第17話「立川一男」
立川一男は、近鉄奈良駅の行基像噴水前に、お客を迎えるためにタクシーを着けた。本来、タクシー乗り場はこの先のバス乗り場と同じ場所にあるが、予約を受けたお客の場合は、目印のためにもこの場所で待つことになっている。
今日7月12日は、立川一男の最後の乗務の日であった。
65歳を迎えた定年である。
一男はタクシーの窓に反射する自分の姿を見た。真っ白な頭に大きなシワの入った顔。随分老けたものだと感慨深く思った。
丁度50歳の時に、地元の大手企業をリストラされ、タクシードライバーに転職してからかれこれ15年。始めは、右も左もわからず、果たしてこれでやっていけるのかと不安な日々もあったが、いつの間にやら月日は流れ、なんだかんだでベテランドライバーと言われるまで働くことになってしまった。この仕事は一度やってしまえば、なかなか辞めれない。収入こそは、たしかに前職に比べれば減ったが、毎日上司や同僚に気をつかったり、ノルマに追われたりするストレスからはほぼ解放されたことを思えば、ある意味、これほど天国のような仕事もない。
そう思えたのには奈良という土地柄もあったかもしれないとも思う。
タクシーといえば、夜の酔客がメインのようなイメージがあるが、奈良はいわば地方都市で、言ってしまえば田舎。大きな繁華街もなく、流し営業もないので、割と日中は病院送りや買い物に行くお年寄りばかりでのんびりとして平和そのものである。そして、なにより奈良は観光地であるので、観光客も大きな得意先の一つであった。
観光地のタクシーの目玉に、時間貸しの観光貸切タクシーというサービスがある。
3~5時間かけて、奈良の各地の観光地を巡るものである。特に奈良は各地の観光地が離れていて利便が悪いので、観光タクシーは人気のサービスの一つであった。お客としても、初めてきた観光地でドライバーに案内してもらえれば、効率よく回れて時間が有効に使えるし、名物ガイドドライバーのような人に当たれば、タクシーでしか行けないようなところに案内してもらえたり、地元の人にしかわからない奈良のうんちく話をきけたりもする。
一男は、もともと日本史が好きだったこともあり、このような貸切タクシーの営業があるのを知ると、ぜひとも率先してやりたいと思った。
そう思い立ってからは毎日のように奈良の社寺に関する歴史本を読み、社内で開催される勉強会にも参加。はては奈良まほろばソムリエ検定も受け、観光タクシードライバーとしての腕を磨いていった。最近ではその社内の勉強会の講師を務めるまでになり、若手の育成にも力を入れるようになっていたが、そんな矢先での定年であった。
もちろん、タクシーの仕事は世間的なイメージ的にも、実際年配の人間が担っているところがあるので、一男も当然のごとく定年後も嘱託として働くことを会社から打診された。しかし、一男は定年を迎えたらきっぱりと辞めようと以前から決めていた。
理由はいくつかあった。最もの理由は、若年性の認知症にかかった妻の幸子の介護のためであった。長年連れ添い、自分がリストラされた時もパートに出るなど支えてくれた妻であったが、数年前に事故に合いケガをしてから、徐々に言動がおかしくなることが増えていった。施設や親類に頼むことも可能ではあったが、出来れば自分が見てやりたかった。なにより自分がいなければ妻はまるで子供のように寂しがるのである。果たして、そんな妻を差し置いてまでタクシーに乗るべきかといえば、ノーであった。
その他は個人的に、若者にバトンを渡したいという気持ちもあった。年配ドライバーが多いタクシー業界とはいえ、近年の不況の影響か、30代や40代でドライバーになるものも少なくはなかった。そのような本当にお金がいる世代、特に所帯を持っているものは死活問題であったが、そんな折に年金をもらいながら趣味同然で働いているベテランドライバーがいつまでも居座っていると、結局ベテランが若者の仕事も持っていってしまうという現状があったのだ。そして、稼げないとわかった若手から会社を去って行くという悪循環が起こる。
本来であればお客も、いつ事故を起こしてもおかしくない高齢のドライバーなんかに乗せられるより、現役世代の出来る限り若い体力のあるドライバーのタクシーに乗りたいと思うのが本音であろう。業界や会社も表面上は若い人材がほしいというが、それは建前で、補助金欲しさに高齢者を雇っている現状もあった。今業界は慢性的な人手不足に悩まされているというが、身から出た錆の部分も大きい。
