第7話 初めての夜
「そろそろ上がるか」
「もう?」
「もう結構入っただろ」
「まだ入れるよ」
「のぼせるぞ」
「のぼせる?」
「入りすぎると気持ち悪くなるんだよ」
「えー」
名残惜しそうにしながらも、ノエルは拓也に支えられて湯船から出た。
拓也も身体を拭いてから、先にノエルを脱衣所へ連れていく。白い毛はまだたっぷり水を含んでいて、足元へぽたぽたと水滴が落ちていた。
「ほら、こっち」
大きめのタオルを広げてノエルの身体へかける。
「わっ」
「ちゃんと拭かないとびしょびしょだろ」
背中から脇腹へ、毛を挟むようにして水気を取っていく。ノエルは最初こそタオルに包まれるのを面白そうにしていたが、顔の周りを拭こうとすると少しだけ首を引いた。
「顔はもういいよ」
「まだ濡れてるって」
「お風呂でも洗った」
「それとこれとは別」
「えー」
拓也が耳の辺りを軽く拭いた、その時だった。
ノエルが急に身体へ力を入れる。
「ちょ――」
ぶるぶるっと勢いよく全身を震わせた。
細かい水滴が一気に飛び、拓也の腕や服にまでかかる。
「うわっ! ノエル!」
「なに?」
「飛ばすなって!」
「だって水なくなったよ?」
「俺に全部飛んできたんだよ」
拓也が濡れた腕を見せると、ノエルは一度そこを見てから、少しだけ首を傾げた。
「じゃあタクヤも拭けばいいよ」
「誰のせいだと思ってんだ……」
文句を言いながらも、拓也はもう一度タオルを手に取った。
粗方水気を取ったところで、洗面台の近くに置いてあるドライヤーを持ってくる。
ノエルがすぐに顔を寄せた。
「それなに?」
「これで毛乾かすんだよ」
「これで?」
「風出るから」
「やって!」
「近い近い」
少し離れさせてから、拓也はドライヤーのスイッチを入れた。
ブオッ、と音が鳴る。
「わっ!」
ノエルが一歩後ろへ下がった。
耳がぺたりと伏せ、動き出したドライヤーをじっと見ている。
「びっくりした?」
「音大きい!」
「ちょっとうるさいけど、すぐ慣れるって」
拓也は自分の手へ一度風を当ててから、ノエルの背中へ向けた。
「うわっ」
「熱くない?」
「……大丈夫」
最初は身体を少し低くしていたノエルだったが、温かい風が背中を撫でていくうちに、だんだん逃げなくなった。
拓也が片手で毛を分けながら乾かしていく。濡れて身体へ張りついていた白い毛が、少しずつ元のふわふわした形へ戻っていった。
「どう?」
「んー……」
ノエルは目を細める。
「気持ちいい」
「さっきまでびびってたのに」
「びびってないよ」
「一歩下がってたじゃん」
「あれは音にびっくりしただけ!」
「はいはい」
首の後ろへ風を当てると、ノエルは自分から少し身体を寄せてきた。
「そこもう一回」
「ここ?」
「うん」
「気に入ってるじゃん」
「気持ちいいから!」
背中、脇腹、尻尾まで順番に乾かしていく。最後に頭の周りは風を弱くし、顔へ直接当てないように手早く済ませた。
しばらくすると、濡れて小さく見えていたノエルの身体は、すっかり元のふわふわに戻っていた。
「よし、終わり」
「もう終わり?」
「乾いたからな」
ノエルは自分の身体を見回し、それから尻尾を一度大きく振った。
「ふわふわ!」
「元に戻ったな」
拓也が頭を撫でると、乾いた毛が指の間で柔らかく広がった。
その後はリビングへ戻り、二人でまたテレビを見ることにした。
ノエルはソファへ上がると、昼と同じように拓也のすぐ隣へ座った。画面が切り替わるたびに時々何か聞いてくるものの、もう最初ほどテレビそのものを不思議がることはない。
拓也も適当に返事をしながら、そのまましばらく一緒に眺めていた。
気づけば、時計は十時を少し回っている。
「もうこんな時間か」
「どうしたの?」
「そろそろ寝るぞ」
「え、もう寝るの?」
「もう十時だし」
「まだ遊ぼうよ」
「明日仕事だから、もう寝ないと」
「しごと?」
ノエルが聞き返す。
「明日やらなきゃいけないことがあるんだよ」
「遊べないの?」
「明日はな」
「えー」
「そんな顔してもダメ」
拓也はテレビを消して立ち上がった。
ノエルもすぐにソファから降り、当然のようについてくる。
廊下へ出たところで、拓也はふと足を止めた。
「そういや、ノエルどこで寝る?」
「どこ?」
「俺は寝室で寝るけど」
「僕も行く!」
「じゃあ一緒に寝る?」
「うん!」
迷う様子もない返事に、拓也は少し笑った。
寝室へ入ると、ノエルは先にベッドを見つけた。
「これで寝るの?」
「そう」
「大きい!」
「二人なら十分だろ」
掛け布団をめくるより早く、ノエルがぴょんとベッドへ飛び乗る。
「おい、先行くなって」
ノエルは聞いているのかいないのか、そのまま布団の上を歩き回った。柔らかさを確かめるように前脚で何度か踏み、端まで行ったかと思えばまた戻ってくる。
「ふわふわ!」
「ソファでも同じこと言ってたな」
「こっちの方がふわふわ!」
「分かったから落ち着け」
拓也もベッドへ入り、布団をかける。
ノエルはその横へ入ってきたものの、すぐにはじっとしなかった。拓也の脇へ身体を寄せたかと思えば、今度は足元へ移り、また戻ってくる。
「ノエル」
「なに?」
「寝るんだって」
「まだ眠くない」
「昼寝したからだろ」
「遊ぼうよ」
「俺は眠いの」
「ちょっとだけ」
「ダメ」
「えー」
まだ動こうとするノエルの頭へ、拓也は手を置いた。
そのまま額から耳の間をゆっくり撫でる。
ノエルの動きが止まった。
「……」
「急に静かになったな」
「もっと」
「寝るならな」
「寝る」
「ほんとか?」
「ほんと」
返事をしながら、ノエルは拓也の手へ少し頭を押しつけてくる。
拓也はそのまま何度か撫でてから、今度こそ枕へ頭を戻した。
「じゃ、おやすみ」
「おやすみ?」
「寝る時に言うんだよ」
「じゃあ、おやすみ!」
「おやすみ」
部屋の明かりを消す。
しばらく静かだった。
「タクヤ」
「……ん?」
「面白い話して」
「今?」
「うん」
「寝る時間だって」
「じゃあ明日なにして遊ぶ?」
「明日は仕事」
「朝ご飯は?」
「まだ決めてない」
「肉?」
「ノエル」
「なに?」
「寝よう」
「まだ眠くない」
「俺は眠いんだよ……」
暗い部屋の中で、ノエルが少し身体を寄せてくる。
拓也は目を閉じたまま、もう一度その頭を撫でた。
「明日も話せるから」
「ほんと?」
「ほんと。だから今日はもう寝るぞ」
「……はーい」
ようやく返事が返ってきた。
拓也が手を止めても、今度はすぐに声が飛んでこない。
隣から伝わる小さな気配を感じながら、拓也もそのまま目を閉じていた。
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