第24話 冷酷第一王子にだけ、逃げられない
王宮の廊下は、夕暮れの光を受けて淡い金色に沈んでいた。
長い窓から差し込む陽は、磨かれた床に細く伸びている。壁際には衛兵が立ち、遠くでは文官たちが小声で書類の確認をしていた。公開式典での騒ぎは、すでに王宮全体へ広がっているのだろう。誰も大声を出さないのに、空気だけが妙に張り詰めていた。
ルシアンはエドモン侯爵の数歩後ろを歩いていた。
歩ける。
そう自分に言い聞かせる。
聴取は終わった。現時点で、自分を被疑者として扱う理由は確認されていない。文官は確かにそう言った。式典で突きつけられた証拠も、偽造の疑いが濃くなっている。セシリアは自分の言葉で証言し、アルベールは壇上で隣に立った。
最悪の事態は避けられた。
それでも、身体は思った以上に疲れていた。
膝の奥が重い。手袋の内側の指先が冷たい。喉の奥に、まだ壇上のざわめきが残っている気がする。
あれほどの視線を浴びた後だ。平気なはずがない。
けれど、父の前でふらつくわけにはいかなかった。まして王宮の廊下で、第一王子の目の前で倒れるなど論外だ。
ルシアンが歩調を整え直した時、背後から低い声がした。
「無理をしている」
振り返らなくても分かる。
アルベールだ。
彼はさっきから、少し離れた位置を歩いていた。近すぎず、遠すぎず。まるで、ルシアンが倒れかけた瞬間には支えられる距離を選んでいるようだった。
「していません」
「嘘だな」
「殿下は最近、そればかりです」
「お前が嘘をつくからだ」
短いやり取りのはずなのに、前を歩いていたエドモン侯爵の足が止まった。
ルシアンの背筋がぴんと伸びる。
父がゆっくり振り返った。
視線はまずルシアンに、次にアルベールへ向かう。何かを測るような目だった。
「殿下」
侯爵は深く頭を下げた。
「本日は、息子のためにご尽力いただきましたこと、御礼申し上げます」
「礼を言われることではない」
アルベールの返答は淡々としていた。
「不当な告発を正しただけだ」
「それでも、王子殿下のご判断がなければ、事態はさらに悪く進んでいたでしょう」
「そうならないように備えた」
そう言い切れるところが、この人らしい。
ルシアンは黙って二人の会話を聞いていた。
父とアルベールが、こうして真正面から言葉を交わす場面を見るのは初めてに近い。侯爵は冷静で隙がなく、アルベールも王子としての距離を保っている。だがその間に流れる緊張は、ただの礼儀だけではなかった。
エドモン侯爵が、わずかに声を低くする。
「本日以降、エヴラール家も独自に調査を進めます。先代の件を含め、古い話まで利用されるのであれば、こちらとしても黙っているわけには参りません」
「その方がいい」
アルベールは短く頷いた。
「ただし、先走るな。相手はこちらが焦るのを待っている」
「承知しております」
父の返事は硬かった。
それから、侯爵はルシアンを見た。
「ルシアン」
「はい」
「お前は今日は帰って休め」
思いがけない言葉だった。
叱責でも、追加の報告要求でもない。休め、と。
ルシアンは一瞬だけ答えに詰まる。
「……はい」
「明日以降のことは、屋敷で話す」
「分かりました」
その返事を聞くと、侯爵は再びアルベールへ礼を取り、先へ歩き出した。
だが、アルベールは動かなかった。
ルシアンも、結果としてその場に残る。
「殿下?」
「お前はこのまま帰れない」
「今、父上に帰れと言われたばかりですが」
「帰る前に休め」
「屋敷で休みます」
「馬車で倒れるつもりか」
「倒れません」
「今の顔で言っても説得力がない」
ルシアンは返す言葉を探したが、見つからなかった。
確かに、身体は重い。廊下の先に見える王宮の出口まで歩くことさえ、少し遠く感じている。気を張っていれば動けるが、一度座ったら立てなくなるかもしれない。
しかし、ここで素直に頷けば、父を待たせることになる。
「父上が」
「侯爵には伝える」
「伝えるって、まさか殿下が直接」
「それが一番早い」
「やめてください。余計に話が大きくなります」
思わず本気で止めると、アルベールはほんの少しだけ目を細めた。
「まだ人の目を気にしているのか」
「気にします。普通は」
