第5話 セシリアとの最初のすれ違い
昼休みの残り時間は、驚くほど短く、そして長く感じられた。
アルベールに呼び出され、幼い日の記憶を掘り起こされ、悪役そのものではなかったと告げられたばかりだというのに、現実は待ってくれない。教室へ戻れば授業は再開し、周囲の視線は相変わらず自分へ集まり、噂は呼吸をするように膨らみ続けていた。
ルシアンは表面上だけでも平静を装いながら、午後の講義をやり過ごした。
講師の声は確かに耳へ入ってくる。だが内容は、半分も頭に残っていない。紙の上にペンを走らせながら、思考の奥では別のことばかりが渦を巻いている。
幼い日の庭園。
差し出された白いハンカチ。
誰にも見られたくなかった泣き顔。
そして、それをずっと覚えていた第一王子。
信じがたいのに、嘘とも思えなかった。
アルベールはあの手の冗談を言う人間には見えない。わざわざ自分を揺さぶるために、そんな曖昧な昔話を持ち出すとも思えなかった。だからこそ厄介だ。信じれば心が揺れる。疑えば、自分のほうがひどく惨めになる。
「……集中しろ」
誰にも聞こえないほど小さく自分へ言い聞かせる。
授業中に顔へ出すわけにはいかない。せっかく“以前とは違う”と思われ始めているのに、ここでぼんやりしていれば、また別の意味で目を引いてしまう。
講義の終盤、何度か視線を感じた。
横からのもの、前方からのもの、そして斜め前――セシリアの席のあたりからのもの。
気のせいかとも思ったが、たぶん気のせいではない。
昼休みにレオンハルトが教室まで来て自分を呼んだのだから、彼女が気にしないはずがないのだ。むしろ、周囲の令嬢たちが何も言わないまま放っておくほうが不自然だろう。
ルシアンはできるだけそちらを見ないよう努めた。
目を合わせれば何かが生まれる気がした。そうして生まれたものが、良い方向へ転ぶ保証はどこにもない。自分はゲームの知識を持っているせいで、セシリアとの接触を必要以上に恐れているところがある。だが恐れすぎているからといって、その危険性が消えるわけでもない。
放課後、鐘が鳴る。
教室に柔らかな解放感が広がり、生徒たちはそれぞれ次の予定へ向かって動き始める。課外活動、茶会の約束、図書室、自邸への帰宅。貴族子弟の学園生活は華やかに見えて、その実、放課後まで人間関係の積み重ねでできている。
ルシアンは鞄へ教本をしまいながら、今日の残りはなるべく静かに終えようと決めた。
誰とも深く話さず、まっすぐ帰る。
セシリアにも、ジュリアンにも、できれば今日はもう関わらない。
そう思って立ち上がった矢先だった。
「ルシアン様」
柔らかい、だがどこか緊張を含んだ声がした。
背筋が硬くなる。
ゆっくり振り返ると、教室の通路にセシリア・フォルナンが立っていた。
栗色の髪が夕方の光を受けて柔らかく透けて見える。大きな瞳は相変わらず穏やかな蜂蜜色をしているのに、今はその中に明らかな戸惑いがあった。彼女一人ではない。少し離れた位置に、親しい令嬢が二人ほど控えている。完全な二人きりではないが、周囲に聞こえるほど近くもない、絶妙に“誤解の生まれやすい距離”だった。
最悪だ、とルシアンは思う。
逃げるには不自然すぎる。
けれど立ち止まれば、それはそれで目立つ。
そして何より、彼女のほうから声をかけてきたという事実が、周囲の興味をまた引き寄せてしまう。
「……フォルナン嬢」
とにかく最低限の礼を返す。
セシリアはほっとしたように胸元で指を組み、少しだけ声を落とした。
「少しだけ、お話ししてもよろしいでしょうか」
断れ、と頭の中で警鐘が鳴る。
だが断り方を間違えれば、たちまち“悪役令息がヒロイン枠の令嬢を邪険にした”という新しい材料になる。優しく受けすぎても駄目、冷たく切っても駄目。ほんの少しの選択で印象が変わる。
「短くなら」
慎重にそう答えると、セシリアは「ありがとうございます」と小さく頭を下げた。
その素直な仕草に、ルシアンは一瞬だけ言葉を失う。
ゲームのセシリアは“主人公”だった。自分とは別世界の存在のように感じていた。画面越しにはただ可憐で、守られ、攻略対象たちから愛される存在に見えた。
