第31話 婚約発表と社交界の激震
王宮から正式な発表が出たのは、その翌朝だった。
第一王子アルベール・リュミエール殿下と、エヴラール侯爵家嫡男ルシアン・エヴラールの婚約内定。
内定、という言葉が使われたのは、まだ細かな儀礼手続きと家門間の調整が残っているためだった。だが、王宮の発表文には王妃の承認とエヴラール侯爵家の同意が明記されていた。
つまり、事実上の婚約発表である。
それが王都に放たれた瞬間、社交界は見事にひっくり返った。
朝の侯爵邸では、いつもより早い時間から執事と文官が廊下を行き来していた。王宮から届いた正式文書。各家から届き始めた祝辞。中には、祝辞という名の探りもあった。昨日まで距離を測っていた家々が、今朝になって一斉に手のひらを返したように丁寧な言葉を並べてくる。
ルシアンは自室の机に置かれた祝辞の束を見て、しばらく無言になった。
「……多すぎないか」
独り言のつもりだった。
だが、そばに控えていた執事が静かに答えた。
「これでも、閣下が急ぎではないものを別室へ分けております」
「これで?」
「はい」
ルシアンは思わず額に手を当てた。
昨日、求婚を受けた。
その実感すらまだ身体に馴染んでいない。
なのに、周囲はもう“第一王子の婚約者”として自分を見始めている。
手首の銀紐は、今日もそこにあった。
正式な婚約印ではない。だが昨日までとは意味が変わった。王家の保護対象を示す印であり、同時に婚約内定者として扱われる前段階の印でもある。
朝、着替えを手伝った侍女たちの緊張は、昨日の比ではなかった。
誰も妙なことは言わない。
だが、空気が違う。
恐れではない。
羨望、緊張、戸惑い、そして少しの誇らしさ。
侯爵邸全体が、まだ出来事の大きさを受け止めきれずにいるようだった。
朝食の席で、エドモン侯爵はいつも通りだった。
少なくとも、表向きは。
銀器の音も、茶を口へ運ぶ所作も変わらない。けれど机の横には書簡が積まれ、執事が何度も出入りしている。明らかに平常ではない。
「学園へは通常通り行け」
父は言った。
ルシアンは顔を上げる。
「今日も、ですか」
「今日だからこそだ」
侯爵の返答は短い。
「休めば、婚約発表に動揺して隠れたと取られる。堂々と行け」
「堂々と……」
「難しいか」
「正直に言えば」
「難しくてもやれ」
やはり父は父だった。
けれどその厳しさに、今日ばかりは少し救われた。優しく腫れ物のように扱われるより、いつものように短く命じられる方が、かえって立ちやすい。
ルシアンは小さく頷いた。
「はい」
侯爵はそれから、わずかに声を落とした。
「今日の学園では、祝福も探りも、嫉妬も来る」
「分かっています」
「分かっていても揺れるだろう」
「……はい」
「揺れてもよい。崩れるな」
ルシアンはその言葉を胸の内で繰り返した。
揺れてもよい。
崩れるな。
父らしい、不器用な励ましだった。
王立学園へ着くと、正門前の空気はもう変わっていた。
いつもなら、生徒たちは馬車から降りる者たちをちらりと見る程度だ。だが今日は違う。ルシアンの馬車が門の前へ停まった瞬間、周囲の視線が一斉に集まった。
レオンハルトがいつも通り立っている。
ただし、今日の彼は護衛というより、王宮からの正式な随伴者のように見えた。姿勢も、位置も、昨日までとはわずかに違う。
ルシアンが馬車を降りると、周囲の生徒たちが一瞬息を呑んだ。
聞こえる。
囁きが。
「本当に……」
「王宮の発表が出たって」
「第一王子殿下と、エヴラール様が」
「昨日まで断罪騒ぎだったのに……」
「まるで物語みたい」
その言葉に、ルシアンはほんの少しだけ眉を動かした。
物語。
また、誰かがそう言う。
悪役令息としての物語。
第一王子に救われる物語。
婚約者となる物語。
周囲は、すぐに形を作ろうとする。
けれど今朝のルシアンは、以前ほどそれに飲み込まれなかった。
