第34話 ジュリアン・ヴァレリオの焦燥
旧礼拝堂は、王立学園の敷地の端にひっそりと建っている。
今では式典にも礼拝にもほとんど使われない、古い石造りの建物だ。尖塔は低く、窓には色硝子の名残がある。晴れた日でさえ内部は薄暗く、長椅子にはうっすら埃が積もっている。
そこは、誰かが何かを隠すには都合のいい場所だった。
そして、誰かを呼び出すにも。
ルシアンは王宮から戻ったレオンハルトの報告を聞きながら、指先が少しずつ冷えていくのを感じていた。
王立学園の応接室。
窓の外では、放課後の光が校庭を淡く照らしている。いつもなら生徒たちの声が聞こえてくる時間だが、この部屋の中だけは重い静けさに沈んでいた。
机の上には、旧礼拝堂から回収された証拠品の写しが並べられている。
偽造書簡の下書き。
ルシアンの筆跡を模倣するために何度も練習された紙片。
カルヴァン家の関係者とヴァレリオ家の使用人が接触した日時を書き留めた覚え書き。
さらに、公開式典で使われた黒い箱と似た寸法の箱を発注した記録の写し。
それらはすべて、ジュリアン・ヴァレリオ本人へ直接繋がるものではない。
けれど、彼の周辺を濃く染めていた。
「旧礼拝堂の隠し棚にあったものです」
レオンハルトは淡々と報告した。
「隠し棚?」
ルシアンが聞き返すと、彼は頷く。
「祭壇裏の装飾板が外れるようになっていました。古い建物ですので、昔は聖具や書類を保管していた場所だったのでしょう。今はほとんど知られていません」
「なぜ、そんな場所を」
「普段から使っていた者がいたと考えるのが自然です」
その言葉に、ルシアンの胸が重くなる。
旧礼拝堂。
ジュリアンが呼び出そうとした場所。
もしあの日、自分が彼の誘いに乗っていたらどうなっていただろう。
隠し棚に証拠があることを示され、何かを見つけさせられたのか。
逆に、そこにいたという事実だけを作られたのか。
あるいは、あの場所でまた別の証言者を用意されていたのか。
想像するだけで、背筋が冷えた。
「……行かなくてよかった」
思わず漏れた言葉に、アルベールが静かに答えた。
「そうだな」
彼は窓辺に立っていた。
西日を受けた横顔はいつも通り整っていて、感情が読み取りづらい。だがルシアンには分かる。
怒っている。
かなり。
ただし、その怒りは表へ出る前に凍りついている。
アルベールは机上の紙片を一枚手に取った。
「これは?」
レオンハルトが答える。
「ルシアン様の筆跡を模倣した練習紙です。公開式典で出された脅迫文と同じ癖が見られます」
「筆跡鑑定は」
「王宮の鑑定官へ回しています。現時点では、同一の偽造者によるものと見てよいとのことです」
ルシアンはその紙を見つめた。
自分の字に似た線が、何度も何度も書かれている。
自分の名前。
自分が使いそうな言い回し。
侯爵家の正式文書で使う署名の形。
それを誰かが練習していた。
自分を陥れるために。
悪役令息として完成させるために。
「気分が悪いか」
アルベールの声が落ちる。
ルシアンは顔を上げた。
「少し」
「座れ」
「座っています」
「もっと深く座れ」
「命令が細かいです」
言い返してから、自分でも少し驚いた。
こんな状況で、まだ軽口が出る。
以前なら、ただ黙って飲み込んでいたかもしれない。あるいは怒りで震えて、見苦しい言葉を吐いていたかもしれない。
今は違う。
怖いし、気持ち悪いし、腹も立つ。
けれど、隣にアルベールがいて、レオンハルトが証拠を整理している。
自分は一人でこの紙片を見つめているわけではない。
その事実が、ほんの少しだけ呼吸を楽にしていた。
アルベールは紙片を机へ戻した。
「ここまで揃っても、ジュリアン本人はまだ逃げられる」
ルシアンはゆっくり息を吸った。
「やはり、そうなのですね」
「ああ。署名も直接の命令書もない。筆跡練習紙も、彼の手によるものとは断定できない。旧礼拝堂を使った記録も、学園内の一部生徒なら立ち入れた場所だと言い逃れできる」
冷静な分析だった。
そして、残酷な現実でもあった。
証拠は増えている。
けれど、ジュリアン本人を完全には縛れない。
「では、また周囲の者だけが切られるのですか」