けれどこうして目の前に立っている彼女は、ひどく普通の少女にも見える。少なくとも今は、誰かを打ち負かす強さではなく、周囲の空気を読みながら一生懸命に立っている繊細さのほうが勝っていた。
だからこそ、余計に危ういのかもしれない。
ルシアンは人の少ない回廊の端へ移動する。完全な密室は避けたかったし、かといって教室の前では目立ちすぎる。その中間地点を選んだつもりだったが、たぶん焼け石に水だろう。
セシリアは少し迷うように視線を揺らしてから、ようやく口を開いた。
「あの……昼休みのことなのですが」
やはりそこか、とルシアンは思う。
レオンハルトが自分を呼びに来たこと。アルベールのもとへ向かったこと。あの一連の流れは、教室にいた全員にとって十分すぎるほど目立ったはずだ。
「何か、ご用件があったのですか」
その問いは、詮索というより確認に近かった。
だがルシアンにとっては難しい質問だ。真実を話せるわけがない。かといって無愛想に切れば、今後の関係に余計な棘を残す。
「……大したことではない」
結局、最も無難そうな返答しかできない。
「昨日の夜会で少し顔色が悪かったらしく、その件を」
「そう、だったのですね」
セシリアはほっとしたように息をついた。
だがその安堵の色が、逆にルシアンの胸を少しだけちくりと刺した。彼女は自分が何か別の、もっと良くない形で王子と関わっているのではないかと不安だったのかもしれない。
いや、それは被害妄想かもしれない。
ルシアンは余計な想像を打ち消すように視線を逸らしかけ、そこで気づいた。セシリアがまだ何か言いたそうに唇を開きかけては閉じている。
「……それだけでは、ないのか」
ついそう尋ねてしまう。
セシリアは少しだけ目を丸くし、それから困ったように笑った。
「はい。あの……最近のルシアン様、少しお変わりになったように見えて」
またその話だ。
今日は何度もそれを言われている気がする。ジュリアンにも、教室の空気にも、そして今はセシリアにも。
だが彼女の言い方は、ジュリアンとは違っていた。面白がるでも、棘を含ませるでもなく、ただ本当に戸惑っているだけの声音だった。
「以前は、その……もっと、はっきりお考えを仰る方でしたでしょう?」
「遠回しな言い方だな」
思わず口をついて出た。
セシリアは目を瞬かせ、それから慌てて首を振る。
「ご、ごめんなさい。失礼でしたわね。ただ、今日もお話ししていて、なんだか私、どう接していいのか分からなくなってしまって……」
その一言は、ルシアンの予想よりずっと真っ直ぐだった。
どう接していいか分からない。
それはたぶん、彼女だけの感想ではない。今日の学園でルシアンを見た多くの生徒が、同じような違和感を抱いているのだろう。以前なら反応が読めた。嫌味を言うか、冷たくあしらうか、苛立つか。そのどれかを想定できたのに、今は読めない。
ルシアンは自分でも気づかぬうちに、ほんの少しだけ肩の力を抜いていた。
「……私も、自分でどう振る舞うのが正しいのか、まだよく分かっていない」
言いながら、それが思いのほか本音だったことに気づく。
セシリアはまた驚いたような顔をした。
「ルシアン様が、そのように仰るなんて」
「意外か」
「少しだけ」
正直すぎる返答に、ルシアンはむしろ苦笑しかけた。だがすぐに気を引き締める。
気を許すな。
相手が悪いわけではなくても、自分が油断していい理由にはならない。
「フォルナン嬢」
できるだけ丁寧に、だが距離を置いた声音を選ぶ。
「あなたが何を心配しているのかは分からない。だが、私はあなたに対して何かをしようとは思っていない」
それは真実だった。
少なくとも今のルシアンには、セシリアへ嫉妬や敵意を向ける理由がない。むしろ彼女は“断罪ルートの中心にいる人物”として、必要以上に刺激したくない相手だ。
セシリアはその言葉を聞いて、少しだけ安堵したように見えた。けれど次の瞬間、その表情が微妙に曇る。
「……何かをしようとは、思っていない」
「そうだ」
「それは……私のことがお嫌いだから、ではなく?」
