15話 医者
医者は苦手だ。
医者が来ると思うと逃げたくなるし、見かけ次第、最大限距離をとるようにしている。
しかし、これは治療を受けるのが嫌という意味ではない。たまたま俺がよく知っている医者が俺の苦手な部類であるというだけのことだ。
だから、俺は、リナの部屋を出て、自分の部屋に戻る途中、その医者とたまたま顔を合わせた瞬間に、踵を返し、黙って立ち去ろうとした。しかし、後ろからばたばたという足音が聞こえてきて、あっという間に追いつかれてしまった。
「逃げるなんてひどいですわ~。殿下~」
肩を叩かれたので、仕方なく振り返る。
そこには、背の高い女医がいた。長すぎる白衣を引きずっている。髪の毛も長く、腰のあたりで毛先が揺れている。少し走ったせいか、でかい胸を垂らしながら息を荒げていた。
「もう。恥ずかしがり屋さんなんですから」
鼻をちょん、と叩かれる。俺は全身に怖気が走るのを感じていた。
「なんですかー。もう、何か言ってくださいよ! あたしと殿下の仲じゃないですか!」
「お前の言う通り恥ずかしいんだ……。お前と話していると知り合いだと思われる」
俺は両手で顔を覆った。煽りでもなんでもなく、素直に恥ずかしかった。
「殿下、ひどいですわー。せっかくリナ様の診察もしてあげたのに、その言いようはあんまりじゃありませんか~? あたし、しっかり仕事はしましたよ~」
「ああ、そうだな。その点については心配していないさ。信頼している」
「ならいいじゃないですか~」
「そういう問題じゃない。そういう問題じゃないんだ、セリーヌ」
セリーヌは首をかしげていた。
見た目だけなら、だいたいの人が好感を持つだろう。スタイルがよく、顔立ちも上品さがある。しかしながら、俺が苦手意識を持つのにもわけがある。
「ちょっと来い」
俺はセリーヌの腕をとって、引っ張る。あん、となぜかセクシーな声を出すのにうんざりしながら、近くにあった空き部屋まで連れて行く。
「やだ、殿下ったら……。こんな強引に連れ込むなんて、ダ・イ・タ・ン」
粟立つ肌をさすりながら、怒りで頭が支配されるのを感じていた。こいつは何度言ったらわかるのだろうか。俺はため息をつく。
「お前、自分の年齢を言ってみろ」
「え~。乙女にそんなこと聞いちゃいけないんですよ~」
「いいから言えや、もじもじしてんな気持ち悪い」
セリーヌは少しむっとした顔をし、それからすねたような口調で言った。
「今年で48になりました~」
ああ、そうだよな。お前はもうすぐ50なんだよな。いい加減自覚を持ってもらいたいが。
セリーヌは若いころ、たいそうモテたらしい。
20、30年くらい前には、ビリヤンカ王妃と双璧をなす絶世の美女と国中の話題をさらっていたらしい。ビリヤンカ王妃が白銀の玉女ならば、セリーヌは蠱惑の才媛。背は高く、体は細く、歩くたびに揺れる胸は男たちの注目の的だった。顔は上品で穏やかで、つやつやの髪の毛からはとてもいい匂いがしていた。
しかも、当時からぶりっ子だったらしく、重鎮に上目づかいで取り入っては色んなものを買ってもらっていたらしい。平民の出でありながら、下手な貴族よりも財産があるんじゃないかと言われていたほどだ。
そんなセリーヌが結婚したのは、30手前くらいの遅い時期だった。さんざん遊びほうけていたから、真面目な付き合いなんてしていなかったのだろう。男をとっかえひっかえし、最終的に身を固めた相手は、評議会の現評議長。今でも仲が良く、暇さえあればべったりしていると聞いたことがある。
「何度も言っているだろう。おまえは48なんだ。あと2年もすれば50になるんだ。若いころとは違うんだ」
「え~でも~。旦那様は、『おまえはいつもかわいいよ』って言ってくれますよ~」
くねくねすんな。気持ち悪い。
「単純な話だ。おまえが異常なのはもちろんのこと、おまえの旦那も異常なんだ。俺はきついよ、おまえがきついんだよ……」
すると、セリーヌは口をぷくーっと膨らませる。
「なんですか~もぉー。息子と同じこと言っちゃってー」
……そういえば、セリーヌには今年17くらいの息子がいたという話を聞いたことがある。その息子も、俺と同じつらい目に遭っているんだなあと思うと同情した。
「その息子はなんて……?」
「年を考えろ、いつまでそんな感じでいるつもりなんだ、親がこんなんじゃ俺世間に顔向けできないよ、とりあえず家から出ていくわ、って」
「家から出て行っちゃったんだ……」
「まだ家にいてもいいのよ、一生いてもいいのよ、って言ったのに、15歳になるや否やさっさといなくなっちゃいましたの」
セリーヌはそのときのことを思い出したのか、ハンカチで涙を拭いはじめた。正直、息子の気持ちがわかりすぎたので、欠片も同情できなかった。
「昔はね、ママ、ママってニコニコしながら抱きついてきたんですよ。毎日毎日ママのこと大好きだよって言ってくれて、あたしも大好きだよって言うと、すごくうれしそうな顔をしていましたわ。一緒に手をつないで寝たり、耳掃除をしてあげたりしていました。ママがきれいでうれしい? って聞くと、うん! って元気よくうなずいていましたよ~」
「へー」
