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『断罪予定の悪役令息ですが、冷酷第一王子にだけ求婚されています』  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第6話 舞踏会で手を取られる

数日後の夕刻、ルシアンは侯爵邸の自室で鏡の前に立っていた。


 今夜は王都でも格式の高い小規模舞踏会が開かれる。王宮主催ではないが、有力貴族と王族に近い家門が多く招かれる、社交界において十分すぎるほど重みのある場だ。


 断りたい。


 できることなら本気で断りたかった。


 だがエヴラール侯爵家の嫡男という立場が、それを許すはずもない。ましてここ最近、第一王子との噂が広がり、周囲がこちらの動向を面白がっている状況では、不自然な欠席はそれだけで新しい憶測を呼ぶ。


 だから行くしかない。


 行って、何事もなくやり過ごして、目立たず帰る。


 ルシアンはそう何度も自分に言い聞かせていた。


 濃紺の礼装は、侯爵家の嫡男に相応しい仕立てだった。銀糸の刺繍は控えめながら上質で、襟元の白がルシアンの肌の白さを際立たせる。整った容姿のせいで、どれほど装いを落ち着かせても華やかさが消えないのが、今の彼にはひどく不本意だった。


「……目立ちたくないのに」


 小さく零した言葉へ、当然返事はない。


 だが背後で控えていた侍女の一人が、ほんの少しだけ表情を和らげたのが鏡越しに見えた。以前のルシアンなら、支度中にこんな弱音めいた独り言を落とすことはなかったのだろう。


 マルグリットが最後に袖口を整えながら言う。


「とてもお似合いです」


 以前なら、そういう定型の誉め言葉に何も返さなかったかもしれない。


 けれど今のルシアンは、少しだけ逡巡してから言った。


「……ありがとう」


 侍女が目を丸くする気配がした。


 すぐに視線を伏せたので、失礼とまでは思っていないのだろう。だが驚きは隠せていなかった。ルシアン自身も、自分がいまだにこういう一言を口に出すたび、周囲の反応に慣れない。


 それだけ、これまでの自分がそうではなかったということだ。


 父エドモン侯爵と共に屋敷を出る頃には、空はすっかり藍色に染まり、街には夜会へ向かう馬車が行き交っていた。馬車の中で侯爵は必要最低限の注意しか口にしない。


「今夜は不用意に誰かと対立するな」


「承知しております」


「特にフォルナン伯爵令嬢の周辺には近づくな」


 ルシアンの指先がわずかに強張る。


 父もまた、最近の空気の変化を読んでいるのだ。ルシアンとセシリアの間に直接的な対立があったわけではない。だが“悪役令息とヒロイン枠の令嬢”という周囲の見方そのものが、すでに物語のような構図を作り始めている。


「分かっています」


 短く返す。


 侯爵はそれ以上言わなかった。


 会場となる伯爵家の別邸は、春の花をふんだんに使った装飾で彩られていた。白い石造りの外壁に灯りが映え、庭園にはガラス灯が並び、室内へ入る前から上流階級の華やかさが鼻につくほど整えられている。


 玄関ホールを抜け、大広間へ足を踏み入れた瞬間、ルシアンは胃の奥がきゅっと縮むのを感じた。


 眩しい。


 天井から吊るされた大きなシャンデリア。金と白を基調にした壁装飾。花の香り。笑い声。グラスの触れ合う音。楽団が奏でるゆるやかなワルツ。


 すべてが美しいはずなのに、今のルシアンには逃げ場のない舞台装置にしか見えない。


 しかも今日は、普段以上に視線が多い気がした。


 いや、気のせいではないだろう。ルシアンが入場した瞬間、いくつかの会話が微かに途切れ、その後すぐにもっと静かな声量で再開される。遠巻きの視線、意味ありげな微笑み、測るような目。


