第22話 ジュリアンの微笑みが崩れる日
拍手は、長く続いたわけではなかった。
熱狂でもない。喝采でもない。
けれど、確かに拍手だった。
最初は控えめに、ためらうように。次第に少しずつ広がり、講堂のあちこちで手が鳴る。誰もが堂々と称賛するには、まだ状況が複雑すぎた。先ほどまでこの壇上で告発が行われ、偽造された証拠が並び、王宮警備隊が動いたばかりなのだ。
それでも、拍手はあった。
ルシアンは深く礼をしてから、ゆっくりと顔を上げた。
客席の表情はさまざまだった。戸惑い、驚き、気まずさ、納得しきれない疑念。そして、その奥にほんの少しだけ混ざる、別の色。
見直した、というほど単純ではない。
だが、今までと同じ目では見られない。
そんな空気が、講堂の中に生まれていた。
ルシアンは壇上から下りる。
足は震えなかった。少なくとも、表向きは。
壇上袖に戻った瞬間、アーノルドがこちらを見て、何か言いたそうに口を開いた。けれど言葉がまとまらなかったらしく、結局、胸の前で両手を握りしめるだけだった。
ルシアンは小さく頷いた。
それだけで、少年の顔がぱっと明るくなる。
不思議な感覚だった。
誰かの期待に応えられたのかもしれない。
そう思ってしまうことが、まだ少し怖い。
式典は、予定よりも大幅に形を変えながら続いた。
学園長は顔色を失ったまま、それでも何とか進行を立て直した。残る発表は短縮され、剣術演武の一部は後日に回された。来賓たちも表面上は礼節を保ち、拍手を送り、必要な挨拶を交わしている。
だが誰もが分かっていた。
今日の主役は、もう式典そのものではない。
壇上で仕掛けられた告発。
それを退けた第一王子。
そして、悪役令息として断罪されかけたルシアン・エヴラール。
式典が終わるころには、講堂の空気は朝とはまるで別物になっていた。
人々は立ち上がり、形式的な挨拶を交わしながらも、視線だけは忙しく動かしている。誰と話すべきか、誰から距離を置くべきか、どの情報を家へ持ち帰るべきか。貴族たちの顔には、笑みの裏で計算が走っていた。
ルシアンは控え室へ戻ろうとした。
その時、背後から声がした。
「ルシアン」
ジュリアンだった。
振り返ると、彼はいつものように整った笑みを浮かべていた。
ただ、少し違う。
口元は笑っている。だが、その笑みが薄い。目元の柔らかさが足りない。
ほんのわずかな違いだ。
けれど、今のルシアンには分かった。
余裕が、少し削れている。
「見事な弁論だったね」
ジュリアンは穏やかに言った。
「君があんな話をするとは思わなかった」
「自分でも、少し予定とは違った」
「そうだろうね。原稿通りではなかった」
ルシアンは静かに彼を見る。
「聞いていたのか」
「もちろん。皆が聞いていたよ」
ジュリアンは肩をすくめる。
「過去の未熟さを認めて、けれど罪は認めない。いい言葉だった。とても……今の君に合っていた」
褒め言葉の形をしている。
けれど、奥に何かがある。
ルシアンはもう、それを雑に受け取らなかった。
「ありがとう」
短く返す。
ジュリアンは一瞬だけ目を細めた。
以前なら、ルシアンはこういう言葉に苛立ったかもしれない。皮肉だと受け取り、反論し、相手に新しい材料を与えていたかもしれない。
だが今は、受け流す。
それがジュリアンには面白くないのだろう。
「君は本当に変わったね」
「何度も聞いた」
「何度言っても足りないくらいだ」
「なら、そろそろ別の言葉を探した方がいい」
言ってから、少しだけ鋭すぎたかと思った。
しかしジュリアンは笑った。
声だけは柔らかい。
「そうかもしれない。じゃあ、こう言おうか。君は、前よりずっと手強くなった」
その言葉に、ルシアンは返事をしなかった。
手強い。
つまり彼にとって、自分は最初から“相手”だったということだ。
ジュリアンは続ける。
「でも、気をつけた方がいい。今日のことで君への見方は変わったけれど、全部が味方になるわけじゃない」
「分かっている」
「特に殿下の隣に立つならね」
その一言だけ、声の温度が少し下がった。
ルシアンは、ジュリアンの目を見た。
「それは忠告か」
「友人としての心配だよ」
「私たちは、友人だったかな」
少しの沈黙。
周囲のざわめきの中で、そこだけ音が遠のいたように感じられた。
ジュリアンの笑みが、ほんの一瞬だけ固まる。
本当に一瞬だった。
だが確かに、崩れた。
「……寂しいことを言うね」
「曖昧な言葉で近づかれるのは、もう十分だ」
ルシアンは穏やかに言った。
怒鳴らない。
責めない。
ただ、線を引く。
