシリアは少し離れた位置で立ち止まり、丁寧に礼をした。
「少しだけ、お話ししてもよろしいでしょうか」
「……ここでなら」
完全に二人きりになる場所へ行くのは避けるべきだ。だが、人目のある廊下の端ならまだいい。そう判断して答えると、セシリアもその意味を理解したように小さく頷いた。
「先日の晩餐会のことで、改めてお礼を申し上げたくて」
「礼なら殿下へ」
「殿下にも申し上げます。でも、ルシアン様にも」
ルシアンは眉をわずかに寄せる。
「私には、礼を言われることは何も」
「あります」
珍しく、セシリアがはっきりと言い切った。
その声の強さに、ルシアンは少し驚く。
セシリアは胸元で指を組みながら、それでも目を逸らさずに続けた。
「私は、あの場で怖かったのです。体調が悪かったことももちろんですが、それ以上に……皆がまた、ルシアン様を疑う空気になってしまったことが」
ルシアンは息を呑む。
「あなたが気にすることではない」
「気にします」
また、はっきりとした返事。
セシリアの瞳は、以前より少しだけ強く見えた。
「私も、ずっと周囲に守られるだけで、自分の言葉を後回しにしてきました。でも、あの時、言わなければいけないと思ったのです。ルシアン様ではない、と」
「……それで無理をしたのなら、本末転倒だ」
つい少し硬い声になる。
セシリアは一瞬だけ驚き、それから困ったように笑った。
「心配してくださっているのですね」
「そういう意味では」
「ありがとうございます」
先に礼を言われて、ルシアンは言葉に詰まった。
セシリアは静かに続ける。
「私は、ルシアン様が怖くありません」
その一言に、時間が止まったような気がした。
怖くありません。
それは、彼女が言うからこそ重かった。
ゲームの中で悪役令息に傷つけられるはずだったヒロイン枠。周囲から守られるべき存在として扱われ、自分自身も恐れや戸惑いを抱えていた少女。
その彼女が、真正面からそう言った。
ルシアンはすぐに返せなかった。
胸の奥が、痛い。
優しい言葉のはずなのに、なぜか痛い。
自分は、それを受け取る資格があるのだろうか。これまでのルシアンは、本当に誰も傷つけなかったと言えるのか。彼女が怖くないと言ってくれることに、素直に安堵していいのか。
いくつもの問いが、喉の奥に詰まる。
「……あなたは、優しすぎる」
ようやく出たのは、そんな言葉だった。
セシリアは目を瞬かせる。
「そうでしょうか」
「そうだ。優しい人間ほど、傷つきやすい」
言ってから、それは自分自身にも向けた言葉なのかもしれないと思った。
セシリアは少し考えるように視線を伏せ、それから小さく首を横に振った。
「でも、優しくないふりをする方が、もっと傷つくのかもしれません」
ルシアンは答えられなかった。
その言葉は、あまりに深く刺さった。
優しくないふり。
棘を出し、近づく者を遠ざけ、傷つく前に傷つける。そういう生き方をしてきた自分へ、まっすぐ届く言葉だった。
セシリアは静かに礼をした。
「式典、どうかご無理をなさらないでください。でも……私は、ルシアン様が壇上に立たれるのを見ています」
それだけ告げて、彼女は友人たちのもとへ戻っていった。
残されたルシアンは、しばらくその場から動けなかった。
胸の中がいっぱいだった。
アーノルドの期待。
侍女見習いたちの手紙。
セシリアの「怖くありません」という言葉。
それらは全部、ルシアンを責めるものではない。
むしろ、支えるために差し出されたものだ。
それなのに、受け取るたびに心のどこかが痛む。
なぜなら、そんなものを受け取れる人間ではないと、まだ自分が思っているからだ。
その日の放課後、ルシアンは人気のない庭園へ足を向けた。
公開式典の準備で校舎内は慌ただしい。だからこそ、庭園の端は比較的静かだった。古い薔薇の低木と、白い石畳。噴水の音が遠くから聞こえ、夕方の光が花弁の縁を金色に染めている。
その景色は、幼い日の記憶とよく似ていた。
ルシアンは石造りのベンチの前で足を止める。
ここではない。
けれど、似ている。
昔、泣いていた自分の前に少年だったアルベールが現れ、白いハンカチを差し出してくれた庭園。
あの記憶が、最近になって何度も蘇る。
誰かに手を差し伸べられることは怖い。
その後で叱られるかもしれないから。
責められるかもしれないから。
弱さを見られたと恥じるかもしれないから。
けれど、差し出された手を最初から拒めば、自分はいつまでも一人のままだ。
「また一人で隠れているのか」
背後から声がした。
驚くほど自然に、そして予想していたように。
ルシアンは振り返る。
アルベールが立っていた。
夕方の庭園の中で、濃紺の上着が影のように見える。だがその蒼い瞳だけは、沈みかけた光の中でもはっきりとこちらを捉えていた。
「……隠れていたわけではありません」
「では?」
「少し、考えていました」
「それを一人で抱え込むなと何度言えばいい」
いつものように容赦がない。
だが、今のルシアンにはその言葉が不思議と嫌ではなかった。
「殿下こそ、なぜここに」
「お前が来ると思った」
「……また見張っていたのですか」
「見ていた」
隠す気のない答えだった。
ルシアンは小さく息を吐く。
「せめて否定する努力をなさってください」
「無駄なことはしない」
あまりに堂々と言われて、少しだけ肩の力が抜けた。
