第7話 優しさは弱さではない
舞踏会の翌朝、ルシアンは目を覚ました瞬間から、自分がひどく疲れていることを自覚した。
身体が重い。
昨夜は帰宅してからもなかなか寝つけず、ようやく眠れたと思ったら、今度は何度も浅い夢の底から引き戻された。夢の中では、広間の中央で無数の視線にさらされていた。だが断罪の壇上と違って、そこでは冷たい糾弾ではなく、もっと輪郭の曖昧なもの――好奇心、嫉妬、探るような興味、計算、そして理解できない熱を含んだ蒼い眼差しに囲まれていた。
目を開けても、その感覚は完全には消えなかった。
昨夜、第一王子アルベールが公然と自分の手を取って踊った。
その事実は、もう取り消しようがない。
「……最悪」
ここ数日で何度目か分からないその独り言を落としながら、ルシアンはゆっくりと上体を起こした。天蓋越しの朝の光は柔らかいのに、気分は少しも軽くない。
目立たず生きる。
静かに断罪ルートを避ける。
その計画は、もう完全に破綻しかけている。いや、破綻したと認めるべきなのかもしれない。少なくとも“誰の記憶にも残らないように過ごす”ことは、今の自分には不可能だ。
問題は、その状況でどう生き延びるかだ。
悪目立ちしたまま破滅へ進むのでは意味がない。むしろこれまで以上に慎重に、ひとつひとつの振る舞いを選ばなければならない。
ルシアンは深く息を吸い、寝台から下りた。
今朝の支度を整える侍女たちの様子は、いつもより少しだけぎこちなかった。昨夜の出来事が屋敷の中にも届いているのだろう。侯爵家の嫡男が第一王子と夜会の中央で踊ったとなれば、使用人たちがざわつかないはずがない。
それでも、表向きは皆よく訓練されている。余計な言葉は発さず、手際よく身支度を進める。
ルシアンは鏡越しにその様子を見ながら、ふとマルグリットへ声をかけた。
「……何か言いたいことがあるなら、遠慮しなくていい」
侍女の手がぴたりと止まった。
「え……」
「今朝の空気が少し重い。昨夜のことを気にしているのだろう」
マルグリットは鏡の中で目を伏せ、数秒だけ迷った後、小さく首を振った。
「そのようなことは」
「嘘だな」
思わず、アルベールのような返しになった自分に内心で少し驚く。
だがマルグリットはおどおどした後、ようやく慎重に口を開いた。
「……皆、驚いております。ルシアン様が、あのように……」
「あのように?」
「その……王子殿下に、たいそう大切に扱われているように見えたものですから」
大切に。
その言葉が胸に妙な重みを落とす。
ルシアンはすぐには返事ができなかった。大切に扱われている、などと、自分ではまだとてもそう言い切れない。守られているのか、囲い込まれているのか、試されているのか、そのどれもが混ざって見えるからだ。
だが少なくとも、他人にはそう見えたのだろう。
マルグリットは言いすぎたと思ったのか、慌てて頭を下げた。
「申し訳ございません、出過ぎたことを」
「いや……」
ルシアンは小さく首を振る。
「率直に言ってくれて助かった」
それは本音だった。
周囲がどう受け取っているのかを知らなければ、対策も立てられない。今の自分は、自分が思う以上に人の目の中へ放り込まれている。
ならば、その中で少しでも悪く転ばないように動くしかない。
朝食の席で、父エドモン侯爵は昨夜の件についてあえて触れなかった。
それがかえって不気味だった。
話題にしないということは、すでに色々な角度から情報を集め、計算を始めているということだろう。ルシアンへ向けられる視線も、以前の“問題を起こしがちな息子を見る目”とは少し違っていた。
評価ではなく、観察。
あるいは、値踏み。
それが息子として悲しいのか、侯爵家の嫡男として当然なのか、ルシアンにはもうよく分からなかった。
「学園では余計なことを言うな」
食後、立ち上がる際に侯爵が短く告げる。
「昨夜の話題を振られても、曖昧に流せ。どちらにも決めつけさせるな」
「……承知しております」
ルシアンは静かに応じた。
どちらにも決めつけさせるな。
それはたぶん正しい。第一王子と特別な関係にあると思われても困るし、逆に利用された哀れな駒のように見られても困る。曖昧で不安定な今の立ち位置は危ういが、まだ完全に一つの像へ固定されていないという意味では、わずかな余地がある。
その余地を失わないようにするしかない。
学園へ向かう馬車の中で、ルシアンは窓の外を見ていた。
王都の空はよく晴れている。朝の光を浴びた街並みは穏やかで、昨夜の華やかな夜会とはまるで別世界のようだ。だが、心の中のざわめきは消えない。
学園に着けば、見られる。
