第35話 温泉
部屋でしばらくゆっくりしているうちに、拓也の身体から歩き回った疲れも少し抜けてきた。海を眺めたり、ノエルと話したりしながら過ごしていると、時間も少し進んでいた。
拓也は椅子から立ち上がり、時計を見る。
「そろそろ温泉行くか」
窓際にいたノエルがすぐに振り返った。
「行く!」
「じゃあ準備するか」
拓也は着替えとタオルをまとめる。ノエルはその間も近くをうろうろしていたが、部屋を出る直前になって、拓也はふと思い出した。
「ノエル」
「なに?」
「今日は絶対泳ぐなよ」
「……なんで?」
「他の人もいるから。家の風呂みたいに好きに動いたら迷惑になるだろ」
ノエルは少し考えてから頷いた。
「泳がない!」
「よし」
二人で部屋を出て、エレベーターで二階まで下りる。大浴場の入口には暖簾が掛かっていて、その先に脱衣所があった。ロッカーへ荷物を入れ、拓也も準備を済ませて浴室へ入る。
中は家の風呂とは比べものにならないくらい広かった。壁際には洗い場がいくつも並び、その奥に大きな湯船がある。さらに先には外へ続く扉も見えた。
「広い!」
「これが温泉だよ」
ノエルは浴室の奥まで見回したあと、拓也のところへ戻ってくる。
「先に洗うぞ」
「うん!」
空いている洗い場へ行き、拓也はシャワーを出した。ノエルの背中へお湯をかけると、白い毛がすぐに身体へ張りついていく。背中から脇腹、脚の方まで順番に濡らした。
「ちょっと小さくなったな」
「小さくない!」
「やっぱ濡れると細いんだよな」
「僕大きいもん!」
「分かった分かった」
拓也は笑いながらシャンプーを泡立て、ノエルの身体を洗っていく。ノエルは背中を洗われている間は大人しくしていたが、拓也が頭の方へ手を伸ばすと、少しだけ顔を引く。
「顔も洗うぞ」
「ちょっとだけね」
「はいはい」
目や鼻の周りに入らないよう手早く洗い、最後にシャワーで泡を流す。
「よし。俺も洗うから待ってて」
「うん」
拓也も身体を洗い終えると、二人で一番大きな湯船へ向かった。湯気の立つお湯へ足を入れる。
「……あー」
肩まで浸かると、思わず声が漏れた。
「やっぱ気持ちいいな」
ノエルも拓也に支えられながら湯船へ入り、そのすぐ横で身体を沈める。
「あったかい!」
「家より広いだろ」
「うん!」
ノエルは辺りを見回していたが、今日は脚を動かして泳ぎ始めることはなかった。代わりに少しずつ拓也の近くまで寄り、そのまま湯へ浸かる。
二人ともすぐには動かず、しばらく大きな湯船で身体を温めた。歩いたあとの脚までじんわり軽くなっていく。拓也は湯船の縁へ背中を預けたまま、長く息を吐いた。
「……来てよかった」
ノエルが隣から顔を向ける。
「気持ちいい?」
「うん。かなり」
少ししてから湯船を出ると、拓也は奥の扉へ向かった。
「次、外行ってみるか」
「外でお風呂入るやつ?」
「そうそう」
扉を開けると、少し冷たい空気が入ってくる。その先には露天風呂があり、湯船の向こうには海が広がっていた。
「うわあ!」
「……これこれ」
拓也もすぐに湯船へ入る。外の空気は少し涼しいのに、身体はお湯に包まれている。正面には海があり、部屋の窓から見ていた時よりも空まで大きく見えた。
ノエルも隣へ入ると、しばらく何も言わず海の方を見ていた。
「タクヤ」
「ん?」
「外なのにあったかい」
「最高だよな」
ノエルはもう一度海を見る。拓也も湯船の縁に腕を置き、そのまましばらく景色を眺めていた。
露天風呂を出たあと、拓也は浴室の端にあるサウナへ向かう。
「ここも入るの?」
「サウナ。中めちゃくちゃ暑いぞ」
「僕も行く!」
「無理そうならすぐ出ろよ」
「大丈夫!」
扉を開けて中へ入ると、一気に熱い空気に包まれた。
「……あつい!」
「無理しなくていいぞ」
拓也は空いている場所へ座り、ノエルもその近くで伏せた。最初は周りを見ていたノエルも、少しすると口を開けて息をし始める。
「タクヤ、まだ?」
「俺はもうちょい」
「じゃあ僕もいる」
「無理すんなよ」
ノエルは頷いたが、それから少し経つと自分から立ち上がった。
「やっぱ出る!」
「俺も出るか」
二人でサウナを出ると、拓也は汗を流してそのまま水風呂へ向かった。ノエルも当然のようについてくる。
「これも入る?」
「入るけど、冷たいぞ」
拓也が先に足を入れる。
「っ、冷た……!」
それを見たノエルもそっと前脚を入れた。
「冷たい!」
「無理ならやめとけよ」
「入る!」
ノエルは意を決したように身体を沈めた。
「つめたっ!」
すぐに身体を縮めるようにしたが、それでも拓也の横から離れない。
しばらくして二人で水風呂を出ると、近くの椅子へ移った。火照っていた身体から熱がゆっくり引いていく。
「……なんか気持ちいい」
「だろ?」
ノエルも伏せたまま、しばらく動かなかった。
そのあともう一度内湯へ入り、最後に露天風呂にも戻った。さっきよりゆっくり湯へ浸かり、海を眺める。拓也も時間を気にせず、久しぶりの温泉を十分楽しんでから立ち上がった。
「そろそろ上がるか」
「もう?」
「明日も入れるしな」
ノエルは少し名残惜しそうに海を見たあと、拓也について湯船を出た。
脱衣所へ戻ると、拓也はまず大きなタオルをノエルへ掛ける。
「ちゃんと拭くぞ」
「うん」
背中から脇腹、脚の方まで、毛を挟むようにして水気を取っていく。途中でノエルが身体を震わせようとしたので、拓也はすぐに止めた。
「ちょっと待って。ここではやめとけ」
「なんで?」
「周りに飛ぶだろ」
ノエルは動きを止める。拓也はそのまま残った水気を取ったが、毛の奥はまだ湿っている。洗面台の近くにあったドライヤーを使い、背中から順番に温かい風を当てていく。
少しすると、ノエルは自分から首の後ろを拓也の方へ向けた。
「そこ?」
「うん」
「はいはい」
しばらく乾かしていると、張りついていた白い毛がまたふわふわに戻っていく。
「よし。終わり」
ノエルは自分の身体を見回し、尻尾を一度振った。二人とも服を着て大浴場を出ると、廊下でノエルが一度立ち止まった。
「タクヤ」
「ん?」
「アイス」
「ああ。俺も食いたいし、買ってくか」
「やった!」
そのまま一階まで下り、さっき館内案内で見たラウンジへ向かった。写真に載っていたアイスクリームが並んでいる。拓也も自分の分を一つ選び、ノエルの分と一緒に買った。
近くの席へ座り、二人で食べ始める。
「おいしい!」
「風呂上がりにアイス、いいな……」
冷たい甘さが、温泉でまだ少し火照っている身体にちょうどよかった。拓也は残っていたアイスを口に入れ、そのまま椅子の背へ少し身体を預ける。
温泉のあとの身体はまだ温かく、隣ではノエルが最後までアイスを食べていた。
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