とはいえ、一男一人が辞めたところで、そんな状況は是正されるわけはない。あくまで自身のプライドや信念に沿うだけのことである。そういう自分勝手という意味では自分も同じ穴の狢かもしれない。しかし、少なくとも自分の仕事は後輩に渡るであろう。
一男はこの仕事に未来はあると思っていた。世間では底辺の、それこそゴミクズがやる仕事のように言う人も多いが、実際はかなりのスキルが必要とされるし、決してバカにできる仕事ではない。充分人に誇れる仕事であるし、需要がなくなることもない。現状が厳しいと言われるのは、需要と供給のバランスが合っていないだけなのである。
ぜひとも、利用者とドライバーがウィンウィンになれる。そんな社会になればと一男は祈っていた。そして若手にはぜひ誇りをもって、優秀なドライバーになってほしいと願っていた。
最後の乗務は、これまで奈良に来る度に一男を指名してくれていた吉田喜代美を案内することになっていた。
一男はこの度、定年して辞めることをお得意様だったお客に、感謝を伝えるとともに連絡をとった。その中で、それならぜひ最後の日にもう一度一男の案内で奈良に行きたいと連絡してきたのが吉田喜代美だった。
今年でたしか90歳を迎えたはずであるが、数年前までは、その歳とは思えぬほど元気な姿で、年に数会は夫とともに旅行をしていた。しかし、その夫が無くなって以降、体調を崩し奈良の来る回数も減ってしまった。今日は約一年ぶりの再会であった。東京から遠路はるばる娘さんと一緒にくるはずである。
一男は腕時計を見た。今、近鉄特急が駅に到着した時刻なので、しばらくすれば地上に上がってくるであろう。実際すぐに向こうで手を振る人の姿が見えた。車椅子に乗った吉田喜代美と、車いすを押す娘が頭をさげた。
「一男さん、お久しぶりです」
以前より痩せた喜代美の姿は痛々しかったが、一男は顔色を変えず笑顔で迎えた。
「お元気そうでなによりです」
「いえいえわたしはもうだめよ。でも、やっぱり一男さんの姿を見たら落ち着きますわ。ほほほ」
喜代美は口に手を当てて笑った。
思いのほか喜代美の声が張っていたので、本当に元気そうで安心した。
「こんな車椅子なんて、大袈裟なもの持ってきちゃってすみませんね。娘たちは歩け歩けって言うんですが、最近足が本当に動かなくて…精神的なものもあるらしいんですが…。あっ、娘の真由子です」
車椅子を押していた女性が会釈した。娘といっても一男とほぼ同い年のはずである。
「もうお母さん。わたしのせいみたいに言わないでよ。お医者さんもそう言っているじゃない。少しは歩かないと本当に脚が動かなくなっちゃうって」
真由子が苦笑した。
実際、車に乗り込む際に喜代美は本当に辛そうで、ほとんど自力で立ち上がることもままならなかった。
「娘は反対したんだけど、一男さんが辞めるって聞いて、いてもたってもいられなくてね。冥土の土産よ。おほほほ」
喜代美は車内でそう言って笑った。
一男は一緒に笑っていいのかどうか迷ったが、少し微笑んでから、後部座席を覗き込んだ。
「さて、今日はどこに行きましょう?」
「一男さんのお任せでいいですよ。お好きなところへ」
「そうですねぇ」
一男は思案した。
喜代美の体の様子を考えると、あまり遠いところにはいけないであろう。場所によっては車椅子で行くには困難なところもある。
「わたくし、長いこと奈良を走り、いろんな場所を巡りましたが、最近ますますと言いますか、やっぱりこの奈良公園こそ奈良の一番の場所だと思うんですよね。なので、改めて今日は、このあたりをゆったり周ってみませんか?」
「いいですよ。一男さんがそう思うなら任せます。久しぶりに大仏さまにご挨拶もしたいですからね」
「かしこました」
一男はハンドブレーキを解除し、ギアをDに入れると、ゆっくりと車を発進させた。
タクシーは奈良公園へとは逆方向に停まっていたので、駅のロータリーでUターンし、近鉄奈良駅を右手に見て、緩やかな坂道を登っていった。
「奥様のお具合はどう?」
喜代美が一男に尋ねた。
「…おかげさまで最近は落ち着いております」
一男はハンドルを両手でにぎり前方を見たまま答えた。
「それはよかったわ」
喜代美はそう言うと車窓を眺めた。
一度、吉田夫妻を案内していた時に、偶然妻の幸子と出くわしたことがあった。あれはたしか明日香村で、幸子は友人とカフェに訪れていたのだった。
本当に偶然だったので、互いに絵に描いたように「あっ」「あっ」と見合った。