ルシアンは言葉を失った。
そう繋がるのか。
いや、繋がるのだろう。セシリアの立場からすれば、ルシアンはこれまでずっと近づきづらい相手で、最近はあからさまに距離を取っている。その理由を知らなければ、“嫌われている”と受け取るのは自然だ。
だが、そうではない。
嫌っているわけではない。恐れているのだ。自分の未来を、フラグを、断罪への道筋を。
そんなことを説明できるはずもない。
「……違う」
短く答える。
「では、どうして」
セシリアの声は責めるものではなかった。ただ、本当に分からないから知りたいという響きだった。
その純粋さが、ルシアンには辛かった。
嘘をついている自覚があるからだ。
「私は」
言葉を探す。何を言えば波風を立てずに済むのか。何を言えばこれ以上余計な誤解を生まないのか。
だが焦れば焦るほど、適切な言葉は見つからない。
「少し、自分の言動を見直しているだけだ」
結局、また同じ答えに戻ってしまう。
「以前までの私が、あまり褒められたものではなかった自覚くらいはある」
それは真実だ。だが、それだけでは足りない。
セシリアはまっすぐルシアンを見つめたまま、小さく息を吐く。
「……そう、でしたのね」
その声音は柔らかい。だが完全に納得しているわけではないと分かる。むしろ“言いたくないならこれ以上は聞かない”という遠慮が生まれたのだろう。
そして、それはそれでまた距離になる。
ルシアンは自分の不器用さにうんざりしそうになった。
もう少しうまく言えないのか。
もう少しだけ自然に、人を安心させる言葉を選べないのか。
だができない。今の自分にはまだ、その加減が分からない。
その時だった。
足音がした。
軽やかで、しかし堂々とした歩調。振り返るまでもなく分かる。この場に割って入ることに躊躇のない人間の足取りだ。
「やあ、こんなところにいたんだね」
ジュリアン・ヴァレリオの声だった。
ルシアンは内心で舌打ちしたくなる。
どうして最悪のタイミングで現れるのか。
ジュリアンは明るい笑みを浮かべたまま、二人の少し離れた位置で足を止めた。その距離感が絶妙にいやらしい。割り込むほど露骨ではなく、だが“たまたま通りかかっただけ”と言い張るには近すぎる。
「フォルナン嬢もご一緒だったとは。僕は邪魔をしてしまったかな」
「……別に、何でもない」
ルシアンは淡々と返す。
だがジュリアンはその言葉を軽く流し、意味ありげに目を細めた。
「そう? ずいぶん真面目なお顔で話していたように見えたけれど」
セシリアが困ったように微笑む。
「ヴァレリオ様、誤解を招くような言い方は」
「おっと、ごめんごめん。そんなつもりはないんだ」
軽い口調。だがその一言一言が、周囲の想像を刺激するようにできている。
ルシアンははっきりと理解した。
ジュリアンは見ている。こちらの反応を。セシリアとの距離感を。自分が以前と違う振る舞いをしていることを。そしてそれをどう使えば面白いことになるかを、きっと無意識のうちにも計算している。
ジュリアンはセシリアへ向き直る。
「フォルナン嬢、次の茶会の話だけど――」
自然な流れで会話を移したように見える。だが、その前にほんの一瞬だけルシアンへ流した視線は、あまりにも意味深だった。
君らしくない。
今日何度も聞いたその言葉を、目だけで繰り返されたような気がする。
セシリアはジュリアンの言葉へ応じながらも、ちらりとルシアンを見た。困惑と、まだ言い足りない何かと、少しの遠慮。そんな感情が混ざった視線だった。
ルシアンはそれに対し、軽く一礼する。
「……私はこれで失礼する」
セシリアは「あ、はい」と慌てて返し、ジュリアンは「またね」と親しげに笑う。
そのまま回廊を離れ、少し歩いたところで、ルシアンはようやく小さく息を吐いた。
疲れた。
たった数分の会話で、これほど神経を削られるとは思わなかった。
しかも何一つうまくいっていない気がする。
セシリアを安心させようとして、逆に“嫌われているのでは”と誤解させた。距離を置こうとして、不自然さばかりを強調した。そこへジュリアンが現れて、余計に面倒な構図だけが残った。
