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『断罪予定の悪役令息ですが、冷酷第一王子にだけ求婚されています』  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第3話 目立たず生きたいのに、噂になります

 夜会の翌朝、ルシアンは目覚めた瞬間に、胸の奥へ重い石を落とされたような感覚を覚えた。


 天蓋付きの寝台。薄い青灰色の帳。見慣れた自室の天井。窓の外では、春の朝の淡い光が白いレース越しに差し込んでいる。夢ではない。昨夜の出来事は、やはり全部現実だ。


 第一王子アルベールに呼び出され、私室で一対一で話したこと。手首を取られたこと。変わったと見抜かれたこと。そして――「本当のお前に会えた気がする」と言われたこと。


「……最悪だ」


 目元を腕で覆ったまま、ルシアンは掠れた声で呟いた。


 できればこのまま一日中布団の中に潜っていたかった。だが残念ながら、エヴラール侯爵家の嫡男にはそんな自由はない。夜会の翌日でも学園はあるし、侯爵家の朝は遅くない。しばらくすれば使用人が支度を促しに来るだろう。


 何より、休んだところで状況は変わらない。


 昨夜の一件で、きっと噂は広まっている。


 王都の貴族社会は、驚くほど口が軽い。しかも“冷酷第一王子が悪評高いルシアン・エヴラールを個別に呼び出した”などという話題は、誰もが飛びつく類のものだ。


 ルシアンはゆっくりと上体を起こした。


 寝巻きの袖口から見える手首に、昨夜掴まれた感覚がまだ残っている気がする。そこだけ熱を帯びたような、妙に落ち着かない感覚だ。もちろん実際に痕が残っているわけではない。なのに触れられた記憶だけが鮮明で、指先でなぞることすらためらわれた。


「……駄目だ。意識するな」


 誰に言い聞かせるでもなく、そう呟く。


 意識しては駄目だ。あの王子の言葉や態度を深く考えるほど、自分の足場が崩れる。今優先すべきは感情の整理ではなく、破滅回避の方策だ。


 とにかく目立たないこと。


 波風を立てないこと。


 セシリアにも、攻略対象にも、近づかないこと。


 そして何より、これ以上アルベールに“変化”を意識させないこと。


 そう心に決めたところで、案の定、扉が控えめに叩かれた。


「ルシアン様。お目覚めでいらっしゃいますか」


「……起きている」


 入ってきたのは、年若い侍女のマルグリットだった。栗色の髪をきっちりとまとめ、動きに無駄のない侍女だ。以前のルシアンは少しでも手際が気に入らなければ容赦なく言葉をぶつけていたらしいが、今のルシアンにそんな気はない。


 むしろ、今朝の彼女の表情が少しだけ固いことのほうが気になった。


「お加減はいかがですか」


「問題ない。……昨夜、少し疲れただけだ」


「そうでございましたか」


 マルグリットは淡々と返したが、その目にはやはり微かな躊躇いがあった。昨夜の夜会での様子を耳にしているのだろうか。あるいは元から、主人の機嫌をうかがう癖がついているだけなのか。


 たぶん、その両方だ。


 ルシアンは寝台を下りながら、できるだけ穏やかな声を選んだ。


「朝の支度を頼む」


「かしこまりました」


 侍女は一礼し、洗顔用の水や制服の準備を始める。その手際の良さを見ながら、ルシアンはふと気づいた。以前の自分なら、この何気ない沈黙の中で居心地の悪さに耐えきれず、余計な棘を向けていたのかもしれない。


 相手の怯えに気づいているのに、どう扱えばいいか分からず、結局冷たくしてしまう。そういう不器用さの積み重ねが“高慢で我儘な悪役令息”の評判を作ってきたのだろう。


 だから、ここから変えなければならない。


 完璧にはできなくても、一つずつ。


 それが断罪回避にも繋がるはずだ。


 身支度を整え、鏡の前に立つ。学園の制服は侯爵家嫡男に相応しい上質なもので、深い紺と白を基調にした仕立てがルシアンの銀髪によく映えた。整っているからこそ目立つ外見は、どうしたって隠しようがない。


 せめて態度だけでも静かにしよう。


 鏡の中の自分へ、無言でそう言い聞かせる。


「……行こう」


 朝食の席では、父エドモン侯爵が新聞のように整えられた報告書を読みながら座っていた。母は早くに亡くなっているため、侯爵家の朝食はいつも淡々としている。温かな家族団欒とは程遠い、必要事項を処理するための時間だ。


