第18話 今分かること
傾くとは異常ということ
魔獣の発生数が減り始めてから、完全に学院内が静かになるまでには、さらに二時間近くかかった。
俺たちはその間ずっと中央講義棟の一室で待機していた。途中で何度か放送が入り、西部研究区の主要通路が封鎖されたこと、発生した魔獣の大半が討伐されたこと、まだ一部区域では捜索が続いていることだけが伝えられた。
誰も大声では話さなかった。
普段なら教師がいない待機時間なんてもっと騒がしい。カイルだって隣に座っていれば何かしら喋るし、ミラも静かにしている方ではない。
今日は違った。
窓の外を見ても、学院はいつもの形をしている。
石造りの校舎。
高い研究棟。
広い通路。
遠くでは大型運搬台も少しずつ動き始めている。
それなのに、視界のどこかへ魔獣が飛び出してきそうな感じが抜けなかった。
「……今日、帰れるのかな」
カイルが呟いた。
「多分」
「外の道も確認してるらしいよ」
ミラが答える。
「学院の外まで出てたら面倒だな」
「出てないといいけど」
俺は右腕を見た。
包帯の下にある傷は浅い。
痛みもほとんどない。
でも、魔獣が飛びかかってきた瞬間の感覚だけは残っている。
右腕へ魔力を流そうとした。
本当に反射だった。
考えていない。
身体が勝手に動いた。
もし止められなかったら。
右腕の傷より、そっちの方が怖かった。
「レン」
「何?」
「また腕見てる」
「ちょっとな」
「痛い?」
「ない」
「ならいいけど」
ミラはそれ以上聞かなかった。
俺も話すことがなくなって、窓の外へ目を向ける。
西部研究区の辺りだけ、まだ人の動きが多い。
軍服。
学院の研究員。
治療班。
警備。
遠くからでも分かる。
それだけ大きな事故だった。
◇
日が落ち始めた頃、ようやく教室の扉が開いた。
「順番に移動する」
入ってきた教師は、朝とは別人のように疲れていた。
「今日は通常授業をすべて中止する。南門と東門のみ解放。居住区が西側にある者は、指定宿泊区画を利用しろ。勝手に西部へ近づくな」
何人かが手を上げる。
「先生、原因は?」
「現在調査中だ」
「魔獣はもう出ませんか?」
「完全には断言できん。ただ、魔力濃度の急上昇は収まりつつある」
「西部研究区で何があったんです?」
そこには答えなかった。
「正式な説明は後日ある。それまでは憶測を広めるな」
教室の中で少しざわめきが起こる。
誰だって気になる。
俺も気になる。
でも今は、それ以上聞いても答えてもらえないらしい。
「エルド」
「はい」
「お前は残れ。オルフェン先生から呼ばれている」
ミラがこちらを見る。
「検査かな」
「多分」
「終わったら連絡して」
「分かった」
カイルも立ち上がる。
「じゃあ俺ら先帰る」
「ああ」
「無茶するなよ」
「今日もう何もしない」
「本当に?」
「お前まで言うな」
少しだけ笑えた。
それだけで、朝からずっと張っていたものが少し緩んだ気がした。
◇
オルフェン先生の研究室へ向かう途中、学院の中が普段とまるで違って見えた。
壊れた場所は思ったより少ない。
通路の一部に血の跡。
壁に爪痕。
割れた魔力灯。
運び出されていく壊れた測定器。
それくらい。
でも、人の動きが違う。
誰も立ち話をしていない。
工房から聞こえるはずの作業音も少ない。
魔法陣の光も必要最低限。
学院全体が、何かを警戒して息を潜めているようだった。
研究室へ入ると、先生は一人ではなかった。
魔法工学基礎の教師。
それから見覚えのない研究員が二人。
机の上には大量の記録紙と測定板が並べられている。
「来たか」
「はい」
「腕」
「またですか」
「見せろ」
今日三回目だ。
包帯を外し、傷を確認される。
さらに検査陣。
「新しい筋損傷はない」
「よかった」
「右腕の身体強化解禁予定は一週間延ばす」
「え」
思わず顔を見る。
「何で?」
「魔力を流しかけた」
「止めました」
「完全に流れていない保証はない」
「でも筋肉は大丈夫なんですよね」
「今はな」
「一週間延ばすほど?」
「安全を取る」
反論したい。
