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『断罪予定の悪役令息ですが、冷酷第一王子にだけ求婚されています』  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第2話 冷酷第一王子に呼び止められました

夜会というものは、終わりが近づくほど人の本性をよく映す。


 最初の一時間は、誰もが余所行きの顔をしている。笑みは完璧で、礼節は整い、言葉も穏やかだ。

 けれど時が経ち、酒が回り、疲れが滲み始めると、その表情の端に本音が覗く。


 誰がどこに苛立っているのか。

 誰が誰を見下しているのか。

 誰がどこへ取り入ろうとしているのか。


 そういうものが、夜の深まりとともに、だんだんと輪郭を持つ。


 ルシアン・エヴラールは、そのことを今夜ほど骨身に染みて感じたことはなかった。


 何しろ、自分自身が“見られる側”であることを、痛いほど思い知らされている。


 回廊でアルベール・リュミエールに呼び止められて以降、ルシアンはなるべく人の輪から距離を置いていた。

 けれど、完全に姿を消せるわけではない。侯爵家の嫡男として、主催者側への挨拶も、幾人かの高位貴族への社交辞令も必要だ。無視をすればそれはそれで悪目立ちする。


 結果としてルシアンは、笑顔とも無表情ともつかない顔のまま、次々と他人の視線を浴び続けることになった。


 中でも厄介なのは、さきほどの場面を見ていた者たちの好奇心だった。


「第一王子殿下が、エヴラール侯子に何か仰っていたわよね」

「珍しいこともあるものだ」

「お叱りかしら?」

「それとも、また何か問題でも起こしたのではなくて?」


 遠巻きに聞こえてくる囁き声に、ルシアンは反応しない。

 反応したところで、ろくなことにはならないと分かっていたからだ。


 今の自分に必要なのは、余計な言葉ではない。

 夜会を無事にやり過ごし、東棟の小会議室へ向かい、王子の“話”を済ませて、それで終わること。


 それだけだ。


 ――それだけのはずなのに。


 指先がずっと冷たい。


 グラスを持ち替えても、深く呼吸しても、その冷たさが消えなかった。

 王子の言葉が頭の中にこびりついている。


『今夜のお前は、随分と静かだ』

『いつもと違う』


 あれは、どこまで気づいている声音だったのだろう。


 もちろん、前世の記憶が蘇ったなどと考えるはずがない。

 そんなことは、人に言って信じてもらえる話ではない。


 だが、少なくとも王子はルシアンの“変化”には気づいていた。


 ゲームの記憶の中のアルベールは、冷徹で、鋭くて、他人の嘘やごまかしに容赦がない人物だった。

 もしも今のルシアンの違和感を、“不審な変化”として捉えたのなら。


「……最悪だわ……」


 思わず、誰にも聞かれないほど小さな声で呟く。


 変わらなければ断罪される。

 けれど変わりすぎても、今度は別の意味で警戒される。


 破滅回避とは、もっと単純なものだと思っていた。

 ヒロイン枠を虐めず、嫌味を言わず、攻略対象たちに近づかなければ済む話だと。


 だが現実は、そんなに都合よく出来ていないらしい。


 ルシアンは壁際に置かれた背の高い花瓶の陰に半歩寄り、そっと息を吐いた。

 少しでも視線から逃れたかった。


「ルシアン様」


 また名前を呼ばれて、今度は肩がびくりと跳ねた。


 振り返ると、そこにはセシリア・フォルナンがいた。


 淡い藤色のドレスは夜会の灯りの下で柔らかく光を返し、伯爵令嬢らしい控えめな華やかさをまとっている。彼女の表情は、先ほどよりもいくらか真剣だった。


 ルシアンは一瞬だけ、身構えた。


 ゲームの知識がある今、セシリアとの接触は一番避けたい。

 彼女そのものが悪いわけではない。むしろ彼女は、物語の中でいつも“巻き込まれる側”だった。


 問題は、彼女とルシアンが同じ場所にいるだけで、周囲が勝手に構図を作り上げることだ。


 悪役令息が、可憐な令嬢を見下す。

 悪役令息が、令嬢に敵意を向ける。

 悪役令息が、令嬢を泣かせる。


 そういう筋書きが、最初から空気の中に存在している。


「何か」


 できるだけ短く、穏やかに答える。


 セシリアは、少しだけ目を伏せた。


「先ほどは、失礼いたしました。体調がお悪いのに、わたくし……お声をかけてしまって」


