第6話 初めてのお風呂
「タクヤ」
すぐ近くから声が聞こえた。
「タクヤ、起きて」
「……ん」
肩の辺りを何度か押され、拓也はゆっくり目を開けた。
薄暗くなったリビングが目に入る。つけっぱなしだったテレビから音が流れ、すぐ横ではノエルがソファの上に座ったままこちらを覗き込んでいた。
「起きた!」
「……起きた起きた」
まだ重い身体を起こし、拓也はテーブルの上に置いてあったスマートフォンへ手を伸ばした。
「え、もう六時?」
「ろくじ?」
「もうすぐ夜になるくらいの時間。結構寝たな……」
窓の外はすっかり夕方の色になっている。少し目を閉じるだけのつもりだったのに、思っていた以上に眠っていたらしい。
拓也は隣にいるノエルを見る。
「ノエルも結局寝てたじゃん」
「……寝てないよ」
「いや、寝てたって」
「ちょっとだけ!」
「俺より先に寝たのに?」
ノエルが少しむっとしたように耳を動かした。
「なんで起こしてくれなかったの?」
「気持ちよさそうに寝てたから」
「起こしてくれてもよかったのに」
「眠くないって言ってたのにすぐ寝たしな」
「それはもういいの!」
「はいはい」
拓也が笑うと、ノエルはまだ少し不満そうにこちらを見ていた。
けれど、しばらくするとその視線がキッチンの方へ向く。
「……お腹すいた?」
「すいた!」
「やっぱりか」
時間もちょうどいい。拓也はソファから立ち上がった。
「じゃあ晩飯にするか」
「晩ご飯!」
その言葉だけで、さっきまでの不満はどこかへ行ったらしい。ノエルはすぐに尻尾を揺らした。
夕飯は、冷蔵庫に残っていた豚肉と野菜を炒めて簡単に済ませることにした。ご飯を温め、その間に肉と野菜を切ってフライパンへ入れる。
ノエルは前と同じようにリビング側からカウンターへ前脚をかけていたが、昼ほど細かく質問してこなかった。肉が焼ける匂いがし始めると、何も言わずに鼻先だけを動かしている。
「もうすぐできるからな」
「うん!」
出来上がった料理を皿へ盛り、二人でローテーブルのところへ移る。
「いただきます」
「いただきます!」
ノエルはもう迷わず拓也の真似をした。
最初に肉を食べると、すぐに顔を上げる。
「これもおいしい!」
「よかったな」
「タクヤ、ご飯作るの上手!」
「そう?」
「うん!」
「それなら作った甲斐あるわ」
ノエルは満足そうにまた皿へ顔を戻した。肉だけでなく、一緒に炒めた野菜も残さず食べていく。
拓也も自分の分を食べながら、時々ノエルと話す。ノエルは肉を食べては顔を上げ、何か言って、また皿へ戻る。拓也もそのたびに返事をしながら、自分の夕飯を進めていった。
食べ終わったあと、皿を洗って片づける。
時計を見ると、まだそれほど遅い時間ではない。
「さて、風呂入るか」
「おふろ?」
ノエルが首を傾げた。
「身体洗って、温かいお湯に入るんだよ」
「水浴び?」
「まあ、それの温かいやつみたいな感じ」
「僕も入る!」
「入る?」
「水浴び好き!」
「じゃあ一緒に入るか」
「うん!」
ノエルはすぐに拓也の後ろをついてきた。
脱衣所を抜けて浴室の扉を開けると、ノエルが中を覗き込む。床や壁を見回し、それから奥の浴槽へ視線を向けた。
「ここ?」
「ここ」
拓也が先に浴室へ入り、シャワーを出す。
勢いよく湯が落ちる音に、ノエルの耳が立った。
「これなに?」
「シャワー。これで身体洗う」
手で湯を受けて温度を確かめてから、ノエルの背中へ少しかける。
「わっ!」
「熱くない?」
「大丈夫!」