 第一王子との噂は、もう完全に社交界の娯楽の一つになっている。


 ルシアンは侯爵の後ろを歩きながら、胸の内で深く息をした。


 目立つな。


 話しかけられても必要以上に応じるな。


 できれば壁際へ退避しろ。


 今夜の目標はそれだけだ。


 形式的な挨拶をいくつか終えた後、侯爵は知己の貴族たちとの会話へ移っていった。ルシアンも本来なら隣で愛想よく立つべきなのだろうが、幸いにも今夜の父はそれを強く求めなかった。息子を周囲へ晒し続けることの得失を計算しているのかもしれない。


 ルシアンは気配を薄くするように、大広間の端へ移動した。


 柱と壁の間、庭へ続く硝子扉の近く。目立たぬわけではないが、中央の輪からは少し外れた位置だ。ここなら、必要以上に誰かと会話せずに済む。


 そう思った矢先、後ろから令嬢たちの声が聞こえた。


「……本当に美しいわね」


「ええ。でもなんだか近寄りがたいのよね」


「近頃は第一王子殿下まで……」


 聞こえないふりをする。


 反応した瞬間、彼女たちの中で自分はまた“気難しくて感じの悪いルシアン”へ戻る。だから何も聞いていない顔で、ルシアンは視線を庭園の暗がりへ逃がした。


 その時だった。


「ルシアン様」


 柔らかな声に、背筋がこわばる。


 振り返れば、淡い薄桃色のドレスを纏ったセシリア・フォルナンが立っていた。夜会用の装いは学園にいる時よりも大人びて見えるのに、目元の戸惑いは相変わらず少女らしい。


 近くには彼女の友人と思しき令嬢たちがいたが、少し気を利かせるように距離を取っている。だが“二人きり”と呼ぶには近すぎる距離だ。十分に見られている。


 ルシアンは内心でほとんど頭を抱えた。


 避けるな、と言われているようだ。


 いや、実際には誰も何も言っていない。けれど近頃の流れは、まるで自分を断罪イベントの舞台装置の中へ戻そうとしているかのように、タイミングよく人をぶつけてくる。


「……フォルナン嬢」


「ごきげんよう。今夜は、その……少しだけお顔を拝見できて安心いたしました」


 その言い方に、ルシアンはわずかに目を瞬いた。


 安心?


 セシリアはすぐに気づいたらしく、頬を少し染めて言い直す。


「いえ、あの、昼間は私、うまくお話しできなかった気がして……ご不快にさせてしまっていたらどうしようと」


 ああ、とルシアンは思う。


 彼女もまた、昼間のすれ違いを引きずっていたのだ。


 悪い子ではない。むしろ、きちんと気に病んで、こうして自分から言葉をかけにくる程度には真面目なのだろう。


 だからこそ距離を取るのが難しい。


「不快ということはない」


 ルシアンは慎重に答えた。


「こちらこそ、言葉足らずだった」


 セシリアの目が少しだけ見開かれる。


 こうして素直に非を認めるのも、以前のルシアンならあり得なかったのかもしれない。だが今は、少なくとも彼女へ余計な誤解を積み重ねたくなかった。


 セシリアは胸元へ手を当て、小さく笑った。


「そう仰っていただけて、良かったです」


 その笑みは、本当に安心したように見えた。


 ルシアンの胸に、僅かな痛みが走る。


 距離を取らねばならないと分かっている相手が、こうして真正面から善意を向けてくると、こちらのほうが悪人のような気分になるのだ。


 だが感傷に浸っている余裕はなかった。


 セシリアと話している、というだけで、周囲の空気が少しずつ変わっていくのを肌で感じるからだ。好奇心が引き寄せられてくる。悪意ある視線も、無責任な期待も。


 誰もが見たいのだろう。


 悪役令息が、ヒロイン枠の令嬢へどう振る舞うかを。


「……失礼」


 距離を取るべきだと思い、ルシアンが会話を切り上げようとした時だった。


 別方向から、よく通る笑い声が混ざった。


「これはこれは。随分と興味深い組み合わせだね」


 ジュリアン・ヴァレリオ。


 夜会用の礼装に身を包んだ彼は、昼間以上に“社交界の人気者”らしかった。柔らかな笑顔、嫌味のない所作、誰が見ても感じのいい物腰。だがルシアンには、その整いすぎた笑顔の奥で何かが冷たく光って見える。