「お前の普通は、たまに判断を鈍らせる」
「殿下の普通は、たまに周囲を置き去りにします」
言ってしまってから、ルシアンは少しだけ固まった。
相手は第一王子だ。
いくら最近こういうやり取りが増えたとはいえ、さすがに言いすぎたかもしれない。
だが、アルベールは怒らなかった。
むしろ口元がわずかに緩んだ。
「言い返す元気はあるな」
「……殿下が言わせるのです」
「いい傾向だ」
「よくありません」
このままではまた言い合いになる。
ルシアンがそう思った時、アルベールは近くの衛兵へ視線を向けた。
「侯爵へ伝えろ。ルシアン・エヴラールは少し休ませてから戻す。王子付きの控え室を使う」
衛兵は即座に礼をした。
「はっ」
「殿下」
ルシアンが止める間もなく、衛兵は歩き出してしまった。
完全に手遅れだった。
アルベールは何事もなかったように言う。
「行くぞ」
「……私の意見は」
「聞いた」
「聞いただけでは」
「考慮した結果、却下した」
「横暴です」
「今さらだ」
あまりにも堂々と言われると、もう反論する気力も削がれる。
ルシアンは結局、アルベールに促されるまま、王子付きの控え室へ向かった。
案内された部屋は、王宮西翼の静かな一室だった。
広すぎず、けれど上質な調度品が整っている。壁際には低い長椅子、窓辺には小さな書き物机、暖炉には小さな火が入っていた。春とはいえ夕方になると王宮の石造りの部屋は冷える。暖炉の火があるだけで、少しだけ呼吸が楽になった。
扉が閉まると、急に音が遠くなる。
王宮のざわめきも、文官たちの足音も、どこか別の世界のもののようだった。
ルシアンは長椅子へ腰を下ろした。
座った瞬間、身体の奥から一気に疲れが押し寄せてくる。
思っていた以上に限界だったらしい。
背を伸ばそうとしたが、うまく力が入らなかった。
「だから言った」
アルベールがグラスへ水を注ぎながら言う。
「顔色が悪いと」
「……殿下は、そういう時もう少し優しい言い方を覚えるべきです」
「水を出している」
「行動ではなく、言葉の話です」
「必要か?」
「必要です」
アルベールは少し考えるように黙った。
そして、真面目な顔で言った。
「よく耐えた」
ルシアンはグラスを受け取りかけた手を止めた。
あまりにも真っ直ぐだった。
いつものように皮肉も命令も混じっていない。短く、低く、けれど確かにこちらへ向けられた言葉。
ルシアンは視線を落とした。
「……そういうのは、不意打ちで言わないでください」
「必要だと言ったのはお前だ」
「限度があります」
「難しいな」
本気で言っているようだった。
ルシアンは水を受け取り、ゆっくり飲んだ。
手が少し震えている。
それに気づいたアルベールの視線が、静かに落ちる。
「寒いか」
「いいえ。たぶん、気が抜けただけです」
「なら、しばらく話すな」
「それは助かります」
そう言ったのに、沈黙が落ちると、それはそれで落ち着かなかった。
暖炉の火がぱちりと鳴る。
部屋の外には護衛がいるはずだ。だが室内は二人だけだった。ここ最近、アルベールと二人きりになることは珍しくなくなってしまったが、今日の沈黙は少し違った。
式典で断罪されかけた後。
王宮聴取を終えた後。
父に「よく立っていた」と言われた後。
その全てが、まだ胸の中でざわついている。
「……殿下」
結局、沈黙を破ったのはルシアンだった。
アルベールは窓辺に立ったまま、こちらを見る。
「話すなと言った」
「言いたいことがあります」
「なら聞く」
切り替えが早い。
ルシアンは小さく息を吸った。
「今日は、ありがとうございました」
アルベールは答えない。
ルシアンは続けた。
「式典で隣に立ってくださったことも、証拠を調べてくださったことも、聴取で休憩を入れてくださったことも。全部です」
「必要だった」
「それでも、礼は言わせてください」
アルベールが少しだけ黙った。
そして、静かに頷く。
「受け取る」
短い返事だった。
けれど、拒まれなかった。
それだけで、ルシアンの胸の奥が少しだけ軽くなる。
「それと」
「まだあるのか」
「あります」
ルシアンはグラスを膝の上で握った。
「私は今日、壇上で怖かったです」