 ルシアンが席につくと、侯爵は紙面から目を離さないまま言った。


「体調はもう良いのか」


「はい」


「ならば学園を休む必要はないな」


「ございません」


 労りの気配がゼロというわけではない。ただその言葉には、親としての心配よりも“問題を起こさず日常へ戻れ”という意図のほうが強く滲んでいた。


 やはり昨夜のことは、家の中にももう回っているのだろう。


 ルシアンは湯気の立つスープへ視線を落としたまま、できるだけ平静を装った。


 侯爵はしばらく無言で食事を進めていたが、やがてふと思い出したように口を開く。


「昨夜の件だが」


 匙を持つ手が止まりかける。


「……はい」


「夜会の場で王子殿下がああしてお前に声をかけた以上、余計な注目を集めるのは避けられん。学園でも妙な視線が増えるだろう」


 そこまでは予想通りだった。だが次の言葉は、少し意外だった。


「挑発に乗るな」


 ルシアンは思わず顔を上げた。


 侯爵は相変わらず冷たい目をしていたが、少なくとも今回は一方的な叱責ではなかった。


「相手はお前の反応を見て、好きに評判を作る。感情的になれば、その瞬間に相手の思う壺だ。特に今はな」


「……承知しております」


「本当に理解しているのなら結構だ」


 それだけ言って侯爵は再び食事へ戻る。


 ほんの僅かだが、昨夜よりはマシだった。少なくとも今回は、“疑われるお前が悪い”だけではなかったからだ。もちろんそれが親として十分かと問われれば、まるで足りないのだが。


 けれど今のルシアンには、その僅かな変化さえありがたかった。


 学園へ向かう馬車の中で、ルシアンは膝の上に置いた手を何度も組み直していた。


 窓の外を王都の街並みが流れていく。石畳の道。朝の市場。行き交う人々。侯爵家の紋章入りの馬車が通るたび、平民たちは自然に道を開けていく。その当たり前の光景が、今日に限って妙に遠かった。


 学園へ着けば、まず間違いなく見られる。


 昨夜の噂がどれほど広がっているかは分からない。だが貴族の子弟が集まる王立学園は、社交界の縮図のような場所だ。昨夜の出来事を知らない生徒の方が少ないかもしれない。


 ――挑発に乗るな。


 父の言葉を思い出す。


 その通りだ。今ここで下手に反応すれば、自分はまた“短気で嫌味な悪役令息”という役へ押し戻される。せっかく変えようとしているのに、自分から元の位置へ飛び込むようなものだ。


 校門が見えてきた。


 朝の光の下でそびえる王立学園は、いかにも格式高い建物だった。白い石造りの外壁に蔦が絡み、広い中庭には噴水と季節の花壇が整えられている。貴族社会の将来を担う者たちの学び舎として、過剰なほど美しく整えられた空間。


 ここもまた、ゲームの主要舞台だ。


 馬車が止まり、従者が扉を開ける。


 ルシアンは一つ深く息を吸い、ゆっくりと足を下ろした。


 その瞬間、周囲の空気が微かに変わったのが分かった。


 あからさまなざわめきではない。だが確かに、近くにいた生徒たちの視線がこちらへ流れ、短い囁きが生まれては消えていく。


「……ルシアン様」


「昨日の夜会で……」


「第一王子殿下と……」


 聞こえないふりをする。


 聞こえていないわけではない。けれど今はそれが正解だ。


 ルシアンは背筋を伸ばし、必要以上に急がず、必要以上にゆっくりにもならない歩調で校舎へ向かった。堂々としすぎても駄目、怯えすぎても駄目。その中間を保とうとするだけで、思った以上に神経を使う。


