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『断罪予定の悪役令息ですが、冷酷第一王子にだけ求婚されています』  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第8話 王子の私室、二人だけの会話

 それから数日ほどは、表面だけ見れば穏やかに過ぎた。


 もちろん本当に穏やかだったわけではない。


 学園では相変わらず視線を集めたし、夜会での一件は、少し形を変えながら何度も噂として蒸し返された。第一王子がなぜルシアン・エヴラールにだけ目をかけるのか、あれは好意なのか、牽制なのか、それとも別の政治的意図があるのか――誰も答えを知らないまま、それぞれに都合のいい解釈を重ねている。


 だが少なくとも、表立って何かが起きることはなかった。


 ルシアンは授業へ出て、必要以上に目立たず、必要以上に誰かを刺さず、できるだけ穏当に過ごした。困っている相手がいれば、無理のない範囲で手を貸した。令嬢たちから向けられる探るような視線にも、男子生徒たちの意味ありげな軽口にも、なるべく感情を乗せず対応した。


 その結果、周囲の空気は奇妙に揺れ続けていた。


 以前のように、一方的に“嫌な奴”と決めつけるには違和感がある。だが急に善人扱いするには、これまでの記憶が邪魔をする。人々はルシアンをどう見ればいいのか分からず、その迷いのまま彼を眺めている。


 その曖昧さは、ある意味では助かった。


 一つの像へ固定されない限り、まだやり直す余地はあるからだ。


 ただし、その余地を最も揺るがしてくる存在がいた。


 アルベール・リュミエール。


 第一王子は、あの舞踏会の後も、まるで何事もなかったかのように、だが確実にルシアンを視界へ入れ続けていた。


 廊下ですれ違う時、短く名前を呼ぶ。


 授業後に立ち話をする教師の輪の向こうから、こちらを見ている。


 王族として学園へ立ち寄った際、周囲に誰がいようと自然に声をかけてくる。


 それは露骨な囲い込みほどではない。だが“お前を見ている”という静かな宣言のようで、ルシアンにとっては十分すぎる圧だった。


 逃げたい。


 そう思うたび、アルベールの「逃げるな」という声が思い出される。


 その結果、ルシアンはますますぎこちなくなった。以前のように無礼な態度を取ることはない。だが近づかれれば固くなり、言葉を探すたびに少し遅れ、余計に周囲へ“何かある”と思わせる。


 最悪だ、と何度も思った。


 けれど状況をひっくり返すほどの手札は、まだ持っていない。


 そんなある日のことだった。


 午後の授業を終えたルシアンは、できるだけ人の少ない回廊を選んで校舎の奥を歩いていた。次の講義まで少し間がある。図書室へ寄るか、それとも中庭の空気でも吸って頭を冷やすか――そんなことを考えていた矢先。


「ルシアン様」


 低く抑えた声がした。


 反射的に身構えて振り向くと、そこにいたのはレオンハルト・シュタインだった。


 長身の近衛騎士はいつものように姿勢を崩さず、無駄な感情を見せない顔で一礼する。だがルシアンにとって、その姿はもはや“平穏の終わり”を告げる合図に等しかった。


 またか。


 胸の内で、ほとんど悲鳴に近い声が上がる。


「……今度は、何でしょう」


 思わずそんな言い方になったが、レオンハルトは特に気を悪くした様子もない。


「殿下がお呼びです」


 やはり。


 分かっていた。分かっていたのに、実際に言われると胃がきりきり痛む。


「今すぐ、ですか」


「はい」


「……用件は」


「伺っておりません」


 前と同じ答えだった。


 ルシアンは思わず空を仰ぎたくなる。どうして王子の側近はこうも徹底して余計なことを言わないのか。いや、近衛騎士として正しいのは分かっている。分かっているが、呼ばれる側としては少しは心の準備をしたい。