 ルシアンは一瞬、返答に困った。


 謝られるようなことではない。

 むしろ、自分が勝手に混乱してその場を去っただけだ。


「お気になさらず。私の方こそ、礼を欠きました」


 そう返すと、セシリアはまたしても、ほんのわずかに驚いた顔をした。


 ――やはりか。


 今までのルシアンなら、こうは言わなかったのだろう。

 もっと棘のある言い方をしたか、露骨に無視したか、そのどちらかだったはずだ。


 前世の記憶のせいで、自分の言動一つ一つが“正解を探る動き”になっている。

 その不自然さを、周囲は敏感に感じ取ってしまう。


 セシリアは逡巡するように指先を組み合わせ、それから意を決したように顔を上げた。


「ルシアン様は……最近、少しだけ変わられましたね」


 心臓がひやりと冷えた。


 今夜何度目か分からない言葉。

 しかも今度は、ゲームの“ヒロイン枠”からの指摘だ。


「そう、見えますか」


「はい。以前より……その……」


 セシリアは困ったように言葉を探し、結局、小さな声でこう続けた。


「怖く、なくなった気がして」


 ルシアンは一瞬、言葉を失った。


 それは責めでもなく、侮辱でもなく、ただ率直な感想だった。

 そしてその率直さが、妙に胸に刺さった。


 以前のルシアンは、彼女にとって“怖い相手”だったのだ。


 ゲーム知識として知っていた事実を、現実の誰かの口から改めて聞かされると、想像以上に堪えた。


「……そうですか」


 それだけ返すのが精一杯だった。


 セシリアは何か言い足そうとして、だがその瞬間、向こうからジュリアン・ヴァレリオが近づいてくるのが見えた。


「セシリア様、こちらにいらしたのですね」


 人好きのする笑み。

 よく通る、柔らかな声。

 外見だけを見れば、これ以上ないほど好青年だ。


 けれど今のルシアンには、前世の知識がある。

 ジュリアンが“笑顔の裏に計算を隠す人物”であることも知っている。


 彼はセシリアの傍らに立つと、わざとらしく安堵したように言った。


「心配しましたよ。エヴラール侯子とお話をされていたから、もしやまた何か困らされているのではと」


 その声音はあくまで穏やかだ。

 だが、含みは十分すぎるほど含んでいる。


 セシリアが「違います」と否定しかける。

 ルシアンはそれより先に、一礼した。


「ご安心を。伯爵令嬢に無礼はしておりません」


「それは何よりです」


 ジュリアンは笑った。

 その笑みの奥にあるものを、ルシアンはもう知っている。


 この男は、悪意を露骨に振りかざしたりはしない。

 いつも穏やかで、親切で、正しそうに振る舞いながら、周囲に“そう見える空気”だけを作るのだ。


 だから厄介なのだと、ゲームをしていた頃も思った記憶がある。


「では、私はこれで」


 短く言って、その場を離れる。


 ジュリアンは止めなかった。

 ただ、横目にこちらを観察していた。まるで珍しい生き物でも見るように。


 その視線から逃れるようにして大広間の反対側まで移動したルシアンは、ようやく息をついた。


 だめだ。


 この夜会の間だけでも、既にいくつもの“イベント外の違和感”が発生している。

 セシリアはルシアンの変化に気づき、ジュリアンはそれを面白がっている。

 何よりアルベールが、自分を呼び出した。


 今さら思考を巡らせたところで結果は変わらない。

 だが、不安だけはどんどん膨らんでいく。


 東棟の小会議室。


 王宮の東棟には、来賓用の応接室や、少人数の打ち合わせに使う部屋がいくつかある。そのうちの一つだろう。

 夜会の後なら人目も少ない。

 つまり、二人きりになる可能性が高い。


「……本当に、何の話……?」


 答えが出るわけもない問いを、心の中で繰り返す。


 叱責か。

 警告か。

 牽制か。

 それとも――まさか、今後の断罪に繋がる何かの前触れか。


 前世で見たルートの中に、“この時点で王子が個別にルシアンを呼び出す”イベントは、少なくとも記憶にない。

 つまりこれは、既にゲームの既定路線から外れた動きだ。


 外れた結果が良い方向へ向かうとは限らない。

 むしろ、知らない展開というだけで恐ろしかった。


 大広間では、音楽が一曲終わり、拍手がさざめくように広がる。

 夜会もそろそろ締めに向かっている。


 帰りたい。


 心底そう思った。

