第30話 悪役令息ですが、求婚されました
手首の銀紐は、朝になってもそこにあった。
当たり前だ。
夢ではないのだから。
けれどルシアンは、目を覚ましてすぐ、布団の上で自分の右手首を見つめたまま、しばらく動けなかった。
細い銀の飾り紐。
王家の小さな紋章。
その横に嵌められた、エヴラール家の色である深緑の石。
正式な婚約印ではない。
王家の保護対象であることを示す印。
王妃はそう言った。
表向きは、と。
その言葉を思い出した瞬間、ルシアンは枕へ顔を沈めたくなった。
昨日の王妃の応接室での出来事が、何度も頭の中を巡っている。
王妃に問われたこと。
アルベールが隣に立っていたこと。
手首へ銀紐を結ばれたこと。
そして――。
遠くないうちに、正式に言う。
あの低い声。
逃げるなと命じる時と同じくらい冷静で、それでいて、明らかに別の熱を含んでいた声。
「……正式に言うって、何をだ」
答えは分かっている。
分かっているからこそ、口に出したくない。
ルシアンは寝台の上でゆっくり身を起こした。
昨夜はほとんど眠れなかった。だが、以前のように恐怖だけで眠れなかったわけではない。むしろ、胸の中が騒がしすぎて眠れなかった。
怖い。
重い。
逃げたい。
でも、嫌ではない。
その最後の感情が一番厄介だった。
嫌ではない、などと認めてしまえば、もう以前のように身分差や迷惑という言葉だけで逃げることはできない。アルベールの言葉を重いと思いながら、その重さに自分から指を伸ばしていることを認めなければならない。
侍女が支度のために入ってくると、真っ先に銀紐へ視線が向いた。
一瞬だけ驚いた顔をして、それから慌てて平静を装う。
ルシアンはその反応だけで、今日一日の面倒を想像してしまった。
「……気になるか」
思わず尋ねる。
侍女はびくりと肩を揺らした。
「い、いえ、その……とても、お似合いです」
「似合うかどうかの問題ではないと思うが」
「申し訳ございません」
「責めていない」
そう言うと、侍女は少しだけほっとしたように目を伏せた。
その表情を見て、ルシアンは小さく息を吐く。
この銀紐は、隠すには目立つ。
かといって外すことはできない。王妃から与えられ、アルベールが結んだものだ。外せば、それこそ変な意味を持つ。
つまり、今日はこのまま人前に出るしかない。
朝食の席で、エドモン侯爵はすでにそのことを知っていた。
ルシアンが席へ着く前から、父の視線は手首に向いている。
「王妃殿下より賜ったと聞いている」
「はい」
「保護対象の印だそうだな」
「……表向きは」
言ってから、失敗したと思った。
父の眉がわずかに動く。
「表向きは?」
「王妃殿下が、そう仰いました」
嘘ではない。
だが、説明になっていない。
エドモン侯爵はしばらく銀紐を見ていたが、やがて短く言った。
「そうか」
それだけだった。
もっと問い詰められると思っていたルシアンは、少し拍子抜けする。
「何も、お聞きにならないのですか」
「聞いてほしいのか」
「いえ」
「なら聞かん」
父らしい返答だった。
だが、その後に続いた言葉は少し違った。
「ただし、自分の立場は理解しておけ」
「はい」
「王妃殿下の印を身につけて学園へ出るということは、王宮が正式にお前を守ると示すのと同じだ。今までのように曖昧な噂では済まない」
「承知しています」
「本当にか」
父の視線が鋭くなる。
ルシアンは一瞬言葉に詰まり、それから正直に答えた。
「たぶん、完全には分かっていません」
侯爵は少しだけ目を細めた。
「だが、逃げるつもりはありません」
そう続けると、父は何も言わなかった。
沈黙の後、ただ一度だけ頷く。
「なら行け」
「はい」
その短い許可に背を押されるように、ルシアンは屋敷を出た。
王立学園へ着いた瞬間、予想していた通り、視線が集まった。
いや、予想以上だった。
王宮警備の騎士がついていることにも、もう周囲は慣れ始めていた。だが、今日の焦点はそこではない。
手首の銀紐。
王家の紋章。
エヴラール家の深緑。
それを見た生徒たちが、一瞬で意味を探り始める。
「あれは……」
「王家の保護印?」
「でも、保護対象にしては……」
「王妃殿下から?」
「まさか、第一王子殿下と……?」
囁きはすぐに広がった。
ルシアンは背筋を伸ばして歩く。
隠すな。
そう自分へ言い聞かせる。
恥じるな。
