第25話 告白ではなく、命令です
その夜、ルシアンはよく眠れなかった。
疲れているはずだった。
公開式典での告発。壇上での弁論。王宮での聴取。父からの言葉。アルベールに支えられて歩いた王宮の廊下。
一日で起きた出来事としては、あまりにも多すぎた。
寝台に入った瞬間、意識が落ちてもおかしくなかった。むしろそうであってほしかった。
けれど、目を閉じるたびに、講堂の光景が蘇る。
壇上から見た客席。
自分の名が罪と結びつけられた瞬間のざわめき。
セシリアの声。
ジュリアンの微笑み。
アルベールが隣に立った時の気配。
そして、あの言葉。
――次も隣に立つ。
それが何度も、胸の奥で繰り返された。
「……眠れない」
寝返りを打ちながら呟く。
天蓋の帳は薄闇の中で静かに揺れている。窓の外には月明かりがあり、庭の木々の影が床へ落ちていた。
逃げようとは思わなかった。
それだけは、昨日までと違う。
怖い。
怖さはまだある。
でも、今夜は窓を開けて外へ出ようとは思わなかった。逃げたいと思ったら言う、と約束したからだ。いや、約束というより、半ば命令だった気もするが。
それでも、不思議なことに、その命令が細い紐のようにルシアンを部屋へ繋ぎ止めていた。
朝になると、屋敷はいつもより静かだった。
使用人たちは普段通りに動いている。だが、その表情にはどこか緊張が残っていた。昨日の出来事がどれほど王都へ広がっているのか、屋敷の者たちも分かっているのだろう。
朝食の席で、エドモン侯爵はいつものように無駄のない所作で茶を口にした。
しばらく、会話はなかった。
やがて父は、手元の封書を一つルシアンの方へ滑らせた。
「王宮からだ」
ルシアンは封蝋を見た。
王家の紋章。
胸の奥が、わずかに強張る。
「私宛てですか」
「そうだ」
「中身は」
「私は見ていない」
意外だった。
侯爵家に届いた王宮からの書簡なら、父が先に確認してもおかしくない。むしろ家長として当然とも言える。
ルシアンの戸惑いを察したのか、侯爵は淡々と言った。
「第一王子殿下より、本人以外の開封を禁じる旨が添えられていた」
その言い方に、朝食の空気が少しだけ重くなる。
本人以外の開封を禁じる。
そこまでされると、逆に中身が怖い。
ルシアンは封を切った。
中の紙には、簡潔な文字が並んでいた。
――本日午後、王宮西翼の小応接室へ来い。逃げるな。
それだけだった。
あまりにも短い。
そして最後の一言が余計だった。
ルシアンは思わず額に手を当てたくなる。
「……殿下らしい」
小さく漏らすと、父が目だけをこちらへ向けた。
「何と」
「本日午後、王宮へ来るようにと」
「そうか」
侯爵はそれ以上詳しく聞かなかった。
だが、少ししてから低い声で言った。
「行け」
「よろしいのですか」
「王子殿下直々の呼び出しだ。断る理由がない」
それはそうだ。
だが、父の口調には別の意味も含まれている気がした。
ルシアンは少しだけ迷い、尋ねる。
「父上は、殿下をどうお考えですか」
侯爵はすぐには答えなかった。
食卓に置かれた銀器が、朝の光を受けて冷たく光っている。
「王子としては、有能だ」
やがて父は言った。
「情で動くように見えて、実際には先を読んでいる。冷酷と言われるのも、半分は正しい。不要と見れば切る判断もできるだろう」
ルシアンは黙って聞く。
「だが」
父の声がわずかに変わった。
「お前のことに関しては、少し冷静さを欠いている」
ルシアンは息を詰めた。
「それは……悪い意味で、でしょうか」
「王族としては危うい。だが、少なくともお前を駒として見ている者の目ではない」
その言葉は、不思議と胸に残った。
父は褒めているわけではない。
むしろ警戒している。
それでも、アルベールが自分を駒として見ていないことは認めている。