「君が本当に心配してくれているなら、感謝する。けれど、私の周囲で起きたことを“物語”にしようとするなら、私はもう付き合わない」
ジュリアンの目が細くなった。
今度は、笑みで完全には隠せていない。
「物語、か。面白い表現だね」
「君は上手いから」
「何が?」
「人の印象を整えることが」
ルシアンは目を逸らさなかった。
「誰かを責めずに疑わせる。庇っているように見せて孤立させる。心配しているように見せて、周囲に問いを残す。君はそういうことが、とても上手い」
ジュリアンは黙った。
周囲の声が、やけに遠く感じる。
ルシアンは、自分の心臓が静かに打っているのを感じていた。怖くないわけではない。相手は公爵家子息であり、社交界で人気のある青年だ。ここで正面から言葉を向けることは、決して小さなことではない。
だが、もう言わなければならなかった。
曖昧に笑って受け流すだけでは、また同じことになる。
ジュリアンはしばらく沈黙した後、ふっと息を吐いた。
「ずいぶん言うようになったね」
「君のおかげかもしれない」
「それは光栄だ」
「褒めてはいない」
「分かっているよ」
ジュリアンは笑った。
けれど、その笑みは前ほど美しくなかった。
ほんの少しだけ、端が歪んでいる。
その時、近くを通りかかった令嬢たちが二人の様子に気づき、歩調を緩めた。周囲にはまだ多くの生徒や来賓がいる。ここでこれ以上話せば、それこそ新しい噂になる。
ジュリアンもそれを悟ったのだろう。
笑みを整え直し、軽く頭を下げた。
「今日はお疲れさま、ルシアン。君の言葉、忘れないよ」
「忘れてくれた方が助かる」
「残念だけど、そういうわけにはいかない」
ジュリアンはそう言って去っていった。
背筋はまっすぐで、足取りも乱れていない。
だが、ルシアンには分かった。
今のやり取りで、彼は確かに少し苛立った。
初めて、こちらの言葉が届いたのかもしれない。
控え室へ戻る途中、セシリアが待っていた。
彼女の周囲には友人たちがいたが、セシリアは何かを告げて一人だけ歩み寄ってくる。以前よりも、そういう行動に迷いが少なくなった気がした。
「ルシアン様」
「フォルナン嬢」
「先ほど、ヴァレリオ様とお話しされていましたね」
「少しだけ」
「大丈夫ですか」
問われて、ルシアンは一瞬だけ考えた。
大丈夫か。
便利な言葉だ。
以前なら、大丈夫です、とだけ返して終わらせていた。相手を安心させるためではなく、深く踏み込まれないために。
だが今は、少しだけ違う答えが出た。
「大丈夫ではないかもしれない」
セシリアが目を見開く。
ルシアンは続けた。
「でも、言いたいことは言えた」
セシリアは数秒黙った後、ふっと表情を緩めた。
「それなら、よかったです」
「よかったのかな」
「たぶん」
その“たぶん”が妙に素直で、ルシアンは少しだけ肩の力が抜けた。
セシリアは小さく息を吸ってから言った。
「私も、今日は怖かったです」
「……そうだろうな」
「でも、怖いままでも言えることはあるのですね」
彼女の声は静かだった。
「ルシアン様が壇上でそうしていたので、私も少しだけ、そう思えました」
ルシアンはすぐに返せなかった。
自分が彼女に何かを示せた。
そう受け取るにはまだ自信がない。
けれど、セシリアの目はまっすぐだった。
「私は、君に助けられた」
自然に、そんな言葉が出た。
セシリアが驚く。
「私が、ですか」
「君が証言してくれなければ、もっと難しかった。君が“敵ではない”と言ってくれたことも、今日の場で大きかった」
「……そうでしょうか」
「そうだ」
言い切ると、セシリアは少し照れたように俯いた。
「では、お互いさまですね」
「そうかもしれない」
そのやり取りは、不思議と穏やかだった。
以前なら、セシリアと二人で話すだけで緊張し、周囲の視線を気にして、言葉を選びすぎていた。今も気にしていないわけではない。けれど、彼女をただ“断罪ルートの中心人物”として見ることはもうできなかった。
一人の人間として。
怖がりながら、それでも自分の言葉を探している令嬢として。
そう見えていた。
その時、背後から低い声がした。
「随分と和やかだな」
ルシアンは肩を震わせそうになった。
振り返ると、アルベールが立っていた。
いつの間にそこにいたのか。
王子としての正装のまま、表情はいつも通り冷静だ。だが、目元だけが少しだけ硬い。
セシリアは慌てて礼を取った。
「殿下」
「楽に」
アルベールは短く答え、それからルシアンへ視線を向けた。
「話は終わったか」
「……フォルナン嬢とですか」
「他に誰がいる」
明らかに機嫌が悪い。
ルシアンは少しだけ困った。