 正面玄関へ入ると、さらに視線が増えた。


 昨夜の夜会に出席していた上級生たち、家から噂を聞かされた同級生たち、単に有名人の話題を追いたいだけの野次馬たち。皆がそれぞれ違う意味でルシアンを見ている。


 その中で、懐かしいような軽い声が飛んできた。


「おはよう、ルシアン」


 振り向けば、栗色の髪を無造作に流した青年が、いかにも人当たりの良さそうな笑みを浮かべて立っていた。


 ジュリアン・ヴァレリオ。


 公爵家子息。社交的で気さく、誰とでもすぐ打ち解ける人気者。――そして、ゲーム知識の中では、ルシアンを“悪役”として固定する動きに深く関わっていた人物の一人だ。


 彼はまるで旧友にでも話しかけるように、自然な足取りで近づいてきた。


「昨日は随分と注目を集めていたね。いやあ、驚いたよ」


 柔らかな口調。けれどその奥に、薄く光る好奇心が見える。


 ルシアンは慎重に表情を整えた。


「……おはよう、ジュリアン」


「体調はもういいのかい? 夜会の途中で顔色が悪そうだったと聞いたけれど」


「少し疲れただけだ。もう問題ない」


「そう。それは良かった」


 ジュリアンは相変わらず朗らかに笑っている。だがその視線は、ルシアンの顔だけでなく、周囲の反応まで含めて観察しているようだった。


 以前のルシアンなら、きっとこの“親しげな探り”に苛立っていただろう。あるいは、わざと高圧的に応じて相手を黙らせようとしたかもしれない。


 だが今は違う。


 乗るな。挑発に乗るな。


「それで?」


 ルシアンはできるだけ平坦に尋ねた。


「何か用か」


「つれないな。用がなければ話しかけてはいけないのかい?」


 くす、とジュリアンは楽しげに笑う。周囲の数人もそれにつられて微かに笑った。表面的には何の問題もない、気さくなやり取りにしか見えない。


 けれどルシアンには分かる。


 今の一言だけでも、対応を誤れば“ルシアンが感じ悪く突き放した”という形へ簡単に転がる。


 だから彼は、呼吸を一つ置いてから答えた。


「そういう意味ではない。朝から人が多いから、立ち話で通路を塞ぐのもよくないだろうと思っただけだ」


 言いながら内心で少しだけ驚く。思ったより穏当に返せた。


 ジュリアンも一瞬、目を瞬いた。


「……へえ」


 その“へえ”には、わずかな違和感が滲んでいた。ルシアンが棘を返してくる前提で構えていたのだろう。


 彼はすぐに笑みを戻し、肩をすくめる。


「それは確かに。君らしくないほど正論だ」


 その言葉に周囲が小さくざわつく。


 “君らしくない”――それはつまり、普段のルシアンならもっと傲慢で、場を顧みず自分本位に振る舞うはずだという意味だ。軽口として流せる程度に曖昧でありながら、聞く者の印象にはしっかり残る。


