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『断罪予定の悪役令息ですが、冷酷第一王子にだけ求婚されています』  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第33話 公爵家崩壊の夜

 王宮へ連行される、という言葉は正確ではなかった。


 ジュリアン・ヴァレリオは、自分の足で王宮へ向かった。


 レオンハルトに伴われ、王宮文官の立ち会いを受け、護衛たちに周囲を固められてはいた。けれど、縄をかけられたわけでも、剣を突きつけられたわけでもない。


 あくまで事情聴取。


 あくまで任意の証言。


 そういう形だった。


 だが、王宮へ入る門の前でジュリアンが一度だけ振り返った時、ルシアンには分かった。


 彼は、もう戻れない場所へ歩いている。


 公爵家の完璧な令息としてではなく。


 誰からも好かれ、誰からも疑われず、誰の中心にも自然に立てる少年としてでもなく。


 自分の言葉で、自分の罪と弱さを語るために。


「行きましょう」


 レオンハルトが静かに言った。


 ジュリアンは微かに笑った。


「逃げませんよ」


「逃げれば捕まえます」


「でしょうね」


 そのやり取りに、かつての余裕はなかった。


 だが不思議と、以前よりずっと人間らしく見えた。


 ルシアンはその背中を見送る。


 隣にはアルベールが立っていた。


 いつものように冷静な横顔だが、その目はわずかに険しい。


「殿下」


「何だ」


「私は同席しない方がいいですね」


「ああ」


 即答だった。


「お前がいれば、ジュリアンは余計な顔を作るかもしれない」


「……そうですね」


「それに、お前は休め」


 またそれだ。


 ルシアンは反射的に反論しかけたが、今日は飲み込んだ。


 今、自分が無理をしても、何かが良くなるわけではない。ジュリアンの証言は王宮が聞くべきものだ。自分がその場にいれば、彼の言葉はどうしてもこちらへ向けられてしまう。


 それはたぶん、正しくない。


「分かりました」


 素直に答えると、アルベールが少しだけこちらを見た。


「今日は物分かりがいいな」


「私も成長していますので」


「そうか」


「そこで笑わないでください」


「笑っていない」


「少し笑いました」


「気のせいだ」


 いつものような会話。


 けれど、空気は重かった。


 ジュリアンが持ち込んだ封筒。


 裏帳簿の写し。


 切り捨て予定の従者リスト。


 それらが本物なら、ヴァレリオ公爵家とカルヴァン家の言い逃れは一気に難しくなる。


 そして同時に、ジュリアン自身の立場も崩れる。


 ルシアンは王宮の高い壁を見上げた。


 夕暮れが近い。


 王宮の白い石壁が、赤みを帯びた光に染まっている。


 何かが終わる夜が来る。


 そう感じた。


 その夜、王宮の灯りは遅くまで消えなかった。


 ルシアンは一度侯爵邸へ戻された。


 戻された、という言い方が一番近い。自分としては王宮に残り、せめて結果だけでも待ちたかった。だがアルベールにも父にも同じことを言われた。


 休め。


 それだけだ。


 誰もが同じことを言う。


 そのたびに、守られているのだと分かる。けれど同時に、蚊帳の外に置かれるような落ち着かなさもあった。


 侯爵邸の自室で、ルシアンは机の前に座っていた。