それが、ルシアンには少しだけ嬉しかった。
「ルシアン」
「はい」
「殿下が何を望んでいるか、自分で見極めろ」
父はそこで茶器を置いた。
「家のためでも、私のためでもない。お前自身のためにだ」
その言葉に、ルシアンはしばらく返事ができなかった。
父がそんなことを言うとは思っていなかった。
家のために立て。
嫡男として恥じるな。
そういう言葉なら、まだ分かる。
だが、お前自身のために見極めろ、と。
昨日から、父の言葉は少しずつ形を変えている。
不器用で、硬くて、決して温かいとは言い切れない。けれど、以前のようにただ冷たいだけでもない。
ルシアンは静かに頭を下げた。
「はい」
午後、ルシアンは王宮へ向かった。
昨日の今日でまた王宮へ行くなど、できれば避けたかった。だが封書の最後に“逃げるな”と書かれている以上、行かなければまた別の意味で面倒なことになる。
王宮西翼の小応接室へ案内されると、そこにはすでにアルベールがいた。
今日は式典の正装ではなく、少し落ち着いた執務用の装いだった。それでも、立っているだけで部屋の空気が引き締まる。
窓辺の小机には書類が積まれている。
事件の調査資料だろう。
レオンハルトの姿は室内にはない。扉の外に控えているらしい。
「来たか」
アルベールは顔を上げる。
「呼ばれましたので」
「逃げなかったな」
「封書にまで書かれたら、逃げようがありません」
「効果があったならいい」
「殿下は本当に……」
言いかけて、ルシアンは言葉を止めた。
何を言っても、たぶん涼しい顔で受け流される。
アルベールは長椅子を示した。
「座れ」
「今日は立ったままで」
「座れ」
「……はい」
結局いつも通りだった。
ルシアンが腰を下ろすと、アルベールは向かいではなく、斜め前の椅子へ座った。真正面から圧をかける位置ではない。けれど近い。
最近、彼の距離の取り方が少しずつ変わっていることに気づいてしまう。
近いけれど、逃げ道を完全には塞がない。
命じるけれど、時々こちらに選ばせる。
それがかえって、逃げづらい。
「調査は進んでいますか」
ルシアンが尋ねると、アルベールは頷いた。
「マルク・ベランは、カルヴァン家側の執事に命じられたと証言している。カルヴァン家側は否定しているが、商会の帳簿と金の流れが出た」
「では、カルヴァン家が」
「関与はある。だが、主犯かどうかは別だ」
アルベールは机上の紙を一枚手に取る。
「ジュリアンはまだ直接繋がらない。自分の従者が勝手に動いた、あるいはカルヴァン家に利用されたという形で逃げるつもりだろう」
「……彼らしいですね」
「そうだな」
短いやり取りの後、アルベールは書類を置いた。
「今日お前を呼んだのは、調査報告のためではない」
ルシアンの背筋が、わずかに伸びる。
「では、何のために」
アルベールはすぐには答えなかった。
静かな沈黙が落ちる。
その沈黙が、妙に重い。
ルシアンは膝の上で指を組んだ。
「殿下?」
「お前の立場についてだ」
声が低かった。
嫌な予感がする。
いや、嫌というより、逃げたい予感。
「私の立場、ですか」
「ああ」
アルベールはまっすぐこちらを見る。
「昨日の件で、お前を悪役として断罪する筋書きは崩れた。だが、お前の名前は王都中へ広がる。ルシアン・エヴラールは第一王子に庇われた。フォルナン嬢に敵ではないと言われた。偽造証拠で陥れられかけた。そういう話が、これから何通りにも変わって流れる」
「……分かっています」
「その中には、お前を同情の対象にするものもあるだろう。利用価値があると見る者も出る」
ルシアンは小さく息を呑んだ。
悪評が薄れれば、今度は同情される。
同情されれば、今度はまた別の形で利用される。
本当に、貴族社会には休む場所がない。