 馬車に飛び乗って侯爵邸へ逃げ帰り、寝台にもぐり込んで、このまま全部夢だったことにしたい。


 けれど、それは出来ない。


 王子の呼び出しを無視した侯爵令息がどうなるかなど、考えるまでもなかった。


 やがて夜会の主催者側の挨拶が始まり、客たちは少しずつ帰り支度を始める。

 ルシアンも形式的な礼を済ませ、必要最低限の社交辞令だけを交わしてから、そっと大広間を抜け出した。


 王宮の夜は静かだ。


 宴の中心から離れるほど、人の気配は薄くなる。

 豪奢な絨毯の上に靴音は吸い込まれ、壁に等間隔で灯された燭台の明かりだけが、長い回廊を淡く照らしていた。


 東棟へ向かう途中、ルシアンは何度も足を止めそうになった。

 胸が苦しい。

 喉が渇く。

 手のひらにはいつの間にか汗が滲んでいる。


 それでもどうにか目的の扉の前まで辿り着き、深呼吸を一つした。


 小会議室、と札の出た扉。

 重厚な木製で、装飾は控えめだが、王宮の一室らしい品格がある。


 逃げるなら今だ、と頭のどこかが囁く。

 けれどルシアンは目を閉じ、その誘惑を振り払った。


 逃げた先にあるのは、もっと悪い未来だけだ。


 意を決して、扉を叩く。


「……エヴラール侯爵家嫡男、ルシアン・エヴラールです。お呼びと伺い、参りました」


 短い沈黙。


 そして、内側から低い声がした。


「入れ」


 やはり、アルベールの声だ。


 ルシアンは自分でも分かるほどぎこちない動きで扉を開けた。


 室内は思っていたよりも広くなかった。

 長机と椅子が数脚、壁際の書棚、簡素な応接用のソファ、暖炉。会議室というより、少人数の密談向きの部屋だ。

 燭台の灯りは柔らかく、先ほどまでの大広間よりもずっと静かで、閉ざされた空気がある。


 その中央に、アルベールは立っていた。


 夜会用の礼装のまま。

 紺の上着に金の刺繍、肩章、胸元に王家の意匠。

 整った面差しは相変わらず冷たく美しいが、大広間で見たときよりも幾分、表情の緊張が薄い気がした。


「遅くはなかったな」


「お待たせしてはならぬと思い、早めに参りました」


「そうか」


 それきり、会話が切れる。


 ルシアンは立ったまま、次の言葉を待った。


 しかしアルベールはすぐには本題に入らない。

 むしろ、数歩近づいてきて、ルシアンの顔を静かに見つめた。


 その距離が近い。


 大広間ではまだ周囲の視線があった。

 だがここは違う。二人きりの室内で、王子の視線を正面から受けると、それだけで落ち着かない。


「顔色は先ほどより少し戻ったな」


 出てきたのは、そんな言葉だった。


 ルシアンは目を瞬かせた。


「……は」


「回廊で見たときは、今にも倒れそうだった」


 予想外すぎて、返答が遅れる。


 叱責ではない。

 問い詰めでもない。

 王子が最初に口にしたのは、ルシアンの体調のことだった。


「ご心配をおかけしたのでしたら、申し訳ございません」


「謝罪を求めているわけではない」


 アルベールの声は低いが、きつくはない。


「体調が悪いのなら、夜会など早々に切り上げればいい。なぜ最後まで残った」


「……侯爵家の者として、必要なご挨拶がございましたので」


「律儀だな」


 そこにわずかな皮肉が含まれていたのか、それとも本当に感想だったのか、ルシアンには分からなかった。


 ただ、アルベールの視線は依然として鋭い。

 何かを探る目だ。


「お前は今夜、随分と静かだった」


 やはりそこに戻るのか、とルシアンの背筋が強張る。


「左様でしょうか」


「私の目にはそう映った」


 王子は少しだけ首を傾げた。


「セシリア・フォルナンを見ても、以前ほど感情を乱さなかった。ジュリアン・ヴァレリオにも噛みつかない。侍従に礼を言う。使用人にも高圧的ではない」


 そこまで見ていたのか。


 ルシアンの喉がひりついた。


 ゲーム知識で知っている“冷酷第一王子”の像が、今、目の前で別の恐ろしさを帯びて立ち上がる。

 この人は、ただ冷たいだけではない。よく見ている。見すぎるほどに。


「……殿下は、私のことをよくご覧になっておいでなのですね」


 なるべく平静に聞こえるよう努めたが、少しだけ声が掠れた。


 するとアルベールは、ほんの一拍置いてから言った。


「そうだな。見ている」


 あまりにも迷いのない返答だった。