「知っている」
「聴取も怖かった」
「それも知っている」
「今も、怖いです」
アルベールの目が、わずかに動いた。
ルシアンはそのまま言った。
「ジュリアン様も、カルヴァン家も、公爵家も、この先どう動くか分からない。私の名前がまたどこかで使われるかもしれない。今日、疑いは晴れかけましたが、完全に何もなかったことにはならないでしょう」
認めるのは怖い。
けれど今は、言わずに抱え込む方が怖かった。
昨日の夜、逃げようとした自分を思い出す。
怖いなら、怖いと言え。
アルベールはそう言った。
だから、言う。
「怖いです。ですが、今夜は逃げません」
アルベールはゆっくりとルシアンの前まで来た。
長椅子の前で膝を折るわけではない。王子らしく立ったまま、けれど視線だけはまっすぐ合わせる。
「それを言えたなら十分だ」
「十分でしょうか」
「今はな」
「明日は?」
「明日も言えばいい」
簡単に言う。
でも、簡単に言われると、本当に少しだけできそうな気がしてしまう。
ルシアンは苦笑した。
「殿下は、ずるいです」
「何が」
「私が一人で逃げる理由を、少しずつ潰していく」
「潰すに決まっている」
あまりにも当然のように言われ、ルシアンは顔を上げた。
アルベールは真顔だった。
「お前は放っておくと、逃げる理由だけは器用に見つける」
「……否定できません」
「だから潰す」
「本当に容赦がありませんね」
「お前には必要だ」
その言葉は強引なのに、不思議と嫌ではなかった。
嫌ではないと思う自分が、少し怖い。
ルシアンは視線を暖炉へ逃がした。
「今日、ジュリアン様の顔が少し崩れました」
「ああ」
「けれど、あれで終わりではありませんね」
「終わらない」
アルベールはすぐに答えた。
「マルク・ベランはカルヴァン家へ責任を流そうとしている。カルヴァン家も、ヴァレリオ家へ矛先を向けるだろう。ジュリアンは自分が直接命じた証拠を残していない」
「では、捕まえられないのですか」
「捕まえるには足りない。だが、動かせる」
「動かす?」
「綻びが出た。あとは、それぞれが自分を守るために動く。その動きが証拠になる」
ルシアンはその言葉をゆっくり理解した。
追い詰められた者は、逃げる。
逃げる時に、何かを落とす。
その落としたものを拾う、ということか。
「殿下は怖いですね」
「今さら気づいたのか」
「いいえ。前から知っていました」
「ならいい」
「よくはありません」
少しだけ、いつもの調子で返せた。
アルベールは窓辺へ戻らず、ルシアンの近くに立ったままだった。
「今日の弁論」
「はい」
「原稿と違った」
「……やはり分かりましたか」
「最初の一行で分かった」
ルシアンは少しだけ気まずくなる。
「勝手をして申し訳ありません」
「謝る必要はない」
「ですが、式典の場で予定外のことを」
「お前の言葉だった」
アルベールの声は静かだった。
「だからよかった」
胸の奥が、また少し痛む。
今日は何度も褒められている気がする。
褒められることに慣れていないせいで、そのたびに呼吸の仕方が分からなくなる。
「私は、あの場で何を言うべきか分からなくなりました」
「そうは見えなかった」
「必死だっただけです」
「それでいい」
「殿下は、すぐそれでいいと仰る」
「本当にそう思っているからな」
ルシアンは黙った。
火がまた小さく鳴る。
その音を聞きながら、彼はぽつりと言った。
「私の言葉で、何か変わったでしょうか」
アルベールは少しだけ考えるように沈黙した。
すぐに答えないところが、逆に誠実だった。
「全ては変わらない」
「はい」
「今日お前を疑った者の中には、まだ心のどこかで疑っている者もいる。過去の評判を都合よく思い出す者もいる。ジュリアンやカルヴァン家の側に立つ者もいるだろう」
「……はい」
「だが、お前を悪役として完成させることは難しくなった」
ルシアンは顔を上げる。
「なぜですか」
「お前自身が話したからだ」
アルベールは静かに言った。
「悪役は、他人の言葉で作られる。ああいう舞台では特にそうだ。周囲が語り、証拠が語り、誰かの証言が語る。当人は言い訳をするだけの存在にされる」
その通りだった。
