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『断罪予定の悪役令息ですが、冷酷第一王子にだけ求婚されています』  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第29話 冷たい求婚、熱い返事

 評議会の間を出たあと、ルシアンはしばらく王宮の廊下で動けなかった。


 倒れたわけではない。


 足に力が入らなかったわけでもない。


 ただ、身体の内側で張り詰めていた糸が、少しだけ緩んだのだと思う。


 王宮評議会。


 王族、上級貴族、文官長、騎士団長、各家の代表が揃うあの場で、ルシアンは自分の口で答えた。


 第一王子アルベールの誓いではなく、自分自身の言葉で。


 私の潔白は、殿下の誓いではなく、事実によって示されるべきです。


 言っている時は必死だった。


 格好よく言おうとしたわけではない。誰かを感心させようとも思っていなかった。ただ、あの問いをアルベール一人に背負わせてはいけないと思った。


 だから、前に出た。


 たったそれだけのことなのに、今になって膝の奥が重い。


「顔色が悪い」


 隣でアルベールが言った。


 もう何度目か分からない言葉だった。


 ルシアンは窓枠に軽く手を添えながら、苦笑する。


「今日は、言われても仕方ありません」


「珍しく素直だな」


「反論する体力がありません」


「なら休め」


「王宮の廊下で、ですか」


「必要なら部屋を用意させる」


「必要ありません」


 即答した。


 この流れでまた王子付きの控え室へ連れて行かれたら、今度こそ周囲の文官たちがどう記録するか分からない。


 いや、もう手遅れかもしれないが。


 評議会で第一王子の半歩横に立った時点で、王宮中に十分すぎるほど話題を提供している。


 ルシアンは息を整え、廊下の先を見た。


「父上は」


「文官長と話している。侯爵家としての確認があるのだろう」


「そうですか」


 父がいないと分かって、安心したような、少し心細いような気持ちになる。


 昨日までなら、父の目がないところでアルベールと二人にされることの方を警戒しただろう。今も警戒がないわけではない。だが、その種類がずいぶん変わってしまった気がする。


 アルベールは、じっとルシアンを見ていた。


 何かを考えている顔だった。


「……殿下」


「何だ」


「また何か、勝手に決めようとしていませんか」


 アルベールの目がわずかに動いた。


 図星らしい。


 ルシアンは小さく息を吐く。


「やはり」


「お前は最近、妙なところで勘がいい」


「殿下に鍛えられました」


「悪くない」


「私は困っています」


 そう返すと、アルベールはほんの少しだけ口元を緩めた。


 けれど、その表情はすぐに真剣なものへ戻る。


「ルシアン」


 低い声で名を呼ばれた瞬間、ルシアンの背筋が自然と伸びた。


 この呼び方は、軽い話ではない時のものだ。


「はい」


「この後、王妃殿下に呼ばれている」


「……私が、ですか?」


「私とお前が」


 呼吸が止まりかけた。


 王妃殿下。


 国王妃であり、アルベールの母。


 王宮の中でも、社交と儀礼、王族の婚姻や家門調整に強い影響力を持つ女性だ。ルシアンも遠くから見たことはあるが、私的に言葉を交わしたことなどほとんどない。


 そんな人物に、今このタイミングで呼ばれる。


 嫌な予感しかしない。


「なぜですか」


「評議会での件だろうな」


「それだけでしょうか」


「違うだろう」


 さらりと言われると、逆に胃が痛くなる。


「殿下、分かっているならもう少し先に説明してください」


「言えば逃げると思った」


「逃げません」


「昨日までなら?」


「……少し考えたかもしれません」


「だから言わなかった」


 理屈としては通っている。


 腹立たしいことに。


 ルシアンが返す言葉を探していると、廊下の向こうから王妃付きの侍女が静かに近づいてきた。


 深い青の衣装に銀の飾り。歩き方だけで、王宮の上級侍女だと分かる。


「アルベール殿下。エヴラール様。王妃殿下がお待ちです」


 丁寧な礼。


 逃げ場のない案内。


 ルシアンは小さく息を吸い、アルベールを見た。


「殿下」


「何だ」


「怖くなってきました」


 正直に言った。


 アルベールの瞳が、わずかに柔らかくなる。


「分かった」


「それだけですか」


「逃げるか?」


「逃げません」


「なら十分だ」


 本当にこの人は、励まし方が極端だ。


 けれど、不思議とそれで少し歩ける気がした。


 王妃の私的な応接室は、王宮の奥にあった。


 大広間や評議会の間のような威圧感はない。白と淡い金を基調とした落ち着いた部屋で、窓辺には季節の花が飾られている。だが、柔らかい部屋だからこそ、そこに漂う気配は重かった。


