第32話 ジュリアンの告白
ジュリアン・ヴァレリオから手紙が届いたのは、婚約発表の翌日の朝だった。
差出人は明記されていた。
ヴァレリオ公爵家の紋章入りの封蝋。
丁寧すぎるほど整った筆跡。
だからこそ、ルシアンはその封書を見た瞬間、まず嫌な予感を覚えた。
差出人不明の怪文書ではない。
脅迫でもない。
むしろ、正式な礼を尽くした手紙だった。
だが今のルシアンにとっては、そういうものの方がよほど厄介だった。
王宮から派遣されている護衛の立ち会いのもと、封書は開けられた。薬物や妙な仕掛けがないことを確認してから、文面がルシアンに渡される。
そこには、短くこう書かれていた。
――放課後、学園の玻璃温室で話がしたい。君が望むなら、王宮の護衛を同席させて構わない。これは罠ではない。信じろとは言わない。ただ、一度だけ話を聞いてほしい。
ジュリアンらしくない文章だった。
いや、文面の整い方は彼らしい。けれど、いつものような柔らかい誘導がない。逃げ道を用意したような言い回しも、相手に自分から頷かせるための余白もない。
ただ、聞いてほしい。
それだけだった。
ルシアンは手紙を読み終え、しばらく黙った。
机のそばに控えていたレオンハルトが言う。
「お断りすることもできます」
「そうだろうな」
「殿下へ報告します」
「それはもちろん」
「お会いになるのですか」
ルシアンは手紙へ視線を落とした。
会うべきではない。
理屈だけで言えば、それが一番安全だ。
ジュリアンはまだ疑惑の渦中にいる。ヴァレリオ公爵家はカルヴァン家へ責任を流そうとしているが、彼自身が完全に無関係だとは思えない。これまで何度も、彼は“中立”や“心配”という顔で場の空気を動かしてきた。
その彼が、話したいと言ってきた。
罠ではない、と書いてある。
罠を仕掛ける人間ほど、そう言うかもしれない。
けれど。
昨日の放課後、ジュリアンの顔に一瞬だけ浮かんだ苦さが、頭から離れなかった。
――君が殿下の隣に立つなら、これからもっと面倒になる。
あれは脅しではなかった。
少なくとも、そう聞こえなかった。
ルシアンは小さく息を吐く。
「会う」
レオンハルトの表情は変わらない。
だが、わずかに空気が硬くなった気がした。
「危険です」
「分かっている」
「殿下は反対される可能性があります」
「だろうな」
「では」
「でも、会う」
そう言うと、レオンハルトは黙った。
ルシアンは手紙を丁寧に畳む。
「一人では会わない。場所も指定通りでなくていい。王宮側で確認した上で、護衛をつける。それなら、最低限の危険は抑えられる」
「殿下へ、そのようにお伝えします」
「怒るだろうか」
「かなり」
即答だった。
ルシアンは苦笑した。
「そこは少し濁してくれてもよかった」
「事実ですので」
「あなたも殿下に似てきたな」
「光栄です」
「褒めていない」
いつものように返しながらも、胸の奥は落ち着かなかった。
アルベールはきっと怒る。
危険だと言う。
それでもルシアンには、ジュリアンの言葉を一度聞かなければならない気がしていた。
彼が何をしたのか。
何を隠しているのか。
そして、なぜここまで自分に絡んだのか。
それを曖昧にしたままでは、次へ進めない気がした。
案の定、昼前にはアルベールが学園へ来た。
早すぎる。
授業の合間にレオンハルトから呼ばれたルシアンは、王族用応接室へ向かった。扉を開けた瞬間、濃紺の上着を着たアルベールが窓辺に立っているのが見えた。
機嫌は悪い。
見れば分かる。
「ルシアン」
「はい」
「会うつもりか」
前置きなしだった。
ルシアンは予想していたので、背筋を伸ばして答える。
「はい」
「危険だ」
「分かっています」
「ジュリアン・ヴァレリオは、まだ調査対象だ」
「分かっています」
「ならなぜ会う」
アルベールの声は低い。
怒っている。
心配している。
その両方が混ざっていた。
以前なら、ここでルシアンは反射的に身を引いたかもしれない。自分の判断が間違っているのではないかと揺れ、では会いませんと答えたかもしれない。
けれど今は違う。
「聞かなければならないと思うからです」
「何を」
「彼が、何を抱えているのかを」
アルベールの目が細くなった。
「同情か」
「分かりません」
正直に答える。
「同情かもしれません。警戒かもしれません。ただ、彼は昨日、何かを言いかけてやめました。今朝の手紙にも、いつものような誘導がない」
「それ自体が誘導かもしれない」
「はい」
「分かっていて行くのか」
「はい」
アルベールはしばらく黙った。
その沈黙が痛い。
