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『断罪予定の悪役令息ですが、冷酷第一王子にだけ求婚されています』  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第28話 最後の罠、王子を狙う

 その手紙が届いたのは、学園の午後の講義が終わった直後だった。


 差出人のない封書。


 ただし今度は、ルシアン宛てではなかった。


 封筒の表に書かれていた名は、アルベール・リュミエール。


 第一王子殿下へ。


 その文字を見た瞬間、応接室の空気が変わった。


 封書は学園長室へ届けられたという。門番のもとへ直接置かれていたらしい。いつ誰が置いたのかは不明。封蝋もない。紙質も市井で買える程度のもの。


 以前なら、ただの怪文書として処理されただろう。


 だが今は違う。


 ブローチ、毒、偽造証拠、脅迫文。

 そして、先日ルシアンに届いた悪意ある手紙。


 その流れの後で、第一王子宛てに差出人不明の封書が届いたのだ。


 軽く扱えるはずがなかった。


 応接室には、アルベール、レオンハルト、学園長、王宮文官、そしてなぜかルシアンがいた。


 なぜか、というより、アルベールが呼んだのだ。


 封書が届いたと聞いた直後、ルシアンは授業後の廊下でレオンハルトに声をかけられた。


 殿下がお呼びです。


 いつもの一言。


 けれど今日ばかりは、その言葉を聞いた瞬間、胸が嫌な形で鳴った。


 応接室へ入ると、机の上に封書が置かれていた。


 アルベールはまだ開封していなかった。


「ルシアン」


「はい」


「お前も見ろ」


 第一声がそれだった。


 ルシアンは眉をひそめる。


「私が、ですか」


「お前に関係がある」


「中身をまだご存じないのに?」


「この状況で私宛てに来た。お前に無関係なはずがない」


 言い切られると、反論できない。


 ルシアンは机のそばに立ち、封書を見下ろした。


 ただの紙だ。


 それなのに、妙に不吉に見えた。


 レオンハルトが手袋をした手で封を開ける。薬物や粉末の類がないかを確認し、慎重に紙を取り出した。


 文官が受け取り、アルベールの許可を得て読み上げる。


「“殿下は、悪役令息を庇うためにどこまで王家の名を汚すおつもりですか”」


 室内が静まった。


 ルシアンは、胸の奥が冷えるのを感じた。


 続きが読まれる。


「“ルシアン・エヴラールが本当に無実であるなら、明日の王宮評議会で証明なさるがよい。彼を庇う言葉ではなく、殿下ご自身が一人で壇上に立ち、王家の名にかけて彼の潔白を誓えるかどうかを”」