 だが準備をしたところで、結局行くしかないのだ。


「……承知しました」


 ルシアンは鞄を持ち直し、レオンハルトの後について歩き出した。


 行き先は、以前も通された学園内の応接室ではなかった。


 もっと奥だ。


 教師たちの執務区域を抜け、王族が学園へ滞在する際に使う特別室のある棟へ向かっている。人通りは一気に減り、廊下の空気まで少し静かになる。赤い絨毯が敷かれたその一角は、一般の生徒が気軽に足を踏み入れていい場所ではない。


 つまり、今回は本当に“王子の私室”なのだろう。


 ルシアンの喉がじわじわと乾いていく。


 前回の応接室ですら十分に逃げ場がなかったのに、私室となればなおさらだ。しかもアルベールは、二人きりになると妙に距離が近い。言葉も、視線も、沈黙の置き方も、何もかもが近い。


 レオンハルトはやがて一つの扉の前で立ち止まった。


 警護の者が二人。王家の紋章。磨かれた真鍮の取っ手。格式と静けさが、この扉の向こうが完全に王族の領域であることを示している。


 ノックの後、内側から聞こえたのはいつもの短い声だった。


「入れ」


 レオンハルトが扉を開き、ルシアンへ道を譲る。


「どうぞ」


 その一言が、まるで断頭台への案内のように聞こえるのは考えすぎだろうか。


 ルシアンは小さく息を整え、部屋へ入った。


 室内は、前回の応接室よりもさらに私的だった。


 広さは十分にあるが、無駄に豪奢ではない。濃い木目の書棚、簡素だが質の高い長椅子と机、窓際には昼の光を受ける薄いカーテン。執務と休息の両方に使えるよう整えられた空間で、そのどこにも王族らしい過剰な装飾はない。だからこそ、住む者の厳格さがそのまま表れているようだった。


 アルベールは窓辺近くの机に片手をつき、何か書類を見ていたらしい。ルシアンが入ると顔を上げ、そのまま静かに視線を向けてくる。


 近い。


 まだ何もされていないのに、そう感じる。


「ルシアン・エヴラール、参りました」


 礼を取る。


 背後で扉が閉まり、室内は二人きりになった。


 数秒の沈黙。


 アルベールはしばらく何も言わず、ただルシアンを見ている。まるで入室した時点で既に会話の半分が始まっているかのような、あの視線だ。


 ルシアンはたまらず口を開く。


「……本日は、どのようなご用件でしょうか」


 アルベールはすぐには答えず、代わりにゆっくりと歩み寄ってきた。


 一歩。


 また一歩。


 無駄のない動きなのに、逃げ場を奪われる感覚だけが強くなる。


「お前は」


 ようやく落ちてきた声は、思ったより低かった。


「最近、私を見るたびに逃げようとするな」


 図星すぎて、ルシアンは息を詰めた。


 否定できない。


 実際その通りだからだ。顔を合わせるたび、どうやって自然に距離を取るかばかり考えている。視線を逸らすべきか、礼だけで済ませるべきか、少し話すべきか。そうやって迷うこと自体がすでに不自然で、余計に目立っているのだと、自分でも分かっている。


「……そのようなつもりは」


「ある」


 即断だった。


 ルシアンは一瞬、言葉を失う。


「お前は私を見ると肩が固くなる。目を逸らす。数歩分だけ距離を測る。そして、逃げ道があるかを先に探す」


 ひどい観察眼だ。


 いや、観察眼というより、見られすぎている。


 そこまで細かく自分の反応を拾われているという事実が、恥ずかしいやら怖いやらでどうしようもない。


「……殿下が、近づきすぎるのです」


 つい本音が零れた。


 しまった、と思ったがもう遅い。


 アルベールは少しだけ目を細める。


「近づきすぎる?」


「……はい」


 今さら引っ込めても不自然だ。ルシアンはもう少しだけ言葉を続けた。


「殿下は、人前でもそうでない時でも、私に対してあまり……その、遠慮がないと申しますか」


「遠慮が必要か?」


「必要です!」


 思わず強く返してしまい、ルシアンははっとした。


 だがアルベールは怒らなかった。むしろほんの少しだけ、面白がるような気配すらある。


「何故だ」


「何故、と仰られても……」


 何故も何も、ありすぎる。


「殿下は第一王子で、私は侯爵家の息子にすぎません。しかも評判だって良いとは言えない。そんな相手にあれほど近く接しておられれば、周囲がどう思うか分からないわけではないでしょう」


