第18話 逃亡未遂
逃げない。
そう言ったのは、自分だ。
資料室で、アルベールの前で、レオンハルトの前で、確かにそう言った。
公開式典に出る。
壇上に立つ。
誰かが用意した“悪役令息”の筋書きに、黙って飲み込まれたりしない。
その時の言葉に嘘はなかった。
少なくとも、言った瞬間だけは本気だった。
けれど、人の心はそれほど強くできていない。
夜が深まるにつれ、ルシアンの決意は少しずつ別の形へ歪み始めていた。
侯爵邸の自室には、静かな灯りだけが残っている。窓の外では、王都の夜が黒く沈んでいた。昼間の喧騒は遠く、庭の木々が風に揺れる音だけが微かに聞こえる。
机の上には、公開式典の進行表と弁論原稿、そしてアルベールたちが調べ上げた断片的な情報を自分なりに整理した紙が並んでいた。
ジュリアン・ヴァレリオ。
カルヴァン家。
王族傍流。
エヴラール侯爵家の過去。
ブローチ。
庭園。
毒。
偽証。
公開式典。
それらを線で結んでいくほど、頭の奥が冷えていく。
自分は、ただの標的ではない。
アルベールを傷つけるための材料だ。
その認識が、どうしても離れなかった。
昼間、アルベールは言った。
――相手がお前を悪役にしたいなら、こちらはその舞台ごと奪う。
頼もしい言葉だった。
実際、彼ならやるのだろう。証拠を集め、警備を固め、嘘を暴き、誰かが仕組んだ断罪の場を反転させる。第一王子アルベール・リュミエールなら、それができるのかもしれない。
けれど。
もし、うまくいかなかったら?
もし、相手の方が一枚上手だったら?
もし、壇上で自分を庇ったせいで、アルベールの判断まで疑われたら?
第一王子が私情で悪役令息を守った。
第一王子は見誤った。
第一王子の弱点はルシアン・エヴラールだ。
そんな言葉が、想像の中で勝手に広がっていく。
自分が傷つくだけなら、まだいい。
いや、よくはない。怖い。断罪されるのは嫌だ。追放も、幽閉も、獄中死も、そんな未来は絶対に嫌だ。
それでも、アルベールまで巻き込むくらいなら。
そこまで考えた瞬間、ルシアンは椅子から立ち上がった。
胸が苦しかった。
じっとしていると、考えがどんどん悪い方へ沈んでいく。頭では分かっている。これはたぶん、恐怖に引きずられているだけだ。昼間の決意を夜の不安が食い荒らしているだけだ。
それでも、止められなかった。
「……私がいなければ」
声が、静かな部屋に落ちる。
自分が式典に出なければ。
いや、ただ欠席するだけでは不在のまま悪役にされると、アルベールは言っていた。ならば欠席では足りない。
もっと遠くへ。
式典まで見つからない場所へ。
侯爵家にも、学園にも、王宮にも、自分がいなければ、少なくとも“壇上で断罪されるルシアン”という光景は成立しない。相手は別の形で動くかもしれないが、アルベールが自分を庇って傷つく場面だけは避けられるかもしれない。
馬鹿げている。
自分でも分かっていた。
そんな行動を取れば、むしろ疑いは濃くなる。逃げたことで、後ろ暗いことがあると見なされる。侯爵家にも迷惑がかかる。アルベールは怒るだろう。きっと、烈火のごとく怒る。
それでも、今この瞬間のルシアンには、ここに留まって式典を待つ方がずっと怖かった。
机の引き出しを開ける。
そこには、最低限の金貨と、身分証の写し、普段使いの外套、旅用の簡素な手袋が入っている。侯爵家嫡男が一人で夜逃げなど笑い話にもならないが、王都の外れにあるエヴラール家の古い別邸までなら、護衛の少ない裏道を使えば行けない距離ではない。
数日、身を隠すだけでいい。
そう自分に言い聞かせる。
永遠に消えるわけではない。
ただ、式典が終わるまで。
ただ、あの場に立たないために。
ただ、アルベールを巻き込まないために。
自分がどれほど都合よく考えているかは分かっていた。
だが分かっていても、手は止まらなかった。
夜着の上から動きやすい衣服を重ねる。目立たない濃い灰色の外套を羽織る。靴音が響かないよう、柔らかい革靴を選ぶ。部屋の灯りを落とし、机の上には何も書き置きを残さなかった。