 文官の声が、少しだけ硬くなる。


「“もし殿下が誓われるなら、王家は悪役令息一人のために中立を失ったと知れ渡るでしょう。誓われないなら、殿下は彼を見捨てたのだと知れ渡るでしょう”」


 最後の一文で、ルシアンは息を詰めた。


「“選ぶのは殿下です”」


 読み終えた文官は、しばらく黙っていた。


 応接室の中で、誰もすぐには口を開かなかった。


 あからさまな脅迫ではない。


 だが、意図は明白だった。


 アルベールを表舞台へ引きずり出す。


 ルシアンを庇えば、王家の中立を疑われる。

 庇わなければ、ルシアンを見捨てたと言われる。


 どちらを選んでも、アルベールに傷がつくように作られている。


「……私ではなく」


 ルシアンは小さく呟いた。


「殿下を狙っている」


 アルベールは表情を変えなかった。


 ただ、手紙へ向ける目だけが冷たい。


「そのつもりだろうな」


「殿下」


「分かっている」


 何を言おうとしたのか、言う前に遮られた。


 ルシアンは唇を引き結ぶ。


 分かっている。


 この人はいつもそう言う。


 だが、分かっていても危険は消えない。


 明日の王宮評議会。


 王家の上位貴族、主要家門、文官長、騎士団長、そして一部の有力貴族が集まる場。正式な裁判ではないが、政治的な意味は極めて重い。


 そこでアルベールがルシアンの潔白を“王家の名にかけて”誓えばどうなるか。


 王子が個人的な情で侯爵家の令息を庇っている。

 王宮調査は第一王子に歪められている。

 ルシアン・エヴラールは王子を盾にしている。


 そういう噂を一気に広められる。


 逆に、アルベールが沈黙すれば。


 第一王子はルシアンを見捨てた。

 やはり疑わしい点があったのではないか。

 庇護は一時の気まぐれだった。


 どちらにせよ、ルシアンとアルベールの間に楔を打ち込める。


 嫌な罠だった。


 王宮文官が慎重に口を開く。


「殿下。明日の評議会にこの手紙の件を持ち込む必要はございません。差出人不明の怪文書として処理し、警備を強化するのが妥当かと」


「そうだな」


 アルベールは短く答えた。


「だが、相手は評議会で何かを仕掛けるつもりだ」


 レオンハルトが頷く。


「手紙そのものは誘導でしょう。ですが、評議会で殿下のご判断を問う発言が出る可能性は高いかと」


「誰が言う?」


「カルヴァン家側、またはヴァレリオ公爵家に近い貴族の誰かが」


 ルシアンは拳を握った。


 また、同じだ。


 直接手を汚さない。


 誰かに言わせる。

 誰かに問わせる。

 誰かに疑わせる。


 ジュリアンのやり方に似ている。


 いや、今度はもっと大きな家々の動きが混じっている。


「殿下」


 ルシアンは静かに言った。


「明日の評議会に、私も出席させてください」


 室内の空気が、一瞬止まった。


 学園長が目を丸くする。


 文官も手を止めた。


 レオンハルトでさえ、ほんの少しだけ眉を動かした。


 アルベールだけが、すぐには驚かなかった。


 ただ、まっすぐルシアンを見る。


「何を言っているか分かっているのか」


「分かっています」


「評議会は学園の式典とは違う」


「分かっています」


「王族と上級貴族が揃う場だ。そこでお前に向けられる言葉は、今日までの比ではない」


「分かっています」


 同じ言葉を繰り返す。


 けれど、逃げてはいなかった。


 ルシアンは胸の奥にある恐怖を確かめながら、それでも言葉を続けた。


「ですが、殿下だけに立たせるわけにはいきません」


 アルベールの目が細くなる。


「お前は私を守るつもりか」


「守れるとは言いません」


 正直に答える。


 自分に、第一王子を守る力などない。


 剣もない。権力もない。社交での経験も足りない。家格だって、公爵家や王族傍流を真正面から相手取れるほど強いわけではない。


 それでも。


「ですが、私の潔白を殿下だけに誓わせることは違うと思います」


 ルシアンは言った。


「私は守られる側です。でも、すべてを殿下に背負わせるために庇護を受けたわけではありません」


 以前なら、こんな言い方はできなかった。


 守られることを恥じるな。


 アルベールはそう言った。


 必要な時は頼れ。

 その上で、自分の足で立て。


 ならば今、自分は立たなければならない。


「私のことなら、私が話します」


 ルシアンは、アルベールから目を逸らさなかった。


「殿下の後ろに隠れるのではなく、隣で」


 言った瞬間、室内の空気が変わった。


 アルベールはしばらく沈黙した。


 その沈黙が怖くなかったと言えば嘘になる。


 怒られるかもしれない。

 無茶だと切り捨てられるかもしれない。

 守られることに慣れろと言ったばかりだろうと、叱られるかもしれない。