「分かっている」


 あっさり返され、ルシアンは逆に言葉に詰まる。


「分かっていて、ああしているのですか」


「そうだ」


 当然のように言われて、思考が止まる。


 ではやはり、全部分かった上でやっているのだ。


 舞踏会で手を取ったことも、学園で名前を呼ぶことも、近衛騎士を差し向けてまで私室へ呼ぶことも。全部、偶然でも気まぐれでもなく、アルベールの意思だ。


 その事実は、ルシアンを安堵させるどころか、余計に追い詰めた。


「……どうして」


 ようやくそれだけを絞り出す。


 何度も頭の中で繰り返してきた問いだ。けれど真正面からぶつけるのは、これが初めてに近い。


 アルベールは少しだけ沈黙した。


 その沈黙は、答えたくないからではなく、どこまで言うかを測っているようにも見えた。


「お前が、放っておくとすぐ一人で結論を出すからだ」


 返ってきた言葉は、予想と少し違った。


「一人で結論……?」


「そうだ。お前は誰かが手を差し伸べても、それを受け取る前に“後で責められる”と考える。何か良い方へ転びそうになると、自分から距離を置く」


 幼い日の庭園の記憶が、胸の奥を掠める。


 ルシアンは視線を落としかけ、だがどうにか踏みとどまった。


 アルベールは続ける。


「最近も同じだ。周囲の見方が少し変わり始めても、お前はそれを素直に受け取らない。すぐに“裏がある”“警戒すべきだ”と考える」


 その通りだった。


 今朝も、昼も、ついさっきまでだってそうだ。人の視線の中に好意や戸惑いが混ざり始めても、ルシアンはまず疑いから入る。優しさを向けられても、それが長続きしないと知っているからだ。


 けれど、だからといって、王子がここまで踏み込んでくる理由にはならないのではないか。


 ルシアンは小さく唇を噛んだ。


「……それを、殿下が気にかける必要はないでしょう」


 するとアルベールの表情が、ほんの僅かに変わった。


 怒ったというより、傷ついたようにも見える、ごく短い変化だった。


「必要がないと、誰が決める」


 低い声だった。


 だがそこには、いつもの冷静さだけではない熱が混じっている。


 ルシアンは思わず息を呑む。


「私は――」


「お前は、私が気にかける理由がないと言いたいのか」


 問い詰めるようでいて、どこか確かめるような響き。


 ルシアンは何と答えればいいのか分からない。


 理由がない、と断じるには、これまでのアルベールの言動はあまりにも継続していて、あまりにも具体的だ。幼い頃から見ていたと言われ、何度も声をかけられ、人前でも守るように振る舞われた。