「ヴァレリオ様」


 セシリアが軽く礼をする。


 ジュリアンはにこやかに応じ、それから視線をルシアンへ流した。


「邪魔をしてしまったかな?」


「……別に」


「そう? でも皆、ちょっと気にしているみたいだよ」


 そう言って彼が視線だけで示した先には、確かにこちらを窺うような令嬢や青年たちの顔があった。


 直接見てはいないふりをしながら、会話の端々を拾うつもりなのだろう。


 ルシアンは奥歯を噛みしめそうになるのを堪える。


 ジュリアンはこういう空気の作り方が上手い。自分は何もしていない顔で、周囲へ“面白い場面が始まるかもしれない”という期待だけを撒いていく。


「フォルナン嬢は本当にお優しい。ルシアンのことまで気遣っていたんだろう?」


 その言い方は、表面上は好意的だ。だが微妙に棘がある。


 まるで“問題のあるルシアンを、セシリアがわざわざ気にかけてあげている”という構図を暗に示しているようだ。


 セシリアは少し困ったように眉を寄せた。


「そんな、気遣うなどと大げさなものでは」


「でも、心配していたのは本当だろう? 近頃のルシアンは少し妙だから」


 妙。


 その言葉に、近くにいた何人かが反応する気配がした。


 ルシアンは深く息を吸う。


 挑発に乗るな。


 父の声と、自分自身の警戒心が同時に頭の中で鳴る。


「……変わった、という意味なら否定しない」


 できるだけ平静に言う。


「少し、自分を省みているだけだ」


「へえ」


 ジュリアンは面白そうに目を細める。


「それはまた殊勝なことだね」


 褒めているようで、少しも褒めていない。


 セシリアがますます居心地悪そうに身じろぎした。


 これはまずい、とルシアンは判断する。ここで自分が棘を返せば、周囲は“やはりルシアンは変わっていない”と安心したように納得するだろう。逆に黙れば黙ったで、不気味だとか、腹に何か抱えているとか、好き勝手に解釈される。


 どちらにしてもろくな結果にならない。


 だったら、早くこの場を離れるしかない。


「……私は失礼する」


 はっきりそう告げた瞬間だった。


 大広間の入口付近で、わずかなざわめきが起こる。


 人の波が、見えない圧に押されるように左右へ割れた。


 ルシアンの胸が、嫌な予感で大きく脈打つ。


 見なくても分かった。


 だが見ないわけにもいかなかった。


 ゆっくりと視線を向けた先、大広間へ姿を現したのは、濃紺の礼装に身を包んだアルベール・リュミエールだった。


 空気が変わる。


 それまでこの場を満たしていた軽やかな談笑の音色が、目に見えぬところで半音下がったような感覚。人々は笑顔を崩さない。だが誰もが一瞬で意識を持っていかれる。


 第一王子という存在は、いるだけで場を支配する。


 そしてその蒼い視線が、広間を一巡した後、迷いなくこちらへ向いた。


 ルシアンの心臓が止まりそうになる。


 やめてくれ。


 見つけるな。


 今この状況で、これ以上注目を集めたくない。


 だがそんな願いが通じるはずもない。


 アルベールはゆっくりと、しかしためらいのない足取りでこちらへ歩いてくる。


 周囲の者たちが自然に道を空ける。ざわめきが薄く広がり、ジュリアンの目が面白がるように細められ、セシリアは緊張したように姿勢を正した。


 ルシアンだけが、胃のあたりを冷たく掴まれたまま動けない。


 目立つな、静かにしろ、という今夜の目標は、王子が数歩近づいてくるたびに無残に崩れていった。


「ルシアン」


 低い声で名を呼ばれる。


 公然と。


 周囲が一瞬、音を失ったように静まった。


 ルシアンはどうにか礼を取る。


「殿下」


 アルベールは一瞬だけセシリアとジュリアンへ視線を向け、最低限の礼を返した。それだけで二人は十分すぎるほど緊張したように見えた。ジュリアンでさえ、社交的な微笑みを完全に崩してはいないものの、目の奥に計算の色を走らせている。