「だから、先に決めておく」
アルベールが言った。
「何を、でしょう」
「お前は、私の庇護下に入れ」
部屋の空気が止まった。
ルシアンは数秒、言葉の意味を理解できなかった。
「……庇護下」
「そうだ」
「それは、政治的な意味で、でしょうか」
「政治的にも、私的にも」
「私的にも?」
思わず聞き返してしまう。
アルベールは何も動じていない。
「お前に近づく者を制限する。王宮の許可なくお前へ縁談や接触を持ち込めないようにする。事件の調査が終わるまで、必要な場では私の名で守る」
「それは……かなり大きな話では」
「大きい」
「殿下」
「分かっている」
「本当に分かっていらっしゃいますか」
「お前が思っているよりは」
ルシアンは頭を抱えたくなった。
王子の庇護下。
それは単なる護衛ではない。
第一王子が、自分の名でルシアンを保護するということだ。周囲は当然、深い意味を読む。政治的な立場、将来的な取り込み、あるいは――。
そこまで考えて、ルシアンは言葉を止める。
アルベールは静かに言った。
「誤解ではない」
心を読まれたようで、ルシアンは顔を上げた。
「何がですか」
「お前が今考えたことだ」
「殿下、さすがにそこまでは」
「お前の顔に出ている」
「……本当に嫌な能力ですね」
「お前相手には役に立つ」
アルベールは立ち上がった。
ルシアンも反射的に立とうとしたが、手で制される。
「座っていろ」
「ですが」
「話の途中だ」
アルベールは数歩歩き、窓辺で足を止めた。
午後の光が、彼の横顔を照らす。
冷酷第一王子。
人々はそう呼ぶ。
実際、彼の判断は冷たい。昨日の壇上でも、今日の調査でも、必要なら誰でも切り込んでいく。その姿は確かに冷酷に見えるだろう。
けれど、ルシアンはもう知ってしまっている。
その冷たさの奥に、どうしようもなく熱いものがあることを。
アルベールは窓の外を見たまま言った。
「お前は、また自分が迷惑になると考えるだろう」
図星だった。
「私の名で庇護されれば、殿下の弱点になる。政敵に利用される。そう考えるはずだ」
「……事実です」
「事実の一部だな」
アルベールは振り返った。
「だが、私がお前を離したくないことも事実だ」
息が止まった。
ルシアンは、何も言えなくなった。
アルベールは近づいてくる。
一歩ずつ。
逃げ道を完全に塞ぐほどではない。けれど、確かに距離を詰めてくる。
「私は、もう曖昧にするつもりはない」
低い声だった。
「お前を守る。お前の隣に立つ。お前が怖いなら捕まえる。逃げたいなら、その理由ごと潰す」
「……殿下、それは」
「命令だ」
言い切られた。
あまりにも堂々と。
ルシアンは思わず目を見開く。
「命令、ですか」
「ああ」
「それは、告白ではなく?」
口にした瞬間、自分で自分の言葉に驚いた。
何を言っているのだ。
なぜ今、それを聞いた。
顔が一気に熱くなる。
だがアルベールは、少しも慌てなかった。
むしろ、待っていたように静かに目を細める。
「告白だと思いたいのか」
「違います」
即答した。
早すぎた。
アルベールの目元がほんのわずかに緩む。
「なら命令だ」
「……ずるいです」
「何が」
「逃げ道を塞いでから、こちらに考えさせるところです」
「逃げ道を残すと、お前は逃げる」
「昨日のことをずっと言いますね」
「一生言う」
「やめてください」
「嫌だ」
さらりと返されて、ルシアンは言葉に詰まった。
アルベールはルシアンの前で立ち止まる。
近い。
けれど、触れてはこない。
「ルシアン」
名を呼ばれる。
今まで何度も呼ばれたはずなのに、今日はなぜか音が違って聞こえた。
「私は、お前を欲している」
その一言は、何の飾りもなかった。
だからこそ、逃げ場がない。
ルシアンの胸が、強く鳴った。