 なのにそれを“理由がある”と認めるのは、別の意味で恐ろしい。


「……私には、分からないのです」


 結局、最も正直な言葉しか出なかった。


「殿下がどうしてそこまでなさるのか。何を考えておられるのか。私に、何を求めておられるのか」


 声が少し震えているのが自分でも分かる。


 弱さを見せたくなかった。


 だがここで強がっても意味がない気がした。


 アルベールはしばらく黙っていた。それから、机の端へ軽く腰を預けるようにして、ルシアンを真っ直ぐ見た。


「求めているのは、逃げるなということだけだ」


「……それだけ、でしょうか」


「今はな」


 今は。


 その言い方に、ルシアンの心臓がまた嫌な音を立てる。


 今は、ということは、先があるのか。


 いや、考えるな。そこで深読みすればまた自分から追い詰めるだけだ。


 ルシアンはどうにか落ち着いた声を探す。


「殿下は、私があなたから逃げているとお思いのようですが……」


「違うのか」


「逃げているわけでは、」


 そこまで言って、嘘になることに気づいた。


 正確には、逃げている。


 アルベール本人からも、周囲の噂からも、自分の揺れる心からも。


 その沈黙が答えになったのだろう。アルベールは小さく息を吐いた。


「お前は、自分の立場を守るために距離を取る。それは理解できる」


 少しだけ声音が和らぐ。


「だが、そのせいで何もかも切り捨てるなら、結局また同じところへ戻る」


 同じところ。


 それが何を指すのか、ルシアンには痛いほど分かった。


 誰にも頼れず、誰も信じず、先に棘を出して、結局一人で立っている場所だ。


 かつての自分。


 ゲームの悪役令息。


 あるいは今世での、前世の記憶を取り戻す前までの自分。


「私は……」


 ルシアンはゆっくりと言葉を継ぐ。


「元には戻りたくありません」


 それは確かな本音だった。


 高慢で、周囲を傷つけ、理解されないことに傷つきながらも何も変えられなかった、あの頃へは戻りたくない。


 アルベールの目が、ほんの少しだけやわらぐ。


「なら、最初から逃げるな」


 また、その言葉だ。


 けれど今度は少し違って聞こえた。


 命令ではなく、ほとんど忠告に近い。厳しいが、突き放してはいない。


 ルシアンは黙ったまま視線を落とした。


 膝の上で組んだ指先が、自分でも分かるほど強く結ばれている。


 逃げるな。


 簡単に言う。


 だが、それがどれほど怖いことか、アルベールは本当に分かっているのだろうか。誰かの好意を信じることも、変わった自分を受け入れてもらえると期待することも、ルシアンにはまだひどく恐ろしい。