だが、ルシアンは目を逸らさなかった。
「殿下」
「何だ」
「私は、守られることを恥じないようにします」
アルベールの表情がわずかに動く。
「でも、守られているから何も見ない、ということにはしたくありません」
ゆっくり言葉を選ぶ。
「ジュリアン様は危険です。信用はしません。ですが、彼が何かを知っているなら、それは聞く価値があります」
アルベールは低く言った。
「お前は本当に、面倒な方へ進む」
「殿下の影響かもしれません」
「私のせいにするな」
「では、私の意思です」
そう言うと、アルベールは一瞬だけ言葉を止めた。
少しだけ、困ったように見えた。
「……言うようになったな」
「殿下に鍛えられました」
「そうか」
アルベールは息を吐いた。
「会うなら、私も同席する」
「それは駄目です」
即答した。
今度はアルベールが目を細める。
「駄目?」
「殿下がいれば、ジュリアン様は話さないかもしれません」
「お前だけで会わせる気はない」
「分かっています。レオンハルト卿と王宮文官に立ち会っていただきます。場所も温室ではなく、温室に隣接した開放廊下に変更します。周囲から見える場所で」
ルシアンは続けた。
「殿下は、少し離れた場所で見ていてください」
「命令か」
「お願いです」
言った瞬間、自分でも驚いた。
お願い。
アルベールに対して、命令でも拒絶でもなく、お願いと言った。
アルベールもそれに気づいたらしい。
しばらくこちらを見ていた。
「……卑怯だな」
「殿下にだけは言われたくありません」
「本気で言っているか」
「本気です」
アルベールは少しだけ目元を緩めた。
だが、すぐに真剣な表情へ戻る。
「危険だと判断したら、すぐ止める」
「はい」
「お前が危ういと思えば、途中でも入る」
「分かりました」
「ジュリアンの言葉に揺れるな」
「揺れるかもしれません」
「ルシアン」
「でも、逃げません」
アルベールは黙った。
その後、低く言った。
「……なら行け」
許可が出た。
そう分かった瞬間、胸の奥が少し軽くなる。
「ありがとうございます」
「礼を言う場面ではない。私はまだ納得していない」
「それでも、止めなかったので」
「止めても行く顔をしていた」
「顔に出ていましたか」
「かなり」
ルシアンは少しだけ苦笑した。
放課後。
玻璃温室に隣接する開放廊下は、王宮側によってさりげなく確認されていた。
温室の中は花の香りが強く、色鮮やかな植物が並んでいる。だが、ルシアンが指定し直した場所は温室そのものではなく、その外側にある石造りの回廊だった。大きな玻璃窓越しに温室内部が見え、反対側は中庭に面している。
完全な密室ではない。
周囲にはレオンハルトと王宮文官が控え、少し離れた植え込みの向こうにはアルベールの姿もある。
見えている。
隠れる気がない。
むしろ、こちらが何かあればすぐ入ると全身で言っている。
ジュリアンが現れたのは、約束の時刻ちょうどだった。
制服はいつも通り整っている。
髪も乱れていない。
表情も穏やかだ。
けれど、以前のような完璧な余裕は薄れていた。
彼はルシアンの前で足を止め、周囲の護衛を一瞥した。
「ずいぶん厳重だね」
「君に会うのだから、当然だと思う」
「正直だ」
「最近、そうすることにしている」
ジュリアンは少しだけ笑った。
その笑みは、疲れていた。
「それはいいことだね」
「用件は」
ルシアンは切り込んだ。
長く世間話をするつもりはない。
ジュリアンもそれを察したのか、笑みを少しだけ消した。
「君に謝りたかった」
予想していなかった言葉だった。
ルシアンは黙る。
ジュリアンは続けた。
「すべてを僕が命じたわけではない。そう言えば、きっと事実ではある」
「……」
「でも、僕は知っていた。少なくとも、途中からは」
温室の中で、水の滴る音がした。
葉の上から落ちた小さな水滴。
その音が、妙にはっきり聞こえた。
「どこから」
ルシアンは尋ねた。
「ブローチの後だ」
ジュリアンは答えた。
「あの時、僕は確信した。誰かが君を“元の位置”へ戻そうとしていると」
「止めなかった」
「止めなかった」
即答だった。
言い訳をしない。
それが、逆に重かった。
「なぜ」
「見たかったんだと思う」
ジュリアンは自分でも苦いものを噛むように笑った。
「君がどうなるのか。殿下がどう動くのか。セシリアが何を言うのか。全部、僕には面白い盤面に見えた」
ルシアンの胸が冷える。
面白い盤面。
その言葉は、ひどく彼らしかった。
そして、残酷だった。
「人が傷つくかもしれないのに?」