ゲームの断罪場面で、悪役令息ルシアンは怒鳴り、否定し、取り乱すだけだった。彼自身の言葉は“見苦しい弁明”として処理される。
けれど今日は違った。
ルシアンは、自分の言葉で話した。
「お前は言い訳ではなく、自分の考えを述べた」
アルベールは続ける。
「だから、あの場の一部はお前のものになった」
あの場の一部は、お前のものになった。
その言い方が胸に残る。
断罪のために用意された舞台を、少しだけ自分のものにできた。
そう思うと、壇上の光がほんの少し違って見える気がした。
「……殿下が隣にいてくださったからです」
自然に言葉が出た。
アルベールは黙ってこちらを見る。
ルシアンは視線を逸らさなかった。
「一人なら、たぶん立てませんでした」
言ってから、恥ずかしさが込み上げる。
だが、取り消さなかった。
アルベールはしばらく何も言わなかった。
その沈黙が長く感じられた頃、彼は低く言う。
「なら、次も隣に立つ」
まただ。
この人は、どうしてこういう言葉をためらわず言えるのだろう。
ルシアンは困って、けれど少しだけ笑ってしまった。
「殿下は本当に、逃がす気がありませんね」
「ない」
「即答しないでください」
「事実だ」
「……分かっています」
ルシアンはグラスを机へ置いた。
身体の重さはまだ残っているが、最初よりずっと呼吸が楽になっていた。
王宮の聴取室も、式典の壇上も、まだ思い出すと怖い。
それでも、今ここで温かい部屋に座っていると、自分は確かにあの場を通り抜けたのだと思える。
「そろそろ帰らなければ」
「立てるか」
「立てます」
「信用しよう」
「珍しいですね」
「今はな」
ルシアンが立ち上がると、少しだけ足元が揺れた。
すぐにアルベールの手が伸びる。
だが、今度は掴む前に止まった。
ルシアンはその手を見た。
選ばせている。
今日、何度もそう感じた。
強引な人なのに、こういうところだけ少しずつ変わっている。
ルシアンは、小さく息を吐いてから、その手に指先を重ねた。
「馬車までです」
「分かった」
「本当に分かっていますか」
「馬車まではな」
「それ以降は?」
「必要なら考える」
「……やはり分かっていない」
けれど手は離さなかった。
部屋を出ると、レオンハルトが廊下で控えていた。
彼は二人の手元へ一瞬だけ視線を落とし、それから何も見なかったように顔を上げた。
「侯爵閣下には、馬車の準備が整ったと伝えております」
「ご苦労」
アルベールが短く答える。
ルシアンは少しだけ気まずかったが、もう手を振りほどく方が不自然な気もして、そのまま歩き出した。
王宮の廊下を、第一王子に手を支えられながら歩く。
数日前なら、噂を恐れて絶対に拒んでいただろう。
今も怖くないわけではない。
だが、今日はもう少しだけいいと思えた。
自分は疲れている。
そして、支えが必要だった。
それを認めることは、弱さではないのかもしれない。
王宮の出口近くで、エドモン侯爵が待っていた。
父は二人を見て、眉ひとつ動かさなかった。
ただ、ルシアンの顔色を見てから短く言う。
「少しは休めたようだな」
「はい」
「なら帰るぞ」
それだけ。
けれどルシアンには十分だった。
アルベールの手が、そこでゆっくり離れる。
指先が少し冷える。
その感覚が名残惜しいと思ってしまったことに、ルシアンは気づかないふりをした。
「ルシアン」
馬車へ向かう前に、アルベールが呼んだ。
「はい」
「今夜、考え込みすぎるな」
「努力します」
「逃げる前に言え」
「逃げません」
「念のためだ」
ルシアンは小さく息を吐いた。
「怖くなったら、言います」
アルベールの瞳が、静かに緩む。
「ああ」
それだけだった。
けれど、その短い返事を聞いて、ルシアンはようやく馬車へ向かうことができた。
冷酷第一王子にだけ、逃げられない。
以前なら、それは恐ろしい言葉だった。
けれど今は少しだけ、別の意味に聞こえる。
逃げたい自分を捕まえてくれる人がいる。
逃げるなと怒り、怖いなら言えと命じ、必要なら隣に立つと言ってくれる人がいる。
それは相変わらず強引で、重くて、逃げ場がなくて。
けれど、どうしようもなく心強かった。