自分がどんな物語に見えるとしても、答えるのは自分の言葉でいい。
そう思えた。
教室に入ると、空気が完全に止まった。
数人が立ち上がりかけ、何を言えばいいのか分からないまま中途半端な姿勢で固まっている。別の者は、あからさまに目を逸らした。昨日までルシアンを遠巻きにしていた令嬢の一人は、困ったように微笑んで小さく礼をした。
ルシアンは自席へ向かう。
すると、最初に声をかけてきたのはアーノルドだった。
「あ、あの、エヴラール様」
彼は真っ赤な顔で立ち上がる。
「その……お、おめでとうございます」
声が裏返っていた。
周囲が静まり返る。
ルシアンは彼を見た。
アーノルドは今にも倒れそうなほど緊張している。けれど、逃げずに言った。
おめでとうございます、と。
ルシアンは少しだけ表情を緩めた。
「ありがとう」
その一言で、教室の空気が少し動いた。
別の生徒が続く。
「エヴラール様、おめでとうございます」
「殿下とのご婚約内定、誠に……」
「どうか、お幸せに」
どこまでが本心で、どこからが社交辞令かは分からない。
だが、それでも祝辞だった。
ルシアンは一人ずつ、丁寧に礼を返した。
「ありがとう」
「感謝する」
「まだ内定の段階だが、言葉は受け取る」
そのたびに、周囲の緊張が少しずつ緩んでいく。
だが、全員が素直に祝福しているわけではない。
視線の端に、ジュリアンがいた。
彼は席に座ったまま、穏やかな微笑みを浮かべている。
完璧な笑み。
だが、ルシアンにはもう分かった。
その奥は少しも穏やかではない。
「おめでとう、ルシアン」
ジュリアンが言った。
教室の空気がまた張る。
「まさか、ここまで早く発表されるとは思わなかったよ」
「私もだ」
ルシアンは正直に返した。
ジュリアンは少しだけ目を細める。
「それは本音?」
「本音だ。昨日の今日で社交界がここまで騒ぐとは思わなかった」
「君は、もう少し自分の立場を理解した方がいいかもしれないね」
「今、理解しているところだ」
ジュリアンの笑みが、ほんの少しだけ止まる。
以前なら、こういう言葉を挑発として受け取っていた。
だが今は違う。
ルシアンは、自分が本当に分かっていない部分を認めた上で返しただけだった。
それがジュリアンには、少しやりにくいのだろう。
「殿下は君をとても大切にしているようだ」
「そうだな」
教室が一瞬静まり返った。
自分で言ってから、ルシアンも少し驚いた。
だが、取り消さなかった。
アルベールが自分を大切にしている。
それを、もう否定する必要はない。
ジュリアンは微笑んでいる。
しかし、その目の奥が冷えた。
「……堂々と言うようになったね」
「否定すると、殿下に怒られる」
思わずそう返すと、教室のどこかで小さな笑い声が漏れた。
アーノルドが慌てて口を押さえている。
ジュリアンの笑みが今度こそわずかに崩れた。
ルシアンは深追いしなかった。
席へ着き、教本を開く。
その時、手首の銀紐が机の上でかすかに光った。
守られている印。
選んだ印。
そして、これから先の戦いの印。
昼休み、セシリアが中庭で声をかけてきた。
今日は彼女の方から、堂々と近づいてきた。
以前なら、周囲の視線を気にして距離を取っていたかもしれない。だが今のセシリアは、少し違う。
「ルシアン様」
「フォルナン嬢」
彼女は丁寧に礼をし、それから柔らかく微笑んだ。
「改めて、おめでとうございます」
「ありがとう」
「昨日のうちにお伝えしたかったのですが、王宮発表の前に私が口にするのは控えるべきかと思って」
「気を遣わせた」
「いいえ。こういう気遣いは、嫌いではありません」
セシリアらしい言い方だった。
ルシアンは少しだけ肩の力を抜く。
「……不思議だな」
「何がですか?」
「君から婚約を祝われる日が来るとは思わなかった」