「そうだね」
ジュリアンは目を伏せた。
「そこを、僕は軽く見ていた」
怒るべきだ。
たぶん、そうなのだろう。
実際、胸の奥には怒りがあった。
セシリアが泣いたこと。
毒で倒れたこと。
自分が断罪されかけたこと。
それを盤面として見ていたと言われて、平静でいられるはずがない。
けれど、ジュリアンの声には、いつもの逃げ道がなかった。
だからルシアンは、怒りをそのままぶつける代わりに、問うた。
「君は、私が嫌いだったのか」
ジュリアンは少しだけ目を見開いた。
それから、ゆっくり息を吐く。
「嫌いだったら、楽だった」
「では、何だ」
「羨ましかった」
その言葉は、予想外だった。
ルシアンは何も言えなかった。
ジュリアンは玻璃窓越しに温室の花を見た。
「君は昔から、嫌われるのが下手だった」
「……どういう意味だ」
「棘を出して、周囲を遠ざけて、わざと悪く見られるような振る舞いをする。なのに、どこかで見捨てられたくない顔をしていた」
ルシアンは息を詰めた。
その言葉は、妙に深く刺さった。
ジュリアンは続ける。
「僕は逆だ。好かれるのが上手い。誰にどう笑えばいいか分かる。誰の隣に立てば有利かも分かる。場を整えることも、人の言葉を誘導することも、子どもの頃からできた」
「それを誇っているように見えた」
「誇っていたよ。だって、それしかなかったから」
初めて聞く声だった。
ジュリアンの声が、ほんの少しだけ掠れていた。
「ヴァレリオ公爵家では、僕は“失敗しない息子”でいなければならなかった。誰からも好かれ、誰よりも上手く立ち回り、決して感情を表に出さない。そうすれば父は満足した。周囲も安心した」
ルシアンは黙って聞く。
「でも、殿下は僕を見なかった」
その一言で、空気が変わった。
ジュリアンは笑っていなかった。
「どれほど上手く振る舞っても、どれほど場を整えても、殿下は僕を通り過ぎて、君を見た」
「……」
「君は怒っていた。泣きそうな顔をしていた。棘だらけで、面倒で、すぐ逃げようとして、なのに殿下は君を見失わなかった」
羨ましかった。
その言葉の意味が、少しずつ分かってくる。
「だから、君が悪役として断罪される流れを、僕は止めなかった」
ジュリアンは淡々と言った。
「それで君が壊れれば、殿下は間違えたことになる。君が逃げれば、殿下は君を掴めなかったことになる。君が怒って取り乱せば、やはり君は悪役だったと皆が納得する」
「そして君は?」
「僕は、また中心に戻れる」
正直すぎる答えだった。
ルシアンは手を握った。
「最低だな」
「うん」
ジュリアンはすぐ頷いた。
「最低だ」
認められると、怒りの行き場が少し変わる。
ルシアンは唇を引き結んだ。
「毒の件は」
「僕は命じていない」
「知っていたのか」
「当日は知らなかった。けれど、カルヴァン家が焦っていることは知っていた。彼らは殿下の判断を揺らしたかった。君を使えばそれができると考えていた」
「君は止められた?」
「たぶん、少しは」
「止めなかった」
「止めなかった」
また、同じ答え。
ルシアンは目を閉じたくなった。
だが、閉じなかった。
「なぜ今日、それを話す」
ジュリアンは少し黙った。
そして、静かに言った。
「君が婚約を受けたから」
「それが理由か」
「うん」
ジュリアンはルシアンを見る。
「君が殿下の隣に立つことを選んだ。守られるだけじゃなく、自分で話すことを選んだ。評議会でも、君は殿下の前に出た」
その目には、複雑な色があった。
悔しさ。
寂しさ。
そして、ほんの少しの諦め。
「僕はもう、君を盤面の駒として見られなくなった」
その言葉は、妙に静かだった。
「遅すぎるけどね」
ジュリアンは笑った。
今度の笑みは、ほとんど壊れていた。
ルシアンは息を吐く。
「謝罪を受け入れろと言うのか」
「言わない」
「許せと?」
「言わない」
「では、何を望んでいる」
ジュリアンは懐から小さな封筒を取り出した。
レオンハルトが一歩動きかける。
ジュリアンはすぐに両手を見えるようにし、封筒を石造りの手すりの上へ置いた。
「これを王宮へ渡してほしい」
「何だ」
「カルヴァン家とヴァレリオ公爵家の間を繋いでいた商会の裏帳簿の写し。それと、父が切り捨てる予定の従者リスト」
ルシアンは息を呑んだ。
「なぜ君がそれを」
「公爵家の息子だからね。見たくないものも見える」
「これを渡せば、君の家も危うくなる」
「そうだね」
ジュリアンは静かに言った。
「でも、もう遅い。どのみち父は誰かを切り捨てる。カルヴァン家も同じだ。なら、せめて君たちが先に持っていた方がいい」