喜代美が「どなた?」と訊いたので、「家内です」と紹介したのだ。
「まぁ」と喜んだ吉田夫妻と、しばし世間話に華が咲いた。
以来、吉田夫妻を案内した際には別れ際に、「奥様にもよろしく」と付け加えられるようになり、毎年届く年賀状も宛名が一男だけではなく幸子も付くようになった。
ふいに、一男は元気だったころの妻の顔を思いだし、目頭らが熱くなるのを感じた。
しかし、プロとして仕事中は感傷的になってはいけないと、一男は強く唇を結んだ。
「夫婦は、いろいろとあるわよね。わたしたちも世間的にはおしどり夫婦のように言われてましたけど、そらいろいろ苦労はあったのですよ。でも、いなくなったら、それはそれでね…」
喜代美は独り言のようにしゃべった。
そうこうしているうちに、タクシーは興福寺に着いた。
境内は車椅子を押して周ることは難しかったが、阿修羅像を展示してあることで有名な国宝館は近代的なミュージアムでバリアフリーも完備しており、ゆっくりと宝物を眺めて周ることができた。
五重塔は車で移動し、猿沢池のほとりから眺めた。まさに古都奈良を象徴するかのような景色。特に今日は晴天で風もなかったので、水面に五重塔が反射して見事であった。
「暑くないですか?」
一男が喜代美に尋ねた。
「大丈夫よ。今日はこの時期にしては涼しいわね」
「そうですね…」
「しかし、せっかくの景色だけど、あれが少し残念ねぇ」
と、喜代美が池の西側を指差した。“天平ホテル”と書いたビルが建っていた。
現在は営業していないホテルで、昭和の産物がごとくのビルは放置され、外観の色はくすみ、もはや廃墟と化していた。
たしかに、池と深緑と晴天と五重塔の景色には、そぐわないものであった。
しかし、一男は機転を利かし、
「あのホテルは天平時代からあるんです」
と、説明すると、喜代美と娘の真由子は腹を抱えて笑った。
「そう言われたら、急に歴史的なものに見えてきましたわ」
喜代美は目元をぬぐった。そして「さすが一男さんの名ガイドね」と褒めた。
一男も笑いながら、「いえいえ」と手を振った。
その後、浮見堂、飛火野と奈良公園を車窓で巡り、東大寺で大仏を見たあと、軽く食事を済ませた。
「ねぇ、一男さん。最後にどこかとっておきの場所に連れていってくださいません?」
喜代美が懇願するような目で言った。
「とっておきの場所ですか…」
一男は首を少し捻った。なかなかそう急に言われても難しいところだった。
というのも、今まで喜代美、および吉川夫妻とは奈良のありとあらゆる場所に行き、もはや奈良で訪れていない場所はないと言えた。ふと一男の頭に浮かんだのは、十津川村の果無集落であったが、さすがにこの時間から向かうには遠すぎる。
「そういえばお母さん。今朝、駅で見たポスターの場所に行きたいって言ってなかった?」
娘の真由子が言った。
「あぁ。あぁ。そうね」
「どちらですか?」
一男は喜代美を見た。
「たしか、金玉寺ってところでしたかね。秘仏の文殊菩薩が公開と書いてあって」
「あぁ…」
と、一男も、そう言えばと思い出した。
ポスターは駅などではたしかに目にしたし、職場でも同僚が口にしていたので知ってはいたが、あまり興味を引かれなかったので失念していた。それに、今その寺の名前を聞いても一瞬場所を思い浮かべられなかったほどである。
金玉寺は、奈良の歴史本など、詳しく調べていると必ず出てくる名前の寺ではあったが、観光案内で行くような寺ではなかった。以前、一度だけ個人的に行ったことはあったが、殺風景で、無愛想な住職がいただけだったので、あまり良い印象もなかった。
そうか…、今日は”忍性忌”だったか…と、一男は思案した。
「一男さんでも知らない寺がありまして?」
「いえ、知ってはおりましたが…」
「どんなお寺で…?」
「まぁ、なんと言いますか…」
一男は、うる覚えであったが、寺の由緒を簡単に説明した。
一男の信念として基本的に、奈良の社寺を、個人的な感想などでは分別しないようにしていた。他のドライバーの中には、平気で「あの寺は嫌いだから行かない」とか、客が要望していても連れて行かない自分勝手な者もいたが、一男は、ある意味で、その辺りはフラットに考えるように心がけていた。所詮自分たちは、たかがタクシードライバーである。大なり小なり歴史のある寺を、評価するなんて身分ではない。むしろ、どんなところであろうが、魅力を感じさせるように案内するのがガイドというものではないのか?
