第1話 悪役令息としての未来
夜会の空気は、いつだって少しだけ息苦しい。
磨き上げられた白大理石の床に、天井の巨大なシャンデリアが幾重もの光を落としている。金と銀の糸で縫われたドレス、燕尾服の裾を揺らしながら行き交う貴族たち。弦楽器の優美な旋律。甘い花の香り。控えめな笑い声。
王都の社交界においては、ここにいる全員が笑っているように見えて、その実、誰もが誰かを値踏みしている。
誰がどこと繋がっているのか。
誰が誰に媚び、誰が誰を切り捨てようとしているのか。
誰が今夜、より高く昇り、誰が静かに沈んでいくのか。
そうしたものを見抜く目を持たねば、貴族は生き残れない。
――そう、父は昔から口癖のように言っていた。
「ルシアン様」
そっと囁くように名を呼ばれ、ルシアン・エヴラールは薄く視線を上げた。
侍従見習いの少年が、銀盆の上に乗せたグラスを差し出してくる。葡萄酒ではなく、淡く色づいた果実水だ。夜会の席では酒を嗜む者も多いが、ルシアンはここ最近、意識的に酒精を避けていた。
「ありがとう」
そう言って受け取ると、少年はわずかに目を見開いた。
その反応に、ルシアンは自分でも気づかぬうちに胸の奥がひくりと痛む。
――ああ、そうか。
今の“ありがとう”だけで、驚かれるのだ。
エヴラール侯爵家の嫡男、ルシアン。
社交界では、容姿こそ人形じみて美しいと評されるが、中身は気位ばかり高く、我儘で、嫉妬深く、癇癪持ち。使用人に横柄で、気に入らない相手には露骨に冷たく当たる、嫌われ者の悪役令息。
それが、他人から見た彼の評価だった。
否――“だった”ではない。
今この瞬間も、そう思われている。
美しいだけで、性格は最悪。
侯爵家の威光を笠に着て、誰に対しても尊大。
特に最近は、王都で噂の令嬢に嫉妬しているのではないかと、そんな陰口まで飛んでいた。
ルシアンは、微笑むでもなく、怒るでもなく、ただグラスを唇へ運んだ。
冷えた果実水が喉を通る。甘すぎず、控えめで、どこか青い香りがした。
こうして壁際で気配を薄めている間だけは、少なくとも誰かを傷つけずに済む。
そう考えて、今夜は出来るだけ人の輪から離れていた。
夜会の主役は王家と、王家に近い高位貴族たちだ。侯爵家の嫡男である自分が完全に埋もれることはないにせよ、少なくとも目立つ必要はない。挨拶は済ませた。愛想笑いもした。義務は果たした。
あとは、何事もなく夜が終わってくれればいい。
そう思っていた、そのときだった。
「ルシアン様、今夜は随分と大人しいのですね」
柔らかな声が、左側からかかった。
反射的にそちらを見る。
そこにいたのは、淡い藤色のドレスをまとった少女――セシリア・フォルナンだった。肩口で揺れる栗色の髪に、春の若葉を思わせる緑の瞳。可憐で、守ってやりたくなるような雰囲気を纏った伯爵令嬢。
王都の社交界で、今もっとも“可愛い”と囁かれている娘。
その隣には、紺の礼装を隙なく着こなした青年が控えている。ジュリアン・ヴァレリオ。公爵家の子息で、誰に対しても人当たりがよく、笑顔を絶やさぬことで有名な男だ。
ルシアンの胸が、どくん、と嫌な音を立てた。
その瞬間だった。
頭の奥で、何かが弾けるような感覚がした。
眩暈に似ているのに、意識は妙に冴え渡る。
シャンデリアの光が滲む。
音楽が遠のく。
誰かの笑い声が、水の底から聞こえてくるみたいに歪んだ。
セシリア。
ジュリアン。
王宮主催の春夜会。
壁際に逃げる自分。
そして――このあと起こるはずの、いくつもの出来事。
知らないはずの記憶が、濁流のように脳内へ流れ込んできた。
寝台の上で読み耽った物語。
画面の向こうの立ち絵。
選択肢。
攻略対象。
分岐。
イベント。
エンディング。
それは、前世の記憶だった。
前世の自分は、日本という国で、ごく普通に生きていた。勉強をし、働き、息抜きに本を読み、ゲームを遊んでいた。
その中の一つに、人気のBLゲームがあった。
貴族社会を舞台にした宮廷恋愛もの。
可憐な“ヒロイン枠”の令嬢を巡って、王子や公爵家子息、騎士、側近たちが思惑を交錯させる物語。華やかな恋愛の裏で、王位継承争いや貴族間の陰謀も絡む、重厚なシナリオが売りだった。
そして、その物語で何度も出てきた嫌われ役がいた。
高慢で、嫉妬深く、見栄っ張り。
ヒロイン枠を執拗に敵視し、攻略対象たちに取り入ろうとしては失敗し、最後には証拠と証言を突きつけられて断罪される。
その名は――ルシアン・エヴラール。
……今の、自分の名だ。
息が止まった。
