第26話 公爵家からの反撃
王宮から侯爵邸へ戻った頃には、空はすでに夕暮れの色を深めていた。
馬車の窓から見える王都の街並みは、いつもと変わらない。店先に灯りがともり、通りには帰路を急ぐ人々の姿がある。パンを抱えた少年、馬車を避けて小走りになる侍女、屋台の片づけをする商人。
何もかもが日常の続きのように見える。
けれど、ルシアンの中では、今日を境に何かが確実に変わっていた。
――お前は、私の庇護下に入れ。
アルベールの声が、耳の奥に残っている。
あれは告白ではなく命令だと言われた。
だが、あの言葉のどこまでが命令で、どこからが別の感情なのか、ルシアンにはもう分からなかった。
王子として守る。
個人として傍に置きたい。
お前を欲している。
思い出しただけで、胸の奥が変な音を立てる。
嬉しいと思った。
そのことが、まだ怖い。
自分が第一王子の庇護下に入る。それはつまり、ルシアン・エヴラールという存在が、よりはっきりとアルベールの側に置かれるということだ。社交界は必ず意味を読む。王宮も、侯爵家も、公爵家も、カルヴァン家も。
そして、ジュリアン・ヴァレリオも。
馬車が侯爵邸へ到着すると、玄関前にはエドモン侯爵が待っていた。
いつもなら執務室にいる時間だ。わざわざ玄関まで出ている時点で、ただ事ではない。
ルシアンは馬車を降りた瞬間、その空気で察した。
何かが来ている。
「父上」
「中へ入れ」
侯爵は短く言った。
叱責ではない。だが、声が硬い。
屋敷に入ると、執事も侍女たちもいつも以上に口数が少なかった。廊下の空気が張り詰めている。使用人たちはよく訓練されているが、それでも不安までは隠しきれない。
エドモン侯爵はルシアンを執務室へ通した。
机の上には、一通の封書が置かれていた。
封蝋には、ヴァレリオ公爵家の紋章。
ルシアンの胸が静かに冷える。
「公爵家からですか」
「そうだ」
侯爵は机の向こうに立ったまま、封書へ視線を落とす。
「お前が王宮へ行っている間に届いた」
「内容は」
「読め」
父が封書を差し出す。
ルシアンは受け取り、文面へ目を落とした。
文章は、驚くほど丁寧だった。
公開式典で起こった不幸な混乱について。
ヴァレリオ公爵家の従者の名が挙がったことについて。
しかしその従者がカルヴァン家関係者に利用された可能性があることについて。
ヴァレリオ家としても真相解明に協力する意思があることについて。
そこまでは想定内だった。
だが、問題は後半だった。
――一方で、ルシアン・エヴラール殿が近頃第一王子殿下のご厚情を受け、王宮内外において特別な立場を得つつあるとの風聞が広がっております。
――今回の調査において、その関係性が判断へ影響を与えたとの誤解を防ぐためにも、エヴラール侯爵家として節度ある対応をお示しいただくことが望ましいと存じます。
ルシアンは一度、そこで目を止めた。
言葉は柔らかい。
だが、意味は明らかだった。
第一王子がルシアンを庇ったのは、私情ではないのか。
調査は公正なのか。
エヴラール家は王子の寵を利用しているのではないか。
そういう疑念を、丁寧な文章の中へ忍ばせている。
さらに最後には、こう書かれていた。
――つきましては、近日中にヴァレリオ公爵家主催の茶会を設け、関係者間で誤解を解く場を持ちたく存じます。ルシアン殿にもぜひご臨席いただきたく。
茶会。
ルシアンは封書を持つ手に力が入りそうになり、寸前で抑えた。
「……呼び出しですね」
「そうだ」
エドモン侯爵は淡々と答えた。
「表向きは友好的な茶会。実際には、こちらの出方を見る場だ」
「断れば」
「王子殿下の庇護を笠に着て、公爵家との対話を避けたと見られる」
「行けば」
「相手の庭だ」
どちらに転んでも面倒だ。
ルシアンはゆっくり封書を机へ戻した。
これが、公爵家からの反撃か。
偽造証拠が崩れ、式典での断罪が失敗した。王宮聴取でもルシアンを被疑者として扱う理由はないとされた。マルク・ベランはカルヴァン家へ責任を流し、ヴァレリオ家は直接の関与を否定する準備を始めている。
