第19話 公開式典、断罪の幕開け
公開式典の朝は、嫌になるほど晴れていた。
窓の外には薄い雲ひとつなく、王都の空は淡い青に澄みきっている。庭の木々は朝露をまとい、早くから動き回る使用人たちの姿が、陽光の中でやけにはっきり見えた。
こんな日くらい、雨でも降ればいいのに。
ルシアンは窓辺に立ったまま、そんな子どもじみたことを考えていた。
眠れた、とは言いがたい。
昨夜、アルベールに連れ戻されてから、言われた通りに寝台へ入った。考えるな、という命令までされた。だが、人の頭は命じられた通りに止まるほど素直ではない。
式典。
壇上。
大勢の視線。
偽証。
そして、断罪。
言葉にすればするほど、胸の奥で何かが固くなっていった。
それでも、逃げなかった。
窓は閉じたままだったし、外套も机の上に置いたままだ。荷物もまとめていない。夜中に廊下へ出ることもなかった。
それだけのことなのに、自分にとってはひどく大きなことだった。
「ルシアン様。お支度を」
背後でマルグリットの声がした。
ルシアンは窓から視線を外し、静かに頷いた。
「頼む」
今日の衣装は、普段の制服とは違う。式典用の礼服だ。白を基調に、エヴラール侯爵家の色である銀青の刺繍が袖口と襟元に施されている。あまりに整いすぎたその装いは、鏡の中のルシアンをいつも以上に“侯爵家の嫡男”に見せた。
けれど、鏡の中の自分は、どこか青ざめている。
マルグリットが袖を整えながら、迷うように口を開いた。
「……ルシアン様」
「何だ」
「本日は、その……どうか、お気をつけて」
言葉を選んだのだろう。簡単で、控えめで、それでも精いっぱいの心配が滲んでいた。
ルシアンは鏡越しに彼女を見る。
以前なら、使用人が主人の式典を心配するなど余計なことだと切り捨てていたかもしれない。あるいは、心配されること自体に苛立ったかもしれない。
けれど今は、その言葉が少し胸にしみた。
「ありがとう」
そう返すと、マルグリットは目を伏せた。
「ご武運を、と申し上げるのも変かもしれませんが」
「いや」
ルシアンは小さく息を吐く。
「今日に限っては、間違っていないかもしれない」
マルグリットはほんの少し驚いた後、泣きそうな顔で微笑んだ。
朝食の席には、父エドモン侯爵がいた。
いつも通り、背筋を伸ばし、感情をほとんど見せない顔で紅茶を口にしている。卓上には簡素ながら上品な朝食が並んでいたが、ルシアンは正直、何を食べても味がしないだろうと思った。
席に着くと、侯爵が静かに言った。
「今日は、王族も多く列席する」
「はい」
「家の名を損なうな」
いつもの言葉だった。
けれど今日は、その言葉が妙に遠く聞こえた。
家の名。
体面。
侯爵家嫡男としての立場。
その全てが重い。だが今日、自分が恐れているのはそれだけではなかった。
父はしばらく黙っていたが、ふと視線を上げた。
「……顔色が悪い」
意外な言葉だった。
ルシアンは思わず瞬きをする。
「大丈夫です」
「大丈夫な顔ではない」
どこかで聞いたような言い方に、思わず苦笑しかけた。
アルベールと同じことを言う。
そう思ったが、口にはしなかった。
侯爵は茶器を置き、少しだけ低い声で続けた。
「今日、何があろうと、まず姿勢を崩すな。貴族は、倒れる時も見られている」
「……はい」
「だが」
そこで、ほんのわずかに間があった。
「本当に倒れそうなら、無理をするな」
ルシアンは顔を上げた。
侯爵はもう視線を外している。
それはおそらく、父なりの心配だったのだろう。あまりに不器用で、あまりに遅く、息子の心を救うには足りないかもしれない。それでも、以前なら出なかった言葉だ。
「……承知しました」
ルシアンは静かに答えた。
王立学園は、いつもとは別の場所のようだった。
正門には王家の旗が掲げられ、来賓用の馬車が次々と到着している。騎士たちは要所に立ち、学園の使用人たちは忙しなく動き、講堂へ続く道には白と青の飾り布が張られていた。
生徒たちもまた、普段とは違う礼装に身を包んでいる。
誰もが少し緊張し、少し誇らしげで、そして少し浮き立っていた。
その中で、ルシアンだけが足元に見えない穴を抱えて歩いているような気分だった。
馬車を降りると、すぐにレオンハルトが近づいてきた。
「おはようございます、ルシアン様」
「……おはようございます」
彼の姿を見て、ルシアンはわずかに息をつく。護衛がいることに安心する自分が、少し悔しくもあった。
「殿下は?」
「すでに講堂裏の控え室に」