声が少し硬くなる。
侍女見習い。
給仕。
エリック。
マルク・ベラン。
弱みを握られた者、金で動かされた者、事情を利用された者。
もちろん彼らにも責任はある。だが、本当に物語を作った者がその背後にいるなら、その者だけが逃げ切るのはあまりに苦い。
アルベールは短く答えた。
「そうはさせない」
低い声だった。
「ただ、焦るな。こういう相手は、追い詰められてからが本番だ」
「……本人が動く、と?」
「そうだ」
アルベールは窓の外を見る。
「今までは、人を動かしていた。誰かの弱みを使い、誰かの善意を使い、誰かの恐怖を使った。だが、自分へ疑いが近づけば、いずれ自分で整えようとする」
「その時に、尻尾を出す」
「出させる」
淡々と言われた。
ルシアンは小さく息を吐く。
「殿下は本当に怖いですね」
「今さらだ」
「否定なさらないのですね」
「必要なことだ」
そういうところが、確かに冷酷第一王子なのだと思う。
けれど、その冷たさに守られている自分もいる。
以前なら、その事実を受け入れられなかった。
今はまだ落ち着かないが、完全に拒むつもりはなかった。
「ルシアン」
「はい」
「ジュリアンが近づいてきても、一人で応じるな」
「分かっています」
「本当に?」
「旧礼拝堂にも行きませんでした」
「それは評価している」
「では、もう少し信用してください」
「半分はしている」
「また半分」
思わず苦い声が出た。
アルベールの目元がわずかに緩む。
「残り半分は、お前の恐怖を信用していない」
「……分かっています」
最近、この言葉に少し慣れてきてしまった。
自分自身を信じていないわけではない。
恐怖に飲まれた自分の判断を信用していないだけ。
そう受け取れるようになったのは、たぶん大きな変化だ。
レオンハルトが書類をまとめる。
「証拠品はこの後、王宮へ戻します。旧礼拝堂周辺は封鎖済みです。学園長にも、無断立ち入りを禁じるよう通達しました」
「ジュリアンは?」
アルベールが尋ねる。
「本日は通常通り学園におります。放課後、数名の生徒と会話した後、一人で寮棟側へ向かいました。王宮側の監視はつけています」
「露骨にするな」
「承知しております」
ルシアンはその報告を聞きながら、胸の奥に奇妙な重さを覚えていた。
ジュリアンが通常通り学園にいる。
あれほど証拠が集まり始めても、まだ微笑んでいる。
それが怖かった。
悪意を剥き出しにされるよりも、よほど。
翌日、ルシアンはその怖さを改めて思い知ることになった。
朝の教室。
生徒たちはいつもより少し落ち着かない様子だった。旧礼拝堂が封鎖されたことは、すでに学園内へ広まっている。表向きは「老朽化した建物の安全確認」という説明になっていたが、誰も本気でそれだけだとは思っていない。
公開式典での偽造証拠。
旧礼拝堂への呼び出し。
王宮調査。
皆、それらを繋げて考えている。
ただ、声には出さない。
出せない。
ルシアンが教室へ入ると、いくつもの視線が向いた。
その中に、ジュリアンもいた。
彼はいつも通り席に座り、近くの生徒と穏やかに話していた。表情は柔らかく、姿勢も自然だ。まるで昨日も一昨日も、何も起きていなかったかのように。
だが、ルシアンには分かった。
彼の周囲にいる生徒たちの態度が、少しだけ変わっている。
以前なら、ジュリアンの言葉に即座に笑顔が返っていた。
今は、一拍遅れる。
頷く前に、互いの顔を見る。
彼と距離を置くほどではないが、完全には寄りかからない。
微かな変化だ。
だが、ジュリアンほど人の空気に敏感な男が気づかないはずがない。
ルシアンが席へ向かう途中、ジュリアンと目が合った。
笑みを向けられる。
「おはよう、ルシアン」
声は穏やかだった。
「おはよう、ジュリアン」
ルシアンも静かに返す。
それだけで終わるはずだった。
けれど、ジュリアンは続けた。
「旧礼拝堂が封鎖されたらしいね」
教室の空気が、ぴたりと止まった。
誰もがその話題に触れたかった。
しかし、誰も触れられなかった。
それをジュリアンが、何でもないことのように口にしたのだ。
ルシアンは立ち止まる。
「そのようだな」
「何かあったのかな」