だが、それだけでは終わらない。
今度は、アルベールとルシアンの関係そのものを攻撃材料にする。
第一王子の私情。
王宮調査の偏り。
侯爵家の増長。
それらを匂わせれば、ルシアンだけではなく、アルベールの判断まで揺さぶれる。
「……早いですね」
思わず呟いた。
エドモン侯爵が頷く。
「公爵家は遅い家ではない。動くなら、傷が広がる前に動く」
「ジュリアン様の判断でしょうか」
「本人だけではないだろう。公爵家全体の判断だ」
父の声は冷静だった。
「ただし、ジュリアン・ヴァレリオの意思も混じっているはずだ」
ルシアンは、式典後のジュリアンを思い出した。
薄く崩れた微笑み。
柔らかい言葉の奥にあった苛立ち。
“君は、前よりずっと手強くなった”という声。
彼はまだ諦めていない。
むしろ、ここから別のやり方で巻き返すつもりなのだろう。
「行くべきでしょうか」
ルシアンは父へ尋ねた。
侯爵はすぐには答えなかった。
少しの沈黙の後、低く言う。
「本来なら、行く必要はない。王宮の調査が入っている以上、私的な茶会で話すことではない」
「ですが、断れば逃げたように見える」
「そうだ」
「では」
「王子殿下へ報告する」
ルシアンは少し目を見開いた。
「殿下へ?」
「当然だ。今回の件は、すでにエヴラール家だけの問題ではない。王宮調査と第一王子殿下の判断に関わる」
父はそこで一度、ルシアンを見る。
「それに、お前は殿下の庇護下に入るのだろう」
ルシアンは思わず咳き込みそうになった。
「父上、なぜそれを」
「王宮から先に連絡があった」
「……早すぎませんか」
「王子殿下は早い」
父の声には、若干の疲労が混じっていた。
それを聞いて、ルシアンは妙に申し訳なくなる。
「申し訳ありません」
「なぜ謝る」
「その、いろいろと」
「謝るより、覚悟を決めろ」
侯爵は封書を再び机へ置いた。
「庇護下に入るということは、守られるだけではない。殿下の側に立つという意味でもある。公爵家はそこを突いてくる」
「はい」
「お前はまた、自分が殿下の迷惑になると考えるだろう」
父にまで読まれている。
ルシアンは言葉に詰まった。
エドモン侯爵は、ほんの少しだけ目を細める。
「考えるなとは言わん。だが、それを理由に勝手に引くな」
胸の奥が、静かに痛んだ。
昨日の夜、逃げようとした自分のことを父はどこまで知っているのだろう。
もしかすると、すべてではないにせよ察しているのかもしれない。屋敷の裏口へ王子と戻ってきた時点で、分からないはずがない。
「……はい」
ルシアンは小さく答えた。
父はそれ以上追及しなかった。
その代わり、机の上のベルを鳴らす。
執事が入ってくる。
「王宮へ使いを出せ。第一王子殿下宛てだ。ヴァレリオ公爵家より茶会の招待が届いた。詳細確認のため、エヴラール侯爵家は王宮の判断を仰ぐ、と」
「かしこまりました」
執事が去っていく。
ルシアンはその背中を見送った。
またアルベールへ話が行く。
それは心強い。
だが同時に、胸の奥が落ち着かない。
彼に頼りすぎているのではないか。
彼の名に守られることに慣れ始めているのではないか。
そんな不安が、また湧き上がる。
「ルシアン」
父の声で我に返る。
「はい」
「顔に出ている」
「……最近、皆にそう言われます」
「なら直せ」
「努力します」
「努力では足りん」
父らしい返しだった。
けれどその硬さに、少しだけ安心する自分がいた。
翌朝、王宮からの返答は驚くほど早く届いた。
封書にはアルベールの筆跡で、短くこう書かれていた。
――行く。私も同席する。
ルシアンは書面を見つめたまま、しばらく動けなかった。
まただ。
また、この人は何の相談もなく大きなことを決めている。
エドモン侯爵は横から文面を見て、眉間にわずかに皺を寄せた。
「……予想はしていたが」
「父上も予想なさっていたのですか」
「殿下なら、そうするだろう」
「どうして皆、殿下の無茶を予想できるのですか」
「最近のお前の話を聞けば分かる」
どういう意味だろう。
ルシアンは聞き返すべきか迷ったが、やめた。