とはいえ、さすがに一男も金玉寺をどう案内すればいいのかわからなかった。事前に言ってくれれば調べておくこともできたのであろうが…。今思い浮かんだのも簡単な縁起と、地元の子供が「幽霊の出る寺」と噂していたことぐらいである。もちろん、そんなこと喜代美に言えるわけがない。
「一男さん、連れていってくださるかしら?」
喜代美が言った。一男は姿勢を正し、
「わたしも正直、金玉寺の秘仏って見たことがないので、保証はできないのですが…」
と、言い訳じみた感じで言うと、
「まぁ!一男さんが見たことない仏さま。名ガイドの一男さんにもそんな場所があったんですね。なおさら、見たくなりましてよ」
思いのほか喜代美が意気込んだので、金玉寺に行くことは揺るがない決定事項となった。
一男としては、最後の仕事の締めくくりが、幽霊寺になるのは不本意ではあったが、お客が望むなら仕方がなかった。
金玉寺は、東大寺から車で15分ほど。
うる覚えの記憶を頼りに一男は車を走らせた。
「まぁ、綺麗な景色」
喜代美が車窓を眺めて歓喜の声をあげた。
金玉寺は、高円山を背にした高台にあった。奈良の良さの一つに、少し高台に登れば、辺り一面を見渡せる絶景が比較的簡単に見れるところにあった。特に今日は澄み渡り、遠くには二上山、葛城山、金剛山もくっきりと拝むことができた。
そろそろ、金玉寺はこのあたりだったかなと、一男がフロントガラスに顔を近づけて見ていると、先に人だかりが見えてきた。
あぁ、ここだったなと思い出しながら、タクシーを路肩に止めた。
車の中からでも、外からなにやら音楽のような騒音が聞こえており、さらに先には黒塗りの車も何台か停まっていたので、車外に出るのも躊躇する物々しい雰囲気であった。
もしかしたら、喜代美がやっぱりやめようと言い出すのを少し期待したが、当の喜代美は興味津々のようで、一男はトランクから車椅子を取り出すと、真由子にも手伝ってもらい喜代美を車椅子に乗せた。そして、三人で階段の先の境内の方を見上げた。
「これって、般若心経ですよね?」
境内の方から漏れてくる音を聴いて娘の真由子が言った。
「そうですね…」
一男はうなずいた。
始めはただの騒音にしか聞こえなかったが、たしかにこれは般若心経である。
ただ、明らかに一男の知っている般若心経とは違った。読経こそそうではあるが…、これではまるでディスコ…?
あの堅物そうだった住職が唱えているのであろうか。まさか…。
「一男さん、階段がありますね。登れますか?」
喜代美が振り返り言った。
「たしか、横手にまわるとスロープになっている細い道があったはずです。そちらから登りましょう」
一男は車椅子を押して歩いた。
階段から石垣を回り込んでいくと、裏側にたしかに細い上がる道があった。
一男と真由子で車椅子を押して坂道を上がった。上がり切ると、丁度本堂の裏側あたりから境内に入った。
正面の方に向かっていくと、本堂の正面にはステージが設けられているようで、その前の客席にはびっしりと人が埋まっていた。観客は一心にステージの方を見ている。一男たちは側面からステージを見ることになった。
一男はステージ上の演者を見たが、般若心経を唱えていたのは、なにやら頭がボサボサの髭面の男で住職ではなかった。…いや、もしかしたらあれが今の住職なのかもしれないが…。
そのほか、長身長髪のピアノ弾いている男と、ギターを持った青年、そして、モヒカン!?のベース。
般若心経が終わると、客席が静まり返った。
まさに静寂であった。
すると、パチパチと大きな拍手の音が聞こえてきた。
一男はそのひときわ大きな拍手する人物を見た。
そして目を見開く。
えっ!?アメリカ大統領!!!!!??????
