第17話 黒幕の輪郭
公開式典まで、残された日数は少なかった。
学園の講堂では毎日のように礼法演習が行われ、壇上では弁論の立ち位置や発声の確認が繰り返されている。回廊には飾り布が運び込まれ、控え室には各部門の進行表が貼られ、生徒たちはそれぞれの役目に追われていた。
その慌ただしさの中で、ルシアンは奇妙な静けさを感じていた。
表面上、学園は穏やかに見える。
セシリアの体調も回復し、彼女は友人たちに支えられながら式典準備へ戻っている。以前より少し強くなったようにも見えた。誰かに守られるだけではなく、自分の言葉で立とうとしている。その姿を見るたび、ルシアンは安堵と同時に、言葉にならない罪悪感のようなものを覚える。
ジュリアンは相変わらずだった。
明るく、穏やかで、人当たりがよく、誰にも隙を見せない。式典準備でもそつなく動き、教師からの評価も高い。彼が笑えば周囲は安心し、彼が一言添えれば場の空気が整う。
だからこそ、怖い。
彼は決して先頭に立って誰かを糾弾しない。
ただ、誰かがそうしたくなる空気を自然に作る。
ルシアンはそのことを、もう何度も見てきた。
その日、ルシアンは弁論練習を終えた後、レオンハルトに呼び止められた。
呼び止められること自体には慣れてきた。慣れたくはなかったが、今さら驚きはしない。問題は、レオンハルトの表情がいつもより硬かったことだ。
「ルシアン様。殿下がお待ちです」
「……何か分かったのですね」
思わずそう尋ねると、レオンハルトは一瞬だけ口を閉ざした。
それだけで十分だった。
ルシアンの胸の奥が、静かに冷える。
「こちらへ」
レオンハルトはそれ以上説明せず、踵を返した。
連れて行かれたのは、学園内の応接室ではなかった。学園長室に近い、普段は王族関係者か上級教師しか使わない資料室だった。厚い扉を抜けると、中には古い文書棚と大きな机があり、窓には重いカーテンが引かれている。
その机の前に、アルベールが立っていた。
彼の前には、何枚もの書類が広げられている。
配膳記録、出入りの名簿、使用人の身元確認書、手紙の写しらしきもの、そしていくつかの封蝋の欠片。
ルシアンは息を呑んだ。
「殿下」
「来たか」
アルベールは顔を上げた。
表情はいつも通り冷静だった。だが、その目の奥だけがひどく冷えている。怒りを表に出さないために、あえて凍らせているような目だった。
ルシアンは直感した。
良くないものが出たのだ。
「座れ」
「……立ったままで」
「座れ。聞くには長い」
その声に逆らえず、ルシアンは椅子へ腰を下ろした。
レオンハルトは扉のそばに立ったまま、無言で控えている。
アルベールは机上の一枚を手に取った。
「晩餐会の毒の件だが、セシリア・フォルナンの杯に成分を混ぜた者は、まだ直接は特定できていない」
まだ、という言い方に含みがあった。
「ただし、給仕の一人が買収されていた形跡がある。その給仕は既に姿を消しているが、家族へ金が渡っていた」
ルシアンの指先が冷たくなる。
「誰からですか」
「直接の名は残っていない。だが、金の流れを辿るとヴァレリオ公爵家と取引のある商会に繋がる」
ジュリアン。
その名が口に出されていないのに、部屋の中に重く落ちた気がした。
ルシアンは息を整える。
「それは、ジュリアン様が関わっているという証拠には」
「ならない」
アルベールは即座に言った。
「商会を経由している。公爵家の名も表には出ない。意図的に距離を置いている」
「……では」
「だが、それだけではない」
アルベールは次の書類を机に置いた。
「セシリアのブローチが見つかった日の朝、教室へ出入りしていた侍女見習いの一人が、数日前から急に金回りが良くなっていた。その者は、ヴァレリオ家の別邸に出入りする下男と接触している」
ルシアンは喉が乾くのを感じた。
あの日、ブローチは自分の席のそばから見つかった。
偶然ではないと思っていた。けれど実際に人の動きが見えてくると、胃の奥が冷たく沈む。
「その侍女見習いは?」
「姿を消す前に確保した。今は別室で事情を聞いている」
レオンハルトが短く補足した。
「直接命じた者の名は知らないようです。ただ、“ルシアン様の机の近くに置け”とだけ指示されたと」
ルシアンは膝の上で手を握った。
やはり。
やはり、仕組まれていた。
自分の席の近くに、セシリアの形見を置く。たったそれだけで、“ルシアンがやったのではないか”という空気は作れる。
強い証拠など必要ない。
皆がそう思いたくなる状況を作ればいい。
「庭園の件は?」
声が思ったより低くなった。
セシリアが泣いていたあの日。
自分が通りかかったのは偶然のはずだった。けれど、ジュリアンたちが現れたタイミングはあまりに悪すぎた。
アルベールは静かに言う。
「セシリアをあの場所へ向かわせたのは、彼女の友人の一人だ。悪意はなかった。ただ、“少し休んだ方がいい”と勧めたらしい」
「その友人に、誰かが?」