守られることを恥じるな。
アルベールの言葉が、頭の中で繰り返される。
それでも、手首を意識しないことはできなかった。
廊下でセシリアと出会った。
彼女は銀紐を見ると、目を丸くした。
けれど、周囲の令嬢たちのように騒ぐことはしなかった。ただ、少しだけ表情を柔らかくする。
「ルシアン様」
「フォルナン嬢」
「王妃殿下から、と伺いました」
「もう広まっているのか」
「王宮から学園へ正式な通知があったそうです」
早い。
あまりにも早い。
おそらく、アルベールか王妃の指示だろう。
噂が勝手な形になる前に、王宮側から“保護対象の印”として意味を定める。そういうことだ。
ただし、定めたからといって、余計な解釈が消えるわけではない。
セシリアは声を少し落とした。
「お似合いです」
「朝も同じことを言われた」
「では、皆同じことを思うのですね」
「似合うかどうかの話ではないと思う」
そう言うと、セシリアは小さく笑った。
以前なら、その笑みはどこか儚かった。今は、少しだけ芯がある。
「でも、嫌そうには見えません」
不意を突かれ、ルシアンは言葉を失った。
セシリアは、少し得意そうに首を傾げる。
「違いましたか?」
「……完全には、否定しない」
ようやくそう答えると、彼女は本当に嬉しそうに微笑んだ。
「よかったです」
「なぜ君が嬉しそうなんだ」
「ルシアン様が、受け取れるようになったからでしょうか」
その言葉は、胸の奥をやわらかく突いた。
受け取れるようになった。
守りも、言葉も、差し出された手も。
まだぎこちなく、何度も迷いながらだが、少なくとも以前のように全部拒んではいない。
「……君も変わったな」
ルシアンが言うと、セシリアは静かに頷いた。
「はい。たぶん、少し」
その返事が自然で、ルシアンも少しだけ笑いそうになった。
だが、その穏やかな時間は長く続かなかった。
教室へ入ると、ジュリアンがこちらを見ていた。
彼の視線は、まずルシアンの顔へ。
次に、手首の銀紐へ。
そして再び顔へ戻った。
ほんの一瞬だけ、彼の微笑みが薄くなる。
だがすぐに、いつもの形へ整った。
「おはよう、ルシアン」
「おはよう、ジュリアン」
「ずいぶん立派なものを賜ったんだね」
声は穏やかだ。
周囲が静かになる。
皆が、二人の会話を聞いている。
「王妃殿下より、保護対象の印として賜った」
ルシアンは事実だけを答えた。
「そう。王妃殿下が」
ジュリアンは柔らかく目を細める。
「君は本当に、王家に大切にされているんだね」
その言い方に、以前なら揺れただろう。
大切にされている。
守られている。
それを“特別扱い”として周囲に見せる言葉。
だが、今のルシアンはすぐに反応しなかった。
「大切にされているかどうかは、私が決めることではない」
静かに返す。
「だが、賜ったものを恥じるつもりはない」
ジュリアンの目が、ほんのわずかに動いた。
周囲の空気も変わる。
ルシアンは続けなかった。
余計に言葉を重ねれば、また会話を別の方向へ誘導される。ここで線を引いて終えるのがいい。
ジュリアンは少しだけ笑った。
「そう。強くなったね」
「それも聞き飽きた」
「では、別の言葉を考えておくよ」
「期待しないで待っている」
教室の何人かが、小さく息を呑む。
ジュリアンは笑っていた。
だが、その笑みの端は以前より硬い。
彼はもう、完全には余裕を保てていない。
授業が終わった昼前、ルシアンは王宮からの使いに呼ばれた。
またか。
そう思ったが、今日は少し違う。
使いの文官は緊張した様子で、こう告げた。
「第一王子殿下より、王宮へお越しいただきたいとのことです。エヴラール侯爵閣下にも連絡済みです」
学園の中庭が、一瞬遠くなる。
王宮へ。
また何か起きたのか。
そう身構えたが、文官の表情は緊急事態というほどではない。むしろ、別の種類の緊張を帯びている。
レオンハルトがすぐ近くに現れた。
「お迎えに上がりました」
「何かあったのですか」
「殿下より、直接お話があると」
レオンハルトの顔はいつも通り無表情だった。
だが、わずかに視線を逸らした。
珍しい。
何かを知っている。
「……嫌な予感がします」
「危険はありません」
「危険の種類が違う気がします」
レオンハルトは沈黙した。
否定しない。
ルシアンは小さく息を吐いた。
「分かりました。参ります」
