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『断罪予定の悪役令息ですが、冷酷第一王子にだけ求婚されています』  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第4話 幼い日の記憶

 教室の空気が凍りついたまま、誰一人としてすぐには動かなかった。


 それも当然だろう。


 第一王子付き近衛騎士レオンハルト・シュタインが、昼休みの教室へわざわざ姿を現し、しかも名指しでルシアンを呼んだのだ。昨夜の夜会での一件がすでに十分な話題になっているというのに、そこへ追い打ちのようなこの呼び出しである。


 教室中の視線が、一斉にルシアンへ集中していた。


「……私を、ですか」


 どうにかそれだけを返すと、レオンハルトは短く頷いた。


「はい」


 無駄のない返答だった。


 その態度は礼儀正しいが、親しみはない。王子付きの近衛騎士として当然といえば当然だろう。ルシアンの中にあるゲーム知識でも、レオンハルトはアルベールに忠実で、基本的には主人以外へ余計な感情を見せない人物だった。


 問題は、そんな男がわざわざ教室まで自分を呼びに来たという事実だ。


 逃げたい。


 ものすごく逃げたい。


 だがここで呼び出しを無視することなどできるはずがない。しかもレオンハルトは、周囲の生徒たちがどれほどざわつこうと意に介した様子もなく、ただ静かにルシアンの返答を待っている。


 ルシアンは机の端へ置いた手に力を込めた。


「……承知しました」


 立ち上がる。


 その瞬間、周囲の空気がまた別の意味で揺れた。女子生徒たちの間から抑えた悲鳴のような囁きが漏れ、男子生徒たちの何人かは面白いものを見る目を隠そうともしない。ジュリアンでさえ、教室の少し離れた位置から、笑みを消さぬまま興味深げにこちらを見ていた。


 セシリアの姿も視界の端にあった。


 彼女は周囲の反応とは違い、ただ純粋に驚いているように見える。けれど、その驚きがまた、ルシアンに別の焦りを生む。


 駄目だ。


 これではますます“何かある”と思われる。


 だが、今さらどうしようもない。


 ルシアンは必要以上に周囲を見ないようにして、レオンハルトの後へついた。教室の扉を出た瞬間、背中に無数の視線が突き刺さるのを感じる。


 廊下へ出ても、それは終わらなかった。


 昼休みの学園はもともと人の往来が多い。そこを王子付き近衛騎士に先導され、その後ろをルシアンが歩くのだ。目立つなという方が無理だった。


 生徒たちは道を空けながら、ちらちらと視線を送ってくる。


「また……」


「ルシアン様が、今度は学園で……」


「殿下と何が……」


 あちこちから聞こえるひそひそ声に、ルシアンは胃のあたりをきりきりと掴まれるような気分になった。


 昨日の夜会で声をかけられた時点で、静かな学園生活はもう諦めるべきだったのかもしれない。だが、だからといってこう何度も公衆の面前で呼び出されれば、噂の拡大は避けようがない。


 前を歩くレオンハルトの背中は、どこまでも真っ直ぐだった。


 彼は一切振り返らない。必要最低限の速さで歩き、必要最低限の距離を保ち、ルシアンがついてきていることを当然のように前提にしている。


 それがかえってありがたくもあり、少しだけ腹立たしくもあった。


「……あの」


 たまりかねて、ルシアンは小声で呼びかけた。


 レオンハルトは歩みを緩めぬまま、「何でしょう」とだけ返す。


「殿下は、どういったご用件で」


「伺っておりません」


 即答。


 いっそ清々しいほど簡潔だ。


「……そう、ですか」


「私はお呼びするよう命じられただけです」


 それ以上の説明はないということなのだろう。実際、彼の立場を考えれば当然だ。王子の意図を勝手に口にするはずもない。


 ルシアンはそれ以上問うのを諦めた。


 校舎の奥へ進み、やがて人通りの少ない回廊へ入る。教師や上級貴族の子弟のための応接室が並ぶ一角だ。昨日の夜会と違って、今日は昼の学園である。だからこそ、王子がここにいること自体は不自然ではない。視察か、学園長との会談か、何かしら理由はあるのだろう。