真由子も驚愕の表情で一男の方を向き、喜代美も振り返った。
三人は、互いになにか言いたげに口をぱくぱくさせたが、次の曲が始まってしまったので、再度ステージと客席に視線を戻すしかなかった。
次の曲は一男も聴いたことがあった。たしか紅白でも歌われたはず…。
しかし、さらに次の曲は意味不明で、一男には騒音にしか聞こえなかった。客席の前の方では若者が踊り盛り上がっていたので、有名な曲なのかもしれない。
一男は車椅子を押して、客席側に移動した。丁度、アメリカ大統領のそばまで来た。
アメリカ大統領はちらりと視線をこちらに向け、にこっと笑った。一男、喜代美、真由子は会釈した。
曲が終わると、大統領はステージに向かって歩いて行き、ステージのギターを担いだ青年になにかを言い、握手をした。客席がどよめいた。
一男は、もしかして自分は夢でも見ているのではないかと思って、手を爪でひねってみたが痛かった。どうやら、これは現実のようである…。
大統領は、拍手喝采の中帰って行った。
しばし、境内は騒然としていたが、ステージで先ほど大統領と握手した青年がマイクでしゃべりだすと、境内は急に静まり帰り、客席の視線が再度ステージに向けられた。
「今日はなんて言うか、こんなはずではなかったんですが…。まさか忍性さんのことがアメリカにまで伝わるとは…」
青年が言うと客席から笑いが起こった。
「人生なにが起こるかわかりませんね…。かつて、僕たちはプロを目指して東京でライブ活動をしていたのですが、夢あきらめて…」
一男はいまいち事情を呑み込めなかったが、どうやら彼らは有名なバンドとかそんなのではないらしい。てっきり、ロックフェスと書いてあったので、有名どころでも呼んでいるかと思ったが…。
「間違いなく言えるのは、今日は人生で一番のライブとなりました」
客席から拍手が起こる。一男にとっても、少なくとも今日は忘れない一日になるのは間違いなさそうであった。まさか乗務最後の日にアメリカ大統領に会えることになるとは。
そして、ステージでは彼らが言う最後の曲が演奏された。もちろん、一男の知らない曲だった。どうってことない曲だった。
演奏が終わると、青年が「これから秘仏を公開します」とアナウンスした。
「いよいよですね」
喜代美が振り返り言った。一男は「えぇ」うなずいた。
どうやら、ステージの後ろの本堂の入口に幕が張ってあり、その向こうに秘仏が置いてあるらしい。長身細身の男と、モヒカンの男が段取り悪そうに幕をめくろうと準備した。
「では、皆さん金玉寺の秘仏文殊菩薩立像を公開したいと思います。こちらの仏像は、鎌倉時代の印慶仏師作と伝わるもので、市の文化財にも指定されています。普段は公開していませんが、今日は忍性忌ということで特別です」
青年がマイクで言うと、場違いなドラムロールの音が鳴り響いた。
ふと、この時一男はステージの脇に、見慣れた人物が立っていることに気付き視線がそちらにいった。
あれは後輩ドライバーの野口くんじゃないか。
我が社の若手のホープで、といっても40代半ばだったが、真面目な仕事ぶりで、頑張って勉強もし、去年ソムリエ検定のソムリエ級にも合格したのだ。野口くんは私服だったのでプライベートで来ているのだろう…。
すると、「ひゃぁ!」と客席から悲鳴があがり、一男は驚いて視線をステージの方に戻した。
そこには黄金に輝く文殊菩薩立像が姿を現していた。鎌倉時代のものにしては綺麗なような気がしたが、たしかに慶派の面影がある立派な文殊菩薩立像であった。とはいえ、特段した印象はなかった。
境内は静まり返っている。
「…したか…?」
「え?」
喜代美が囁いたので、一男は屈んで喜代美の声が聞えるように耳を近づけた。
喜代美は視線は正面を見たそのままに、
「見ましたか…?」
と、再度囁いた。
「えぇ、なかなか素晴らしい文殊さまですね」
一男がのん気な風に答えると、
「一男さん。なかなかどころではありませんよ。幕が取られた瞬間を見なかったんですか?」
喜代美は声を震わせている。
一男は、一体どうしたのかと思った。まさか本当に幽霊でも出たのか!?
「真由子。あなたは見たわね?」
「はい。お母さん。わたしは見ました…」
一男は娘の真由子を見上げた。
只ならぬ雰囲気だった。一男はもう一度ステージの方を見たが、ただ文殊菩薩立像が立っているだけである。
その時だった。
突然喜代美が車椅子から立ち上がると、ステージの方に向かって走って行ってしまった。
「お母さん!!!」
真由子は追いかけ、一男はあまりのことに腰を抜かし動けなかった。
それをきっかけにして、境内にいた客もぞろぞろとステージに詰め寄って行った。
一男はしばらく呆然としていたが、
「喜代美さん!」
と、名を呼ぶと、ようやく立ち上がりステージの方へ駆け寄っていった。