言ってから、少し失礼だったかと思った。
だがセシリアは怒らなかった。
むしろ、困ったように笑った。
「私もです」
彼女は中庭の花壇へ視線を向ける。
「少し前まで、私は自分が何の役なのか分からなくなっていました。守られる令嬢なのか、騒ぎの中心なのか、それとも誰かの物語の道具なのか」
ルシアンは黙って聞いた。
「でも今は、少しだけ分かります。私は私の言葉で、誰を信じるか決めればよかったのだと」
セシリアはルシアンを見る。
「私は、ルシアン様と殿下を祝福します」
その言葉は、まっすぐだった。
社交辞令ではない。
ルシアンは胸の奥が少し熱くなるのを感じた。
「ありがとう、セシリア」
初めて、自然に彼女の名を呼んだ。
セシリアは目を丸くした。
それから、ふわりと笑った。
「はい」
その笑みは、もう“ヒロイン枠”などという言葉では収まらないものだった。
一人の令嬢として、友人に近い誰かとして、そこに立っている。
その時、中庭の入口から低い声がした。
「随分と親しげだな」
ルシアンは振り返る前に、少しだけ頭を抱えたくなった。
アルベールだった。
濃紺の上着。王宮から直接来たのだろう、学園内では少し目立つ装いだ。背後にはレオンハルトもいる。
中庭にいた生徒たちが一斉に礼を取る。
セシリアも慌てて頭を下げた。
「殿下」
「楽に」
アルベールは短く言う。
そして、ルシアンを見る。
「呼び方が変わったように聞こえた」
「……聞こえていたのですか」
「聞こえた」
「殿下、王宮のお仕事は」
「終わらせた」
「本当に?」
「必要な分は」
「残りは?」
「後でやる」
王子としてそれでいいのか。
ルシアンは言いかけたが、周囲の視線を思い出して飲み込んだ。
セシリアが少しだけ笑いを堪えている。
アルベールはそれに気づいたのか、彼女へ視線を向ける。
「フォルナン嬢」
「はい」
「祝辞を聞いた。感謝する」
「恐れ入ります」
「今後もルシアンと話すことは構わない」
「殿下?」
ルシアンが思わず声を上げる。
アルベールは続けた。
「ただし、長すぎる時は私が呼ぶ」
「殿下」
「何だ」
「それは宣言しなくていいことです」
「しておく」
セシリアが今度こそ小さく笑った。
ルシアンは恥ずかしさで顔が熱くなる。
「申し訳ありません、セシリア」
「いいえ。仲がよろしいのですね」
「そういう問題では」
「あります」
アルベールが即答する。
ルシアンは思わず彼を睨んだ。
「殿下」
「事実だ」
「事実を何でも言えばいいわけではありません」
「隠す必要もない」
周囲の生徒たちが、聞いてはいけないものを聞いたという顔をしている。
もう遅い。
きっと今日の夕方には、第一王子が中庭で婚約者に嫉妬しただの、フォルナン嬢相手に宣言しただの、尾ひれがついて社交界へ流れるだろう。
ルシアンは深く息を吐いた。
「噂が増えます」
「増えればいい」
「よくありません」
「私がどう思っているか、分かりやすい方がいい」
その一言は、あまりにもまっすぐだった。
ルシアンは言葉を失う。
セシリアがそっと目を伏せる。
中庭の空気が、少しだけ変わった。
アルベールは淡々としている。
だが、彼の言葉の重さは周囲にも伝わったはずだ。
第一王子は、ルシアンを隠すつもりがない。
むしろ、堂々と示すつもりでいる。
ルシアンの胸は、またうるさく鳴った。
「……殿下は、本当に容赦がありません」
「お前がすぐ不安になるからだ」
「今ここで言わないでください」
「事実だ」
「だから、事実を何でも言えば」
「必要な事実だ」
勝てない。
会話で勝てる気がしない。
セシリアはそんな二人を見て、穏やかに微笑んでいた。
その日の放課後、学園全体はすでに婚約発表の話題でいっぱいだった。
祝福。
困惑。
嫉妬。
政治的な計算。
そして、ジュリアンとヴァレリオ公爵家の立場への憶測。