 ルシアンは思わず顔を上げる。

 王子は冗談を言っている顔ではない。


「なぜ、でしょうか」


「それを聞くのか」


「……不思議に思いましたので」


「不思議か」


 アルベールは低く繰り返し、そして静かにルシアンの前へ立った。


 近い。

 先ほどより、さらに近い。


 王子からは強い香油の匂いはしない。代わりに、清潔な布と微かな夜気の香りがした。それが妙に現実感を伴って、ルシアンの鼓動を速める。


「今夜だけの話ではない」


 アルベールは言う。


「お前は昔から、妙に目を引く」


 ルシアンの思考が止まった。


 昔から。

 今夜だけではなく。


 それはまるで、以前から自分を意識していたかのような言い回しだった。


「殿下、私は……」


「だが、今夜は特に違った」


 言葉を遮るようにして、王子は続ける。


「まるで、何かを知った者の目をしている」


 その瞬間、ルシアンの心臓が跳ねた。


 ばれているわけではない。

 そんなはずはない。

 けれど、核心に指をかけられたような感覚があった。


 ルシアンは必死に表情を整える。


「私には、殿下のお言葉の意味が分かりかねます」


「そうか」


 短い返答。

 しかしアルベールは、それ以上強く追及してこなかった。


 代わりに、意外なことを言った。


「ならば別の聞き方をしよう。何を怯えている」


 ルシアンは息を呑んだ。


 怯えている。

 確かにその通りだ。

 断罪未来を思い出し、ゲーム知識と現実の食い違いに戸惑い、王子その人に呼び出されて、怯えないはずがない。


 だが、そんなことを正直に言えるわけもない。


「私は、怯えてなど」


「嘘をつくな」


 ぴしゃりと落ちた一言に、肩が強張る。


 怒鳴られたわけではない。

 けれど、王族として人を従わせることに慣れた声だった。


「お前は今夜ずっと、何かから逃げようとしていた」


 アルベールの青い瞳が、逸らさせないと言わんばかりにルシアンを見つめる。


「セシリアからも、ジュリアンからも、周囲の視線からも……そして、私からも」


 最後の一言で、ルシアンはごまかしきれなくなった。


 図星だった。

 何よりも避けたかったのは、この人だ。


 第一王子アルベール。

 断罪ルートの決定打を下す、最も危険な攻略対象。


 だから近づきたくなかった。

 目をつけられたくなかった。

 けれど現実には、こうして二人きりで向かい合っている。


「……殿下を避けるなど、そのような」


「言い訳はいい」


 アルベールは低く言って、ふとルシアンの手元に視線を落とした。


 ルシアンはそこで初めて、自分の指先が強く握り込まれ、白くなっていることに気づく。

 緊張で、無意識に拳を作っていた。


 次の瞬間、アルベールの手が伸びた。


 驚く間もなく、その長い指がルシアンの手首に触れる。


「……っ」


 びくりと身体が震えた。


 冷たいと思っていた王子の手は、意外にも温かかった。

 その温度が、直に皮膚へ伝わってくる。薄い手袋越しではない。素手で、しっかりと。


 逃げたいのに、逃げられない。


「こんなに冷えている」


 王子は眉をわずかに寄せた。

 それが本当に心配から来た表情なのか、ルシアンには判断がつかない。


「体調の話ではないと言うつもりか」


「……離して、ください」


 どうにかそれだけ絞り出す。


 けれどアルベールはすぐには手を放さなかった。

 むしろ、手首を掴む力は強くないのに、絶対に逃がさないという意志だけは鮮明だった。


「なぜ」


「その……近すぎます」


「近いと困るのか」


「困ります」


「なぜ」


 先ほどから、王子はやけに“なぜ”を問う。

 まるでルシアンの内側にある本音を、一つずつ剥がしていくように。


 困る理由なんて、言えるはずがない。


 あなたに関われば、未来が危ういから。

 あなたの一言で断罪される可能性があるから。

 あなたがゲームの攻略対象で、一番危険な存在だから。


 そんな説明をした瞬間、気が触れたと思われるのが関の山だ。


 ルシアンは唇を噛み、視線を伏せた。


「……私は、殿下のお手を煩わせるような者ではありません」


 ようやく出てきたのは、そんな回りくどい言葉だった。


「ですから、どうかお気になさらず」


 それは“自分に構わないでほしい”という意味だ。