 手首の銀紐を指先でそっと撫でる。


 正式な婚約印はまだ整っていない。


 それでも、もう自分はアルベールの婚約者だ。


 その事実は、今朝より少しだけ身体に馴染んできた気がする。


 馴染むのが怖い。


 けれど、嫌ではない。


 その感情にも、少しずつ慣れなければならないのだろう。


 窓の外は暗い。


 王宮の方角には、薄く灯りが見える。


 そこにジュリアンがいる。


 今頃、彼は何を話しているのだろう。


 ブローチの件。


 毒の件。


 偽造証拠。


 カルヴァン家。


 ヴァレリオ公爵家。


 そして、自分の中にあった羨望と嫉妬。


 あれをすべて言葉にするのは、きっと簡単ではない。


 自業自得だ。


 そう切り捨てることもできる。


 実際、彼はルシアンを傷つけた。セシリアも傷つけた。止められたかもしれないものを止めず、盤面として眺めた。


 許せない部分は確かにある。


 それでも、あの玻璃温室のそばで見た彼の顔が忘れられなかった。


 疲れた、完璧ではない顔。


 誰かの中心に立ち続けなければならなかった少年の顔。


 ルシアンは深く息を吐いた。


「……簡単に憎めたら、楽だったのに」


 小さく呟く。


 それは、自分に向けた言葉でもあった。


 誰かを単純な悪役として見られたら、どれほど楽だろう。


 けれど自分がもう“悪役令息”という枠から降りたように、ジュリアンにも彼なりの歪みと事情があった。


 だからといって罪が消えるわけではない。


 ただ、人は思っていたよりずっと面倒だ。


 そのことを、最近のルシアンは痛いほど思い知らされていた。


 扉が軽く叩かれた。


「入れ」


 現れたのは執事だった。


「ルシアン様。閣下がお呼びです」


「父上が?」


「はい。王宮より急ぎの報せが届いております」


 ルシアンはすぐに立ち上がった。


 疲れはあったが、それどころではなかった。


 執務室へ向かうと、エドモン侯爵がすでに王宮からの文書を読んでいた。


 表情は硬い。


 いつも硬いが、今夜はさらに冷たい。


「父上」


「来たか」


 侯爵は文書を机に置いた。


「ジュリアン・ヴァレリオが証言した」


 ルシアンの胸が鳴った。


「内容は」


「お前を断罪する筋書きについて、途中から知っていたことを認めた。ブローチの件以降、カルヴァン家とヴァレリオ家の一部使用人が動いていたことも把握していたらしい」


 ルシアンは唇を引き結ぶ。


「毒の件は」


「直接命じてはいない。だが、カルヴァン家が“騒ぎを大きくする”ための手段を探っていたことは知っていた可能性がある」


 やはり。


 玻璃温室で聞いた通りだ。


 侯爵は続けた。


「そして、持ち込んだ裏帳簿の写しは本物の可能性が高い。王宮が押さえていた帳簿断片と一致した」


「では」


「今夜、王宮警備隊がヴァレリオ公爵邸とカルヴァン家の関連商会へ入る」


 ルシアンは息を呑んだ。


 家宅捜索。


 それに近いものだ。


 王宮警備隊が公爵邸へ入るなど、尋常ではない。ヴァレリオ公爵家ほどの名門なら、ただの疑惑でそんなことはできない。


 ジュリアンの証言と証拠が、それだけ重かったということだ。


「公爵家は」


「当然、抵抗するだろう」


 エドモン侯爵の声は低い。


「だが王宮は動いた。第一王子殿下と王妃殿下の承認がある」


 アルベールが動いた。


 そう思った瞬間、ルシアンの胸の奥に別の緊張が走る。