ルシアンが教室を出ようとした時、ジュリアンが扉の近くで待っていた。
「少しだけ、いいかな」
周囲の空気が張る。
ルシアンは立ち止まった。
「ここでなら」
「警戒されているね」
「当然だと思う」
ジュリアンは少しだけ笑った。
「そうだね。今の君なら、そう言うと思った」
彼は窓の外へ視線を向ける。
「婚約、おめでとう」
「ありがとう」
「本心だよ」
ルシアンは答えなかった。
ジュリアンは続ける。
「少し悔しいけどね」
初めて、彼の声に本音らしいものが混じった。
ルシアンは静かに彼を見る。
ジュリアンの微笑みは、薄い。
だが今は、完全な仮面ではなかった。
「君は、僕が思っていたよりずっと遠くへ行った」
「私は、どこかへ行ったつもりはない」
「行ったよ。少なくとも、僕が手を伸ばせる場所ではなくなった」
その言葉は、これまでの彼とは違った。
責めるでもなく、誘導するでもなく、ただ苦く落ちてくる。
「ジュリアン」
「何だい」
「君は、何をした?」
ついに、聞いた。
ジュリアンはすぐには答えなかった。
夕方の光が、彼の横顔を照らしている。
美しい顔だ。
けれど、その美しさの奥に、疲れのようなものが見えた。
「僕が答えたら、君は信じる?」
「内容による」
「正直だ」
「君の影響かもしれない」
「またそれか」
ジュリアンは苦笑した。
その笑みは、少しだけ本物に見えた。
「今は言えない」
「そうか」
「でも、ひとつだけ言える」
ジュリアンはルシアンを見た。
「君が殿下の隣に立つなら、これからもっと面倒になる」
「知っている」
「それでも?」
「それでも」
ルシアンは手首の銀紐に触れた。
「私は受けた」
ジュリアンはその動きを見て、目を細めた。
寂しそうにも、悔しそうにも見える表情だった。
「なら、もう僕には止められないね」
「止めるつもりだったのか」
「さあ」
また曖昧な言葉。
けれど、以前ほど鋭くはなかった。
ジュリアンは一歩下がる。
「今日はこれで。改めて、おめでとう。ルシアン」
「ありがとう」
ジュリアンは去っていった。
その背中を見送りながら、ルシアンは思った。
彼はまだ何かを隠している。
それは間違いない。
けれど、その中にある感情は、ただの悪意だけではないのかもしれない。
だからといって、油断はできない。
だが、少しだけ。
本当に少しだけ、彼もまた何かの役割に押し込められていたのではないかと思った。
外へ出ると、アルベールが待っていた。
当然のように。
「遅い」
「ジュリアンと少し話していました」
「知っている」
「……見ていたのですか」
「見ていた」
「堂々と言わないでください」
アルベールはルシアンの手首を見た。
「何かされたか」
「いいえ」
「何を話した」
「婚約のお祝いを」
「それだけか」
「少し、昔の話に近いことを」
アルベールの目がわずかに細くなる。
「近い?」
「まだ、彼は何かを隠しています」
「だろうな」
「ですが……」
ルシアンは言葉を探した。
「少しだけ、苦しそうに見えました」
アルベールはすぐには答えなかった。
「同情するか」
「分かりません」
正直に言う。
「でも、油断はしません」
「ならいい」
アルベールは短く答えた。
それから、当然のように手を差し出す。
ルシアンはその手を見た。
「ここは学園です」
「知っている」
「人が見ています」
「見ればいい」
「また噂になります」
「もう婚約者だ」
その言葉に、ルシアンは一瞬黙った。
婚約者。
そうだ。
もう、そう呼ばれる立場になった。
隠しても仕方がない。
ルシアンは小さく息を吐き、そっとその手を取った。
周囲の誰かが息を呑む。
きっと明日にはまた噂が増える。
社交界も、学園も、王宮も、しばらく落ち着かないだろう。
それでも今は、手を離さなかった。
アルベールの手は温かい。
そして、逃げられないほど確かだった。