「踊れ」


 アルベールはルシアンへ向かって、そう言った。


 あまりにも唐突で、ルシアンは理解が追いつかなかった。


「……え」


 間の抜けた声が出る。


 王子は表情一つ変えず、だが逃げ道を許さぬ口調で繰り返した。


「今の曲だ。私と来い」


 周囲がどよめいた。


 当然だろう。舞踏会の中央で、第一王子が名指しでダンスへ誘った――いや、半ば命じたのだ。それも令嬢ではなく、悪評高い侯爵家の嫡男ルシアン・エヴラールへ。


 ルシアンの頭の中が白くなる。


 無理だ。


 こんなのは無理だ。


 目立つどころの話ではない。広間の中心に引きずり出されるに等しい。しかもアルベール相手のダンスとなれば、今夜の話題の全てがそれで塗り替わる。


「殿下、私は……」


 断らなければ、と思った。


 だが断った瞬間、周囲はそれをどう見るだろう。悪役令息が王子の誘いを無礼に拒絶した、と受け取る者もいるだろうし、逆に“特別だからこそ気安く拒める”と歪める者もいるかもしれない。


 何より、アルベールの目がそれを許さなかった。


「来い」


 静かな命令。


 その一言で、ルシアンの足は床へ縫い留められたようになる。


 拒否できない。


 いや、立場上はもとより、もっと別のところで拒めなかった。あの蒼い瞳は今、自分だけを見ている。周囲のざわめきも視線も何もかも切り落として、自分だけへ向けられている。


 ルシアンは喉がひどく乾くのを感じながら、どうにか一歩を踏み出した。


 その瞬間、アルベールは迷いなく彼の手を取った。


 ぴく、と指先が震える。


 熱い。


 昨夜手首を掴まれた時と同じだ。人前だというのに、触れられた場所だけが異様に鮮明になる。


 王子はそのまま、当然のようにルシアンを広間の中央へ導いた。


 誰も止められない。


 誰も声を挟めない。


 ジュリアンの笑みも、セシリアの戸惑いも、周囲の視線も、全てが背後へ流れていく。ルシアンの世界は、今や前を歩く王子の背と、自分の手を取る指先の感覚だけでいっぱいだった。


 楽団はちょうどワルツの旋律へ入っていた。まるでこのために待っていたかのようなタイミングに、ルシアンはますます眩暈がした。


 中央へ着くと、アルベールはくるりと向き直る。近い。近すぎる。


「殿下、本気ですか」


 ようやく絞り出した声は、驚くほど小さかった。


「何が」


「……こんな、人前で」


「何か問題があるか」


 ありすぎる。


 ルシアンはそう叫びたかった。だが口にできない。問題しかないことを、アルベールが分からないはずがない。では分かった上でやっているのだ。


 周囲へ何かを示すために。


 あるいはもっと単純に、自分を逃がさないために。


 アルベールはルシアンの腰へ片手を添え、もう片方の手で指を絡めるように支える。形式的には何の問題もない。夜会でのダンスの姿勢だ。だがルシアンには、その一つ一つが過剰に親密に思えた。