「……駄目だ、これでは」
壁際で立ち止まり、目を閉じる。
断罪ルートを避けるためには、もっと自然に振る舞わなければならない。ただ拒絶するだけでは駄目だ。あまりにあからさまに距離を置けば、別の意味で悪目立ちする。かといって無防備に近づけば、それはそれで危険だ。
加減が難しすぎる。
前世では、こんな細かな空気の揺れなど画面越しに読み飛ばしていた。悪役令息が失敗しているようにしか見えなかった場面にも、実際にはこうして曖昧な会話や、解釈次第でどうとでも取れる視線のやり取りが積み重なっていたのだろう。
ゲームの悪役は、最初から悪役だったわけではないのかもしれない。
少しずつ誤解され、少しずつ空気を読み違え、少しずつ居場所を失っていった果てに、“断罪されても仕方ない人物像”が出来上がっていく。
そう考えると、背筋が寒くなった。
今の自分は、同じ轍を別の形で踏もうとしているのではないか。
ルシアンはゆっくり目を開く。
窓の外では、夕方の光が庭園の木々を柔らかく染めていた。穏やかで美しい景色なのに、胸の内は全く穏やかではない。
セシリアはたぶん、悪い子ではない。
少なくとも今の彼女は、誰かを陥れようとしているようには見えなかった。むしろ周囲に振り回されやすい、繊細で真面目な令嬢だ。
だからこそ、なおさら厄介だ。
敵として切り捨てることもできず、味方として近づくこともできない。
その中途半端さが、今日の会話にそのまま出てしまった。
「もっと、うまく……」
呟いたところで、ふと別のことが頭をよぎる。
――自分を過小評価しすぎている。
アルベールの言葉だった。
あれが今の自分へそのまま当てはまるのかは分からない。だが少なくとも、自分は“どうせ誤解される”“どうせ失敗する”という前提で人と接しすぎているのかもしれない。
その結果、話す前から逃げ腰になり、余計に不自然になる。
分かっても、すぐには変えられない。
けれど意識しなければ、また同じことを繰り返すだろう。
ルシアンは小さく息を吐き、再び歩き出した。
玄関へ向かう途中、何人かの生徒とすれ違う。皆がそれぞれに会釈し、あるいは視線を逸らし、あるいは何か言いたげにこちらを見る。以前と完全に同じではない。だが良くなったとも言い切れない。不安定で、曖昧で、少しずつ動いている。
だからこそ怖い。
動いているものは、どちらへ転ぶか分からないからだ。
馬車寄せの近くまで来た時、ふと背後で笑い声がした。
振り向けば、少し離れた場所でジュリアンが令嬢たちと話している。その輪の中にセシリアもいた。彼女は笑ってはいるが、どこかいつもより硬い。その視線が一瞬だけこちらへ向き、すぐに逸れた。
ルシアンはその小さな仕草に、妙に胸が重くなるのを感じた。
嫌われた、とは思わない。
だが、距離は確かにできた。
自分が作った距離だ。
それが正しかったのか、間違っていたのか、今はまだ分からない。
ただ一つだけはっきりしているのは、このすれ違いが“何もなかったこと”にはならないということだった。
セシリアは今日の会話を忘れないだろう。
ジュリアンもまた、今日の光景を使う機会を待つかもしれない。
そして自分は、そのどちらにも十分うまく対処できなかった。
ルシアンは馬車へ乗り込み、扉が閉まる音を聞きながら、そっと目を伏せた。
静かに生きようとするほど、不自然になる。
誰も傷つけたくないと思うほど、距離の取り方を誤る。
それでも、元の自分には戻れない。
戻りたくもない。
だったら、この不器用なやり直しを続けるしかないのだろう。
夕暮れの街へ馬車が動き出す。
窓の外を流れる景色を見つめながら、ルシアンは膝の上でそっと拳を握った。
今日の失敗は、忘れない。
セシリアのあの困ったような笑顔も、ジュリアンの意味ありげな視線も、全部覚えておく。
次は、もう少しだけましな言葉を選べるように。
次は、もう少しだけ自然に距離を取れるように。
そう願いながらも、ルシアンの胸の奥では、うまくいかなかった痛みがじわじわと広がり続けていた。