あと一週間だと思っていた。
そこからさらに一週間。
たったそれだけ。
分かっている。
でも、今日の朝まではもうすぐ戻れると思っていた。
「……分かりました」
口に出すと、自分でも少し驚いた。
先生も一瞬だけこちらを見る。
「文句は」
「あります」
「あるのか」
「でも使ってまた壊したらもっと長くなるので」
「理解しているならいい」
それだけだった。
「で」
俺は机の上を見る。
「呼んだ理由、腕だけじゃないですよね」
「そうだ」
先生が一枚の記録紙をこちらへ向ける。
「これを見ろ」
魔力方向測定。
時刻。
濃度。
色別比率。
その中に、見覚えのある表示がある。
《方向不定》。
「これ、今日の?」
「ああ」
「どこで?」
「西部第四研究棟」
最初に魔獣が確認された場所。
記録は一つではない。
二つ。
三つ。
別の測定器。
別の位置。
同じ時間帯。
「こんなに?」
「最大で十一台」
「全部故障?」
言いながら、自分でも可能性が低いと思う。
先生も首を振った。
「同時故障と考える方が不自然だ」
「じゃあ本当に方向不定だった?」
「その可能性が高い」
魔法工学基礎の教師が横から口を挟む。
「正確には、方向が存在しなかったという意味ではない」
「どういうことです?」
「測定方向が一致しなかった」
「機械同士で?」
「ああ」
一枚の図が置かれる。
研究棟周辺。
矢印。
ある測定器は西。
別の測定器は北東。
また別は下。
場所が少し違うだけで、流れの方向がまるで違う。
「渦?」
俺が言う。
「最初はそう考えた」
研究員の一人が答える。
「ただ、通常の渦なら中心と回転方向が取れる」
「今回は?」
「取れない」
図を見る。
確かに、ただ回っているようには見えない。
線がばらばらだ。
なのに全体としては、どこかへ集まっているようにも見える。
「変ですね」
「変だから調べている」
オルフェン先生が言う。
「お前の事故と似た部分がある。だが、同じ現象だとはまだ考えるな」
「はい」
前なら先に繋げようとしていたかもしれない。
今は少し待てる。
「それで、実験って何をしてたんです?」
先生たちが一瞬黙る。
隠すつもりなのかと思った。
でも、工学教師が先に口を開いた。
「正式発表前だが、お前は測定データを提供している。必要な範囲だけ説明する」
「お願いします」
机の上へ新しい紙が置かれた。
大型魔法陣。
中心に蓄積部。
その周囲にいくつもの収集陣。
「空気中魔力集積陣」
「空気中?」
「ああ」
何となく今日の授業を思い出す。
大型魔法陣への持続的な魔力供給。
教師が説明しようとしていたもの。
「あの授業で言おうとしてたの、これですか」
「そうだ」
「学院で研究してたんですね」
「何年も前からな」
少し意外だった。
「今日が初めてじゃない?」
「違う」
研究員が答える。
「小規模実験なら何度も成功している。中規模も今回以前に三度。異常なし」
「じゃあ何で今日だけ」
「それが分からない」
即答。
オルフェン先生と同じ。
「目的は?」
「空気中に広く散っている魔力を集め、蓄積し、継続的な供給源として利用する」
工学教師が図の中央を指す。
「魔石への依存を減らす。大型治療設備、工場、地方都市の生活設備。用途はいくらでもある」
「かなり便利ですね」
「成功すればな」
研究員の声が少し低くなる。
多分、今回の実験に関わっていた人だ。
「空気中魔力を一地域から大量に奪うわけではない。広い範囲から微量ずつ集める。計算上、環境への影響は無視できる範囲だった」
「実際、今までは何もなかった」
「ああ」
「今日も同じ条件?」
「ほぼ同じだ」
「ほぼ?」
「収集範囲を少し広げた。出力は前回より約八パーセント上」
「八パーセントであれだけ?」
「だからおかしい」
誰も言い訳をしているようには見えない。
本当に分からないのだ。
「起動後七分までは正常だった」
研究員が記録を見る。
「予定量の四割を回収。濃度変化も予測範囲。八分を過ぎた辺りから周囲の空気中魔力濃度が想定以上に低下し始めた」
「止めなかったんですか」
「止めた」