王宮の馬車へ乗ると、学園の視線がまた集まった。
今日一日で、いったい何度注目を集めればいいのか。
ルシアンは窓の外を見る。
手首の銀紐が、陽の光を受けて小さく光った。
王宮では、昨日と同じ西翼の小応接室へ通された。
けれど、部屋に入った瞬間、昨日とは明らかに空気が違った。
アルベールだけではなかった。
王妃イザベル。
エドモン侯爵。
そして数名の王宮文官。
全員が揃っていた。
ルシアンはその場で固まりそうになった。
何の場だ。
これは。
アルベールは窓辺に立っていた。
今日の彼は、王子としての礼装に近い装いをしている。正式な謁見ほどではないが、私的な呼び出しにしてはあまりに整っていた。
その姿を見た瞬間、ルシアンの心臓が大きく鳴った。
まさか。
いや、まだ早い。
遠くないうちに、と言ったばかりだ。
昨日の今日であるはずがない。
そう思おうとした。
だが、アルベールはまっすぐこちらへ歩いてきた。
「ルシアン」
「……はい」
「逃げなかったな」
「この状況で最初に言うことがそれですか」
「重要だ」
「今は、もっと他に重要なことがあるように見えます」
「ある」
即答だった。
王妃が少し楽しそうに見ている。
父は表情を固くしているが、驚いてはいない。
つまり、知らされている。
ルシアンだけが知らない。
いつものことだ。
けれど今回は、心臓に悪すぎる。
アルベールはルシアンの前で足を止めた。
近い。
だが、いつものように強引に距離を詰めるのではない。
儀礼として、正面に立っている。
「昨日、言ったな」
「……何を、でしょう」
「遠くないうちに、正式に言うと」
やはり。
ルシアンの口の中が乾く。
「殿下」
「今日言う」
「早すぎませんか」
「早くない」
「昨日の今日です」
「十分待った」
「どこがですか」
思わず返すと、王妃が小さく笑った。
父が咳払いをする。
ルシアンは顔が熱くなるのを感じた。
アルベールは少しも動じない。
「本来なら、もっと手順を踏むべきだ」
低い声で言う。
「家同士の調整、王宮の発表、社交界への布石。すべて必要だ」
「では、なぜ」
「相手が、お前の立場をまた利用しようとしているからだ」
その言葉に、ルシアンは少しだけ息を詰めた。
「保護対象という曖昧な立場では、これからも揺さぶられる。私が私情で庇っているのか、王宮が証言者を保護しているのか、その間を突かれる」
アルベールは続けた。
「なら、曖昧さを減らす」
「……それは、政治的な判断ですか」
「それもある」
胸が少しだけ痛んだ。
やはり政治なのだ。
そう思った瞬間、アルベールが続けた。
「だが、それだけなら別のやり方を選ぶ」
ルシアンは顔を上げる。
アルベールの蒼い瞳が、まっすぐこちらを見ていた。
「私は、お前を望んでいる」
部屋が静まり返った。
その言葉は、昨日よりもさらに逃げ場がなかった。
「王子として、お前を守る。男として、お前の隣に立ちたい」
ルシアンの呼吸が浅くなる。
アルベールは、一歩も視線を逸らさない。
「ルシアン・エヴラール」
「……はい」
「私と婚約しろ」
命令形だった。
あまりにもアルベールらしく。
けれど、その声は決して冷たいだけではなかった。
ルシアンの胸の奥で、何かが熱く弾けた。
求婚。
これは、求婚だ。
冷たい命令の形をしているのに、そこに込められたものはどうしようもなく熱い。
ルシアンはすぐに答えられなかった。
当然だ。
第一王子からの求婚。
王妃と父と文官の前で。
自分は悪役令息として断罪されかけたばかりで、まだ一連の事件も終わっていない。ジュリアンも、ヴァレリオ家も、カルヴァン家も完全には片づいていない。
この婚約が何を意味するのか、分からないわけではない。
受ければ、もう戻れない。
アルベールの隣に立つことになる。
王家の一部に、より近づく。
守られるだけでは済まない。
弱点にもなる。
標的にもなる。
それでも。
手首の銀紐が、静かに重い。
昨日、嫌ではないと言った。
それは本当だった。
今日、求婚されている。
怖い。
けれど、嫌ではない。
むしろ胸の奥にあるのは、怖さだけではなかった。
ルシアンはゆっくり息を吸う。
「殿下」
「何だ」
「こういう時は、もう少し優しく言うものではありませんか」
言ってから、自分で驚いた。
こんな場で、第一王子の求婚に対して何を言っているのだ。