 王妃イザベルは、窓辺近くの長椅子に座っていた。


 年齢を感じさせない美しさの中に、王族としての気品と、母としての静かな鋭さがある。笑っているようにも見えるが、その目は何ひとつ見逃さない。


 ルシアンとアルベールが礼を取ると、王妃は穏やかに言った。


「楽にしてちょうだい。今日はもう、あなたたちは十分に堅苦しい場へ立ったでしょう」


 柔らかい声。


 けれど、ルシアンは少しも楽になれなかった。


「お心遣い、恐れ入ります」


 どうにかそう返すと、王妃は目元を少しだけ細めた。


「エヴラール侯爵家のご子息は、思っていたよりずっと礼儀正しいのね」


 褒め言葉のはずだ。


 だが、裏を返せば“噂とは違う”という意味でもある。


 ルシアンは慎重に頭を下げた。


「未熟なところも多くございます」


「そう。けれど、未熟さを認めるのは簡単ではないわ」


 王妃の視線が、ほんの一瞬アルベールへ向いた。


「この子は昔から、認める前に黙って片づけようとするところがあるから」


「母上」


 アルベールの声が少し低くなる。


 王妃はまったく気にした様子がなかった。


「事実でしょう?」


「今はその話ではありません」


「そうね」


 王妃は紅茶のカップを置いた。


 柔らかな音が、部屋に小さく響く。


「では本題に入りましょう」


 ルシアンは無意識に背筋を伸ばした。


 王妃の視線が、まっすぐこちらへ向く。


「ルシアン・エヴラール。あなたは、アルベールの庇護下に入ると自分で決めたのですね」


「はい」


「命じられたのではなく?」


 一瞬、言葉が詰まった。


 命令だった。


 少なくとも最初は。


 だが、最後に受け取ると決めたのは自分だ。


 それを曖昧にすれば、またアルベールにすべてを背負わせることになる。


「最初は、殿下のお言葉でした。ですが、受けると決めたのは私です」


 王妃は静かに聞いていた。


「今日の評議会で、殿下の隣に立つと決めたのも、私自身です」


「そう」


 王妃は頷いた。


 その表情から、満足しているのか、試しているのかは読めない。


「では、もう一つ聞きます」


「はい」


「あなたは、アルベールの弱点になる覚悟がありますか」


 部屋の空気が、一瞬で変わった。


 ルシアンは息を止めた。


 弱点。


 その言葉は、何度も胸の奥で恐れてきたものだった。


 自分がアルベールの弱点になる。


 政敵に使われる。王家の判断を疑わせる。第一王子を傷つける刃になる。


 それが怖くて、何度も離れようとした。


 逃げようとした。


 だが王妃は、そこを真正面から問うてきた。


「母上」


 アルベールが低く声を発した。


 しかし王妃は視線をルシアンから外さない。


「答えさせなさい。これは、あなたが答えることではありません」


 アルベールは黙った。


 ルシアンは膝の上で手を握りしめる。


 怖い。


 だが、ここで逃げるわけにはいかない。


「……覚悟がある、とはまだ言い切れません」


 正直に答えた。


 アルベールがわずかにこちらを見る気配がした。


 王妃は黙って続きを待っている。


「私は、今でも怖いです。殿下の名を傷つけるのではないかと考えます。私がいることで、殿下の判断が私情だと見られるのではないかとも」


 声は震えなかった。


 震えないように、ゆっくり話した。


「ですが、怖いから離れるという選択は、もうしないと決めました」


 王妃の瞳が、静かに揺れた気がした。


「私は殿下の弱点になるかもしれません。でも、弱点で終わるつもりはありません」


 言ってから、自分で少し驚いた。


 そんな言葉が出るとは思っていなかった。


 けれど、もう止めなかった。


「隣に立つと決めたなら、守られるだけではなく、殿下の判断が間違いではなかったと示せる人間になりたいと思っています」


 部屋が静かになった。


 王妃は、しばらく何も言わなかった。


 アルベールも沈黙している。


 やがて王妃は、小さく笑った。


 先ほどまでの社交的な笑みではない。


 ほんの少しだけ、母親らしい柔らかさのある笑みだった。


「アルベール」


「はい」


「あなた、ずいぶん面倒な子を選んだのね」


 ルシアンは固まった。


 アルベールはまったく動じずに答える。


「承知しています」


「否定しないのですね」


「事実です」


「殿下」


 思わずルシアンが小さく声を出すと、王妃がくすりと笑った。


「あら、仲が良いのね」


「そういうわけでは」


「あります」


 アルベールが即答した。


 ルシアンは今度こそ言葉を失う。


 王妃は楽しそうに二人を見比べた。


「なるほど。噂よりずっと分かりやすいわ」


「母上」


「はいはい。からかいすぎると怒られるわね」


 王妃は再び表情を整えた。


 その瞬間、部屋の空気が少し引き締まる。


「ルシアン。あなたの答えは分かりました」


「はい」


「では、私からも言います。王家の庇護を受けるということは、あなた個人の安全だけを意味しません。あなたの行動、言葉、交友、すべてが王家の判断と結びつけられます」


「承知しております」


「今はまだ承知しているだけでしょう。これから身に染みるわ」


 厳しい言葉だった。


 だが、不思議と冷たくはなかった。


「それでも、逃げないのね」


 ルシアンは一度、アルベールを見た。