 音楽が流れ始める。


 アルベールは躊躇いなく一歩を踏み出した。ルシアンも反射的に合わせる。幼い頃から叩き込まれた舞踏の技術が、こんな時に限って身体を正しく動かしてしまうのが恨めしい。


 周囲の視線が痛いほど刺さる。


 誰もが見ている。第一王子とルシアン・エヴラールが踊っている、その事実を。


「震えている」


 アルベールの低い声が、音楽の隙間を縫って届く。


「……殿下のせいです」


 思わずそう返してしまった。


 しまった、とルシアンはすぐ後悔する。こんな言い方では、まるで甘えたように聞こえてしまうではないか。


 だがアルベールは怒らなかった。むしろほんの少しだけ口元を和らげる。


「そうだろうな」


 その反応が余計にルシアンを混乱させる。


 王子は一歩、また一歩と滑らかにリードする。ルシアンの足運びが少し乱れても、それを自然に支えてしまうから悔しい。周囲から見れば、美しい一組にしか見えないだろう。


 だが内側では全く美しくない。


 ルシアンの心臓は壊れそうなほど鳴っているし、呼吸も浅い。視線の多さに酔いそうなのに、目の前の王子からも逃れられない。


「誰にも触れさせない」


 不意に、アルベールが囁くように言った。


 ルシアンは一瞬足をもつれさせそうになった。


「……何を」


「今のお前は、余計な視線に晒されすぎている」


 確かにその通りだ。だが、それを言う資格が最もあるのは目の前の王子本人ではないだろうか。


 ルシアンは唇を噛みたい衝動に駆られたが、どうにか抑える。


「それを増やしているのは殿下ではありませんか」


 できるだけ小声で抗議する。


 アルベールは平然としていた。


「だから私の手の内へ引き寄せている」


 言っている意味が分からない。


 いや、分かりたくないのかもしれない。


 王子の言葉はいつもそうだ。説明になっているようで、最後の一線だけは踏み越えない。だが踏み越えないくせに、聞く側の心だけは容赦なく掻き乱す。


 ルシアンは周囲の視線から逃げるように一瞬だけ俯きかけ、すぐにまた顔を上げた。ダンス中に視線を落としすぎれば不自然だ。


 その時、視界の端にセシリアの姿が映る。広間の外縁で、彼女は驚いたような顔のままこちらを見ていた。その隣ではジュリアンが、いつもの柔らかい笑みを浮かべつつ、目だけが鋭く細められている。


 見られている。


 全てを、見られている。


 この光景が今後どう使われるか、考えるだけで胃が重くなる。


「殿下、放していただけませんか」


 ルシアンはほとんど祈るような声で言った。


「曲が終わればな」


「その頃には手遅れです」


「何が」


「……噂です」


 アルベールは数拍だけ沈黙した。


 その間もダンスは続き、音楽は止まらない。周囲の視線も途切れない。


 やがて王子は、低く答えた。


「今さらだ」


 あまりにもあっさりとした言い方だった。


 ルシアンは絶句する。


 確かに、今さらなのかもしれない。夜会で名指しで呼ばれ、学園で何度も声をかけられ、近衛騎士にまで教室へ来られている。噂はもう十分に広がっている。


 だが、だからといってさらに火を注ぐ必要はないはずだ。


 そう反論したかったのに、アルベールはそれを許さぬように次の言葉を落とした。


「それに」


「……」


「お前が一人で立っているよりは、私の隣にいた方が余計な手出しを受けにくい」


 その理屈は、悔しいことに一理ある。


 ルシアンが壁際で一人でいれば、ジュリアンのような人間はいくらでも会話へ割って入れるし、令嬢たちも好き勝手に言葉を投げられる。だが今こうして王子の腕の中にいれば、少なくともこの瞬間だけは誰も迂闊に近づけない。


 問題は、それが別の意味で致命的に目立つということだ。


 ルシアンが言葉を失っていると、アルベールの指がほんのわずかに強くなる。


「まだ震えている」


「……こんな状況で平然としていられる方がおかしいのです」


「なら、私だけを見ていろ」


 その一言に、ルシアンは呼吸を忘れた。


 あまりに自然に、とんでもないことを言う。


 だがアルベールは冗談でも揶揄でもなく、本気でそう言っていた。周囲の視線も噂も一旦捨てて、ただこのダンスだけに集中しろと、そういう意味なのだろう。


 分かっていても、胸が変に熱を持つ。


 ルシアンは悔しいほど素直に、しばらくの間だけ本当に王子のことしか見られなくなった。


 蒼い瞳。整った輪郭。感情を押し隠したようでいて、時折どうしようもなく近い距離で差し出される熱。冷酷第一王子と噂される男が、なぜ自分にだけこんな風に関わってくるのか、依然として分からない。