王妃がとうとう口元を押さえた。
父が額に手を当てた。
アルベールだけが、真顔のまま答える。
「優しく言えば、受けるのか」
「そういう問題ではありません」
「では、どう言えばいい」
「……私に聞かないでください」
「難しいな」
本気で考えている顔だった。
その様子があまりにもアルベールらしくて、ルシアンは胸の奥の緊張が少しだけほどけるのを感じた。
この人は冷酷で、強引で、言葉が足りない。
けれど、自分を見ている。
逃げようとする自分を捕まえ、怖いと言えば聞き、必要な時は隣に立ち、今こうして不器用なほどまっすぐ求婚している。
ルシアンは小さく息を吐いた。
「私は、まだ怖いです」
「ああ」
「殿下の隣に立つ覚悟が、完全にできたとは言えません」
「知っている」
「これからも迷います。たぶん、逃げたくなることもあります」
「その時は捕まえる」
「そう言うと思いました」
少しだけ笑ってしまった。
笑えたことに、自分で驚く。
アルベールの目元が、わずかに和らぐ。
ルシアンは、今度こそまっすぐ彼を見た。
「ですが、私はもう、逃げることを最初の答えにはしません」
部屋の空気が、静かに張り詰める。
「殿下の庇護を受けると決めたのも、評議会で隣に立つと決めたのも、私です」
声は震えなかった。
「だから、この求婚への返事も、私の意思で言います」
アルベールは黙っている。
王妃も、父も、誰も言葉を挟まない。
ルシアンは手首の銀紐へ一度だけ触れた。
そして、答えた。
「お受けします」
言った瞬間、心臓が大きく鳴った。
戻れない。
そう思った。
でも、それ以上に。
逃げなかった。
そう思った。
アルベールの表情が、一瞬だけ止まった。
ほんの一瞬。
いつも冷静で、何を言っても揺れない彼が、確かに言葉を失った。
それが妙に嬉しくて、ルシアンは少しだけ息を吐いた。
「……殿下?」
呼ぶと、アルベールはゆっくり瞬きをした。
「ああ」
「聞こえていましたか」
「聞こえていた」
「では、何か」
「今、返事を噛みしめている」
あまりにも真面目に言うので、ルシアンは顔が熱くなった。
王妃が小さく笑う。
「よかったわね、アルベール」
「はい」
即答だった。
その一言の重さに、ルシアンはまた胸を掴まれる。
エドモン侯爵は深く息を吐いた。
そして、ルシアンを見る。
「決めたのだな」
「はい」
「後悔するなとは言わん。だが、逃げるな」
父まで同じことを言う。
ルシアンは少しだけ困って、それでも頷いた。
「はい」
アルベールが手を伸ばした。
今度は、ルシアンの右手を取る。
手首の銀紐の上に、王子の指が触れた。
「正式な婚約印は、後日整える」
「はい」
「手順も踏む」
「はい」
「だが、今日からお前は私の婚約者だ」
その言葉に、ルシアンの胸がまた大きく鳴った。
悪役令息。
断罪予定。
そう呼ばれるはずだった自分が。
冷酷第一王子に、求婚された。
そして、受けた。
現実感がない。
けれど、繋がれた手の温度だけは確かだった。
「……殿下」
「何だ」
「これから、大変ですね」
「そうだな」
「噂も増えます」
「増えるだろうな」
「敵も増えるかもしれません」
「構わない」
「構います」
思わず返すと、アルベールの口元が少しだけ緩んだ。
「なら、一緒に対処しろ」
それは命令の形をしていた。
けれど、今のルシアンには分かった。
これは、隣に立てという意味だ。
後ろに隠れるな。
一人で逃げるな。
一緒に対処しろ。
ルシアンはゆっくり頷いた。
「はい」
王妃が侍女へ合図をする。
文官たちは正式な記録を整え始めた。
エドモン侯爵は、まだ複雑そうな顔をしているが、反対はしない。
そしてアルベールは、ルシアンの手を離さなかった。
しばらくして、王宮の窓の外では夕方の光が庭を照らし始めていた。
昨日と同じような光。
けれど、今日はすべてが違って見える。
断罪予定の悪役令息だったルシアン・エヴラールは、公開式典の壇上で崩れなかった。
王宮評議会で逃げなかった。
そして今、第一王子の求婚からも逃げなかった。
物語は、もう完全に変わってしまった。
それが幸せな道なのか、苦難の始まりなのかは、まだ分からない。
けれどルシアンは、繋がれた手を見下ろしながら思った。
少なくとも今は、この手を振りほどきたくない。
それが、今の自分にできる一番正直な返事だった。