「王子として、お前を庇護する。個人として、お前を傍に置きたい。どちらも私の本心だ」
「……私には、重すぎます」
「知っている」
「私は、まだ何も返せません」
「今は求めていない」
「では、なぜ言うのですか」
「言わなければ、お前はまた私の意思を勝手に軽く扱うからだ」
ルシアンは息を呑む。
私の意思を勝手に軽く扱う。
それは以前にも言われた。
自分は、アルベールのためだと言いながら、彼が何を望むのかを勝手に決めつけていた。
離れればいい。
消えればいい。
迷惑にならなければいい。
そう考えるたび、アルベール本人の意思を無視していたのだ。
「……私は、怖いです」
ルシアンは小さく言った。
「あなたの傍にいることが、怖い」
「そうだろうな」
「周囲が変わる。私の立場も変わる。殿下の名を背負うことになる」
「ああ」
「それに」
言葉が詰まる。
ここから先を言うのが一番怖かった。
アルベールは待っている。
急かさず、遮らず。
ルシアンは膝の上の手を握った。
「殿下の言葉を、嬉しいと思う自分も怖いのです」
声は小さかった。
けれど、部屋には十分届いた。
アルベールの表情が、ほんのわずかに変わった。
冷たさでも、余裕でもない。
柔らかい何かが、蒼い瞳の奥に浮かんだ。
「そうか」
それだけだった。
だが、その短い返事がなぜか胸に深く落ちた。
ルシアンは目を伏せる。
「笑わないのですね」
「笑うところではない」
「からかわれるかと」
「からかいたい気持ちはある」
「殿下」
「だが、今はしない」
少しだけ、いつもの調子が戻る。
そのおかげで、ルシアンは息ができた。
アルベールはゆっくりと手を差し出した。
掴むのではなく、ただ差し出す。
「すぐに答えろとは言わない」
その言葉は意外だった。
「命令では?」
「庇護下に入ることは命令だ」
「そこは譲らないのですね」
「譲らない」
「では、この手は何ですか」
「命令を聞くか、少しだけ自分で選べ」
「選択肢が狭すぎます」
「お前にはそのくらいでいい」
ルシアンは差し出された手を見つめた。
幼い日の庭園を思い出す。
差し出された白いハンカチ。
手を伸ばせば叱られると思っていた自分。
手を伸ばす前から、差し出されたものを怖がっていた子どもの自分。
今も同じだ。
差し出されたものが怖い。
受け取った後に何が起きるか分からないから。
けれど、あの時と違うことがある。
今の自分は、怖いと言える。
逃げたいと言える。
そして、差し出された手を受け取るかどうかを、少しだけ自分で選べる。
ルシアンはゆっくりと手を伸ばした。
指先が触れる。
その瞬間、アルベールの手が静かに包み込んだ。
強すぎない。
けれど、逃がさない。
「……少しだけです」
ルシアンは言った。
「今は、少しだけ」
「十分だ」
「十分なのですか」
「今はな」
アルベールの声は低く、穏やかだった。
ルシアンは、その手の温度を確かめるように一度だけ指を動かした。
「殿下」
「何だ」
「告白ではなく、命令なのですね」
「そうだ」
即答。
ルシアンは小さく息を吐いた。
「では、命令なら仕方ありません」
アルベールの目が、わずかに見開かれる。
次の瞬間、ほんの少しだけ口元が緩んだ。
「そうか」
「今、笑いましたね」
「笑っていない」
「嘘です」
「お前も言うようになった」
「殿下の影響です」
「なら悪くない」
繋いだ手は、まだ離れなかった。
窓の外では、午後の光が少しずつ傾いている。
調査はまだ終わっていない。
ジュリアンも、カルヴァン家も、公爵家も、これからどう動くか分からない。
王子の庇護下に入るということが、どれほど大きな波を生むのかも分からない。
それでも、今この瞬間だけは。
ルシアンは、その手を振りほどかなかった。