 うまい。


 ルシアンは内心で舌打ちしたくなるのを抑えた。


「そうかもしれない」


 あえて否定しない。


「だが、少しは学んでいるつもりだ」


 ジュリアンの口元の笑みが、ほんのわずかに固まる。


 否定せず、しかし感情的にもならない。以前と違う反応に、彼もやりづらさを覚えているのだろう。


「学んでいる、ね」


「何かおかしいか?」


「いや。悪くないと思うよ」


 そう言いながらも、ジュリアンの目は笑っていなかった。


「ただ、皆びっくりするだろうね。昨日の件もあるし」


 来た、とルシアンは思う。


「昨日の件?」


「とぼけなくてもいいだろう。第一王子殿下が、あんな風に君だけを呼び止めるなんて、なかなかないことだ。皆、何があったのか気になっている」


 周囲の空気が静かに張りつめた。


 明らかに、聞き耳を立てている者が増えている。


 ここで答え方を間違えれば、一気に面倒になる。


「大した話ではない」


 ルシアンは努めてそっけなく言った。


「殿下がお気になさるほどのことは、何も」


「へえ?」


 ジュリアンは首を傾げる。


「でも、わざわざ私室へ呼ばれたんだろう?」


 その言い方に、ざわ、と周囲が揺れた。


 やはりそこまで広まっているのか。


 ルシアンの背中に薄く汗が滲む。けれど顔には出さない。


「誰から聞いた」


「さあ? 夜会の場にいた人間なら、あれだけ目立てば多少はね」


 曖昧な返答。否定も肯定もせず、噂の信憑性だけを高める言い方だ。


 悪意があると断じるには弱い。だが放置すれば、“第一王子が悪役令息を私室へ呼び出した”という刺激的な部分だけがひとり歩きする。


 ルシアンは短く息を吐いた。


「殿下は、昨夜の私の体調を気遣ってくださっただけだ」


 言ってしまってから、しまったと思う。


 完全な嘘ではない。だが“体調を気遣った”という内容自体が、別方向に火種になりかねない。


 案の定、ジュリアンは目を細めた。


「気遣う、ねえ」


「何が言いたい」


「別に。殿下はお優しい方だなと思っただけさ」


 その台詞は表向きには褒め言葉だ。だが周囲へ与える印象は別だろう。冷酷第一王子がルシアンを気遣った、という異常さがより強調される。


 ルシアンは内心で頭を抱えた。


 まずい。こちらが大人しく応じるほど、かえって“本当に特別扱いされているのでは”という空気が生まれる。


 それは断罪回避の観点からすると、あまりに危険だ。


 ルシアンはそこで会話を打ち切ることにした。


「もう授業の時間が近い。私は行く」


「もちろん。引き止めて悪かったよ」


 ジュリアンはにこやかに一歩退く。


 だがすれ違いざま、彼はごく小さな声で囁いた。


「……本当に、君らしくない」


 ルシアンは反射的に振り返りかけて、止めた。


 駄目だ。ここで反応してはいけない。


 そのまま歩き出す。視線は前だけを見る。背中に周囲の囁きが刺さるが、聞こえないふりを徹底する。


 教室へ着くころには、すでにかなり消耗していた。


 まだ朝だというのに、これほど神経を削られるとは思わなかった。机に鞄を置き、静かに椅子へ腰かける。座席の位置は窓際の後方。以前のルシアンが好んでいた、教室全体を見渡せる場所だ。今となってはあまり落ち着く席ではないが、学期途中で勝手に変えるわけにもいかない。


 教室内でも、当然ながら視線は集まった。


 露骨に話しかけてくる者はいない。だがルシアンが席についただけで、近くの会話が一瞬止まり、少し間を置いてからまた別の話題を装って再開する。その不自然さがむしろ痛い。


 ――目立たず生きたいのに。


 昨夜の自分へ文句を言いたくなるが、相手が第一王子では避けようもない。


 せめて今日一日、余計なことが起きなければいい。


 そう願った時、教室の後方から控えめな声がした。


「あの、ルシアン様」


 そちらを見ると、下級貴族の少年が教本を抱えたまま立っていた。たしか同じ講義を取っている子だが、名前まではすぐに出てこない。彼は緊張で顔を赤くしながら言う。


「以前お借りした本……その、返そうと思って」


 ルシアンは目を瞬いた。


 本?


 前世の記憶が混ざってまだ曖昧な部分も多いが、たしかに数日前、図書室で必要な資料が足りず困っていたこの少年へ、ルシアンが予備の教本を貸したことがあった気がする。いや、今の自分が貸したのではない。おそらく、記憶を取り戻す直前の“この世界の自分”が気まぐれにそうしたのだろう。


 だが少年は、その行為をちゃんと覚えていたらしい。


「……ああ」


 ルシアンはできるだけ柔らかく答えた。


「別に急がなくてもよかったのに」


「で、でも、とても助かったので……!」


 少年は勢いよく頭を下げ、教本を差し出す。周囲の何人かがそのやり取りを見ていた。


 ルシアンは一瞬迷ったが、そのまま受け取るのではなく首を振った。


「次の講義でも必要だろう。持っていて構わない」


「えっ、ですが」


「終わってから返してくれればいい」


 少年は目を丸くした後、ぱっと表情を明るくした。


「ありがとうございます!」


 その声に、教室の空気が微妙に揺れる。


 ルシアンはすぐに気づいた。周囲が見ている。“悪役令息ルシアン”が、下級貴族の生徒に穏やかに接している、その事実を。


 しまった、とも思う。


 目立たないためには、こういう善意すら極力目につかない形でやるべきだった。だが今の場で突き放すのも違う。難しい。何もかもが難しい。


 少年が席へ戻ると、隣の列から小さな囁きが聞こえた。


「……思っていたほど」


「でも、昨日のこともあるし……」


 全てまでは聞き取れない。だが少なくとも、“一方的に悪い人間”として見ていた者の認識に、ほんの僅かに揺らぎが生まれたのは確かだった。


 それ自体は悪くない。


 悪くないはずなのに、今はそれすら怖い。


 変化が目に見えるほど、アルベールにもジュリアンにも“以前とは違う”と認識されやすくなるからだ。


 ルシアンはこめかみを押さえたくなるのを堪えながら、机上の教本へ視線を落とした。


 その時、教室のざわめきが一段階、別の意味で高まった。


 ルシアンは嫌な予感と共に顔を上げる。


 教室の入り口付近で、生徒たちがさりげなく道を空けていた。


 そこを通ってきたのは、見覚えのある少女だった。


 栗色の髪を柔らかく巻き、淡い春色のリボンを結んだ令嬢。セシリア・フォルナン。ゲーム本編の“ヒロイン枠”であり、断罪イベントの中心に置かれる存在。


 ルシアンの喉がきゅっと縮まる。


 近づくな、と思う。


 いや、自分が近づかなければいいのだ。距離を取れ。関わるな。余計なフラグを立てるな。


 セシリアもまた、教室に入るなり一瞬だけルシアンを見た。その表情には、恐れとも警戒とも言い切れない複雑な色が浮かんでいる。昨夜の夜会の噂を聞いているのかもしれないし、これまでのルシアンとの微妙な距離感をまだ引きずっているのかもしれない。