「ヴァレリオが、昼食の席でさりげなくセシリアの疲れを話題にしていた。彼女が人目を避けるなら中庭の薔薇の陰がいい、とも」
ルシアンは目を閉じた。
やり方が、あまりに巧妙だった。
命令ではない。
強制でもない。
ただ、そうなるように空気を整える。誰かが善意で動くように、誰かが偶然その場所へ行くように、誰かがその場面を目撃するように。
ジュリアンは直接手を汚さない。
だからこそ、たちが悪い。
「私があそこを通ることは?」
「お前が昼休みに人の少ない回廊を使うようになっていたのは、周囲にも知られていた」
アルベールの声が少しだけ低くなる。
「お前の動線も見られていたということだ」
ルシアンの背筋に寒気が走った。
自分が人目を避けようとしていたこと。
噂を避け、セシリアとの接触を避け、静かな場所を選んでいたこと。
それすら利用された。
逃げ道として選んだ道が、罠の一部に組み込まれていたのだ。
「……私が、動けば動くほど」
声が掠れた。
「相手に使われる」
「そういう相手だ」
アルベールは否定しなかった。
慰めもしなかった。
ただ、事実としてそこに置いた。
ルシアンはその冷たさに、むしろ救われた。中途半端に慰められたら、自分はもっと惨めになっていたかもしれない。
アルベールはさらに別の資料を示した。
「だが、背後はヴァレリオだけではない」
その言葉に、ルシアンは顔を上げる。
「どういうことですか」
「毒の件で動いた商会の先に、カルヴァン家の名がある」
エミール・ド・カルヴァン。
昼餐会でルシアンを遠回しに攻撃した王族傍流の青年。
晩餐会でも、ルシアンに話を聞くべきではと口にした人物。
彼の顔が、はっきりと脳裏に浮かんだ。
「カルヴァン家は王族の傍流だ。王位継承には遠いが、王家内部の結婚や後見には深く関わっている。私の婚約、将来の伴侶、後継問題にも口を挟みたい者たちがいる」
アルベールの言葉は淡々としていた。
だが、その内容は重い。
「私が誰を選ぶか、誰を庇うか。それは彼らにとっても意味を持つ」
「……私を使って、殿下を揺さぶるためですか」
ルシアンが問うと、アルベールは短く頷いた。
「そう見ている」
胸の中に、冷たい塊が落ちた。
自分を断罪へ追い込むだけではない。
その先に、アルベールの評判を傷つける狙いがある。
第一王子が悪役令息を不当に庇った。
第一王子は私情で判断を誤った。
第一王子の寵愛を受けた相手は、セシリアを傷つけた加害者だった。
そういう構図が完成すれば、アルベール本人にも傷がつく。
つまり、ルシアンは単なる標的ではない。
アルベールを攻撃するための刃として利用されようとしている。
そう理解した瞬間、ルシアンの中で別の怒りが生まれた。
自分が悪役にされる恐怖よりも、アルベールを巻き込むために自分が使われていることへの怒り。
その感情に、自分で少し驚いた。
「私は……」
言いかけて、言葉が止まる。
自分は何を言おうとしたのだろう。
迷惑をかけたくない?
自分から離れた方がいい?
やはり式典に出ない方がいい?
そんな言葉が喉元まで出かけて、しかし途中で止まった。
言えば、アルベールが怒ると分かっていたからではない。
今はもう、自分でも分かっていたのだ。
それは解決ではない。
逃げれば、相手の思う通りになる。
ルシアンが黙っていると、アルベールが静かに言った。
「お前が今、“私から離れればいい”と考えたなら、捨てろ」
また見抜かれた。
ルシアンは苦く笑いそうになる。
「……最近、殿下に心を読まれている気がします」
「顔に出ている」
「出しているつもりはありません」
「出ている」
即答だった。
少しだけ張り詰めた空気が緩む。
けれど、その緩みは長く続かなかった。
アルベールは次の文書を手に取った。
「もう一つある」
その声は、先ほどよりさらに低かった。
ルシアンは無意識に背筋を伸ばす。
「エヴラール侯爵家と王家の過去の確執についてだ」
父の名が出た瞬間、ルシアンの胸が締めつけられた。
「……父上が?」
「現侯爵ではない。先代の頃だ」
アルベールは書類へ目を落とした。
「先代エヴラール侯爵は、かつて王位継承をめぐる派閥争いで、王弟派に近い立場を取っていた時期がある。表向きには中立を保ったが、裏では資金と人を流していた」
ルシアンは初めて聞く話だった。
エヴラール侯爵家は名門であり、王家に忠実な家系だと教えられてきた。父も、家格と体面を何より重んじる。だからこそ、過去にそのような揺らぎがあったなど、想像もしていなかった。
「その件は、私の父王の代で処理された。公にはなっていない。エヴラール家も大きな罰は受けていない」
「では、なぜ今」
「使いやすいからだ」
アルベールの声が冷えた。
「エヴラール家には王家への不満の芽があった。ルシアン・エヴラールはその血を引く。しかも悪評があり、感情的で、セシリア・フォルナンとも対立している。そういう物語を作れる」