「殿下、今は式典後です。周囲も見ています」
「見ればいい」
「よくありません」
「先ほど壇上で私の隣に立った時点で、今さらだ」
「それとこれは違います」
セシリアが二人を見比べ、思わず小さく笑いそうになって口元を押さえた。
アルベールの視線がそちらへ動く。
セシリアは慌てて首を振った。
「す、すみません。何でもありません」
ルシアンは少しだけ恥ずかしくなった。
完全に、妙なやり取りを見られた。
アルベールは一度だけ息を吐き、セシリアへ向き直る。
「フォルナン嬢。今日はよく証言した」
「恐れ入ります」
「だが、今後も狙われる可能性はある。警戒は解かないように」
「はい」
セシリアは真剣に頷く。
そして少し迷った後、ルシアンを見た。
「ルシアン様。また後ほど」
「ああ」
彼女は友人たちのもとへ戻っていった。
その背中を見送りながら、ルシアンは小さく息を吐く。
「殿下」
「何だ」
「今のは、少し露骨でした」
「何が」
「……いえ、もういいです」
説明しても話がこじれそうだった。
アルベールは何事もなかったように言う。
「ジュリアンと何を話した」
「聞いていたのでは」
「途中からだ」
「では、その範囲でご存じのはずです」
「お前の口から聞きたい」
ルシアンは少しだけ目を伏せた。
「線を引いただけです」
「線?」
「曖昧な言葉で近づかれるのは、もう十分だと」
アルベールの表情が、わずかに変わった。
驚きではない。
満足に近いもの。
「言えたのか」
「はい」
「怖かったか」
「怖かったです」
隠さず答えた。
それでも、以前よりは怖くなかった。
アルベールは低く言った。
「よくやった」
その一言が、胸に落ちる。
今日、何度も踏みとどまった。
壇上で告発されても崩れなかった。
罪を認めないと言えた。
弁論を続けた。
ジュリアンに線を引いた。
セシリアに礼を言えた。
その全部をまとめて、アルベールが“よくやった”と言った気がした。
ルシアンは視線を逸らした。
「……ありがとうございます」
「なぜ目を逸らす」
「慣れていないので」
「慣れろ」
「命令で慣れるものではありません」
「では、繰り返す」
「それも困ります」
アルベールの目元が、ほんの少し和らいだ。
式典の後処理は続いていた。
関係者の聴取。証拠品の保全。来賓への説明。王宮警備隊の出入り。学園長は青ざめたまま、王宮側の指示に従っている。
その中で、エミール・ド・カルヴァンが一度だけこちらを見た。
顔色は悪い。
先ほどまでの余裕は完全に消えていた。
彼は近衛騎士に付き添われ、別室へ向かうところだった。逃げる様子はない。だが、視線の奥には明らかな焦りがある。
ルシアンはその視線を受け止めた。
エミールはすぐに目を逸らした。
その瞬間、思った。
崩れ始めている。
まだ全てではない。
黒幕の輪郭は見えても、核心は残っている。
ジュリアンもまだ倒れていない。むしろ、ここから先の方が厄介かもしれない。
だが、完璧だったはずの構図に罅が入った。
悪役令息を断罪する物語は、もう予定通りには進まない。
「ルシアン」
アルベールの声で我に返る。
「この後、王宮側で簡単な聴取がある。お前にも話を聞くが、長くはしない」
「分かりました」
「疲れているだろう」
「疲れていないと言えば嘘になります」
「今日は正直だな」
「嘘をつく余裕がありません」
「それでいい」
アルベールは少しだけルシアンに近づき、周囲に聞こえない声で言った。
「今夜は逃げるなよ」
ルシアンは思わず眉を寄せた。
「さすがに今日は逃げません」
「信用していないわけではない」
「では何ですか」
「念のためだ」
「信用していないではありませんか」
「お前ではなく、お前の恐怖を信用していないだけだ」
以前も聞いた言葉だ。
けれど今日は、少しだけ受け取り方が違った。
自分自身は信じる。
恐怖に飲まれた判断は止める。
そういう意味なのだと、今は分かる。
「……今夜、怖くなったら」
ルシアンは小さく言った。
「逃げる前に、言います」
アルベールの瞳がわずかに動いた。
それは、たぶん驚きだった。
けれどすぐに、静かな肯定に変わる。
「ああ。そうしろ」
その返事を聞いて、ルシアンはほんの少しだけ息を吐いた。
式典は終わった。
断罪は崩れた。
だが、戦いが終わったわけではない。
ジュリアンの微笑みは崩れかけた。
カルヴァン家にも疑いの目が向いた。
偽造された証拠は暴かれつつある。
それでも、完全な決着はまだ先だ。
ルシアンは講堂の扉の向こうを見た。
青空は、朝と同じように晴れている。
けれどその光は、もう朝ほど遠くは見えなかった。