 ただ、そのついでに自分を呼ぶ理由が分からない。


 応接室の一つの前でレオンハルトが足を止める。


 扉を軽く叩き、「お連れしました」と告げると、内側から低い声が返った。


「入れ」


 その声を聞いただけで、ルシアンの心臓が嫌な跳ね方をした。


 昨日の夜会と同じだ。


 あの声は、ただ短く命じるだけで、こちらの逃げ道を奪う。


 扉が開く。


 室内は昼の光に満ちていた。大きな窓から庭園が見え、白いカーテンが柔らかく揺れている。豪奢ではないが上質な調度品が揃えられた応接室の中央、長椅子の近くにアルベールは立っていた。


 学園内だからか、昨夜ほど儀礼的な正装ではない。濃紺の上着は王族の身分に相応しい仕立てながら、どこか実務的で洗練されている。夜会よりも近寄りがたいのに、妙に年相応の青年らしさも滲んで見えて、ルシアンは余計に居心地が悪くなった。


「ルシアン・エヴラール、参りました」


 深く礼を取る。


 アルベールは少しだけ視線を落としてそれを見、それから言った。


「顔を上げろ」


 昨日と同じ言葉に、ルシアンは内心で呻きそうになりながらも従った。


 蒼い瞳が、静かにこちらを見ている。


 夜会の時よりも明るい室内だからだろうか、その目の色がいっそう鮮やかに見えた。冷たい湖面のような色なのに、見つめられると妙に熱を持って感じる。


「昼休みに呼び出して悪かったな」


 第一声がそれで、ルシアンは目を瞬かせた。


 謝罪、ではないのかもしれない。けれど少なくとも、昨日のような一方的な命令口調から始まると思っていた予想は外れた。


「い、え。殿下のお呼びとあれば」


「そういう返答を求めているわけではない」


 静かにそう言われ、ルシアンは少しだけ言葉に詰まる。


 では何を求めているのだろう。


 アルベールはレオンハルトへ視線を向けた。


「下がっていろ」


「は」


 近衛騎士は一礼し、部屋の外へ出る。扉が閉まる音がして、昨日と同じく二人きりになった。


 昨日は夜で、今日は昼。


 違うのはそれだけなのに、緊張は少しも軽くならない。


 むしろ学園で呼ばれたぶん、周囲の目を意識して余計に疲れる。


 ルシアンが密かに息を整えていると、アルベールが椅子を勧めた。


「座れ」


「……立ったままで結構です」


「顔色が優れない者を立たせたまま話す趣味はない」


「ですが」


「座れ」


 二度目は、完全に命令だった。


 逆らえるはずもなく、ルシアンは恐る恐る長椅子の端へ腰を下ろした。アルベールは向かいの椅子へ座るのではなく、少し離れた位置で立ったままこちらを見ている。


 それだけで、逃げ道がない気がした。


「昨夜はよく眠れたか」


 またしても予想外の問いだった。


 ルシアンは一瞬、どう返すべきか迷う。


「……普通に」


「嘘だな」


 即断だった。


 驚いて顔を上げると、アルベールはごくわずかに眉をひそめている。


「目の下が少し暗い。今朝から肩に力が入りっぱなしだ」


「……殿下は、そういうところばかりご覧になるのですね」


 思わず零れた言葉だった。


 しまった、と直後に後悔する。皮肉のようにも聞こえる。


 だがアルベールは怒るどころか、逆に妙な間を置いてから言った。


「見ているからな」


 また、それだ。


 昨夜も聞いた。見ている、と。


 ルシアンは視線を逸らしたい衝動をこらえ、膝の上で指を組み直した。


「……私には、それが不思議です」


「何が」


「殿下が、私を気に留めておいでになることです」


 口にしてしまえば、それは昨夜よりもずっと踏み込んだ問いだった。


 だがもう、聞かずにはいられなかった。


 放っておけば、分からないまま振り回され続ける気がしたからだ。


 アルベールはしばらく何も言わなかった。ルシアンはその沈黙が妙に長く感じられ、胸の奥がざわつく。


 やがて王子は、静かな声で言った。


「お前は、自分が誰にどう見られているかを、案外知らない」


 それは答えのようでいて、答えになっていない言葉だった。


 ルシアンは戸惑う。


「……どういう意味でしょう」


「そのままの意味だ」


 アルベールは窓辺へ視線を移し、それからまた戻した。


「お前は、自分を過小評価しすぎている。あるいは……ずっとそうせざるを得なかったのかもしれないが」


 心臓がひゅっと縮む。


 過小評価。


 その言葉は、痛いほど図星だった。


 前世の記憶を取り戻してからなおさらだ。自分はゲームの悪役令息で、放っておけば断罪される立場で、他人の好意も信用できなくなっている。しかも今世のこれまでの自分は、決して褒められた振る舞いをしてこなかったのだ。