「でも続いた?」
相手の顔を見る。
少し驚いたようだった。
「なぜそう思う」
「今日、先生に似たこと言われたからです。魔法陣が止まっても魔力が流れてたんじゃないかって」
オルフェン先生が横から言う。
「私はそんなこと言っていない」
「安全装置の話です。電気切っても魔力が動き続けた四号みたいに」
「そういうことか」
研究員が記録をめくる。
「その通りだ。九分十二秒で主陣停止。九分十四秒で全系統への供給停止。それでも空気中魔力の流入が止まらなかった」
「魔法陣は?」
「完全停止を確認した」
「じゃあ何が集めてたんです?」
誰も答えない。
それが、今一番大きな問題らしい。
「その後」
工学教師が続ける。
「研究棟周辺の魔力濃度が一度急激に低下した」
「俺たちの教室でも下がりました」
「ああ。広域で同じ現象が出た」
「それから急に上がった」
「見たか」
「避難中に」
「そこも一致している」
記録を見る。
六割。
四割。
二割。
研究棟中心では一割以下。
そこから。
一気に増える。
三十。
八十。
百二十。
二百。
「二百?」
俺は数字を見直す。
「通常の二倍?」
「最大で三・七倍」
「それなら魔獣出る」
「ああ」
高濃度の魔力。
魔獣。
そこ自体はおかしくない。
「色は?」
「全部だ」
予想通り。
「赤、橙、黄、緑、青、藍、紫、黒、白。比率に差はあるが、九色すべて上昇した」
「だからあんな種類が」
「そう考えるのが自然だ」
「じゃあ、魔獣が出た理由は分かった?」
「発生条件だけならな」
オルフェン先生が言う。
「高濃度の多色魔力が形成された。そこに対応する魔獣が発生した。それだけだ」
「でも何で濃度が上がったかは分からない」
「ああ」
「何で停止後も流れたかも」
「ああ」
「何で今回だけ」
「分からん」
三つ。
分からない。
でも、何も分からないよりは整理された。
「先生」
「何だ」
「研究、続けるんですか」
その場が少し静かになった。
俺自身、聞いてから何を期待しているのか分からなかった。
止める。
当然だ。
でも、完全に捨てるのか。
事故が起きたから。
「当面は凍結だ」
工学教師が答えた。
「同型の集積実験は学院内外を含めて停止要請が出る」
「外でもやってる?」
「似た研究はある」
「全部?」
「少なくとも王国内の主要研究機関には通知する」
「原因分かるまで?」
「そうなる」
研究員が机の上の魔法陣図を見る。
「本来なら、成功するはずだった」
独り言に近かった。
「数値も合っていた。三度成功している。今回だって、途中までは全部予定通りだった」
誰も返事をしない。
「私が担当したのは収集範囲の調整だった」
その人は続ける。
「八パーセント広げた。それでも安全率は残っていた」
声に震えはない。
でも手は動いていなかった。
「今日、怪我した学生の人数は」
「まだ確定していない」
オルフェン先生が止める。
「今それを聞いても何も変わらん」
「分かっています」
「なら、まず原因を調べろ」
冷たいように聞こえる。
でも多分違う。
今必要なことを言っているだけだ。
「教師としては?」
俺が聞いた。
先生がこちらを見る。
「何だ」
「先生たち、研究者でもあるけど教師ですよね」
「ああ」
「もし同じ実験をもう一回やれば原因が分かるとしても、やります?」
自分でも嫌な質問だと思った。
でも聞きたかった。
オルフェン先生は少しも考えずに答えた。
「生徒がいる場所ではやらん」
「場所変えれば?」
「条件が安全だと証明できなければやらん」
「でも原因分からないままになるかもしれない」
「それでもだ」
簡単だった。
「研究は止めても死なん」
先生は机の記録へ目を戻す。
「生徒は死ぬ」
その言い方で、今日の通路を思い出した。
魔獣。
爪。
血。
泣いていた学生。
俺自身も右腕を掠られた。
「……はい」
「お前も覚えておけ」
「何を?」
「分からないものを調べるのと、分からないまま危険へ突っ込むのは別だ」
痛い。
かなり。
「俺に言ってます?」
「お前以外に誰がいる」