「殿下は今、王宮に?」


「いや」


 侯爵は文書の別紙へ目を落とした。


「ヴァレリオ公爵邸へ向かわれた」


「……殿下ご自身が?」


「そうだ」


 ルシアンは思わず机に手をついた。


「なぜ」


「王家の名で公爵家へ立ち入る以上、第一王子自らがいる方が公爵側を抑えられると判断されたのだろう」


 理屈は分かる。


 だが、危険だ。


 ヴァレリオ公爵家は追い詰められている。カルヴァン家へ責任を押しつけようとしていたところに、ジュリアンの証言と裏帳簿が出た。公爵がどう動くか分からない。


 アルベールがそこへ行く。


 王子として。


 自分の婚約者を陥れようとした家へ。


 ルシアンの指先が冷える。


「私も王宮へ」


「駄目だ」


 父が即座に遮った。


「父上」


「行って何をする」


「それは」


「王宮警備隊の邪魔になる。殿下の足手まといにもなる」


 厳しい言葉だった。


 だが、正しい。


 それが悔しい。


 ルシアンは唇を噛みそうになり、どうにか堪えた。


 エドモン侯爵は少しだけ声を落とす。


「気持ちは分かる」


 その言葉に、ルシアンは顔を上げた。


 父がそんなふうに言うとは思わなかった。


「だが今、お前の役目は動くことではない。待つことだ」


「……待つだけですか」


「待つのも役目だ」


 父は静かに言った。


「殿下を信じるのだろう」


 胸に刺さった。


 信じる。


 簡単な言葉ではない。


 守られることに慣れろと言われた。頼れと言われた。怖ければ言えと言われた。


 では今は。


 アルベールが自分のためにも動いている今は。


 信じて待つことも、隣に立つために必要なのかもしれない。


 ルシアンは震えそうになる息を整え、深く頷いた。


「……はい」


 その同じ頃、ヴァレリオ公爵邸には王宮警備隊の灯りが入っていた。


 ルシアンはその場にいなかった。


 だから、その夜に何が起こったのかを知ったのは、後に王宮文官の記録とアルベール本人の短い言葉からだった。


 だが、想像はできる。


 王都でも指折りの名門公爵家。


 白亜の外壁、広大な庭園、歴代当主の肖像が飾られた大広間。そこへ王宮警備隊が入り、第一王子アルベールが正面玄関から立ち入る。


 ヴァレリオ公爵は、広間で彼を迎えたという。


 完璧な礼装。


 乱れのない髪。


 怒りも焦りも表へ出さない微笑み。


「殿下。このような夜更けに、いかがなさいましたか」


 そう尋ねた公爵に、アルベールは一切の前置きをしなかった。


「王宮調査に基づき、ヴァレリオ公爵家の関連書類を確認する」


「それは、あまりに唐突では」


「令状はある」


 アルベールは文官に合図し、王妃と評議会承認の書面を示させた。


 公爵はそれを見ても、微笑みを崩さなかったらしい。


 ただ一度だけ、指先が動いたと記録にはある。


「我が家を疑われると」


「疑いではなく、確認だ」


「殿下ともあろう方が、ずいぶん冷たい」


「冷たくなければ、ここには来ない」


 その言葉に、公爵の笑みが薄くなった。


 王宮警備隊は、屋敷内の書庫、執務室、従者棟へ入った。


 当然、抵抗はあった。


 公爵家の家令は手続きを理由に時間を稼ごうとし、文官を別室へ案内しようとした。だがレオンハルトがそれを許さなかった。すでにジュリアンの証言で、どの棚に何が隠されているかの目星はついていたのだ。