 そんな人間が、第一王子から特別に気にかけられる理由など分からなくて当然だと思っていた。


 けれどアルベールは、まるでそれ自体が思い違いだというように語る。


「お前は昔から、妙なところで他人の視線を誤る」


「昔から……?」


 その瞬間、アルベールの表情がほんの僅かに変わった。


 見逃す者なら見逃してしまう程度の小さな変化。だが昨夜から彼の目や口元ばかり見ているルシアンには分かった。今の言葉は、意図せず本音に近いものだったのだと。


 ルシアンの中に、ひどく嫌な予感と、説明しづらいざわめきが同時に広がる。


「殿下は……以前から私を」


「見ていた」


 今度は迷いなく答えが返った。


 ルシアンは息を呑む。


「それが、そんなに意外か」


「……意外、です」


 声がわずかに掠れた。


「殿下が、私のような者を」


「私のような者、か」


 アルベールはその言い方を繰り返し、わずかに目を細めた。


 不快に思われただろうか、とルシアンが身構えたところで、王子は意外にも怒らなかった。代わりに、どこか諦めたような静かな息をつく。


「その言い方が出る時点で、お前はまだ何も分かっていない」


 ますます意味が分からない。


 ルシアンは視線を落としそうになる自分を必死に支えた。ここで俯けば、何もかも飲み込まれてしまいそうな気がしたからだ。


「……では、殿下は何を知っておいでなのですか」


 問い返すと、アルベールは少しだけ沈黙した。


 答えるか、答えないかを測っているような沈黙だった。


 やがて、彼はゆっくりと歩き出す。ルシアンの正面ではなく、少し横の位置へ移動して立ち止まる。そうすることで、視線の圧迫感だけが薄れて、しかし距離はかえって近くなった。


「昔、お前が庭園で泣いていたことがあった」


 不意にそう言われ、ルシアンの思考が止まる。


 庭園。


 泣いていた。


 その単語だけで、胸の奥のどこかが小さく軋んだ。


「……覚えて、いません」


 正確には、はっきりとは。


 けれどその瞬間、頭の奥に薄い靄のような映像がよぎる。白い石畳。手入れされた薔薇の低木。幼い自分の手。涙で濡れた頬。誰にも見つからない場所へ逃げ込んだはずなのに、足音が近づいてくる気配。


 ルシアンは無意識に指先を強く握った。


 アルベールはその様子を見ていたのかもしれない。少しだけ声音を柔らかくして続ける。


「侍従に叱責された後だったな。泣き声を押し殺そうとしていた」


 記憶が、ぶつりと一つ繋がる。


 ああ、とルシアンは心の中で呟いた。


 あった。


 確かにそんなことが。


 幼い頃、王宮での礼儀作法の席で失敗をして、周囲の大人たちからきつく叱られたことがあった。侯爵家の嫡男としてあるまじき失態だと。泣くことすら許されない空気が苦しくて、庭園の端へ逃げたのだ。


 そこで――


 記憶の先が、急に鮮明になった。


 目の前に差し出された白いハンカチ。


 子どものくせに妙に落ち着いた蒼い目。


 まだ少年だったアルベール・リュミエール。


 ルシアンははっと顔を上げた。


「まさか……」


 アルベールは静かにルシアンを見返す。


「思い出したか」


 その一言に、胸の奥が大きく波打った。


 確かに、いたのだ。


 幼い日の庭園に。


 泣いていた自分の前へ現れ、何も言わずにハンカチを差し出してくれた少年が。そしてルシアンは、王子とは知らないままそれを受け取って、泣き顔を見られた恥ずかしさと安堵で何も言えなくなっていた。


 その後すぐ、近くにいた大人たちが血相を変えて駆けつけたのだ。


 “王子殿下へ何という無礼を”