 ただ、分からないままでも、今この瞬間だけは守られているような錯覚があった。


 それがいっそう厄介だった。


 曲が終わりに近づく。


 最後の旋律に合わせて、アルベールは無駄のない動きでルシアンを導き、自然な所作で締めの姿勢へ収めた。周囲から控えめな拍手が起きる。


 褒められているのではない。あくまで夜会の流れの一部として、礼儀上の反応が返っているだけだ。だがその形式的な拍手さえ、今のルシアンにはさらし者になった合図のように感じられた。


 アルベールはすぐには手を放さなかった。


 わずかに近い距離のまま、低く告げる。


「次は逃げるな」


 また、その言葉だ。


 夜会の私室でも、学園でも言われた。


 逃げるな。


 それは命令であり、警告であり、どこか祈りにも似ている。


 ルシアンは何も答えられない。


 答えられないまま、王子の手がようやく離れた。


 指先の熱が残る。


 周囲の視線は消えない。


 曲は終わったのに、自分だけがまだ舞台の中央に取り残されているような気がした。


 アルベールは一礼し、それから周囲へ向けて平然と視線を巡らせる。その所作一つで、さっきまでこの場を面白がっていた者たちの空気が僅かに引いた。王子はただダンスをしただけだ。だがそれは同時に、ルシアン・エヴラールへ公然と手を差し伸べたことでもある。


 誰の目にも、それは明らかだった。


 ルシアンはどうにか礼を返し、半歩下がる。足元が少し頼りない。転ばなかっただけ自分を褒めてやりたいくらいだった。


 その時、少し離れたところで視線がぶつかった。


 セシリアだ。


 彼女は驚きと困惑をそのまま顔に浮かべている。昼間、そして先ほどの会話まで含めれば当然だろう。ルシアンと第一王子の間に“何かある”と思いたくなくても、これを見れば否定しようがない。


 その隣のジュリアンは、笑っていた。


 口元は柔らかく、礼儀正しい微笑みのまま。だが目だけがまったく笑っていない。まるで面白い駒の動きを見た時のような、冷えた興味がそこにあった。


 嫌な予感が、背骨をなぞる。


 この夜の光景は、きっと消えない。


 明日には学園中が知るだろう。いや、もしかすると今夜のうちにもう広まるかもしれない。


 冷酷第一王子が、悪役令息の手を取って広間の中央で踊った。


 その事実だけが、一人歩きする。


「ルシアン」


 アルベールの声で我に返る。


 王子はもう普段の冷静な顔に戻っていたが、その目だけは少しも逸れない。


「少し休め」


 拒否しようとしたが、声が出なかった。


 たぶん顔色が悪いのだろう。自分でも分かる。今すぐ人の少ない場所で深呼吸しなければ、平静を保てる気がしない。


「……はい」


 それだけ答え、ルシアンは広間の端へ移動する。


 歩く間も視線はついてきた。だが不思議と、さっきまでのような無遠慮さは少し減っていた。単純な好奇心だけではなく、王子が公然と手を取った相手、という新しい意味が加わったからだろう。


 壁際へたどり着き、ルシアンは人知れず小さく息を吐いた。


 静かに終わらせるつもりだった夜は、最悪の意味で忘れられないものになった。


 そして心のどこかで、もう分かっている。


 今夜を境に、何かが決定的に変わる。


 自分の立ち位置も、周囲の見方も、きっともう元には戻らない。


 ルシアンはそっと自分の指先を握る。そこにはまだ、アルベールの手の熱が残っている気がした。


 それを振り払うべきなのか、縋るべきなのか、今の彼にはまだ分からなかった。

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