「老朽化の確認だと聞いている」
「君がそう言うなら、そういうことにしておこうか」
柔らかな声。
だが、その中に針がある。
ルシアンは目を逸らさなかった。
「何か知っているなら、王宮調査へ話せばいい」
ジュリアンの笑みが少し薄くなる。
「最近の君は、すぐ王宮調査と言うね」
「必要だからだ」
「殿下に守られることに慣れてきた?」
教室が静まり返る。
少し前なら、その言葉でルシアンの胸は大きく揺れていただろう。
第一王子を盾にしている。
守られるだけの存在。
そう思われることを恐れて、自分から距離を取ろうとしたかもしれない。
だが今は違う。
怖さはある。
それでも、言葉は出た。
「慣れてはいない」
ルシアンは静かに答えた。
「だが、必要な守りを受け取ることまで恥じるつもりはない」
ジュリアンの目が、一瞬だけ止まる。
ルシアンは続けた。
「それに、殿下の名を使って調査を歪めるつもりもない。だから、必要なことは正式な場へ出す」
ジュリアンはしばらく黙った。
周囲の生徒たちは息を潜めている。
この会話がただの朝の挨拶ではないことは、誰の目にも明らかだった。
やがて、ジュリアンは笑った。
「本当に、君は変わった」
「それも聞き飽きた」
「そうだったね」
ジュリアンは軽く肩をすくめた。
「でも、少し寂しいよ。前の君は、もっと分かりやすかった」
その言葉に、ルシアンの胸が微かに鳴った。
前の君。
分かりやすかった。
つまり、怒らせやすかった。
疑わせやすかった。
悪役へ戻しやすかった。
そう聞こえた。
「分かりやすい悪役がいなくなって、困っているのか」
ルシアンはそう返していた。
自分でも、少し踏み込んだと思った。
教室の空気が凍る。
ジュリアンの微笑みが、ほんの一瞬だけ消えた。
ほんの一瞬。
だが、確かに消えた。
そこにあったのは、怒りだった。
冷たい、剥き出しになる寸前の怒り。
「……君は」
ジュリアンの声が、ほんの少し低くなる。
だが次の瞬間、彼は笑みを戻した。
「ずいぶん意地悪を言うようになったね」
「意地悪ではない。確認だ」
「それが意地悪なんだよ」
軽い調子に戻したつもりなのだろう。
だが、もう完全には戻っていなかった。
周囲の生徒たちも気づいている。
ジュリアンの笑みが、一度崩れたことに。
その時、教室の入口からセシリアが入ってきた。
彼女は空気の異様さにすぐ気づいたらしく、足を止める。視線がジュリアンとルシアンの間を行き来した。
「……おはようございます」
セシリアの声に、教室の空気が少し動く。
ルシアンは彼女へ会釈した。
「おはよう、フォルナン嬢」
ジュリアンも柔らかく微笑む。
「おはよう、セシリア」
セシリアは少し迷った後、ルシアンの方へ歩いてきた。
その選択だけで、教室の空気がまた揺れた。
以前なら、彼女はジュリアンの側に立っていたかもしれない。少なくとも、皆はそう期待していた。
だが今、彼女はルシアンへ近づいた。
「ルシアン様。今日の午後、王宮文官の方に証言の追加確認を受けることになりました」
「そうか」
「はい。旧礼拝堂の件についても、私が知っていることをお話しするつもりです」
ジュリアンの表情が、わずかに変わった。
ルシアンはそれを見た。
セシリアも、おそらく見ていた。
彼女は手を胸元で軽く握り、けれど顔を伏せなかった。
「私も、曖昧なままにはしたくありません」
その言葉は静かだった。
けれど、ジュリアンに届くには十分だった。
ジュリアンは微笑んだ。
「それは立派だね、セシリア」
「ありがとうございます」
セシリアは丁寧に返した。
だが以前のように、その柔らかい言葉へ安心した顔はしなかった。
少しだけ距離を置いた声だった。
ジュリアンの指先が、机の端を軽く叩く。
本当に小さな動き。
だが、ルシアンは見逃さなかった。
焦っている。
セシリアが自分の言葉で動き始めたこと。
ルシアンが誘導に乗らなくなったこと。
周囲の生徒たちが、すぐに自分を信じなくなったこと。
それらが積み重なって、ジュリアンの余裕を削っている。
授業の鐘が鳴った。
その音で、教室は強制的に日常へ戻される。
生徒たちは席に着き、教師が入ってくる。