 だが、アルベールは怒らなかった。


 ゆっくりと息を吐き、低く言った。


「……本当に、手間のかかる男だな」


 ルシアンは少しだけ眉を寄せる。


「今、私は真面目な話を」


「真面目に聞いている」


「そうは聞こえませんでした」


「呆れているが、否定はしていない」


 アルベールは机の上の手紙へ視線を落とした。


 そして再びルシアンを見る。


「明日、私の隣に立て」


 その言葉に、胸が大きく鳴った。


「よろしいのですか」


「お前が言った。後ろではなく隣だと」


「……はい」


「なら、逃げるな」


「逃げません」


「怖くなったら」


「言います」


「よろしい」


 いつものような確認。


 けれど、今日のそれは以前よりずっと深い場所に届いた。


 王宮文官がやや困惑した顔で口を開く。


「殿下、本当にルシアン様を評議会へ?」


「出す」


「正式な召喚には準備が」


「私の随伴者として扱え。エヴラール侯爵にはこちらから伝える」


「承知いたしました」


 文官はすぐに記録を取り始める。


 レオンハルトは静かに頷き、手紙の保全へ移った。


 話は決まってしまった。


 明日、ルシアンは王宮評議会へ出る。


 第一王子の隣に立つために。


 その重さが後から押し寄せてきて、足元が少し不確かになる。


 けれど、倒れるほどではない。


 倒れている場合でもない。


 会議が終わり、学園長と文官が退室した後、応接室にはアルベールとルシアン、そして少し離れたレオンハルトだけが残った。


 アルベールが静かに言う。


「無理をしたな」


「しました」


 ルシアンは素直に答えた。


「でも、言わなければ後悔すると思いました」


「そうか」


「殿下は、怒っていませんか」


「怒っている」


「やはり」


「私一人で済ませるつもりだった」


 それは分かっていた。


 アルベールなら、明日の評議会でも一人で全て受け止めようとしただろう。王子として、冷静に、強く、隙なく。


 そして、ルシアンには危ないから下がっていろと言ったはずだ。


「でも、それでは駄目です」


 ルシアンは言った。


「駄目?」


「私は、守られることから逃げないようにします。でも、守られるだけの場所に閉じこもるつもりもありません」


 自分で言いながら、その言葉に少し驚く。


 本当に、自分は変わってきているのかもしれない。


 アルベールは、長い沈黙の後、低く言った。


「……いい顔をするようになった」


 不意打ちだった。


 ルシアンは一瞬、何を言われたのか分からなかった。


「え?」


「今の顔だ」


「な、何を」


「前は、逃げることばかり考えていた顔だった」


 アルベールは淡々と続ける。


「今は怖がりながらも、前を見ている」


 ルシアンは視線を逸らした。


「そういうことを、平然と言わないでください」


「事実だ」


「事実でも、言い方があります」


「なら慣れろ」


「またそれですか」


 少しだけ息が抜けた。


 明日の評議会。


 怖い。


 間違いなく怖い。


 けれど、今は逃げたいとは思わなかった。


 その時、レオンハルトが静かに口を開いた。


「殿下。明日の警備配置ですが、ルシアン様が随伴されるなら動線を変える必要があります」


「任せる」


「承知しました」


 レオンハルトはルシアンを見る。


「ルシアン様。明日は殿下の左後方ではなく、半歩横の位置になります」


「半歩横?」


「正式な随伴者としては本来後方ですが、殿下が隣とおっしゃいましたので」


 レオンハルトは真面目に言った。


「半歩横です」


 なぜか、その細かさに少し笑いそうになった。


 だが、アルベールは当然のように頷いている。


「それでいい」


「いいのですか」


 ルシアンが思わず聞くと、アルベールは返した。


「お前が隣と言った」


「言いましたが、儀礼上」


「儀礼は後で整える」


「整えるものなのですか」


「整える」


 この人は、本当にそうしてしまうのだろう。


 ルシアンは小さく息を吐いた。


 翌日、王宮評議会の間は重々しい空気に包まれていた。


 王宮の奥にある楕円形の広間。


 壁には歴代国王の肖像画が並び、中央には大きな会議卓が置かれている。席には王族、上級貴族、文官長、騎士団長、主要家門の代表が並んでいた。


 そこへ入る瞬間、ルシアンの足は少しだけ止まりそうになった。


 だが隣にアルベールがいた。


 半歩横。


 レオンハルトの言った通りの位置。


 後ろではない。


 完全な横でもない。


 けれど、逃げ隠れする位置ではなかった。


 視線が一斉に向けられる。


 第一王子アルベール。


 その傍らに立つルシアン・エヴラール。


 この配置だけで、評議会の空気が動いた。