 彼は黙っている。


 答えを促すでもなく、代わりに言うでもなく、ただそこにいた。


 だからルシアンは、前を向いて答えた。


「逃げません」


 王妃は頷いた。


「よろしい」


 その一言で、何かが決まったような気がした。


 王妃は侍女へ合図をし、小さな箱を持ってこさせた。


 白い木箱。


 その中には、細い銀の飾り紐が入っていた。中央に王家の小さな紋章があり、その横には控えめにエヴラール家の色である深緑の石が嵌められている。


「これは正式な婚約印ではありません」


 王妃が言った。


 ルシアンの心臓が跳ねる。


「ですが、王家の保護対象であることを示す印です。表向きはね」


 表向きは。


 その言葉の含みを、聞き逃せるはずがなかった。


 アルベールが箱を受け取る。


 そして、ルシアンの前に立った。


「手を出せ」


「……これは命令ですか」


「確認だ」


「何の」


「逃げないかどうかの」


 こんな場で、王妃の前で、平然とそういうことを言う。


 ルシアンは恥ずかしさで顔が熱くなった。


 だが、手を引っ込めなかった。


 ゆっくりと右手を差し出す。


 アルベールは銀の飾り紐を取り、ルシアンの手首へ結んだ。


 動きは丁寧だった。


 驚くほど。


 指先が触れるたびに、ルシアンの呼吸が浅くなる。


 細い紐が手首に収まる。


 重さはほとんどない。


 けれど、意味は重かった。


「これで、当面は不用意に手を出してくる者も減るでしょう」


 王妃は穏やかに言った。


「逆に、噂は増えるでしょうけれど」


「母上」


「事実でしょう?」


 アルベールは否定しなかった。


 ルシアンは手首の飾り紐を見つめる。


 婚約印ではない。


 王家の保護対象を示す印。


 表向きは。


 胸がうるさい。


 この状況で落ち着けという方が無理だ。


「ルシアン」


 アルベールが名を呼ぶ。


「はい」


「これはまだ求婚ではない」


 ルシアンは、なぜか少し胸が痛んだ。


 ほっとしたような。


 残念なような。


 その自分の感情に、さらに動揺する。


「……分かっています」


「だが」


 アルベールは続けた。


 蒼い瞳が、まっすぐこちらを見る。


「遠くないうちに、正式に言う」


 息が止まった。


 王妃が、まあ、と楽しそうに眉を上げる。


「ここで言うの?」


「まだ言いません」


「そう。残念」


「母上」


 アルベールは少しだけ眉を寄せた。


 ルシアンはもう何をどうすればいいのか分からなかった。


 逃げたい。


 いや、逃げたいというより、どこかに顔を隠したい。


 けれど手首の銀紐が、やけに温かく感じられる。


「……殿下」


 ようやく声を出す。


「はい、ではありません。何ですか、それは」


「予告だ」


「予告しないでください」


「予告しておかないと、お前は逃げる」


「逃げません」


「なら問題ない」


「問題しかありません」


 王妃がとうとう小さく笑った。


 その笑い声で、ルシアンは自分の顔がさらに熱くなるのを感じた。


 アルベールは真面目な顔のままだ。


 いや、目元だけが少し笑っている。


 ずるい。


 本当にずるい。


 王妃はゆっくり立ち上がった。


「今日はここまでにしましょう。ルシアン、疲れているでしょう」


「いえ」


「無理に否定しなくていいわ。アルベール、この子をきちんと送ってあげなさい」


「もちろんです」


「逃げられないように、ではなく、倒れないように」


「両方です」


「本当にあなたは……」


 王妃は呆れたように息を吐いたが、その表情はどこか柔らかかった。


 応接室を出ると、王宮の廊下はもう薄暮の色だった。


 窓の外には夕焼けが広がり、庭園の木々が金色に縁取られている。


 ルシアンは手首の銀紐をそっと見た。


 細い。


 軽い。


 なのに、逃れがたいほど重い。


 アルベールが隣に立つ。


「重いか」


「重いです」


 正直に答えた。


 アルベールは頷く。


「そうだろうな」


「でも」


 ルシアンは少しだけ指で銀紐に触れた。


「嫌ではありません」


 言ってから、恥ずかしさで視線を逸らした。


 アルベールはすぐには答えなかった。


 沈黙が落ちる。


 何か変なことを言っただろうかと不安になって顔を上げると、アルベールはじっとこちらを見ていた。


 いつもの冷たい顔ではない。


 少しだけ、困ったような顔。


「殿下?」


「……お前は時々、反則だな」


「私がですか?」


「ああ」


「殿下にだけは言われたくありません」


 心からそう言うと、アルベールの口元がわずかに緩んだ。


 廊下を歩き出す。


 今日は、アルベールが手を差し出すことはなかった。


 その代わり、半歩横を歩いている。


 守られる側。


 隣に立つ側。


 その両方の間で、ルシアンはまだ揺れている。


 けれど手首の銀紐に触れるたび、ひとつだけはっきりと思った。


 冷たい求婚の予告は、あまりにも突然で、あまりにも重い。


 それでも、自分の中に生まれた返事は、思ったより熱を持っていた。


 まだ言葉にはできない。


 でも、逃げようとは思わなかった。

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