 “泣き顔を見せるとは”


 “侯爵家嫡男ともあろう者が、よりにもよって王子に縋ったのか”


 そんな声が飛び交い、自分は再び叱られた。


 優しくしてもらった記憶より、あとから浴びせられた責めの言葉のほうが強烈で、いつしかその出来事自体を忘れたつもりになっていたのかもしれない。


 ルシアンの喉が、ひどく乾く。


「……あれは、殿下だったのですね」


「そうだ」


「私は……」


 何を言うべきなのか分からない。


 覚えていなかったことを詫びるべきか。あの時の礼を改めて言うべきか。けれどどの言葉も、今この瞬間には薄っぺらく思えた。


 アルベールはそんなルシアンを見て、少しだけ視線を和らげた。


「お前はあの頃から、誰かが手を差し伸べると、後で必ず罰が来るとでも思っているようだった」


 ずきり、と胸が痛んだ。


 正確すぎる。


 幼い自分は確かにそう感じていた。優しくされれば、あとからその分だけ責められる。目立てば叱られる。弱さを見せれば失望される。だからこそ、甘えることも頼ることも覚えず、代わりに棘だけを育ててきたのかもしれない。


 ルシアンは膝の上で震える指を隠すように組み直した。


「……殿下が、そんな昔のことを覚えていらっしゃるとは思いませんでした」


「覚えている」


 アルベールは迷いなく言う。


「印象的だったからな」


 何がそこまで印象的だったのか、ルシアンには分からない。


 いや、分かりたくないのかもしれない。


 もしそれが、自分の情けない泣き顔や、助けられてなお素直に礼も言えなかった不器用さだとしたら、あまりにも恥ずかしい。


 だがアルベールは、ルシアンの予想とは違う言葉を続けた。


「あの時、お前は泣いていたくせに、私が手を差し出すと真っ先に“叱られます”と言った」


 ルシアンは息を詰めた。


 覚えていない。けれど、確かに言いそうだと思ってしまった。


「自分が辛いより、後で誰に責められるかを先に考えていた。子どもがする顔ではなかった」


 アルベールの声には責める響きはない。ただ、長く抱えてきた違和感をようやく言葉にしたような静けさがある。


「……殿下は、そんな昔から私を憐れんでおいでだったのですか」


 自分でも驚くほど刺々しい言い方になった。


 しまった、と思った時には遅い。


 けれどアルベールは表情を変えなかった。むしろその問いを待っていたように、静かに首を横へ振る。


「違う」


 短く、はっきりと。


「憐れんだことは一度もない」


 その否定に、ルシアンの心が妙に揺れた。


「では、なぜ」


「見ていれば分かる」


 また曖昧な答えだった。だが今度は、ただ煙に巻いているのではないと分かる。アルベール自身が、まだ言葉にしきれない何かを抱えているのだ。


「お前は最初から、周囲が決めた“悪役”そのものではなかった」


 その一言が、強く胸を打った。


 悪役そのものではなかった。


 前世の記憶を取り戻してから、ルシアンはずっと自分を“断罪予定の悪役令息”として見てきた。そこから逃げるために行動を変えようとしていた。


 けれどアルベールは、そんな枠組み自体を最初から否定するように言う。


 ルシアンの瞳がわずかに揺れる。


「……買いかぶりです」


「そう思いたいなら勝手に思え」


 アルベールの声が少しだけ低くなる。


「だが私は、お前が泣いている時も、噛みつく時も、誰にも礼を言えずにいる時も、全部見てきた。その上で言っている」


 逃げ道のない断言だった。


 ルシアンはそれ以上、否定の言葉を見つけられない。


 自分を過小評価している。周囲の視線を誤っている。悪役そのものではなかった。


 どれも今のルシアンには、信じるには痛く、否定するには温かすぎる言葉だった。


 室内に静かな沈黙が落ちる。


 窓の外で春の風が葉を揺らし、遠くから学園の鐘の音が微かに聞こえた。昼休みがそろそろ終わる合図だろう。


 ルシアンはようやく、絞り出すように言った。


「……どうして今、それを私に話してくださったのですか」


 アルベールは少しだけ目を伏せる。


 それから、昨日よりもずっと静かな声で答えた。


「お前がまた、勝手に自分を追い詰めそうだったからだ」


 その言葉には、奇妙なくらい実感がこもっていた。


 ルシアンは思わず唇を噛む。


 昨日の夜会でも、今日の教室でも、自分は確かに“どうやって波風を立てずに消えるか”ばかり考えていた。目立たないように、関わらないように、できるだけ誰の記憶にも残らないように。