ルシアンは息が詰まりそうになった。
生まれた家。
過去の評判。
周囲の誤解。
自分自身の過去の振る舞い。
それらが全部、誰かにとって都合のいい材料になっている。
自分の知らない過去まで掘り出され、悪役としての輪郭へ塗り込まれていく。
「……私は」
声が震えそうになった。
「生まれた時から、都合がよかったのですね」
言ってしまってから、その言葉の重さに自分で傷ついた。
けれど、そうとしか思えなかった。
エヴラール家の嫡男。
悪評を持つ令息。
王家に過去の影を持つ家。
第一王子が庇う相手。
セシリアの周囲で騒ぎが起きるたび疑われる人物。
これほど“悪役”にしやすい駒があるだろうか。
ルシアンは自分の手を見下ろした。
白い指先がわずかに冷えている。
その手を、誰かに勝手に動かされているような気分だった。
アルベールの声が低く響く。
「違う」
短い否定。
ルシアンは顔を上げる。
アルベールは、見たことがないほど静かに怒っていた。
「都合がよかったのは、お前ではない。お前をそう見ようとする者たちの卑しさだ」
「でも、材料はあります」
「材料を集めて人を悪役に仕立てる者が悪い」
「私にも、悪評がありました」
「それを利用して罪を作る理由にはならない」
強い言葉だった。
以前、公開前の小さな騒ぎでアルベールが言った言葉が蘇る。
嫌われていたから、罪を着せていい理由にはならない。
その言葉が、今また別の形で胸に刺さる。
ルシアンは唇を噛みそうになり、どうにか堪えた。
ここで泣くわけにはいかない。
泣きたいわけでもない。
ただ、自分の輪郭を他人に勝手に塗り替えられていた事実が、想像以上に苦しかった。
アルベールは机の上の書類を置き、静かに言った。
「式典当日、相手は動く」
部屋の空気が、再び鋭くなる。
「……断定できるのですか」
「これだけ材料を積んでいる。公開式典ほど都合のいい舞台はない」
ルシアンは喉を鳴らした。
やはり。
分かっていた。
それでも、こうして口にされると現実味が増す。
公開式典で、彼らは何かを仕掛ける。
ブローチも、庭園も、毒も、その前段階。
自分を“悪役”として見せるための下準備。
「何をするつもりでしょう」
「偽証、偽造文書、使用人の証言、毒の件のすり替え。可能性はいくつもある」
アルベールは冷静に並べる。
「お前が逃げれば、不在のまま断罪される。出れば、壇上で糾弾される。どちらにしても使えるように組んでいるだろう」
「……随分、徹底していますね」
「相手はお前だけを狙っているわけではないからな」
アルベールの目が、深く冷える。
「私を傷つけるためなら、お前を壊すこともためらわない連中だ」
その言葉に、ルシアンの胸がまた痛んだ。
自分を壊す。
怖いはずだった。
なのに今は、アルベールの怒りの方が先に見えた。
自分のために、本気で怒っている人がいる。
その事実が、苦しいほど温かかった。
「殿下」
「何だ」
「私は、逃げません」
声は静かだった。
だが、今度は震えていなかった。
アルベールの瞳が僅かに動く。
ルシアンは続けた。
「怖くないと言えば嘘になります。ですが、逃げれば相手の思う壺だと、もう分かりました」
胸の奥はまだ冷たい。
恐怖もある。
それでも、言葉は出た。
「私は、式典に出ます」
アルベールは少しだけ黙った。
それから、静かに頷く。
「それでいい」
たったそれだけ。
けれど今のルシアンには、その短い肯定が妙に深く響いた。
レオンハルトが一歩前へ出る。
「式典当日は、殿下の指示により会場内外の警備を増やします。ルシアン様の動線もこちらで確認いたします」
「分かりました」
以前なら、また目立つと反発しただろう。
今も気にならないわけではない。
だが、必要なことだと分かっている。
アルベールは最後に、机上の書類を一つにまとめた。
「ルシアン」
「はい」
「相手がお前を悪役にしたいなら、こちらはその舞台ごと奪う」
低く、冷たい声。
だが、その中には確かな熱があった。
「断罪の場にするつもりなら、真実を暴く場に変えるだけだ」
ルシアンは息を呑んだ。
断罪の舞台を、真実を暴く場に変える。
それは、逃げるのとは違う。
壊される前に、こちらから舞台の意味を塗り替えるということだ。
怖い。
けれど、初めて少しだけ、前を向ける気がした。
「……はい」
ルシアンは静かに答えた。
その日、資料室を出た時、廊下の空気はもう夕方の色を帯びていた。
窓の外では、公開式典のための飾り布が風に揺れている。講堂の方からは、生徒たちの練習の声が聞こえた。
式典は近い。
黒幕の輪郭も、完全ではないが見えてきた。
ジュリアン・ヴァレリオ。
カルヴァン家。
王族傍流。
過去の侯爵家の影。
そして、その全てが自分を“悪役”として使おうとしている。
ルシアンは歩きながら、静かに拳を握った。
まだ怖い。
それでも、もう自分の物語を他人に勝手に書かせるつもりはなかった。