聞くと余計に気まずくなりそうだった。
同封されていた別紙には、王宮文官の正式な文面でこう記されていた。
ヴァレリオ公爵家主催の茶会については、王宮調査中の関係者間接触にあたるため、第一王子殿下および王宮側立会人同席のもとでのみ認める。
会場はヴァレリオ公爵邸ではなく、王宮内の中立的な応接室へ変更。
招待という形式ではなく、非公開の確認会合として扱う。
完全に、茶会の形を奪っている。
公爵家の庭ではなく、王宮の場へ引きずり戻したのだ。
ルシアンは文面を読み終え、小さく息を吐いた。
「殿下らしいですね」
エドモン侯爵は短く答えた。
「容赦がない」
「そこも殿下らしいです」
「お前、ずいぶん殿下のことを分かるようになったな」
不意打ちだった。
ルシアンは返答に詰まる。
「……そうでしょうか」
「顔が赤い」
「赤くありません」
「鏡を見るか」
「結構です」
父にそんなことを言われる日が来るとは思わなかった。
ルシアンは咳払いをして、話を戻す。
「会合はいつですか」
「明後日だ」
「早いですね」
「早くしなければ、噂が先に形を作る」
父の言葉は正しい。
公爵家はおそらく、王宮調査が本格化する前に“自分たちも被害者である”という印象を広げたいのだろう。カルヴァン家に責任を流しつつ、第一王子とルシアンの関係を問題化し、調査の正当性に疑問を投げる。
それを許せば、また別の物語が作られる。
今度は“悪役令息ルシアン”ではなく、“第一王子に守られすぎたルシアン”という物語が。
どちらにしても、他人の言葉で自分を形作られることに変わりはない。
「行きます」
ルシアンは静かに言った。
エドモン侯爵が彼を見る。
「怖くないのか」
「怖いです」
以前なら、即座に否定していただろう。
けれど今は、それが言えた。
「ですが、行かなければまた別の形で語られます。殿下も同席なさるなら、逃げるわけにはいきません」
父は少しだけ黙った後、頷いた。
「なら準備しろ」
「はい」
会合当日。
王宮の中立応接室には、重苦しい空気が漂っていた。
華やかな茶会などではない。
もちろん形式上、茶器も菓子も用意されている。けれどそれはただの飾りに近い。誰も本気で茶を楽しむために来ていない。
ヴァレリオ公爵家からは、ジュリアンとその父であるヴァレリオ公爵が出席していた。
公爵は、息子とはまた違う種類の男だった。
整った容貌。穏やかな微笑み。だが目の奥にあるのは、長年社交界と政治を渡ってきた者特有の冷たさだった。相手を責める時ですら、絹の布で刃を包むような話し方をするだろうと、ひと目で分かる。
カルヴァン家からも代表者が来ている。
エミールではなく、年配の叔父筋の男だった。顔色は悪いが、表面上は落ち着いている。
エヴラール家からは、エドモン侯爵とルシアン。
そして王宮側として、アルベールと数名の文官、レオンハルトが同席している。
席に着く前から、空気が重い。
ルシアンは、アルベールのすぐ斜め後ろに座ることになった。
完全に隣ではない。
けれど、明らかに王子側の配置だった。
ヴァレリオ公爵の視線が、一瞬そこへ向かう。
すぐに穏やかな笑みに戻った。
「殿下。本日はこのような形で場を設けていただき、感謝申し上げます」
「こちらが指定した形だ。礼は不要だ」
アルベールの返答は冷たい。
公爵はわずかに笑みを深めた。
「それでも、誤解を解く場をいただけたことはありがたく存じます」
「誤解かどうかは、調査が決める」
最初から容赦がない。
ルシアンは少しだけ肩に力が入った。
ジュリアンは父の隣で静かに座っている。
今日の彼は、いつもの華やかな笑顔を抑えていた。控えめで、少し疲れたような表情。公爵家の従者が疑われ、自分も聴取を受けた若き貴公子。そういう顔だった。
上手い。
そう思う自分は、もう以前のようには彼を見られない。
ヴァレリオ公爵が口を開く。
「我が家の従者マルク・ベランが、軽率な行動を取ったことは認めます。公爵家としても、監督不行き届きの責は免れません」
まずは認めるところから入る。