 けれどアルベールの言葉は、それをただの慎重さではなく、“自分を追い詰める癖”として見抜いていた。


「殿下は……」


 続きを言えなかった。


 何を言えばいいのか分からない。


 ありがとう、と言うにはあまりにも感情が混ざりすぎている。信じられない、と言うにはもう少し信じてしまっている。


 アルベールはそれ以上を求めることなく、話を切り替えるように言った。


「昼休みも残り少ない。戻れ」


 その言い方はいつもの王子らしい命令口調だった。だが、先ほどまでの会話の熱がまだ残っているせいか、昨日ほど冷たくは聞こえない。


 ルシアンはゆっくり立ち上がった。


「……本日は、お話をありがとうございました」


 今度は謝罪ではなく、きちんと礼を言えた。


 アルベールはほんの一瞬だけ目を細める。


「覚えておけ」


「何を、でしょう」


「お前が思っているほど、皆が皆、お前を一つの役でしか見ていないわけではない」


 それだけ言って、王子は窓の外へ視線を戻した。


 会話は終わりだという合図なのだろう。


 ルシアンは深く一礼し、扉へ向かう。手をかける寸前、背後から低い声が届いた。


「ルシアン」


 振り返る。


 アルベールはまだこちらを見ていなかったが、はっきりと言った。


「次に誰かへ差し出された手を怖がるなら、せめて最初から拒むな」


 その言葉は、幼い日の庭園の記憶とまっすぐ繋がっていた。


 ルシアンの胸の奥が、ぎゅっと痛む。


「……努力します」


 それだけ答えて、今度こそ部屋を出た。


 外で待機していたレオンハルトが一歩下がる。彼は何も問わない。主の命令どおり、ただ付き添うだけなのだろう。その無駄のなさが今はありがたかった。


 教室へ戻る廊下を歩きながら、ルシアンはさっきの会話を何度も反芻していた。


 幼い日の庭園。


 差し出されたハンカチ。


 叱られると怯えた自分。


 それを見ていた、少年時代のアルベール。


 前世のゲーム知識にはない記憶だ。たとえルシアンにそんな過去があったとしても、主人公視点では描かれないだろう。だから知らなかっただけなのかもしれない。


 だがそれにしたって、アルベールが自分を“昔から見ていた”という事実は重すぎた。


 しかもその視線は、ただの監視でも興味でもない。


 悪役令息としてではない、自分自身の何かを見ている。


 そう思ってしまった瞬間から、昨日までの“冷酷第一王子にだけは関わるな”という単純な方針が、少しずつ揺らぎ始めていた。


 教室の扉の前まで戻ってくると、ルシアンは一瞬だけ立ち止まった。


 これからまた、視線を浴びる。噂の中心として見られる。ジュリアンはきっと、さっきよりさらに面白がるだろう。セシリアも困惑するかもしれない。


 だが、さっきまでとはほんの少しだけ気分が違っていた。


 誰にも理解されないと思っていた幼い日の自分を、少なくとも一人は見ていた。


 その事実は、戸惑いと同時に、言葉にしづらい温かさも残している。


 ルシアンは扉へ手をかけ、小さく息を吐いた。


「……本当に、どうしてこうなるんだ」


 答える者はいない。


 けれど今は、その独り言すら、完全な絶望ではなかった。


 扉を開ける。


 昼休みの終わりが近い教室には、やはり数多くの視線があった。けれどルシアンは今度こそそれに飲まれないよう、静かに自分の席へ向かう。


 背中にはまだ視線が刺さる。噂もきっと消えない。


 それでも、胸の奥にはさっき聞いた声が残っていた。


 ――悪役そのものではなかった。


 その言葉が本当かどうかは、まだ分からない。


 けれど少なくとも、それを信じる誰かがいるというだけで、ほんの少しだけ世界の見え方が変わるのだと、ルシアンは初めて知った。

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