「ルシアン様?」
セシリアの声が、心配そうに揺れる。だが、それに応えることも出来ない。
頭の中では、次から次へと“未来”が映し出されていた。
庭園での嫌味。
学園での紛失事件。
晩餐会での毒騒ぎ。
泣くセシリア。
怒る貴公子たち。
冷たい視線。
父の失望。
社交界での孤立。
最後には、大勢の前で罪を列挙され、侯爵家からさえ切り捨てられ、王都を追われる自分。
ひどい終わり方だった。
ゲームだからと割り切っていた時でさえ、あまり救いのない末路だと思った。
だが、今それが“自分の未来”として喉元に突きつけられると、冗談では済まない。
冷えた指先が、グラスを持つ手に食い込んだ。
「……少し、気分が優れませんので」
掠れた声でそう告げるのが精一杯だった。
セシリアが「あの」と何かを言いかける。ジュリアンが一歩前へ出る。けれどルシアンは礼を欠かぬ程度に頭を下げると、そのまま二人の横を通り過ぎた。
止まりたくなかった。
誰とも話したくなかった。
この場から、一刻も早く離れたかった。
夜会の喧騒から少し外れた回廊へ出ると、ようやく呼吸が戻ってくる。壁に片手をつき、ルシアンは唇を噛みしめた。
「……冗談でしょう……」
低く零した声は、震えていた。
前世の記憶。
ゲームの内容。
自分の役どころ。
全部、鮮明すぎるほど鮮明だ。
夢ではない。幻でもない。これが現実だ。
そして最悪なことに、ゲームのシナリオが正しければ、今はまだ“取り返しのつく段階”にいる。
ルシアンがセシリアに本格的な敵意を向けるのはこれからだ。学園での小さな嫌がらせ、社交界での印象操作、使用人への圧力。そうした小さな悪意が積み重なり、最後の断罪に繋がっていく。
つまり――。
「まだ、間に合う……?」
呟いた言葉は、誰に向けたものでもなかった。
胸が苦しい。
怖い。
だが同時に、まだ道はあると思えた。
ゲーム通りに進まなければいいのだ。
セシリアに近づかなければいい。
余計な嫉妬も見栄も張らず、攻略対象たちとも距離を置けばいい。
何より、自分から破滅へ向かう選択をしなければいい。
幸い、前世の知識ではルシアンは“自爆型”の悪役だった。性格の悪さと短慮が破滅を招いていた部分が大きい。ならば、自分がそれをやめれば、未来は変わるかもしれない。
変えなくてはならない。
社交界から追放されるのは嫌だ。
父に見放されるのも嫌だ。
獄中で死ぬような結末なんて、絶対にごめんだ。
ルシアンは深く息を吸った。
そして、脳内で一つずつ、破滅の要因を整理していく。
第一に、セシリアを敵視しない。
第二に、感情的な言動を控える。
第三に、使用人や下位貴族に高圧的な態度を取らない。
第四に、目立たない。
第五に――攻略対象に関わらない。
特に、第一王子アルベール・リュミエール。
彼はこの物語の最重要人物の一人だ。
冷酷無慈悲、完璧主義、次期国王最有力候補。
誰に対しても容赦がなく、感情を表に出さない氷の王子。
ゲームのシナリオでも、ルシアンに最も厳しい視線を向ける存在だった。最後の断罪の場でも、彼の一言が決定打になるルートがあったはずだ。
だからこそ、絶対に関わってはいけない。
近づかない。
話しかけない。
目をつけられない。
存在感を消して、出来るだけ視界に入らないようにする。
それが一番安全だ。
「……よし」
声に出すことで、どうにか自分を落ち着かせる。
まだ終わっていない。むしろ始まってすらいない。
破滅は、確定した未来ではない。
回避できる。
自分が変われば、きっと。
そう信じたかった。
回廊の窓からは、夜の庭園が見えた。青白い月光が噴水の水面に反射し、まるで別世界のように静かだ。夜会の喧騒が遠い。
その静けさに少しだけ呼吸を整え、ルシアンはもう一度会場へ戻ろうと踵を返した。
――そのときだった。
ふと、ぞくり、と背筋を冷たいものが這った。
視線。
誰かに見られている。
それも、軽い好奇心や単なる偶然の視線ではない。もっと重い、狙いを定めるような視線。
弾かれたように顔を上げる。
回廊の先、夜会の大広間へ続く扉の向こう。人波の隙間から、こちらを見ている男がいた。
黒曜石のような髪。
整いすぎて冷たく見える面差し。
深い蒼の双眸。
濃紺の礼装に、王家の紋章を示す金糸の刺繍。
アルベール・リュミエール。
第一王子その人だった。
ルシアンの呼吸が止まる。
遠目にも分かるほど整った美貌には、微笑み一つ浮かんでいない。けれど、こちらを見つめる視線だけが、奇妙なほど強かった。