昨夜の舞踏会に出席していた者、家で噂を聞いた者、あるいは単に何か面白い話題を探している者。誰もが“第一王子と踊ったルシアン・エヴラール”へそれぞれの意味を乗せて視線を投げてくるだろう。
それに耐えなければならない。
そして耐えるだけではなく、その中で自分の振る舞いを選ばなければならない。
校門をくぐり、馬車が止まる。
扉が開いた瞬間、予想していた通りの空気が待っていた。
視線。
囁き。
あからさまな驚きと、抑えた好奇心。
昨日までは“第一王子に声をかけられているらしい悪役令息”だったものが、今朝からは“広間の中央で手を取られた悪役令息”へ進化している。噂としての刺激が一段階増しているのだ。
ルシアンは背筋を伸ばし、必要以上に急がず、必要以上に周囲へ反応せず、校舎へ向かった。
その途中、足元で何かが落ちる音がした。
見ると、近くを歩いていた下級貴族の生徒が書類の束を取り落としている。風に煽られ、紙が数枚、石畳の上に散った。
ルシアンは一瞬だけ足を止める。
以前の自分なら、たぶんそのまま通り過ぎていただろう。いや、心の余裕がなければ苛立たしげに視線だけ向けて、他の誰かが拾うのを待ったかもしれない。
けれど今は、足が勝手に動いた。
しゃがみ込み、散った紙を拾い集める。生徒は驚いたように息を呑み、慌てて頭を下げた。
「も、申し訳ありません、ルシアン様!」
「謝る必要はない。風だ」
紙を手渡す。
その指先が微かに震えているのが見えた。怖がられているのだろう。あるいは、こんな風に手を貸されること自体が予想外だったのかもしれない。
「ありがとうございます……!」
少年は何度も頭を下げる。
周囲の視線がまた少し変わる。
ルシアンはその空気を感じながらも、何も言わずに立ち上がった。
教室へ入っても、その延長線上の視線は消えなかった。
驚き、戸惑い、測りかねる感情。以前と違って、露骨な侮りや“どうせまた問題を起こす”という決めつけ一色ではない。だがだからこそ扱いに困る。
ほんの少し優しくすれば、“思っていたより悪くないのでは”と揺れる者がいる一方で、“急に態度を変えたのは何か企んでいるからでは”と構える者もいる。
どちらもあり得る反応だ。
ルシアンは席へ着きながら、内心でそっと息を吐く。
これが、“悪役令息ではない自分”を見せていくことの面倒さなのだろう。たった一度の親切では何も変わらないし、変わり始めたとしても、そこには必ず別の疑念がついてくる。
だがそれでも、積み重ねるしかない。
授業の合間、廊下で侍女見習いらしき少女が重い教材箱を抱えているのを見かけた時もそうだった。何人もの生徒がその横を通り過ぎる中で、ルシアンはまた一瞬だけ迷い、それから箱の片側を持った。
「どこまで運べばいい」
少女は目を白黒させた。
「え、あ、し、資料室まで……!」
「案内しろ」
冷たく聞こえないよう気をつけたつもりだったが、相手はやはりひどく緊張している。それでも、箱を運び終えた後に小さく「ありがとうございました」と言われた時、ルシアンの胸には少しだけ違う感情が残った。
怖がられている。
だがそれでも、礼は返ってくる。
それは以前の自分にはなかった感触だ。
午前の授業が終わり、昼休みが近づく頃には、小さな噂が教室内で別の方向へ動き始めていた。
「……今朝、書類を拾ってあげていたそうよ」
「資料室でも……」
「でも、あのルシアン様が?」
ひそひそ声が、以前ほど一方的ではない。
それに気づいたのはルシアン本人だけではないらしかった。
昼休み前、回廊ですれ違った令嬢たちの一人が、少し困ったように会釈を返してきたのだ。以前なら、恐る恐る頭を下げるか、露骨に視線を逸らすかのどちらかだっただろう。
ほんの小さな変化。
だが変化ではある。
――優しさは弱さではない。
不意に、そんな言葉が頭に浮かぶ。
誰かに言われたわけではない。けれどこの数日、ルシアンはずっと“優しくすることは付け込まれることではないか”“波風を立てないことは弱く見られることではないか”という不安を抱えていた。
幼い頃から叩き込まれてきたのは、貴族たるもの隙を見せるな、情に流されるな、甘さは侮りを呼ぶ、という教えだ。
だからこれまでのルシアンは、柔らかく振る舞うことを怖れていたのかもしれない。
優しさを見せれば、軽く見られる。
弱みを見せれば、傷つけられる。
そう思い込んで、先に棘を出していただけだったのではないか。
もちろん現実はそんなに単純ではない。優しくしたからといって、皆がこちらを善意で受け取るわけではない。現にジュリアンのような人間は、どんな振る舞いでも都合よく利用しようとするだろう。