 裏帳簿の原本。


 カルヴァン家関連商会との暗号化された送金記録。


 学園の使用人へ渡された金銭の控え。


 そして、ルシアン・エヴラールの過去の悪評をまとめた書類束。


 それは、ただの噂集めではなかった。


 どの場面で、どの出来事を使えば、彼を“悪役”として印象づけられるか。

 セシリアの名をどこで出すか。

 第一王子の庇護をどう疑わせるか。

 公開式典でどの順番に証拠を提示するか。


 まるで筋書きだった。


 ルシアンを断罪するための台本。


 その存在が見つかった時、さすがのヴァレリオ公爵も沈黙したという。


「これは、何だ」


 アルベールの声は低かった。


 公爵は答えなかった。


「お前たちは、人一人を悪役に仕立てる台本まで作っていたのか」


「……公爵家を守るためです」


 ついに、公爵はそう言ったらしい。


 それが言い訳なのか、本心なのかは分からない。


「王族傍流が殿下の判断に不安を抱いた。カルヴァン家が動いた。我々はそれを調整し、被害を最小限に抑えようとしただけです」


「ルシアンを犠牲にしてか」


「彼は、もともと評判が悪かった」


 その瞬間、広間の空気が凍ったと記録にはある。


 アルベールはしばらく何も言わなかった。


 そして、静かに告げた。


「それが、お前の罪だ」


 公爵は眉を動かした。


「評判が悪ければ、罪を着せてもいい。嫌われ者なら、犠牲にしても構わない。そう考えたことが、お前の罪だ」


 その言葉を後で聞いた時、ルシアンはしばらく動けなかった。


 何度もアルベールは言った。


 嫌われていたから、罪を着せていい理由にはならない。


 その言葉を、彼は公爵家の大広間でも繰り返したのだ。


 自分のいない場所で。


 自分を守るために。


 公爵は最後まで、自分が主犯だとは認めなかった。


 カルヴァン家が主導した。従者が独断で動いた。ジュリアンは若さゆえに判断を誤った。公爵家としては混乱を収めようとしただけだ。


 そう繰り返した。


 だが、見つかった書類はそれを許さなかった。


 公爵家の封蝋。


 公爵の筆跡による指示。


 カルヴァン家へ責任を流すための文案。


 ジュリアンを一時的に“被害者側”に置くための社交工作。


 全てが出た。


 その夜、ヴァレリオ公爵は王宮の管理下に置かれた。


 公爵邸の書庫は封鎖され、主要な使用人は聴取のため王宮へ連れて行かれた。


 カルヴァン家関連商会にも同時に王宮警備隊が入った。


 王都の夜に、静かな激震が走った。


 ルシアンがその報せを受けたのは、深夜に近い時間だった。


 侯爵邸の執務室で、王宮からの使者が読み上げる報告を聞きながら、ルシアンはほとんど息を止めていた。


 ヴァレリオ公爵家の関与が確認されたこと。


 公爵が王宮の管理下に入ったこと。


 ジュリアンの証言が、調査の決定打の一つになったこと。


 そして、アルベールが無事に王宮へ戻ったこと。


 その最後を聞いた瞬間、ルシアンはようやく息を吐いた。


 自分でも、どれほど張り詰めていたのか分からなかった。


 使者が去った後、エドモン侯爵は静かに言った。


「ひとまず、大きな山は越えた」


「……はい」


「だが、これで全て終わりではない」


「分かっています」


 公爵家が崩れた。


 だが、公爵家という大きな柱が崩れれば、その瓦礫はあちこちへ飛ぶ。


 社交界も、王宮も、学園も、これから大きく揺れるだろう。


 ジュリアンの処遇もまだ決まっていない。


 カルヴァン家もどうなるか分からない。


 そして、ルシアン自身も。


 第一王子の婚約者として、断罪されかけた令息として、これからまた多くの視線に晒されることになる。


 それでも、今夜だけは。


 アルベールが無事だった。


 そのことに、胸の奥から安堵が広がった。


「父上」


「何だ」


「王宮へ、行ってもよろしいでしょうか」


 エドモン侯爵はルシアンを見た。


 厳しい顔だった。


 だが、すぐに反対はしなかった。


「今からか」


「はい」


「殿下に会いにか」


「……はい」


 正直に答えた。


 侯爵はしばらく黙っていた。


 そして、深く息を吐く。


「馬車を出させる」


 ルシアンは目を見開いた。


「よろしいのですか」


「止めても行く顔をしている」


「そんなに顔に出ていますか」


「かなり」


 最近、誰も彼もそう言う。


 ルシアンは少しだけ困ったが、今は否定する気になれなかった。


 王宮へ着いた時、夜はすでに深かった。


 だが、西翼の廊下にはまだ灯りがあった。


 文官たちが足早に行き交い、警備隊が報告を運んでいる。騒がしくはないが、眠っている空気ではない。