冷たいというより、射抜くような。
観察するような。
何かを確かめるような目。
まずい。
本能的にそう思った。
今すぐ目を逸らし、何事もなかったように頭を下げて、この場を離れるべきだ。そう分かっているのに、ルシアンの身体は硬直して動かなかった。
王子の視線が、ゆっくりとこちらへ寄ってくる。
人混みを割るでもなく、騒ぎ立てるでもなく。
ただ自然に、けれど確実に距離を詰めてくるその姿は、獲物を追う獣のようで、ひどく静かだった。
ルシアンの喉がひくりと鳴る。
やがて数歩の距離にまで来たアルベールは、周囲の人間が一瞬で道を開けるほどの気配をまといながら、ルシアンの前で足を止めた。
「殿下」
どうにか礼を取る。完璧とは言いがたい動きだったが、失礼にはならなかったはずだ。
王子はしばし何も言わなかった。
その沈黙が余計に恐ろしい。
前世の記憶の中でも、アルベールは言葉の少ない人物だった。だが、その無言には他人を圧するだけの力がある。今こうして真正面に立たれると、なおさらだった。
「顔色が悪いな」
やがて落ちた声は、低く、静かだった。
「……少し、気分が優れず」
「そうか」
短い返答。
そこで終わるかと思った。
終わってほしかった。
だがアルベールは、ルシアンの横を素通りすることなく、その場に留まった。視線は相変わらずまっすぐにこちらを捉えたままだ。
「今夜のお前は、随分と静かだ」
心臓が嫌な音を立てる。
見られていた。
やはり、見られていたのだ。
「いつもと違う」
その一言に、ルシアンの指先が震えた。
前世の記憶が蘇ったのはつい先ほどだ。けれど、自分の態度は確かに変わっただろう。セシリアに噛みつかなかった。侍従に礼を言った。壁際で目立たぬようにしていた。
それを、王子は見ていたのか。
「殿下にそのように申し上げていただくようなことでは……」
「そうか?」
アルベールはわずかに目を細めた。笑っているわけではない。ただ、何か興味深いものを見る目だ。
ルシアンは必死に表情を崩さないよう努めた。ここで狼狽えれば余計に不審に思われる。
落ち着け。
相手は王子だ。
失礼なく、当たり障りなくやり過ごせばいい。
そう自分に言い聞かせていた、そのとき。
アルベールはごく自然な口調で言った。
「後で、私のもとへ来い」
意味が分からなかった。
ルシアンは瞬きをする。
「……は?」
思わず、間抜けな声が漏れる。すぐに自分で顔色を変えた。
「も、申し訳ございません。聞き間違いかと」
「聞き間違いではない」
王子の声は淡々としている。
「夜会が一段落した後、東棟の小会議室へ来い。話がある」
心臓が、ひゅ、と縮んだ。
なぜ。
どうして。
前世の記憶を思い出したばかりの頭で、答えなど出せるはずもない。
アルベールが、自分に話だと?
よりにもよって、今。
よりにもよって、こんなタイミングで。
「……殿下、私に、ですか」
「他に誰がいる」
それはあまりにも当然のような口調だった。
逃げ道がない。
王命ではない。だが王子の呼び出しを、侯爵家の嫡男とはいえ断れるはずがない。ましてこの場で拒絶など出来るわけもない。
ルシアンは乾いた唇を舐め、どうにか頭を下げた。
「承知、いたしました」
「いい返事だ」
アルベールはそれだけ言うと、最後にもう一度だけルシアンの顔を見た。
その視線はやはり冷たいはずなのに、奇妙な熱を含んで見えた。
まるで、長く探していたものをようやく見つけたかのような。
「遅れるな」
低く告げて、王子は踵を返す。
人々は再び自然に道を開け、彼は何事もなかったかのように夜会の中心へ戻っていく。残されたルシアンだけが、その場に縫い留められたみたいに動けなかった。
頭の中で、警鐘が鳴り響いていた。
関わるな。
近づくな。
目をつけられるな。
たった今、自分でそう決めたばかりだったのに。
それなのに、よりにもよって最初に来たのが、第一王子からの呼び出しだなんて。
「……そんなの、聞いていない……」
震える声が、月光の差す回廊へ溶けていく。
破滅回避の一歩目で、もう予定が狂っている。
それでも行かないわけにはいかない。
ルシアンは冷えきった指先をぎゅっと握りしめた。
東棟の小会議室。
夜会の後。
第一王子アルベールとの二人きりの対話。
そのどれもが、嫌な予感しかしなかった。
けれど同時に、物語はもう、前世で知っていた筋書きとは少し違う顔を見せ始めている。
それが救いになるのか、
それともより深い破滅の始まりなのか。
まだ、ルシアンには分からなかった。