「そうですか」
会いたいような、会いたくないような。
いや、正確には、会ってしまえば何かに縋りたくなる気がして怖かった。
レオンハルトは少しだけ声を落とした。
「殿下より伝言です」
「何でしょう」
「逃げなかったことは評価する、とのことです」
ルシアンは一瞬だけ固まった。
それから、思わず目元を押さえたくなる。
「……それは伝言で言うことですか」
「殿下は真面目に仰っていました」
「でしょうね」
真面目に言っているから困るのだ。
胸の奥に絡まっていた緊張が、ほんの少しだけほどけた。
レオンハルトは続ける。
「もう一つ」
「まだあるのですか」
「はい。『怖いなら私を見ろ』と」
今度こそ、ルシアンは返事に困った。
周囲には生徒も使用人もいる。レオンハルトは抑えた声で伝えているが、それでも自分の顔に何か出ていないか気になってしまう。
「……分かりました」
それだけ答えるのが精いっぱいだった。
講堂の控え室は、式典前の熱気で満ちていた。
生徒たちが進行表を確認し、教師たちが最後の注意を与え、侍女や従者が衣装の乱れを直している。魔術理論発表の生徒は青ざめた顔で資料を握りしめ、剣術演武の生徒たちは静かに呼吸を整えていた。
ルシアンは自分の弁論原稿を確認する。
紙の文字は頭に入っている。何度も練習した。暗唱もできる。壇上で読み上げるだけなら問題ない。
問題は、その壇上が“弁論の場”で終わるかどうかだった。
「ルシアン様」
声をかけられ、振り向く。
セシリアが立っていた。
淡い白青の礼装に身を包み、髪には小さな花飾りがついている。顔色は以前よりずっとよくなっていたが、緊張しているのは分かった。
「フォルナン嬢」
「今日、私も見ています」
彼女は余計な前置きをしなかった。
「だから……その、何かあったら、私も言います。今度は、もっと早く」
ルシアンは少しだけ目を見開いた。
彼女の声は小さかったが、意志ははっきりしていた。
「無理はしないでください」
「それはルシアン様にも言いたいです」
珍しく言い返されて、ルシアンは一瞬言葉を失う。
セシリアはほんの少しだけ笑った。
「私は、守られるだけではいたくありません」
その言葉は、以前庭園で泣いていた彼女とは違っていた。
ルシアンは静かに頷く。
「……分かりました」
セシリアが去った後、別の人影が近づいてきた。
ジュリアン・ヴァレリオだった。
今日も完璧な笑顔を浮かべている。礼装も乱れ一つなく、誰より自然に式典の空気へ溶け込んでいた。
「ルシアン」
「ジュリアン」
「顔色が悪いね」
「皆に言われる」
「それは心配されている証拠だ」
ジュリアンは穏やかに笑う。
ルシアンはその笑みを見返した。
「そうかもしれない」
「……君、本当に変わったね」
「今日は、それを何度も言われる余裕はない」
少しだけ鋭く返すと、ジュリアンは肩をすくめた。
「ごめん。悪気はないんだ」
「そうだといい」
その一言に、ジュリアンの目がほんの一瞬だけ細くなる。
すぐに元の笑みに戻ったが、ルシアンは見逃さなかった。
「今日の弁論、楽しみにしているよ」
「ありがとう」
「何事もなく終わるといいね」
その言葉だけは、妙に耳に残った。
ジュリアンが去った後、ルシアンは自分の原稿をもう一度握り直す。
何事もなく。
本当に、そう思っているのか。
それとも――。
考えかけたところで、式典開始を告げる鐘が鳴った。
大講堂の扉が開かれる。
音が変わった。
控え室のざわめきとは違う、広く、高い空間に吸い込まれていくような音。来賓の衣擦れ、椅子を引く音、低く交わされる挨拶、王族の到着を待つ空気。
ルシアンは講堂へ入った瞬間、足元がわずかに遠くなるような感覚を覚えた。
客席は埋まっていた。
王族、貴族、教師、学園関係者、生徒の家族、後見人たち。
無数の視線。
かつてゲーム画面で見た断罪の場と、恐ろしいほど似ていた。
そして上座側には、アルベールがいた。
彼はすぐにルシアンを見つけた。
ほんの一瞬、視線が合う。
――怖いなら私を見ろ。
レオンハルトの伝言が蘇る。
ルシアンは小さく息を吸った。
怖い。
怖いが、見た。
アルベールの蒼い瞳は、静かにそこにあった。
式典は予定通り始まった。
学園長の挨拶。王族代表の言葉。来賓紹介。生徒代表による開会宣言。
何も起きない。
拍子抜けするほど、順調に進む。
だが、その順調さが逆に恐ろしかった。
嵐の前ほど空は晴れる。
そんな言葉を、前世で聞いた気がする。