それでも、優しさそのものが弱さだとは限らない。
そう思えたのは、たぶん今朝、書類を拾った少年や、資料室までの道案内をした少女の表情を見たからだ。
ほんの少しだけ、相手の目から恐れ以外の色が消えた。
それだけで、無意味ではないと思えた。
その日の午後、侯爵邸へ戻ると、屋敷内の空気にもまた微妙な変化があった。
使用人たちの態度は依然として慎重だが、前よりも露骨な怯えが減っている。ルシアンが廊下ですれ違った老執事へ軽く礼を返すと、相手は目を丸くした後、きちんと穏やかな笑みで応じてきた。
こんなことも、以前ならなかっただろう。
ただし、歓迎一色というわけではない。
夕方、父の執務室へ呼ばれた時には、それをはっきりと思い知らされた。
エドモン侯爵は書類を片づけながら、椅子へ座ったまま息子を見上げる。
「学園での様子は概ね聞いている」
その一言で、ルシアンの背筋が自然と伸びる。
概ね、ということは、誰かが報告しているのだ。護衛か、付きの従者か、あるいは学園内で侯爵家へ好意的な誰かか。
「……どのように、でしょう」
「お前が以前より大人しくなったこと。無意味に人を刺すような言い方を控えていること。下級貴族の生徒へ手を貸したこと」
そこまで聞いて、ルシアンは少しだけ意外に思った。
もっと冷たく、“第一王子の機嫌を取ろうとしているのか”くらいは言われる覚悟で来たのだ。だが侯爵の口調は、少なくとも表面上は事実確認に近い。
「はい」
「……人気取りのつもりか」
やはり来たか、と思う。
ルシアンはゆっくり首を振った。
「そのつもりはございません」
「ならば何だ」
侯爵の視線は鋭い。試しているのだろう。息子が本心から変わったのか、それとも場当たり的な演技なのかを。
ルシアンは少しだけ考え、それから静かに答えた。
「今までの私が、必要以上に人を遠ざけていたのだと思い至っただけです」
「思い至った、か」
「はい」
「それが今になって急にか」
痛いところを突かれる。
急に変われば怪しまれるのは当然だ。そこへ合理的な説明をつけるのは難しい。前世の記憶を取り戻したからです、とは言えない以上、なおさらだ。
それでもルシアンは目を逸らさなかった。
「……急であったことは否定できません。ですが、遅すぎるよりはましかと」
侯爵の目がわずかに細まる。
数秒の沈黙の後、彼は意外なことを言った。
「優しく振る舞うこと自体は否定せん」
ルシアンは目を瞬いた。
「ただし」
すぐに続きが来る。
「優しさと弱さを履き違えるな。手を貸すなら貸すで、お前が舐められぬ立ち位置を保て。情を見せることと、利用されることは違う」
その言葉に、ルシアンは小さく息を呑んだ。
思いがけず、それは今の自分が欲しかった形の忠告だった。
父は決して優しい言い方をしない。息子の感情を汲むことも少ない。だが今の言葉には、少なくとも“優しさ=愚かさ”と切り捨てる冷たさはなかった。
「……はい」
そう答えると、侯爵はそれ以上その話を広げなかった。
「下がってよい」
一礼して部屋を出る。
廊下へ出た後、ルシアンはしばらくその場で立ち止まっていた。
優しさと弱さを履き違えるな。
その言葉は、父らしい厳しさのまま、しかし不思議と胸の中へ真っ直ぐ落ちた。
たぶん自分はずっと、優しくすることそのものを恐れすぎていたのだろう。恐れた結果、先に壁を作り、棘を向け、傷つかない代わりに誰にも近づけなくなった。
だが今は、その壁を少しずつ下ろしている最中だ。
もちろん危険はある。ジュリアンのような人間は必ずそこへ付け入ろうとするだろうし、社交界は甘くない。第一王子との噂だって、まだ自分の首を絞める方向へ転ぶかもしれない。
それでも。
優しさが即ち敗北ではないのなら、もう少しだけ、今のやり方を続けてみてもいいのかもしれない。
夕暮れの窓辺へ寄る。
庭には柔らかな影が伸び、風が花を揺らしている。穏やかな景色なのに、ルシアンの中ではまだ色々な感情がせめぎ合っていた。
アルベールのこと。
セシリアとのすれ違い。
ジュリアンの視線。
父の忠告。
どれも簡単には整理できない。
ただ、今朝よりは少しだけ呼吸が楽だった。
自分が変わろうとすることを、完全に否定する声ばかりではなかったからだ。
「……弱くなりたいわけじゃない」
窓へ映る自分へ、小さく呟く。
「ただ、もう少しまともに生きたいだけだ」
それが贅沢な願いなのかどうか、今のルシアンには分からない。
けれど少なくとも、その願いを持つこと自体は間違いではないと、今日は思えた。