「この部屋研究者四人いますけど」
「全員にだ」
少しだけ空気が緩んだ。
◇
研究室を出た頃には、完全に夜だった。
今日はもう工房へ行かない。
札も作らない。
五号にも触らない。
それどころか、考えることが多すぎて何かを作る気になれなかった。
東門へ向かう途中、普段使わない回廊を通る。
そこから学院の外がよく見えた。
城壁。
屋根。
遠くの街。
魔法陣式の街灯が並び、運搬車がゆっくり道を進んでいる。
学院で何があったのか知らない人も、街にはまだ大勢いるだろう。
当たり前に灯りが点いている。
温度調整器も動いている。
病院では魔法陣が使われている。
工場も多分動いている。
今日の研究だって、それをもっと便利にするためだった。
魔石を減らす。
安くする。
長く動かす。
聞けば聞くほど、悪い研究ではない。
「それでも事故るんだな」
誰もいない廊下で呟く。
四号もそうだった。
俺は自分を傷つけようとして作ったわけではない。
魔力を節約したかった。
もっと上手く魔術を使いたかった。
それだけ。
でも結果は怪我。
今回は規模が違う。
一つの研究棟。
学院。
何万人もの避難。
魔獣。
怪我人。
同じ「失敗」という言葉でまとめるには、重さが違いすぎる。
俺は自分の右腕を見た。
あと一週間だった。
今日の朝までは。
また二週間になった。
少し悔しい。
でも今は、それより別のことが気になっていた。
実験は何度も成功している。
今回も途中までは正常。
停止もした。
なのに魔力は動き続けた。
減った。
そのあと増えた。
全部の色が一緒に。
高濃度になって。
魔獣が出た。
知っていることを順番に並べても、真ん中だけが抜けている。
その抜けている部分が、妙に大きい。
◇
翌日、学院は休校になった。
正確には通常授業の全面停止。
研究区の立ち入り制限と安全確認が終わるまで、数日間は授業を再開しないらしい。
俺は朝から家にいた。
珍しい。
平日に。
何をするでもなく机へ座り、昨日のことをノートへ書き出していた。
勝手な推測はしない。
分かっていることだけ。
**空気中魔力集積実験。**
**過去に複数回成功。**
**今回、出力約八パーセント増。**
**起動後、周辺魔力濃度が低下。**
**魔法陣停止後も流入継続。**
**その後、九色すべての魔力濃度急上昇。**
**複数系統の魔獣発生。**
**複数地点で《方向不定》。**
そこまで書く。
分からないこと。
書こうとして、やめた。
多すぎる。
なぜ停止後も動いた。
なぜ今回だけ。
なぜ一度減ったものが戻った。
どこから戻った。
なぜ色が混ざった。
方向不定とは何か。
俺の事故と関係があるのか。
「……無理だな」
ノートを閉じる。
今の俺が考えて分かる話ではない。
専門の研究者が何人も集まって分からない。
十七歳の学生が一晩考えて分かるなら、とっくに誰かが分かっている。
そう思って席を立とうとした時。
窓の外から、大きな羽音が聞こえた。
「何だ?」
鳥にしては大きい。
窓を開ける。
空を見る。
一瞬、雲の向こうに巨大な影が見えた。
翼。
長い尾。
かなり高い。
距離もある。
それでも大きいと分かる。
「……ドラゴン?」
珍しい。
この辺りまで来ることはほとんどない。
王都近郊は人が多いし、わざわざ近づく理由もないからだ。
影は学院の方向へ飛んでいた。
ゆっくり。
旋回するように。
一度。
二度。
何かを探しているようにも見える。
「何してるんだろ」
しばらく見ていたけれど、やがて雲の向こうへ消えた。
それだけだった。
俺は窓を閉める。
ドラゴンが飛ぶこと自体は別に異常ではない。
珍しいだけ。
昨日の事件と結びつける理由もない。
「考えすぎだな」
自分に言って、机へ戻る。
閉じたノートの上へ、右手ではなく左手を置いた。
今日は休む。
先生にも言われている。
事故の原因は、調べる人が調べている。
俺ができることは少ない。
それでいい。
少なくとも今は。
ただ、窓の外を横切った巨大な影だけが、少しの間、頭から離れなかった。
ドラゴンっていいよね