だが、すぐに続けた。
「しかしながら、現時点で判明している通り、彼はカルヴァン家関係者より指示を受けた可能性が高い。我が家もまた、巻き込まれた立場であると考えております」
カルヴァン家代表の男が眉を動かす。
「その点については、まだ確認が不十分です。そもそもマルク・ベランはヴァレリオ家の従者。彼の証言だけをもって、我が家へ責任を押しつけられては困ります」
「押しつけるなど」
公爵は柔らかく微笑む。
「我々は真実を求めているだけです」
その言葉に、ルシアンは嫌なものを感じた。
真実を求めているだけ。
ジュリアンが何度も使った構図と同じだ。
責めていない。断じていない。ただ、公平に知りたいだけ。
その形で、相手へ刃を向ける。
アルベールは黙っていた。
文官たちが記録を取る音だけが響く。
しばらく、ヴァレリオ公爵とカルヴァン家代表の応酬が続いた。
互いに責任を避ける言葉。
互いに相手の不自然さを指摘する言葉。
だが、どちらも核心には触れない。
やがてヴァレリオ公爵の視線が、ルシアンへ向いた。
「ただ、ひとつ気がかりがございます」
来た。
ルシアンは背筋を伸ばす。
「今回の件、我が家とカルヴァン家の名が挙がったことは重大です。しかし、その発端には、やはりルシアン殿を巡る一連の騒動がございます」
アルベールの視線が冷える。
だが公爵は続けた。
「もちろん、ルシアン殿を責める意図はございません。むしろ、彼もまた利用された被害者なのでしょう。ただ……」
少し間を置く。
その間が上手い。
「第一王子殿下がこれほど強く特定のご子息を庇護なさることが、かえって周囲の憶測を呼んでいる面もございます」
部屋の空気が硬くなった。
ルシアンは膝の上で指を組む。
やはりそこへ来た。
アルベールと自分の関係。
王子の私情。
公爵家は、それを攻撃の軸にするつもりだ。
ヴァレリオ公爵は穏やかに言う。
「王子殿下のご判断を疑うものではございません。しかし、調査が公正であると示すためにも、ルシアン殿には一時的に殿下の庇護から離れ、中立の保護下へ移っていただくのが望ましいのではないでしょうか」
ルシアンの胸が冷えた。
つまり、アルベールから引き離せと言っている。
中立の保護。
言葉は綺麗だ。
だが、実際にはルシアンを孤立させるための提案だろう。
アルベールの庇護から外せば、再び周囲が手を出しやすくなる。王宮が保護するといっても、誰の管轄に置くかで意味は変わる。公爵家や王族傍流が関与する余地も生まれる。
ルシアンは喉が乾くのを感じた。
その瞬間、アルベールが口を開く。
「却下する」
即答だった。
あまりにも早い。
ヴァレリオ公爵でさえ、一瞬だけ言葉を止めた。
「殿下。まだ理由を」
「必要ない」
アルベールの声は静かだった。
「ルシアン・エヴラールは、私の庇護下に置く。これはすでに決めた」
「しかし、それでは公正性に疑問が」
「公正性を疑うなら、王宮調査団の手続きに対して正式に申し立てろ。茶会の場で印象論を語るな」
公爵の笑みが、ほんのわずかに硬くなる。
ジュリアンが静かに父へ視線を向けた。
このままでは分が悪いと判断したのか、彼が穏やかに口を開く。
「殿下。父の言葉が至らなかったならお詫びいたします。ただ、僕たちが懸念しているのは、ルシアン自身がまた標的にされるのではないかということです」
ルシアンはジュリアンを見る。
“心配”の形だ。
また。
「殿下の庇護は強い。ですが、それゆえに彼はさらに注目される。彼自身にとって、それが本当に安全なのか」
ジュリアンはルシアンへ視線を向けた。
「ルシアン。君はどう思う?」
部屋の視線が、ルシアンへ集まった。
アルベールは何も言わない。
答えを奪わない。
ルシアンは、自分が試されていることを理解した。
ここで黙れば、アルベールに守られるだけの存在に戻る。
ここで迷えば、公爵家は“本人も不安を抱いている”と使うだろう。
ここで感情的に反発すれば、また未熟さを突かれる。
息を吸う。
怖い。
だが、怖いままでも言えることはある。