書けば、言い訳になる。
言い訳を書けば、自分の弱さを形にしてしまう。
ルシアンは窓辺へ寄った。
自室は二階にあるが、侯爵家の屋敷には古い雨樋と庭師用の足場があり、幼い頃に一度だけそこから抜け出しかけたことがある。結局すぐ見つかって叱られたが、経路そのものは覚えていた。
窓を開けると、夜気が流れ込んだ。
冷たい。
その冷たさが、少しだけ頭を冷やしてくれるような気がした。
だが、止まるには遅すぎた。
ルシアンは窓枠へ手をかけ、外へ出る。
足場は思ったよりも細かった。指先が石壁に触れ、冷たさが手袋越しに伝わる。下には暗い庭が広がっている。もし落ちれば怪我では済まないかもしれない。侯爵家嫡男の逃亡未遂が、屋敷の窓から落ちて終わるなど、悪役令息としてもあまりにみっともない。
そんなことを考えたせいか、ほんの少し笑いそうになった。
笑える状況ではないのに。
慎重に足場を伝い、庭へ降りる。最後は低い植え込みの陰へ飛び降りる形になったが、どうにか音は最小限に抑えられた。
息を殺して周囲を見る。
屋敷の見回りは遠い。月明かりは薄く、雲が多い。庭の端にある古い通用門まで行けば、外へ出られる。
ルシアンは外套の前を握りしめ、足早に庭を横切った。
心臓が痛いほど鳴っている。
罪悪感もあった。
恐怖もあった。
だがその奥に、ほんの僅かな安堵もあった。
これでいい。
これで、自分がいなければ。
そう思いかけた時だった。
「どこへ行く」
低い声が、夜の庭に落ちた。
ルシアンはその場で凍りついた。
聞き間違えるはずがなかった。
この声を。
この、静かで、冷たくて、逃げ道を一瞬で塞ぐ声を。
ゆっくり振り返る。
庭の樹影の中に、アルベール・リュミエールが立っていた。
濃紺ではなく、夜に紛れる黒に近い外套を羽織っている。王宮で見る時の正装ではない。だが立ち姿だけで、そこがどこであろうと彼が王族であることを思い知らせるような存在感があった。
少し離れた背後には、レオンハルトらしき影も見える。
つまり、最初から待っていたのだ。
ルシアンの喉が、からからに乾く。
「……殿下」
「質問に答えろ」
アルベールの声は静かだった。
静かすぎた。
怒っている。
間違いなく、今までで一番怒っている。
ルシアンは言葉を探したが、何も出てこなかった。言い訳をすればするほど惨めになる。だが黙っていても、この沈黙そのものが答えになってしまう。
「どこへ行くつもりだった」
もう一度問われる。
ルシアンは視線を落とした。
「……少し、屋敷の外へ」
「夜中に、護衛もつけず、窓から抜け出してか」
淡々と事実を並べられると、いっそう愚かしさが際立つ。
ルシアンは唇を噛みそうになり、どうにか堪えた。
「私は」
「式典から逃げるつもりだったな」
言われて、何も返せなくなった。
アルベールは一歩近づいた。
夜の芝生の上で、靴音はほとんどしない。それなのに、その一歩がひどく重く感じられる。
「昼間、逃げないと言った」
「……はい」
「その日の夜にこれか」
返す言葉もない。
責められて当然だ。
怒られて当然だ。
軽蔑されても仕方ない。
ルシアンは握りしめていた外套の端を、指が白くなるほど強く掴んだ。
「申し訳……ありません」
「謝罪を聞きたいわけではない」
鋭い声だった。
ルシアンは肩を震わせる。
アルベールはさらに近づき、ルシアンの前で立ち止まった。
「理由を言え」
「……」
「私に嘘をつくな」
その言葉に、胸の奥が痛んだ。
嘘。
たぶん今、適当な嘘をついてもすぐに見抜かれる。夜風に当たりたかっただとか、眠れなかっただとか、そんな言い訳はこの王子には通じない。
だったら、本当のことを言うしかない。
だが、本当のことほど言いたくなかった。
ルシアンは唇を開き、閉じる。
何度かそれを繰り返し、ようやく声を絞り出した。
「……私がいなければ」
声が掠れた。
「式典で、殿下が私を庇う必要はなくなります」
アルベールの目が細くなる。
ルシアンはもう止まれなかった。