 少なくともルシアンは、そのつもりで言った。


 だがアルベールは、その言葉にほんのわずか表情を変えた。


 冷たい瞳の奥に、苛立ちとも痛みともつかない色が過ったのだ。


「価値がないとでも言いたいのか」


 低く、押し殺した声音。


 ルシアンははっとして顔を上げた。


「い、いえ、そういう意味では」


「お前は昔から、そうやって自分を軽く扱う」


 掴まれた手首に、わずかに力がこもる。

 けれど乱暴ではない。責めるというより、叱るような、ひどく個人的な響きがあった。


 昔から。

 また、その言葉だ。


 ルシアンの頭のどこかがざわつく。

 前世のゲームでは、アルベールとルシアンにそこまで深い個人的接点があった描写は、少なくとも表面上は薄かったはずだ。


 だが今、目の前の王子は、まるで自分をずっと知っている者のように話す。


「殿下は……なぜ、そのようなことを」


「お前が変わったからだ」


 即答だった。


「今までのお前は、噛みつき、虚勢を張り、誰より先に自分を守ろうとしていた。見苦しいほどに」


 容赦のない言葉に、ルシアンはぐっと息を詰める。


 否定できない。

 それはきっと、これまでの“ルシアン”そのものだったのだろう。


「だが今夜のお前は違う。怯えているのに、誰も傷つけないように振る舞っていた。……ようやく、本当のお前が出てきたように見える」


 胸が大きく揺れた。


 本当のお前。


 第1話で回廊でも似たようなことを言われた。

 その意味が、今も分からない。


「……殿下の仰る“本当”が、私には分かりません」


「分からなくていい。今はまだ」


 アルベールはようやく手を放した。


 自由になったはずの手首が、妙に熱い。

 触れられていた場所だけが、くっきりと意識に残っている。


 王子は一歩だけ距離を取り、静かな声で続けた。


「今夜、お前をここへ呼んだのは叱責のためではない」


 ルシアンは慎重に次の言葉を待つ。


「確認したかった」


「何を、でしょうか」


「お前が、何を知り、何を恐れ、何から逃げようとしているのか」


 やはりそこへ戻る。


 王子は本気で、ルシアンの変化を見極めようとしているのだ。

 ぞくりとするほど鋭いのに、不思議と敵意だけは感じない。


 むしろその逆で――。


「殿下は、私を警戒しておられるのですか」


 自分でも驚くほど率直な質問が口をついた。


 アルベールは数秒、無言でルシアンを見つめた。

 その沈黙がまた、心臓に悪い。


 やがて王子は、ごく低く答えた。


「していない」


「ですが」


「警戒ではない」


 そこで、アルベールはほんの少しだけ目を細めた。

 それは冷笑ではなく、何かを押し殺す表情だった。


「……放っておけないだけだ」


 ルシアンは言葉を失った。


 予想していた答えと、まるで違う。


 警戒ではない。

 敵意でもない。

 牽制でもない。


 放っておけない。


 それは、あまりにも個人的で、そして奇妙に親密な言葉だった。


「なぜ、私を……」


 問いが漏れる。


 するとアルベールは、今度こそはっきりと、ルシアンの目を見て言った。


「お前が誰を避けようと、何を隠そうと、私だけは見ている」


 部屋の空気が静止したような気がした。


 暖炉の火が小さく爆ぜる音だけが、やけに大きく響く。


 ルシアンは何も言えなかった。

 言葉が見つからない。


 王子の台詞は、まるで恋慕の告白のようでもあり、監視宣言のようでもあり、あるいはずっと昔から目を離せなかった相手に向ける執着のようでもあった。


 どれにしても、前世で知っていた“冷酷第一王子”の印象とは違いすぎる。


「今夜は戻れ」


 不意に、アルベールがそう言った。


「これ以上ここにいても、お前はろくな顔色をしない」


 追い返されるのかと思い、ルシアンは少しだけ拍子抜けした。

 いや、むしろその方がありがたい。今の頭では、これ以上会話を続けたところで何もまともに返せそうになかった。


「……よろしいのですか」


「今夜はな」


 “今夜は”。


 その含みのある言葉に、また心臓が嫌な跳ね方をした。


 王子は扉の方へ視線を向ける。


「だが一つだけ覚えておけ」


 ルシアンは反射的に背筋を伸ばした。


「お前が誰にも頼らず一人で抱え込むつもりなら、それは許さない」