 ルシアンが通されたのは、以前も使った小応接室だった。


 扉を開けると、アルベールがいた。


 濃紺の上着は少し乱れていた。


 いつも隙のない彼にしては珍しい。


 疲れも見える。


 それでも、立ち姿は崩れていなかった。


「ルシアン」


 彼は少し驚いたように目を細めた。


「なぜ来た」


「殿下が無事か、確認したかったので」


 口にしてから、少し恥ずかしくなる。


 だが、取り消さなかった。


 アルベールは数拍、黙った。


 それから、ゆっくり近づいてくる。


「無事だ」


「はい。見れば分かります」


「なら安心したか」


「少し」


「少し?」


「かなり」


 正直に言い直すと、アルベールの目元がわずかに緩んだ。


 ルシアンは彼の姿を見た。


 本当に無事だ。


 怪我もない。


 それだけで、胸の奥の張り詰めていたものがほどけていく。


「公爵家のこと、聞きました」


「そうか」


「……私のために、怒ってくださったのですね」


 アルベールは少しだけ眉を動かした。


「誰から聞いた」


「報告の一部を。父上も」


「余計なことを」


「余計ではありません」


 ルシアンは一歩、近づいた。


「私は、嬉しかったです」


 その言葉は、自然に出た。


 アルベールが黙る。


「嫌われていたから、罪を着せていい理由にはならない。殿下は、何度もそう言ってくださいました」


「事実だ」


「はい」


「それだけだ」


「それだけではありません」


 ルシアンは首を横に振った。


「私は、それに救われました」


 部屋が静かになった。


 アルベールはルシアンを見ている。


 いつものような強引さも、命令のような言葉もない。


 ただ、静かに。


 ルシアンは手首の銀紐に触れた。


「私はまだ、自分を完全には信じられません。過去の自分が消えたわけでもない。今日、公爵邸で見つかったという台本も……きっと、私の弱いところや悪い評判を使っていたのでしょう」


「ああ」


「でも、それでも罪を着せていい理由にはならないと、殿下が言ってくださった」


 言葉が少し詰まる。


「だから私は、少しずつ自分のことも守っていいのだと思えるようになりました」


 アルベールの表情が、ほんのわずかに変わった。


 痛そうな顔。


 そう思った。


 彼は静かに手を伸ばした。


 今度は、待つ手ではない。


 ルシアンの手首をそっと取る。


 銀紐の上を、指先がなぞった。


「お前は、守られるだけではなくなった」


 低い声だった。


「今日も、自分から来た」


「はい」


「怖くなかったか」


「怖かったです。夜の王宮ですし、殿下は疲れていそうですし、父上にも顔に出ていると言われました」


「それでも来た」


「はい」


 アルベールは、ほんの少しだけ笑った。


 それからルシアンの手を引き寄せる。


 抱きしめられる、と思った。


 実際、そうだった。


 けれど今回は、以前のように逃げるなと捕まえる抱擁ではなかった。


 もっと静かで、深くて、疲れた身体を預けるような抱きしめ方だった。


 ルシアンは一瞬だけ固まる。


 だが、すぐには離れなかった。


 むしろ、そっと目を伏せる。


 アルベールの肩口に、夜の冷気と王宮の紙の匂いがした。


 そして少しだけ、疲れた人の体温があった。


「殿下」


「何だ」


「お疲れでしょう」


「ああ」


 珍しく、彼は否定しなかった。


 ルシアンは少しだけ腕を動かし、ぎこちなくアルベールの背に触れた。


 抱き返す。


 たぶん、形としてはひどく不慣れだった。


 けれど、そうしたかった。


「では、少しだけ」


 ルシアンは小さく言った。


「今は私が支えます」


 アルベールの腕の力が、ほんの少し強くなった。


 しばらく、二人は何も言わなかった。


 公爵家崩壊の夜。


 王都のどこかでは、今も文官たちが証拠を整理し、警備隊が使用人を聴取し、貴族たちが震えながら眠れぬ夜を過ごしている。


 その中心にあったはずの悪役令息は、今、王宮の小さな応接室で第一王子を抱き返していた。


 物語がどこでどう変わったのか、もうルシアンにも分からない。


 ただひとつだけ、確かに言える。


 自分はもう、断罪されるための駒ではない。


 アルベールに守られ、時にアルベールを支えながら、自分の足で立とうとしている。


 その夜、王都の名門公爵家は崩れ始めた。


 そしてルシアンの中にあった“悪役令息”という名前も、静かに崩れ落ちていった。

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