 いずれにせよ、ここで何かが起きれば面倒だ。


 ルシアンはすぐに視線を逸らし、教本へ意識を戻した。


 話しかけない。見ない。刺激しない。


 それが今の最善だ。


 だが、そう簡単に静かな朝は終わってくれなかった。


 少しして、教室の前方で誰かが大きめの声を出した。


「そういえばセシリア様、昨日の夜会でもお綺麗でしたわ。第一王子殿下もご覧になっていたのでは?」


 わざとらしいほど明るい口調。


 令嬢たちの間からくすくすとした笑いが漏れる。


 セシリアは困ったように笑って「そんなことは」と返すが、その一瞬、誰かの視線がルシアンへ向くのを感じた。比較対象。あるいは、ここで嫉妬して何か言うのではないかと期待する視線。


 ゲーム本編の悪役令息なら、ここで棘を向ける。


 “あなたのような方が殿下の視界に入るわけがない”とか、“身の程をわきまえなさい”とか、そんな分かりやすい嫌味を言って空気を凍らせるのだろう。


 だが今のルシアンは、教本の頁をめくるふりをしたまま、何も言わなかった。


 教室の空気が、逆の意味で少しざわつく。


 言わないのか、と。


 ルシアンはその視線に耐えながら、心の中で必死に自分へ言い聞かせる。


 乗るな。


 それは罠だ。


 ここで反応したら終わりだ。


 すると前方の令嬢の一人が、今度は露骨に聞こえる声量で言った。


「ルシアン様はずいぶんお静かですのね。昨日は殿下とお話しされたのでしょう?」


 教室がしんと静まる。


 教師はまだ来ていない。だからこそ、こういう半端な挑発が生まれるのだろう。


 ルシアンはゆっくり顔を上げた。


 話しかけてきた令嬢は、表向きは無邪気な好奇心を装っている。けれどその瞳の奥にあるのは明らかに“どう返すか見たい”という色だ。


 ここで冷たく切れば、感じが悪い。


 曖昧に笑えば、噂を認めたことになる。


 ほんの一拍の沈黙のあと、ルシアンはできるだけ淡々と答えた。


「殿下は体調を気遣ってくださっただけだ」


 それは先ほどジュリアンにも言ったのと同じ返答だった。


 けれど今度は、すぐ隣から別の声が挟まる。


「まあ。殿下はずいぶんとお優しいのですね」


 甘く、どこか棘のある言い方。


 ルシアンは胸の奥で小さく息を呑む。やはり駄目だ。この返答は“第一王子がルシアンを気にかけている”事実だけを補強してしまう。


 だが他にどう答えればよかったのか。


「……それ以上の意味はない」


 低く付け加える。


 今度こそ語気が少し硬くなってしまった。しまったと思った時には遅い。何人かの表情がすっと変わる。


 ああ、やってしまった。


 たった一言で、また“感じの悪いルシアン”へ半歩戻った気がする。


 その空気を切るように、教室の扉が開いた。


 教師が入ってくる。ざわめきは一気に収まり、生徒たちはそれぞれ席へ戻った。助かったと思う一方で、ルシアンの内心は全く落ち着かなかった。


 授業中も、視線は時折感じた。


 講義に集中しようとしても、昨夜から今朝にかけてのことが頭を離れない。王子の言葉。ジュリアンの探り。令嬢たちの反応。セシリアの視線。何もかもが、ゲーム知識にない形で少しずつずれていく。


 昼休みになり、人の流れが教室から食堂や中庭へ移り始めても、ルシアンはすぐに立ち上がれなかった。


 机に肘をつき、そっと額へ指を当てる。


 静かにしようとしただけなのに、もうこんなに疲れている。


「……先が思いやられる」


 その呟きは、ほとんど溜息と同じだった。


 するとすぐ近くで、椅子が引かれる小さな音がした。


 反射的に顔を上げる。


 そこに立っていたのは、セシリアではなかった。


 もちろん、ジュリアンでもない。


 第一王子の近衛騎士として知られる、長身の青年だった。


 レオンハルト・シュタイン。


 無駄のない軍人めいた立ち姿に、教室中の視線がまたしても一斉に集まる。


 彼は表情をほとんど変えぬまま、ルシアンへ短く告げた。


「ルシアン・エヴラール様。殿下がお呼びです」


 教室の空気が、凍った。


 ルシアンの思考も、一瞬で白く飛ぶ。


 ――また?


 ようやく形になり始めていた“目立たず生きる計画”が、音を立てて崩れていく気がした。

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