第55話 初めての旅館
昼食を終えると、拓也たちはもう一度ゲレンデへ戻った。
午後になっても、リカとノエルの勝負は終わらなかった。
リフトで上へ行っては一緒に滑り、下まで着けばどちらが速かったかで言い合う。ノエルはすっかり氷の道を作って滑ることに慣れ、斜面に合わせて曲がりながら進んでいく。リカも負けじとその横を滑っていた。
何度か休憩を挟みながら滑っているうちに、空は少しずつ暗くなっていった。
「そろそろ終わりにするか」
拓也が声をかけると、リカがすぐに振り返った。
「もう?」
「明日も滑れるしな」
「あ、そっか!」
「明日も勝負する!」
ノエルが嬉しそうに言う。
「する! 明日はリカが勝つ!」
「僕が勝つよ!」
まだ元気な声を聞きながら、拓也も板を外した。
着替えや荷物をまとめ、スキー場を出る頃には、辺りは夕方の色になっていた。
駐車場へ戻ると、直樹と美咲が自分たちの車へ向かう。その横で、リカは迷うことなく拓也の車へ歩いてきた。
「リカ、また拓也くんの車に乗るの?」
美咲が聞く。
「乗る! ノエルと行く!」
「僕もリカと行く!」
ノエルもすぐに答えた。
美咲は少し笑う。
「じゃあ旅館でね」
「うん!」
前を走る直樹たちの車に続いて、拓也も車を出した。
助手席ではリカが座るとすぐに両手を広げ、ノエルがその膝の上へ乗る。朝と同じ位置に収まると、リカはさっそくノエルへ顔を向けた。
「ノエル、旅館泊まったことある?」
「ないよ。ホテルはある!」
「旅館はね、畳の部屋なんだよ!」
「たたみ?」
「緑っぽい床!」
ノエルが少し首を傾げる。
「床?」
「あと、ベッドじゃなくて布団で寝るの!」
「ふとん?」
「床に敷いて寝るやつ!」
「へえ!」
ノエルはまだよく分かっていないようだったが、声は楽しそうだった。
「温泉もあるよ!」
「温泉!」
「外のお風呂もあるかも!」
「露天風呂?」
「そう、それ!」
前回の旅行で覚えた言葉が出ると、ノエルが嬉しそうに顔を上げた。
「また入れる?」
「旅館にあるって書いてあったよ」
拓也が前を見たまま答える。
「やった!」
「リカも入る!」
「一緒には入れないけどな」
「分かってるもん」
リカが少し口を尖らせたあと、すぐにノエルを見る。
「明日も朝から滑れるし、今日泊まるの楽しみ!」
「僕も!」
リカとノエルはそれからも旅館の話をしながら、窓の外を見ていた。
スキー場を離れてしばらく走ると、建物の数が減り、道の両側に雪の積もった木々が増えていく。
やがて前を走っていた直樹の車が速度を落とした。
その先に、何階かある大きな建物が見えてくる。屋根や玄関まわりには木が使われ、明かりのついた入口には大きな暖簾が下がっていた。周りには雪が積もり、前に泊まったホテルとはまた違う和風の雰囲気がある。
「あれ?」
リカが身を乗り出す。
「旅館!」
「ここ!?」
「たぶんな」
直樹の車が駐車場へ入っていく。拓也もその後に続いた。
車を停めると、ノエルとリカがすぐに外へ出る。
「着いた!」
「旅館!」
拓也も荷物を下ろし、直樹たちと合流して玄関へ向かった。
暖簾をくぐって中へ入ると、外の冷たい空気から一気に暖かくなる。中は思っていたより広く、正面にはフロントがあり、その近くにはソファが並んでいる。木を使った柱や暖色の照明で、前のホテルとは雰囲気がかなり違っていた。
受付を済ませる間も、ノエルは周りを見回していた。
手続きを終えると、部屋は二つに分かれることになった。
「じゃあ、俺とノエルはこっちか」
拓也が部屋番号を確認する。
「リカは?」
「リカはお父さんとお母さんと一緒だよ」
美咲が答えると、リカがすぐにノエルを見た。
「ノエルと同じ部屋がよかった」
「僕もリカと一緒がよかった!」
「夕ご飯の時また会えるでしょ」
「またすぐ会えるって」
直樹も続ける。
リカは少しだけ残念そうにしていたが、やがて頷いた。
「じゃあ夕ご飯で会おうね」
「うん!」
そこでいったん別れ、拓也とノエルは自分たちの部屋へ向かった。
部屋の入口で靴を脱ぎ、引き戸を開けると、中には畳の和室が広がっていた。中央には低い座卓と座椅子が置かれ、奥の窓際には小さな椅子とテーブルがある。ベッドは見当たらない。
「あ、これ畳!」
ノエルがすぐに足元を見る。
「リカが言ってたやつだな」
「うん!」
さっき教えてもらったことを思い出したのか、嬉しそうに部屋の中を見回す。
「ほんとにベッドない!」
「旅館は布団だからな」
「どこに?」
「この辺じゃない?」
拓也が畳の上を示すと、ノエルもその場所を見る。
「ここで寝るの?」
「そう」
「タクヤも?」
「もちろん」
「じゃあ一緒だ!」
ノエルの尻尾が大きく動いた。
「家でも一緒じゃん」
「でも布団は初めて!」
「それはそうだな」
拓也は荷物を部屋の端へ置き、座椅子へ腰を下ろした。
一日滑ったあとの脚に、ようやく疲れを感じる。
ノエルはまだ元気そうに部屋の中を見ていたが、少しすると拓也の近くまで来て、そのまま畳の上へ伏せた。
窓の外には雪が積もっている。日が落ちかけた空の下で、白い景色が薄暗くなり始めていた。
拓也はそこを眺めながら、少し前の旅行を思い出す。
ノエルと海へ行ってホテルに泊まったのは、まだそんなに前のことではない。それなのに今度は兄貴たちとスキーへ来て、またこうして宿に泊まっている。
会社へ通っていた頃なら、こんな生活になるとは思ってもいなかった。
なんだか贅沢だな、と拓也は思った。
「タクヤ」
「ん?」
「ここも楽しいね!」
ノエルが顔を上げる。
「そうだな」
拓也は少し笑った。
「少し休んだら温泉行くか」
「行く!」
さっきまで伏せていたノエルが、すぐに身体を起こした。
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