ルシアンの出番は、式典中盤の貴族史弁論だった。
名前を呼ばれる。
「ルシアン・エヴラール」
講堂の空気がわずかに動いた。
ルシアンは立ち上がる。
歩く。
壇上へ向かう。
一歩ごとに、心臓の音が大きくなる。
だが足は止まらなかった。
演台の前に立つと、客席全体が見えた。
見たくなかったほど、よく見えた。
父エドモン侯爵は表情を変えず座っている。
セシリアは祈るように手を握っている。
ジュリアンは穏やかに微笑んでいる。
エミール・ド・カルヴァンは静かにこちらを見ている。
アルベールは、まっすぐこちらを見ていた。
ルシアンは原稿を開いた。
声を出す。
「本日は、王国貴族制における責務と信義について――」
最初の一文は震えなかった。
不思議なほど落ち着いていた。
話し始めてしまえば、練習の記憶が身体を動かす。貴族の権利は責務と不可分であること。家名は個人の盾であると同時に、民と王国へ果たすべき義務を示すものであること。過去の制度改革において、誇りと慢心がどのように分かれてきたか。
内容は皮肉なほど、今の自分に刺さるものだった。
だが、途中で止まることはなかった。
最後の一節を読み終え、ルシアンは礼をした。
拍手が起こる。
控えめだが、確かな拍手だった。
終わった。
そう思った、その瞬間だった。
「お待ちください」
声が上がった。
講堂の空気が凍った。
ルシアンは壇上で動きを止める。
声の主は、来賓席側にいた若い貴族だった。カルヴァン家の縁者の一人。名前は知らないが、顔はどこかで見たことがある。
彼は立ち上がり、形式的な礼を取った。
「このような晴れの場で申し上げるのは心苦しいのですが、今しがたの弁論が“信義”を語るものであった以上、見過ごすことはできません」
ざわめきが広がる。
来た。
ルシアンの背筋に冷たいものが走る。
アルベールが動きかける気配がした。だがまだ止めない。おそらく、相手に何を出させるか見ているのだ。
若い貴族は続けた。
「ルシアン・エヴラール殿には、先日のフォルナン伯爵令嬢に関する数々の件について、未だ明らかにされていない疑惑がございます」
会場がどよめく。
セシリアが顔色を変える。
父エドモン侯爵の表情が、かすかに硬くなった。
ルシアンは演台の端を掴みそうになり、寸前で手を下ろした。
姿勢を崩すな。
父の言葉が蘇る。
怖いなら私を見ろ。
アルベールの言葉も。
若い貴族は懐から一通の書状を取り出した。
「こちらに、エヴラール家の使用人より提出された証言があります。フォルナン嬢の持ち物をルシアン殿の机近くへ運んだこと、また晩餐会において特定の給仕へ指示があったこと――その背後に、ルシアン殿の名があったと」
嘘だ。
喉まで出かけた言葉を、ルシアンは飲み込んだ。
会場の視線が一気に突き刺さる。
若い貴族の後ろから、さらに別の男が立ち上がった。
王宮の下級事務官らしき人物だ。
「私も証言いたします。式典前、エヴラール家関係者より、フォルナン嬢を失脚させるための文書を預かったことがございます」
次々に出てくる。
証言。
書状。
使用人。
事務官。
悪意が、形を持って壇上へ上がってくる。
誰かが息を呑む音が聞こえた。
ルシアンは立っていた。
立っているだけで精いっぱいだった。
若い貴族が声を強める。
「これは、単なる噂ではありません。ブローチの件、庭園での涙、晩餐会の毒――すべてが偶然であるとは考えにくい」
その言葉が、講堂中に落ちる。
そして最後に、彼はルシアンをまっすぐ指した。
「ルシアン・エヴラール殿。あなたは、フォルナン伯爵令嬢を害し、第一王子殿下の庇護を利用して罪を逃れようとしたのではありませんか」
世界が、静かになった。
これだ。
ゲームで見た光景。
断罪イベント。
大勢の前で、自分の名が罪と結びつけられる瞬間。
ルシアンの指先は冷え切っていた。
けれど、崩れなかった。
視線を動かす。
客席の中に、アルベールがいる。
彼は立ち上がっていた。
蒼い瞳が、ルシアンを捉える。
その目が言っていた。
逃げるな。
ルシアンは息を吸った。
怖い。
怖いままだ。
それでも。
もう、一人で崩れ落ちるだけの悪役令息ではない。
その時、アルベールの声が講堂へ響いた。
「その証言を、すべてここへ出せ」
低く、冷たく、よく通る声だった。
講堂のざわめきが止まる。
第一王子は、壇上へ向かって歩き出した。
断罪の幕は、確かに上がった。
けれどそれは、誰かが望んだ通りの幕ではなかった。