「だんだんとね、母さんってなんでそんなに気持ち悪い喋り方なの? とか、恥ずかしいから俺と一緒に歩くのやめてくれないかな、なんて言いだして。15になったとたん、この日が来るのを待ってた、とか、せいせいするぜ、なんて言ってどっか行っちゃって。こんなにかわいいママがいるのに何が不満なのですか」
しまいには、涙を拭いていたハンカチを噛んでいた。
「いい加減子離れしようぜ。どのみち親なしで生きていかなくちゃいけない運命なんだ」
「だからって、だからって、早すぎるじゃないですか~!」
セリーヌは鼻水をすすっている。泣くくらいならぶりっ子をやめればいいのにと思うが、おそらく彼女は自分が歳をとっていることを認められないのだ。だからいつまでも若いころの振る舞いから変わることができない。旦那が甘やかしているからなおさらだ。
「鏡に映ったあたしの顔を見てください。すごくきれいじゃないですか」
普段から持ち歩いているやたらでかい鏡で自分を見ていた。大きさはおそらく人の顔よりも大きいだろう。結局のところ、ナルシストでもあるのだ。
「まあ、たしかに『歳のわりには』きれいなのかもな」
「でしょ~」
自分の顔を見てすっかり立ち直ったようだった。意外と厚化粧でもないし、見た目だけで言えば上品な年の取り方をしている。好感は持たれやすいだろう。
「勘違いするな。歳のわりには、だ。しわも多いし、色もかすんで見える。若い奴の大多数のほうが魅力的だ。客観的に自分を見られるようになれ」
「息子にもさんざん言われましたけど、客観的に見てもすごくきれいです~」
やはり何を言っても無駄だな。俺はあきらめることにした。
「……リナの状態はどうだった」
「あ~やっぱり~? そっちのほうが本題だったんですね~」
俺はうなずく。別に、説教したくて空き部屋に連れ込んだわけではない。
「あの傷のことでしょう?」
急に冷静な口調になってセリーヌが尋ねてきた。やはり違和感を覚えていたらしい。
「そうだ。単刀直入に言う。あれはリナの父親がやったことだ」
セリーヌが息をのんでいた。
「リナ様のお父様って、スキラ公爵じゃありませんでしたっけ?」
「そうだぞ」
「なるほど、そうですか」
おそらく、セリーヌにも他言しないよう、言い含められているはずだ。なんでそこまでしてリナを隠しているのかわかっていなかったのだろう。
「あたしから見て、あれは人間のやることではないです」
「何を見た?」
「すごい数の傷です。服を着ていると見えないところにいっぱい人工的につけられただろう傷跡がたくさん残っていました。切傷や打撲痕、やけどの痕なんかもありました」
リナの言っていたことはやはり本当だったのだ。俺は、聞いていて少し胸が痛くなるのを感じていた。
「……あれを本当に父親がしたものだと考えると、とても恐ろしいことです。評判のいい公爵ですもの。暴力を奮われていると助けを求めても、信じてくれる人はあまり多くなかったことでしょうね。よく、今まで耐えられたものだと感心します」
「そうか」
あいつはバカだが、努力家でもあると思う。そんな暴力に耐えながら、気丈に振る舞い、勉強も重ねてきたのだ。
「誰にも言うな、って王妃殿下には言われましたけど、どのみちこんなことをおいそれと話すことはできなかったでしょうね。公爵を怒らせると面倒くさいことになるでしょうから」
正直、あまり巻き込んでほしくないのが本音です、と小声で言われた。まあそうだろうな。俺としても、正直に言ってくれるのはとてもありがたい。下手に正義感を見せる奴よりは信用できる。
「わかっているさ。あくまでおまえはケガと風邪の具合だけ確認していればいい」
「そう言ってくれると助かります~」
また、にへらとした笑みに戻っていた。
「ちなみに殿下の体調はいかがですか~? 昨日、リナ様と一緒に外に出て、雨に濡れていたと聞いていましたけど~」
首を横に振る。
「病気には強いほうだからな。特に体調は悪くない」
「本当ですか~?」
すると、セリーヌが俺に近づいて、俺の前髪を取り払ったかと思うと額と額をくっつけてきた。無駄にいい匂いがしてむかついた。見たくもない胸の谷間も見えた。
――こうやって昔は男をたぶらかしてきたんだろうな。
俺は手でセリーヌの体を押して、強引に除けた。「あん」と性懲りもなく声を出していた。
「もう殿下ったら照れちゃって……! 胸見てたのもバレバレですよ?」
「見たんじゃなくて見えてしまったんだ。もうちょっと胸元が締まった年相応の服装にしてくれ。吐き気が出る」
「ほんとうはうれしいくせに~」
俺はため息をつく。こいつは一生このままなんだろうなと思った。死の間際までぶりっ子してそうだ。
「本当に熱はないみたいですね~。何かあったらあたしを呼んでくださいね~」
まだ診察あるんで~と手を振って、セリーヌが立ち去る。ドアから去る間際、セリーヌが顔だけ出して、投げキッスをしてきた。
「おええ……」
本当に勘弁してもらいたい。二日酔いでもないのに吐き気が止まらない。
俺も戻ろうと思った矢先、あ、と声が出てしまった。
リンクとの約束の時間をとうに過ぎていた。話し込みすぎた。
やばい。顔に一筋汗が垂れるのを感じていた。