だがルシアンの胸の中には、先ほどのジュリアンの表情が残っていた。
笑みの下の怒り。
隠しきれなかった焦燥。
それは、黒幕の輪郭が一段濃くなった瞬間だった。
昼休み、ルシアンは中庭の端でレオンハルトと合流した。
王宮文官への報告のため、朝のやり取りを伝える必要があったからだ。
レオンハルトは静かに聞き終えると、短く言った。
「重要な変化です」
「そうなのか」
「はい。ジュリアン様は、これまで感情を表に出すことを避けていました。教室内で一瞬でも笑みを消したなら、相当焦っていると見てよいかと」
「……私は、少し言いすぎたかもしれない」
ルシアンが言うと、レオンハルトはまっすぐ首を横に振った。
「必要な確認だったと思います」
「君まで殿下のようなことを言う」
「光栄です」
「だから褒めていない」
いつもの返しをしながらも、ルシアンは少しだけ落ち着いた。
その日の放課後、王宮からアルベールが来た。
当然のように。
レオンハルトから報告が行ったのだろう。
応接室へ呼ばれると、アルベールは開口一番に言った。
「言ったそうだな」
「……何をでしょう」
「分かりやすい悪役がいなくなって困っているのか、と」
やはり報告されている。
ルシアンは少しだけ視線を逸らした。
「言いました」
「よく言った」
怒られるかと思った。
だから、その返答に少し拍子抜けした。
「よかったのですか」
「よかった」
「殿下の判断基準が、やはり分かりません」
「今回は相手の仮面を揺らした。十分だ」
アルベールは淡々と答える。
「ジュリアンは、そろそろ自分で動く」
「……怖いですね」
「怖いなら言え」
「怖いです」
「よし」
「よし、なのですか」
「ああ。言えたなら、次は対処できる」
この人は本当にそういう考え方をする。
怖いことそのものよりも、それを言えないことを問題にする。
ルシアンは小さく息を吐いた。
「殿下」
「何だ」
「ジュリアン様は、なぜそこまで私を悪役にしたかったのでしょう」
ずっと考えていた問いだった。
嫉妬。
アルベールへの執着。
家の思惑。
自分が利用しやすかったから。
理由はいくつもある。
だが、どれもまだ表面のように感じる。
アルベールは少しだけ沈黙した。
そして答えた。
「お前が、自分で思うより多くのものを持っていたからだろう」
「私が?」
「そうだ」
「私は、何も持っていなかった」
「お前がそう思っていただけだ」
ルシアンは言葉を失う。
アルベールは続けた。
「家格。立場。私の視線。セシリアの信頼。下級生や使用人たちからの変化。お前は、自分では何も持っていないと思いながら、少しずつ周囲を変えていた」
「……そんな大層なことでは」
「お前はすぐ自分を小さくする」
低い声で遮られる。
「それも少しずつ直せ」
「注文が多いです」
「お前が手間をかけさせるからだ」
「またそれですか」
アルベールは近づいてきて、ルシアンの手を取った。
今日は自然に。
ルシアンも、反射的に引かなかった。
「ジュリアンは、お前が悪役のままでいると思っていた」
アルベールの声が静かに落ちる。
「だから焦っている。お前がその役から降りたからだ」
「私は、降りられたのでしょうか」
「降り始めている」
その言い方が、なぜか胸に残った。
完全に降りたわけではない。
過去は消えない。評判も、傷も、疑いも、全部が一瞬で消えるわけではない。
けれど、降り始めている。
悪役として用意された場所から。
ルシアンは繋がれた手を見た。
「……では、戻らないようにします」
「ああ」
アルベールの手に、少しだけ力がこもる。
「戻らせない」
「殿下は、すぐそうやって」
「何だ」
「心強いことを、命令のように言います」
「命令でもある」
「やはり」
ルシアンは呆れながらも、小さく笑った。
その笑みを見て、アルベールの目元がわずかに和らぐ。
旧礼拝堂の証拠は、ジュリアンを完全には捕らえていない。
だが、彼の余裕は確実に削られている。
次に彼が何をするのかは分からない。
けれどルシアンはもう、ただ怯えて待つだけではなかった。
怖いと言いながらも、隣に立つ。
それを少しずつ、覚え始めていた。