「相手は私を悪役にして、殿下の判断を傷つけるつもりなのでしょう。なら、私がいなくなれば……少なくとも、壇上で殿下が私を庇って疑われることは避けられるかもしれない」
言っているそばから、自分でも破綻していると分かる。
だが、その時のルシアンには本当にそう思えていたのだ。
自分がいなければ。
自分さえいなければ。
アルベールが傷つく場面を少しでも減らせるのではないか、と。
「私は……殿下に迷惑をかけたくありません」
最後の言葉は、ほとんど吐息のようだった。
言った瞬間、庭が静まり返った。
風の音も遠くなる。
アルベールはしばらく何も言わなかった。
その沈黙が怖かった。
怒鳴られる方が、まだ楽だったかもしれない。冷たく突き放される方が、まだ納得できたかもしれない。
だが次の瞬間、アルベールの手が伸びた。
腕を掴まれる。
強く。
だが痛めつけるほどではない。
逃がさないための力だった。
「迷惑ではない」
低い声が、夜気を震わせる。
ルシアンは顔を上げた。
アルベールの瞳が、すぐ近くにあった。
そこには怒りがあった。
確かに怒っている。
けれどその奥にあるのは、失望ではなかった。
「望みだ」
その一言に、ルシアンの思考が止まった。
「……え」
「お前を守ることは、私の望みだと言っている」
掴まれた腕が熱い。
夜風は冷たいのに、その部分だけがひどく熱い。
ルシアンは呆然とアルベールを見つめるしかできなかった。
「お前は何度言えば分かる」
アルベールの声は低く、抑えられていた。
「お前が勝手に私の人生から消えることは許さない」
胸の奥に、何かが突き刺さった。
私の人生。
その言葉が、あまりにも重かった。
ルシアンは今まで、自分がアルベールの人生に関わること自体が迷惑だと思っていた。王子の未来を濁す染みのように考えていた。自分が離れれば、彼の道は綺麗なままでいられるのではないかと。
だがアルベールは、それを真っ向から否定した。
消えるな、と。
私の人生から、と。
「でも……私は」
「でも、ではない」
遮られる。
「お前がいなくなれば、相手は好きに語る。お前は反論できず、私はお前がどこで傷ついているかも分からない。そんな状態が、私にとって迷惑でないと本気で思ったのか」
言葉が出なかった。
考えていなかった。
自分が消えた後、アルベールがどう感じるかなど。
いや、考えたつもりでいた。迷惑が減るだろうと。負担が減るだろうと。だがそれは、アルベール本人の感情を勝手に決めつけていただけだった。
「……私は」
声が震える。
「どうすればよかったのか、分からなかったのです」
その瞬間、抑えていたものが少し崩れた。
情けない。
あまりにも情けない。
逃げないと言ったばかりなのに、夜になれば怖くなって、窓から逃げ出そうとして、捕まって、今さら震えた声で言い訳をしている。
「怖かった」
言葉が、勝手にこぼれた。
「式典が怖い。壇上が怖い。皆の視線が怖い。私のせいで殿下まで傷つくのが怖い。何が正しいのか、もう分からなくて」
ルシアンは俯いた。
もう顔を上げていられなかった。
「逃げないと決めたのに……それでも、怖かったんです」
最後の言葉は、ほとんど泣き声に近かった。
涙は出ていない。
けれど、声だけがどうしようもなく崩れた。
アルベールはしばらく何も言わなかった。
やがて、掴んでいた腕の力が少しだけ変わる。
引き寄せられた。
気づいた時には、ルシアンはアルベールの腕の中にいた。
抱きしめられている。
そう理解するまで、数秒かかった。
背中に回された腕は強く、逃げられない。けれど乱暴ではない。夜の冷気から隔てるように、確かめるように、存在を繋ぎ止めるように抱かれている。
ルシアンは完全に固まった。
「で、殿下」
「黙っていろ」
低い声が耳元に落ちる。
その声音はまだ怒っていた。けれど先ほどとは違う。怒りの中に、別の感情が濃く混じっている。
恐れ。
そう思った瞬間、ルシアンは息を呑んだ。
アルベールが怖がっていた?
自分が消えようとしたことに?