アルベールは近づき、ルシアンの横に立った。今日は逃げ道を塞がない。隣に並ぶだけだ。けれどその距離は近く、互いの衣擦れが聞こえそうだった。
しばらく、二人は何も言わず庭園を見ていた。
風が薔薇の葉を揺らす。遠くで式典準備の鐘が鳴る。どこかから生徒たちの声が聞こえるが、この一角だけは少し世界から外れているように静かだった。
「今日、何かあったな」
アルベールが言った。
問いではなく、確認だった。
ルシアンは否定しなかった。
「……何人かに、言葉をもらいました」
「悪い言葉か」
「いいえ」
だからこそ困っている。
そう言わなくても、アルベールには伝わったらしい。
「受け取り方が分からないか」
「……はい」
素直に答えてから、自分でも驚いた。
以前なら、きっとこんな簡単に認められなかった。
「期待されると、怖いのです。信じると言われると、余計に怖くなる。もし裏切ったらどうするのか、もし期待に応えられなかったらどうするのか、そんなことばかり考える」
言葉は一度出始めると、思ったより止まらなかった。
「私は、ずっと自分が嫌われているものだと思っていました。そう思う方が楽だったのです。嫌われているなら、失望されることもない。最初から何も持っていなければ、失うものもない」
そこで一度、喉が詰まる。
アルベールは何も言わなかった。
ただ、待っていた。
それがありがたかった。
「でも最近、そうではない言葉を向けられることが増えて……どうすればいいのか、分からないのです」
全部を言ったわけではない。
それでも、かなり深いところまで口にした。
アルベールはしばらく黙っていた。
やがて、低く静かな声で言う。
「お前は昔から、泣いても怒っても、誰にも正しく見られていなかった」
ルシアンの胸が、微かに震えた。
「泣けば甘えだと言われ、怒れば傲慢だと言われ、黙れば冷たいと言われた。どれを選んでも、誰かが都合よく意味をつけた」
それはあまりにも正確だった。
自分が言葉にできなかったものを、アルベールが代わりに形にしているようだった。
「私はそれが、ずっと歯痒かった」
「……殿下が?」
「そうだ」
アルベールは庭園の奥を見つめたまま続ける。
「お前は周囲が思うほど悪意で動く人間ではなかった。ただ、誰よりも先に傷つくことを怖がっていた。だから棘を出した。相手を遠ざけた。そうすれば、少なくとも自分から縋って拒まれることはないからな」
ルシアンは言葉を失った。
そんなふうに見られていたとは思わなかった。
いや、見られたくなかったのかもしれない。
それはあまりにも弱い自分だったから。
「……昔から、そんなふうに?」
「ああ」
アルベールはようやくこちらを見る。
夕方の光を受けた蒼い瞳が、やけに静かだった。
「私は昔から、お前だけは見失わなかった」
胸の奥で、何かが音を立てた気がした。
見失わなかった。
その言葉は、あまりにも重く、まっすぐで、逃げ場がなかった。
ルシアンは視線を逸らせなかった。
「皆が、お前を高慢だと見ても。厄介だと見ても。悪役のように扱っても。私は、お前がその奥で何を隠しているのかを見ていたつもりだ」
「……買いかぶりです」
かろうじて出たのは、やはり否定だった。
けれど声は弱い。
アルベールは静かに首を横へ振る。
「違う。お前が自分を低く見すぎているだけだ」
いつもの言葉。
けれど今日は、それが今まで以上に胸へ深く落ちた。
「なら、私はどうすればいいのですか」
問いは、ほとんど縋るようだった。
「信じていいのか、疑うべきなのか、受け取っていいのか、拒むべきなのか……分からない」
アルベールは一歩だけ近づいた。
今度は逃げなかった。
王子の手が伸びる。
ルシアンは反射的に身構えかけたが、止まった。
その指先は、頬に触れる寸前で止まった。触れるか触れないかの距離。アルベールはそのまま、静かに言った。
「全部をすぐに信じる必要はない」
低く、穏やかな声。
「だが、差し出されたものを受け取る前から捨てるな。お前を信じる者の言葉を、お前自身が一番先に否定するな」
ルシアンの喉が詰まる。
「私には、難しいです」
「知っている」
「できないかもしれません」
「それでもいい」
アルベールは、今度こそ指先でルシアンの頬に触れた。
ほんの一瞬。
涙を拭うような仕草ではなかった。
慰めというには静かすぎる。
けれど、そこに確かな温度があった。
「できるまで、私が見ている」
その言葉に、ルシアンは何も返せなかった。
怖い。
そう思った。
この人の言葉は怖い。
なぜなら、拒みきれないからだ。
重くて、強くて、時に勝手で、それでもどうしようもなく自分の弱い場所へ届いてしまう。
ルシアンは目を伏せた。
けれど今度は、完全には逃げなかった。
頬に残る温度を振り払わず、ただ小さく息を吐く。
「……殿下は、本当に無茶ばかり仰る」
「お前が頑固だからだ」
「殿下ほどではありません」
「そうか」
少しだけ、アルベールの目元が和らいだ気がした。
夕暮れの庭園で、二人はしばらく黙って並んでいた。
公開式典は近づいている。
陰謀も、悪意も、きっと止まってはいない。
これから先、もっと大きなものが待っているかもしれない。
それでも今だけは。
差し出された手を、すぐに拒まなくてもいいのかもしれない。
そう思えた。
ほんの少しだけ。