「注目されることが安全でないのは、理解しています」
ルシアンは静かに言った。
「殿下の庇護下に入ることで、私への見方がさらに変わることも分かっています」
ジュリアンは微笑んだまま聞いている。
ヴァレリオ公爵も、穏やかにこちらを見ている。
「ですが、私を殿下から引き離すことが中立だとは思いません」
空気が少し動いた。
ルシアンは続ける。
「私はすでに、何度も“中立”や“心配”という言葉の中で、都合よく疑われてきました。ブローチの件も、庭園の件も、式典での告発もそうです。誰も最初から断罪していないと言いながら、私を疑う空気だけが作られました」
ジュリアンの笑みが、わずかに薄くなる。
「だから、今は言葉だけの中立よりも、責任の所在が明確な庇護を選びます」
ルシアンはアルベールを見なかった。
見れば、頼っているように見える。
だから、自分の言葉として言う。
「私は、第一王子殿下の庇護を受けます」
言い切った。
部屋が静まる。
アルベールは何も言わなかった。
だが、隣から感じる空気が少しだけ変わった気がした。
ジュリアンは、ほんの数秒だけ黙った。
その沈黙は、これまでで一番長く感じられた。
「……そうか」
彼はようやく言った。
「君が自分で選んだなら、僕から言えることはないね」
「そうしてもらえると助かる」
ルシアンが返すと、ジュリアンの目元がぴくりと動いた。
ほんの一瞬。
だが、見えた。
ヴァレリオ公爵はすぐに会話を引き取った。
「ルシアン殿のお考えは分かりました。公爵家としても、これ以上その点を申し上げるつもりはございません」
引いた。
少なくとも、この場では。
だがその代わり、次の手を考えているのだろう。
アルベールは淡々と告げた。
「本日の確認は以上だ。今後、関係者同士の私的接触は禁じる。必要な連絡は王宮文官を通せ」
公爵は一礼する。
「承知いたしました」
「また、ヴァレリオ家の従者については引き続き王宮が預かる」
「……はい」
公爵の声がわずかに低くなった。
従者を取り戻せない。
つまり、口封じも接触もできない。
カルヴァン家代表も同じように文官から釘を刺され、会合は終わった。
応接室を出る直前、ジュリアンがルシアンの横を通った。
すれ違いざま、小さな声が落ちる。
「本当に、手強くなったね」
ルシアンは立ち止まらなかった。
「君のおかげだと言っただろう」
ジュリアンは一瞬だけ沈黙した。
そして、笑った。
けれどその笑みは、もう以前ほど完璧ではなかった。
会合後、王宮の廊下に出ると、ルシアンはようやく小さく息を吐いた。
身体の奥が重い。
だが、逃げなかった。
自分の口で選んだ。
第一王子の庇護を受ける、と。
その事実が、今さら胸に押し寄せてくる。
「よく言った」
隣でアルベールが言った。
ルシアンは視線を落とす。
「……かなり怖かったです」
「知っている」
「でも、言えました」
「ああ」
短い返事。
けれど、その声はとても静かで、温かかった。
「殿下」
「何だ」
「私は、自分で選んだのですよね」
「そうだ」
「命令ではなく」
「半分は命令だ」
「そこは全部、私の選択にしてください」
「分かった。では、九割はお前の選択だ」
「一割残っています」
「私の分だ」
「殿下」
ルシアンが少し責めるように見ると、アルベールは薄く笑った。
ほんの少しだけ。
「譲らない」
「本当に頑固ですね」
「お前ほどではない」
「私も、そう思われているのですか」
「かなり」
そう言われて、ルシアンは少しだけ笑ってしまった。
公爵家からの反撃は、ひとまず受け止めた。
これで終わりではない。むしろ、ヴァレリオ家はここからさらに慎重に、別の形で動くだろう。ジュリアンの微笑みは崩れかけているが、まだ完全に割れてはいない。
それでも今日、ルシアンはひとつ選んだ。
逃げずに。
誰かの物語ではなく、自分の言葉で。
アルベールの庇護を受けると。
その選択がどこへ繋がるのかは、まだ分からない。
けれど隣に立つ王子の横顔を見た時、少なくとも今だけは、間違いではなかったと思えた。