そんなことがあるのか。
「二度と、黙って消えようとするな」
アルベールの声が、低く震えたように聞こえた。
「お前が怖いなら、怖いと言え。逃げたいなら、逃げたいと言え。だが、一人で結論を出して消えるな」
ルシアンの胸が、ひどく痛んだ。
「……言えば、困らせます」
「困らせろ」
「殿下」
「その程度で私が退くと思うな」
無茶苦茶だ。
けれど、その無茶苦茶さが、今はどうしようもなく温かかった。
ルシアンは最初こそ身を強張らせていたが、やがて少しずつ力が抜けていった。外套越しに伝わるアルベールの体温が、夜の冷えを遠ざける。背中に回された腕が、逃げるなと言っている。
逃げるな。
その言葉を、何度聞いただろう。
けれど今夜のそれは、命令ではなく願いのように聞こえた。
「……ごめんなさい」
また謝罪がこぼれた。
アルベールは少しだけ腕の力を強めた。
「謝るより、次から来い」
「……はい」
「本当に分かったか」
「たぶん」
「たぶんでは駄目だ」
いつもの調子が少しだけ戻ってきた。
ルシアンはそのことに、ほんの少し救われる。
「分かりました」
今度はそう答えた。
アルベールはすぐには離さなかった。
それが少し困った。
困ったが、今夜だけは無理に離れようとは思わなかった。
夜の庭で、王子に抱きしめられているなど、誰かに見られればまた噂どころでは済まない。レオンハルトは見ているだろうが、彼はきっと見なかったことにしてくれる。いや、たぶん全部報告書には書かないが記憶はしているだろう。そういう男だ。
そんな場違いなことまで考えられる程度には、少しずつ落ち着いてきた。
やがてアルベールが腕をほどく。
ただし、完全には離れなかった。手首ではなく、今度は手を取られる。指先まで逃がさないように、しっかりと。
「戻るぞ」
「……はい」
「窓からではなく、正面からだ」
「それは……屋敷の者に見られるのでは」
「見られた方がいい」
「よくありません」
「では、私が侯爵へ説明する」
「もっとよくありません」
思わず本気で返すと、アルベールの口元がごくわずかに緩んだ。
こんな時に笑うのはずるい。
ルシアンはそう思ったが、口にはしなかった。
通用門へ向かうのではなく、屋敷の裏口へ戻る。途中、レオンハルトがさりげなく先回りし、見回りの使用人たちを別方向へ誘導しているのが見えた。本当に手際が良すぎる。
ルシアンは少しだけ恥ずかしくなった。
自分の逃亡未遂が、こうして完全に王子側に掌握されている。情けないにもほどがある。
屋敷へ戻る直前、アルベールが足を止めた。
「ルシアン」
「はい」
「明日、私のところへ来い」
また命令だ。
だが今夜は、いつもほど反発する気にはなれなかった。
「……式典の話ですか」
「それもある」
「他には」
「お前が逃げないように確認する」
率直すぎる。
ルシアンは視線を落としながら、小さく息を吐いた。
「信用がありませんね」
「今夜の直後にあると思うか」
「……ありません」
そう答えるしかない。
アルベールはルシアンの手を、ほんの僅かに強く握った。
「信用はしている」
低い声だった。
「だが、お前の恐怖はまだ信用していない」
それは、不思議な言い方だった。
自分という人間は信じる。
けれど恐怖に飲まれた自分の判断は信じない。
そういう意味だろう。
ルシアンは少しだけ胸が詰まった。
「……分かりました。明日、伺います」
「よろしい」
まるで決裁を下すような返答だった。
けれどその手は、最後まで乱暴ではなかった。
屋敷の裏口へ戻ると、レオンハルトが静かに扉を開けた。どこで手配したのか、内側には侯爵家の老執事だけが控えている。彼は何かを察したように深く頭を下げたが、余計なことは一切言わなかった。
アルベールはそこでようやくルシアンの手を離した。
夜気の中で温まっていた指先が、急に寂しくなる。
その感覚に気づいて、ルシアンは自分が嫌になった。
「部屋へ戻れ」
アルベールが言う。
「今夜はもう考えるな」
「それができれば苦労しません」
「なら命令だ。考えるな」
「無茶です」
「知っている」
また、それだ。
無茶だと知っていて言う。
けれどその無茶が、不思議と今夜は支えになった。
ルシアンは小さく頭を下げる。
「……おやすみなさいませ、殿下」
アルベールは一瞬だけ目を細めた。
「ああ。逃げるなよ」
「……逃げません」
今度の言葉は、昼間よりも少しだけ弱かった。
けれど、その分だけ本物に近かった。
恐怖が消えたわけではない。
式典はまだ怖い。
壇上も、大勢の視線も、黒幕の仕掛けも、何もかも怖い。
それでも今夜、少なくとも一つだけ分かった。
一人で逃げても、何も守れない。
自分も、アルベールも。
ルシアンは老執事に促され、屋敷の中へ戻る。
振り返ると、アルベールはまだ夜の庭に立っていた。
蒼い瞳が、最後までこちらを見ている。
その視線に、以前ほど怯えなかった。
逃げ道を塞がれていると感じる一方で、そこに立っていてくれることが、ほんの少しだけ心強かった。




