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刹那、水が滴る音がする。ぽたぽたと何かから水が滴っている。けれど暙桜は濡れてなど居ない。それどころか、口を戒めていた忌々しい手のひらもなくなっている。
「大丈夫ですか、我が君」
頷いて、暙桜は視線をめぐらす。部屋に、誰も居ない。先ほどまで居た男は幻だったのか、否。本能とも呼ぶべき深いところが否を唱える。幻などというものではない。あれは、肉体を持った本来の男の姿。すべての本能をさらけ出した、人間の、すがた。
「さ、き……のひとは……?」
喉が圧迫されたせいか、うまく声が出ない。しかし汲み取った青年は、僅かに柳眉を上げる。そして凍てつくほど冷たい声音を出す。
「玉依姫を穢れに触れるほどの行為をした男なので、始末したかったところでしたが、あれでも一応歴史に関係あるものなので、池に沈める程度に留めました」
池に、沈める…、程度。
暙桜はざっと青ざめた。いくら卯月に入ったといえど、風が冷たい日が無いわけではない。思わず詰め寄りかけた暙桜は、迅が掲げた手を見てふと訝しんだ。
ぱちんと乾いた音が響いた瞬間、少女の体を暖かい袴が覆った。単一枚だったことを思い出した少女は、火がついたように赤くなった。単一枚だったこともだが、さらしもずれていて、肌も結構露出されていたのだ。そんなあられもない姿をひとりならず二人の男に見られた少女は、当たり前に羞恥に顔を赤らめた。
「申し訳ありません。さすがに目のやり場に困りまして……」
苦笑しながら告げる彼に、だったらとっととそう言え、と叫びたいのを堪えた暙桜は、襖の外に待たせている総司に慌てて声をかけた。文句はあとだ。
「あの、沖田……さん?」
「…………」
返事が無いことをいぶかしんだ暙桜は、遠慮がちに襖をゆっくりと開けた。
僅かに目を瞠った暙桜は、しかしすぐに柔らかく優しく微笑んだ。その表情を見た迅は、はじめてみる主のそんな表情に驚きを隠せずにいた。
暙桜の視線の先には、壁に背を預けて、刀を抱えたまま眠っている総司がいた。彼を優しく見つめていた少女は、青年が身じろぎするのを見咎めて、慌てて襖を閉めた。
「…………暙桜…、いける…?」
まだどこか泡沫の世界にいるような声が暙桜を呼ぶ。知らず胸が高鳴ったが、それを打ち払うように頭を振って、暙桜は返事を返す。
「はい、大丈夫です」
再び襖を開け、刀を腰に佩いた暙桜は迅に向けて人差し指を唇に当てた。まるで内緒ね、と小さな秘密ごとのように少女はあどけなく笑った。その表情に動きを止めた青年は、少女を追うことを忘れて呆然と立ち尽くしていた。
「暙桜?」
訝しむ総司の声音に、暙桜が慌てて返事を返してぱたぱたと出て行く。
談笑が僅かに届くその場所に呆然と立ち尽くした青年は、やがて右手で顔を覆い失笑した。
「私が…、彼女を傷つけてはいけないんですよ、玉依…」
まるで自虐的な言葉は、しかし風に紛れて彼の姿ともども誰にも見られることなく、消えた。