ノエルは驚いたものの、逃げる様子はなかった。背中へ流れるお湯を気にするように一度振り返り、それからまた前を向く。
拓也は全身の毛を少しずつ濡らしていった。
いつもふわふわに膨らんでいる白い毛が身体へ張りつくと、ノエルの輪郭がはっきりする。
「……なんか小さくなったな」
「小さくないよ!」
「毛がふわふわだから大きく見えてたんだな」
「僕大きいもん!」
「子犬くらいだろ」
「こいぬじゃない!」
「分かってるって」
むっとしたノエルの背中へ、拓也は泡立てたシャンプーを広げていく。
「なにこれ?」
「泡。これで汚れ落とすんだよ」
「ふわふわ!」
「動くなよ」
背中から脇腹、脚の方まで順番に洗っていく。ノエルは最初こそ身体に増えていく泡を気にしていたが、撫でるように洗われるのが嫌ではないらしく、しばらくすると大人しくなった。
「気持ちいい?」
「うん」
「ならよかった」
頭の辺りも洗おうと泡を近づけると、今度はノエルがすぐに顔を引いた。
「やだ!」
「急にどうした」
「顔はやだ!」
「目つぶってれば大丈夫だから」
「やだ!」
「洗わないと汚れ落ちないだろ」
「ちょっとだけ!」
「はいはい。ちょっとだけな」
ノエルがぎゅっと目を閉じる。
拓也は顔に泡が入らないよう気をつけながら、頭から耳の周りを手早く洗った。
「もういい?」
「もういい。流すぞ」
「うん!」
シャワーで泡を落としていくと、ノエルは何度も身体を見回していた。最後まで流し終えると、白い毛はすっかり濡れて身体に張りついている。
「よし。次は湯船な」
「ゆぶね?」
「そこ」
拓也が浴槽を指す。
ノエルは近づくと、ひょいっと身体を伸ばして前脚を縁へかけた。湯気の立つお湯を覗き込み、鼻先を少し近づける。
「ここ入るの?」
「そう」
「熱くない?」
「ちょうどいいよ」
「タクヤも入る?」
「入る」
「じゃあ入る!」
「滑るから気をつけろよ」
拓也が身体を支えながら、ノエルをゆっくり湯船へ入れる。
前脚がお湯につき、続いて身体まで沈む。
「……!」
ノエルが目を丸くした。
「どう?」
「あったかい!」
「だろ?」
「気持ちいい!」
さっきまで落ち着かなかったノエルが、しばらくその場でじっとしている。身体を包むお湯が気に入ったのか、耳まで力が抜けたように少し傾いていた。
拓也も隣へ入り、湯船の縁へ背中を預ける。
「水浴びとは違うだろ」
「うん。あったかい」
「こうやってゆっくり入るんだよ」
「ゆっくり?」
「そう。暴れたりしないで――」
言い終わる前に、ノエルが少し身体を前へ動かした。
次の瞬間、四本の脚を動かして湯船の中を進み始める。
「見て、タクヤ!」
「ちょ、泳ぐな泳ぐな!」
「泳げるよ!」
「泳げるかどうかの話じゃない!」
「なんで?」
「風呂は泳ぐところじゃないから!」
ノエルはまだ動こうとしていたが、拓也に身体を押さえられてようやく止まった。
「えー」
「えーじゃない。大人しく浸かってろ」
「ちょっとだけ?」
「ダメ」
「泳ぐの楽しいのに」
「水浴びする時にやれ」
「じゃあまた今度?」
「また今度な」
それで納得したのか、ノエルはようやく身体の力を抜いた。
湯船の中で拓也のすぐ隣に落ち着き、温かいお湯へ身体を沈める。
しばらくすると、ノエルが小さく息を吐いた。
「……お風呂、好き」
「気に入った?」
「うん!」
今度は泳ごうとせず、ノエルは気持ちよさそうに湯船へ浸かったまま目を細めていた。
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