 少しでも期待して、それが裏切られたら。


 少しでも心を許して、それが利用されたら。


 そう思うたび、どうしても先に引いてしまう。


 不意に、アルベールが一歩近づいた。


 ルシアンは反射的に顔を上げる。


 近い。


 すぐ目の前というほどではないが、逃げ腰の自分には十分近い距離だった。


「何故そこまで怯える」


 低い声が落ちてくる。


 責めるのではなく、知ろうとする声だった。


「私は、そんなに信用できないか」


 その問いに、ルシアンは言葉を失った。


 信用できない、わけではない。


 むしろ逆だ。


 あまりにも信用しそうになるから怖いのだ。


 第一王子という立場も、冷酷と噂される評判も、そのくせ自分にだけ見せる奇妙な近さも、全部が危うい。信用してしまえば、自分の中の何かが大きく傾く気がする。


 それをどう言えばいいのか分からない。


 黙り込むルシアンを見て、アルベールは少しだけ目を細めた。そうして、まるで思いついたように手を伸ばす。


「っ……」


 反射的に身が固くなる。


 だがアルベールの手は乱暴ではなく、ただルシアンの顎先に触れただけだった。軽く、逃げるなと示す程度の力。


「見ろ」


 囁くような声。


 ルシアンは逃げられなかった。


 蒼い瞳が、真正面から自分を見ている。そこにある感情は一つではない。冷静さ、苛立ち、心配、そしてもっと名前をつけるべきではない何か。


「私はお前を脅しているか」


「……いいえ」


「傷つけたか」


「……今のところは」


 つい余計な一言がついた。


 しまったと思ったが、アルベールは怒るどころか、ほんの僅かに口元を動かした。笑った、のかもしれない。笑ったというには微細すぎるが、それに近い何かだ。


「なら、少しは慣れろ」


「無茶を仰います」


「無茶ではない」


 そう言いながらも、顎に触れていた指がすっと離れる。


 それだけの接触なのに、そこだけ妙に熱を持った気がして、ルシアンはますます落ち着かなくなった。


 アルベールはようやく少し距離を取り、話を切り替えるように言った。


「今日は大した用件ではない」


「……今までの会話で十分大した用件だった気がしますが」


「そうか」


 平然と返される。


 ルシアンは少しだけ疲れた目をしたくなるが、どうにかこらえた。


「では、本当の用件は何でしょう」


「近々ある小規模の昼餐会に、お前も出る」


 その一言に、ルシアンは目を瞬いた。


「……昼餐会」


「王宮主催だが、内々のものだ。学園関係者と一部の家門だけが呼ばれる」


 嫌な予感しかしない。


 王宮。内々。学園関係者。一部の家門。


 どう考えても、今の自分が静かに座っていられる場ではない。


「私が出る理由は」


「エヴラール侯爵家が呼ばれているからだ」


 それは表向きの理由だろう。


 ルシアンにも分かる。そんなものが真の理由でないことくらい。


「……それだけではないのでしょう」


 アルベールは否定しなかった。


「お前を人前に出す」


「それは、どういう」


「いつまでも噂だけで好きに形を作らせるなということだ」


 ルシアンは小さく息を呑む。


 つまり、隠すのではなく、あえて公的な場へ連れ出すことで、変に裏で語られるのを防ぐつもりなのか。あるいは、王子が自分の側に置くこと自体を既成事実のように積み上げようとしているのか。


 どちらにせよ、穏当ではない。


「殿下、それは……」


「拒否は認めない」


 またしても先回りされる。


「お前一人で立たせるよりは、こちらの目が届く場所にいた方がいい」


 その理屈が、また少しだけ腹立たしいほどもっともらしい。


 ルシアンは深く息を吐いた。


 反論してもたぶん無駄だ。いや、無駄というより、ここで必死に拒めば拒むほど、アルベールは別の形で押し切ってくるだろう。それくらいには、この王子は一度決めたことを曲げない。


 沈黙を肯定と取ったのか、アルベールは少しだけ表情を和らげた。


「話は以上だ」


「……本当に、それだけでしょうか」


 半分やけになって尋ねると、王子はごく僅かに首を傾げる。


「何を期待していた」


「期待などしておりません」


「なら問題ない」


 会話がかみ合っているのか怪しい。


 だがこれ以上続けても、また自分が振り回されるだけだと悟る。ルシアンはゆっくりと立ち上がり、礼を取った。


「承知いたしました」


 扉へ向かいかけて、ふと足が止まる。


 今ならまだ、聞ける気がした。


 振り返らず、しかし声だけは落とす。


「殿下」


「何だ」


「……私は、信じてもよろしいのでしょうか」


 自分でも何を言っているのか分からなかった。


 王子の言葉をか、自分に向けられるこの奇妙な関心をか、それとも“元には戻らなくていい”という希望のようなものをか。全部が混ざっていた。


 室内が静まる。


 数秒の後、アルベールの声が届いた。


「信じるかどうかは、お前が決めろ」


 冷たい答えにも聞こえる。


 だが続いた言葉が、その印象を変えた。


「ただし、疑うなら最後まで疑え。中途半端に怯えて逃げるな」


 ルシアンは目を閉じたくなった。


 本当に、この人はずるい。


 甘やかすのでも、突き放すのでもなく、逃げ場のないところへ正論ごと突き落としてくる。


 けれど不思議と、それが嫌ではなかった。


「……努力します」


 それだけ言うのが精一杯だった。


 扉を開け、外へ出る。レオンハルトが待っていたが、何も問わず一礼するだけだ。その無言の配慮に助けられながら、ルシアンは廊下を歩き始めた。


 足元はまだ少し覚束ない。


 けれど胸の内には、さっきまでとは違うざわめきが残っていた。


 逃げるな。


 疑うなら最後まで疑え。


 その言葉は厳しいのに、どこかで“中途半端に諦めるな”と聞こえる。


 廊下の窓から差し込む午後の光が、床へ長く伸びていた。


 ルシアンはその明るさの中で、そっと自分の指先を握る。


 結局また、王子の私室で振り回された。


 だが完全に嫌なだけではないと思ってしまう自分が、やはり一番厄介だった。

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