 静かな声音だった。

 怒鳴り声でも脅しでもない。

 なのに、逆らえない重みがあった。


「許さない、とは……」


「言葉通りだ」


 アルベールは少しだけ近づき、今度は触れない距離で立ち止まる。


「逃げるな、ルシアン」


 名前を呼ばれただけで、胸の奥がひどくざわめいた。


「お前が何から逃げているのかはまだ聞かない。だが、いずれ話してもらう」


 ルシアンは答えられない。


 話せるわけがない。

 けれど、その“いずれ”が来るのだとしたら、自分はいつまで取り繕えるのだろう。


「……承知、いたしました」


 それでも侯爵令息として、そう返すしかなかった。


 アルベールはそれに満足したのかどうか、分からない。

 ただ最後に、今度は本当に淡い、ほとんど見間違いのような笑みを口元に浮かべた。


「そう怯えた顔をするな」


 その一言の方が、よほどルシアンを怯えさせた。


 だって、それはあまりにも優しかったからだ。


 ゲームの中のアルベールは、もっと冷たかった。

 もっと遠かった。

 少なくとも、悪役令息にこんな声音を向ける男ではなかった。


 なのに今の王子は、明らかに違う。


 ルシアンは混乱しきったまま一礼し、どうにか部屋を出た。


 扉が閉まる。


 回廊の冷えた空気が頬に触れて、ようやく息を吐けた。


「……何なの……」


 声に出した瞬間、膝から力が抜けそうになる。


 叱責されると思っていた。

 警戒されると思っていた。

 最悪、すでに断罪へ向けて目をつけられたのだと覚悟していた。


 それなのに実際に向けられたのは、理解不能なほどの観察と、個人的な言葉と、奇妙な保護の意思だった。


 放っておけない。

 私だけは見ている。

 逃げるな。


 どれ一つとして、ルシアンの知る“既定のシナリオ”には存在しない。


 しかも最悪なことに。


「……あの人の方が、ずっと怖いじゃない……」


 知っていた冷酷さよりも、知らない優しさの方が、何倍も恐ろしい。


 断罪してくる敵ならまだ分かる。

 距離を置く理由も、警戒する理由も明確だ。


 けれど、優しくされて、気にかけられて、放っておけないなどと言われたら、どうすればいいのか分からない。


 しかも相手は、第一王子アルベール・リュミエールだ。


 王都で最も尊く、最も手が届かず、最も自分に関わってはいけない相手。


 ルシアンはきつく目を閉じた。


 だめだ。

 惑わされるな。

 今夜のこれは、あくまで王子の気まぐれか、あるいは何か別の意図があるだけかもしれない。


 少なくとも一つ確かなのは、破滅回避のためには、ますます慎重にならなければならないということだ。


 セシリアとは距離を取る。

 ジュリアンにも隙を見せない。

 そして何より――アルベールからも、可能な限り離れる。


 そう心に決めたはずなのに。


 手首に残る熱が、それを許してくれなかった。


 王子の手の温度。

 青い瞳。

 低く落ちる声。


『お前が誰を避けようと、何を隠そうと、私だけは見ている』


 そんな言葉を思い出しただけで、胸の鼓動が乱れる。


 おかしい。

 絶対におかしい。


 こんなのは、断罪ルートの始まりではない。

 けれど安全な未来の気配もしない。


 もっと別の、知らない何かが動き出している。

 そんな不穏さだけが、肌を這うように残っていた。


 ルシアンは東棟の回廊を歩きながら、夜の窓に映る自分の顔を見た。


 青白い。

 情けないくらい動揺している。


「……落ち着いて」


 自分に言い聞かせるように、小さく呟く。


 まだ何も決まっていない。

 王子の本心も、今後の展開も、分からないことだらけだ。

 ただ一つ分かるのは、前世のゲームで知っていた筋書きが、もう最初から少しずつ狂い始めているということ。


 そして、その狂いの中心にいるのが、自分とアルベールだということだった。


 大広間の喧騒は、すでに遠い。

 王宮の夜は深く、静かで、先の見えない闇みたいだった。


 その闇の中で、ルシアンは確かに感じていた。


 断罪の未来から逃げるはずだったのに。

 今、自分はもっと厄介なものに目をつけられてしまったのかもしれない、と。

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