 誰かが小さく息を呑む。


 カルヴァン家の代表が目を細める。


 ヴァレリオ公爵は、表情を変えない。


 ジュリアンはいない。


 さすがにこの場へ出る立場ではないのだろう。


 だが、いなくても彼の気配はあった。


 アルベールは所定の位置へ進み、短く礼を取る。


 ルシアンもそれに倣った。


 評議会は、形式的な議題から始まった。


 だが誰もが本題を待っているのは明らかだった。


 やがて、カルヴァン家に近い老貴族が口を開く。


「殿下。公開式典に端を発した一連の件につきまして、王宮調査が進んでいることは承知しております。しかし、ひとつ確認させていただきたい」


 来た。


 ルシアンの胸が冷える。


 老貴族はゆっくりと続けた。


「殿下は、ルシアン・エヴラール殿の潔白を、王家の名において保証なさるおつもりでしょうか」


 まさに、手紙の通りだった。


 室内の視線がアルベールへ集まる。


 ルシアンは、息を吸った。


 だがアルベールが答えるより先に、ルシアンは一歩だけ前へ出た。


 広間の空気が変わる。


 アルベールは止めなかった。


 ルシアンは老貴族を見た。


「その問いには、私からお答えします」


 声は震えていなかった。


 老貴族が眉をひそめる。


「貴殿に問うているのではない」


「私の潔白についての問いです」


 ルシアンは静かに返した。


「であれば、まず私が答えるべきです」


 誰かがざわめきかける。


 だが、アルベールが何も言わないため、誰も遮らなかった。


 ルシアンは続けた。


「私は、セシリア・フォルナン嬢を害しておりません。毒も、偽証も、証拠の偽造も命じておりません。それは、王宮調査で確認されつつある事実です」


「しかし、完全に結論が出たわけでは」


「その通りです」


 ルシアンは頷いた。


「だからこそ、第一王子殿下に“王家の名で私個人の潔白を誓え”と迫ることは、調査そのものを歪めます」


 広間が静まり返った。


 ルシアンは、手袋の内側で指先が冷えているのを感じながらも、言葉を止めなかった。


「殿下が私を庇護してくださっていることは事実です。ですが、私はそれを盾にして調査を免れるつもりはありません。必要な聴取には応じます。証拠も確認されるべきです」


 そして、まっすぐ言う。


「ただし、殿下のご判断を傷つけるために私を利用することも、私を揺さぶるために殿下を利用することも、私は受け入れません」


 老貴族の表情が変わった。


 部屋の端で、ヴァレリオ公爵がほんのわずかに目を細める。


 ルシアンはその視線を感じながらも、逸らさなかった。


「私の潔白は、殿下の誓いではなく、事実によって示されるべきです」


 言い終えた瞬間、自分の心臓の音がやけに大きく聞こえた。


 怖かった。


 今でも怖い。


 けれど、言えた。


 その時、隣からアルベールの声が響いた。


「私からも答えよう」


 ルシアンは少しだけ顔を向ける。


 アルベールは前を見据えたままだった。


「私は、ルシアン・エヴラールを庇護下に置く。これは私の判断だ」


 広間が静まる。


「だが、その判断は王宮調査を妨げるものではない。むしろ、彼を利用して私や王宮調査の公正性を揺さぶろうとする者から、証言者を保護するためのものだ」


 証言者。


 その言葉で、空気が少し変わった。


 ルシアンはただの寵愛の対象ではない。

 一連の事件の標的であり、証言者であり、保護されるべき関係者。


 そう位置づけたのだ。


 アルベールは続ける。


「彼の潔白は、感情ではなく証拠で示す。だが、偽造された証拠で彼を断罪しようとする者がいれば、私はそれを退ける」


 冷たい声。


「それを私情と呼びたい者は、まず自分が何を守ろうとしているのかを明らかにしろ」


 老貴族は沈黙した。


 評議会の場に、重い静けさが落ちる。


 罠は、不発に終わった。


 少なくとも、アルベール一人に王家の名を賭けさせる形にはならなかった。


 ルシアンが先に答えたことで、問いの形が変わったのだ。


 評議会が終わった後、廊下へ出ると、ルシアンはようやく息を吐いた。


 足元が少し揺れる。


 だが、倒れなかった。


 アルベールが隣で言う。


「よく言った」


「……怖かったです」


「知っている」


「でも、言えました」


「ああ」


 短い返事。


 けれど、それで十分だった。


 ルシアンは窓の外を見た。


 王宮の庭が、午後の光に照らされている。


 最後の罠は、王子を狙った。


 けれど今回は、アルベールだけが受け止めたわけではない。


 ルシアンも、その隣に立った。


 守られる側のままではなく。


 少しだけ、守ろうとする側として。

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