「君はどうなる」
「さあ」
軽く言った。
だが、軽くない。
ルシアンは封筒を見つめた。
罠かもしれない。
当然、その可能性はある。
だが、本物なら重要な証拠になる。
「ジュリアン」
「何だい」
「君は、私にどうしてほしい?」
ジュリアンは少しだけ目を伏せた。
「何もしなくていい」
「……」
「ただ、覚えていてほしい」
「何を」
「僕は君を傷つけた。でも、最後まで君の敵でいたかったわけじゃない」
その言葉は、都合がいい。
そう思った。
傷つけておいて、敵ではいたくなかったなど。
身勝手だ。
甘い。
許される言葉ではない。
けれど、その身勝手さの中に、本音があることも分かってしまった。
ルシアンはゆっくりと言った。
「許すとは言わない」
「うん」
「君のしたことは消えない」
「分かっている」
「でも、この封筒は王宮へ渡す」
「ありがとう」
「それと」
ルシアンはジュリアンを見た。
「君も、自分で話せ」
ジュリアンの目が揺れた。
「王宮へ。殿下へ。私ではなく、正式な場で。君が知っていたこと、止めなかったこと、今持っているものを」
「……僕が?」
「君が」
ルシアンは静かに言った。
「君も、誰かの物語を整えるだけではなく、自分の言葉で話すべきだ」
ジュリアンは、しばらく何も言わなかった。
その顔から、いつもの微笑みが消えていた。
そこにいたのは、公爵家の完璧な令息ではなかった。
ただ、疲れた少年のような青年だった。
「君は残酷だね」
「君ほどではない」
「それもそうだ」
ジュリアンは小さく笑った。
少しだけ泣きそうな笑みだった。
「分かった。話すよ」
その時、離れた場所で控えていたアルベールが、ゆっくり近づいてきた。
最初から聞こえていたのか、途中からなのか。
たぶん、聞こえていたのだろう。
アルベールはルシアンの隣に立ち、ジュリアンを見た。
「なら、今から王宮へ来い」
冷たい声だった。
ジュリアンは苦笑する。
「殿下は容赦がありませんね」
「お前にかける容赦は少ない」
「でしょうね」
ジュリアンは一礼した。
深く。
今まで見たどの礼よりも、飾りが少なかった。
「それでも、話します」
アルベールはレオンハルトへ視線を向ける。
「封筒を保全しろ。ジュリアン・ヴァレリオを王宮へ」
「承知しました」
レオンハルトが動く。
ジュリアンは連れて行かれる前に、ルシアンを見た。
「ルシアン」
「何だ」
「婚約、おめでとう」
今度の声は、以前よりずっと静かだった。
「今度は、本当に」
ルシアンは少しだけ息を吐いた。
「ありがとう」
ジュリアンは微かに笑った。
そして、レオンハルトに伴われて歩き出した。
その背中は、まだ美しかった。
けれど以前のように完璧ではない。
どこか脆く、どこか軽くなったようにも見えた。
ルシアンはその背を見送りながら、胸の奥に複雑な痛みを感じていた。
許したわけではない。
許せるかどうかも分からない。
でも、少なくとも彼は今日、自分の言葉で告白した。
そのことだけは、たぶん覚えておくべきだと思った。
隣でアルベールが低く言う。
「危なかった」
「はい」
「だが、聞く価値はあった」
ルシアンは少し驚いてアルベールを見た。
「怒っていないのですか」
「怒っている」
「やはり」
「だが、お前の判断は間違っていなかった」
その言葉に、胸が温かくなる。
ルシアンは視線を落とした。
「……ありがとうございます」
「ただし、次にこういうことをする時は、最初から私も近くに置け」
「今日も近くにいました」
「もっと近くにだ」
「それはジュリアン様が話しづらいのでは」
「知るか」
「殿下」
思わず咎めると、アルベールはルシアンの手首の銀紐へ視線を落とした。
「お前は私の婚約者だ」
「……はい」
「危険な相手に会うなら、私が心配する」
あまりにも真っ直ぐで、ルシアンは言葉に詰まった。
アルベールは続ける。
「それも覚えろ」
命令の形だった。
けれど、今はその命令が嫌ではない。
ルシアンは静かに頷いた。
「覚えます」
温室の玻璃窓に、夕方の光が反射していた。
ジュリアンの告白は、すべてを終わらせるものではない。
むしろ、ここからヴァレリオ公爵家とカルヴァン家の闇が本格的に暴かれていくのだろう。
けれど、少なくとも一つの仮面は落ちた。
完璧な微笑みの奥にあった、歪んだ羨望と寂しさ。
それを見た今、ルシアンはもう、ジュリアンを単純な敵とも、友とも呼べなかった。
ただ一つだけ言える。
誰かの作った役割から降りようとしているのは、自分だけではなかった。




