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勇者の称号を剥奪されたので、国境で食堂を始めました 〜人間の平和を守った勇者が、世界の平和を作るまで〜  作者: よみまる


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第9話 癒しの手の限界

 リリアが指を離すと、少年の額から汗が一筋流れた。


少年「……痛くない」

リリア「動かしてみて。ゆっくりでいいから」


 王都の教会にある治療室。寝台の少年は、恐る恐る右手を握った。さっきまで曲げられなかった指が、ぎこちなく掌へ収まる。


少年「動く!」


 付き添いの父親が身を乗り出した。リリアはほっと息を吐き、寝台の端に手をつく。


 夕方、少年は壊れた木箱から突き出た釘で、手のひらを深く切って運ばれてきた。止血は済んでいたが、傷の周りが腫れ、指を動かすだけで涙をこぼしていた。


 リリアの回復魔法が届いたのは、傷の浅い部分と、痛みを強くしていた炎症の一部だった。


リリア「まだ終わりじゃないよ。包帯は外さないで、明日も診せてね」

少年「もう治ったんじゃないの?」

リリア「動くようにはなった。でも、傷が全部閉じたわけじゃないから」

少年「……じゃあ、もう一回光らせて」

リリア「それは、ちょっと困るかな」


 笑って答えた途端、膝がわずかに揺れた。


 魔力を使いすぎた。指先が冷たくなり、胸の奥が空っぽになったように感じる。


父親「先生、大丈夫ですか」

リリア「はい。座れば戻ります。……先生というほどでもないですけど」

少年「じゃあ、お姉ちゃん?」

リリア「それなら大丈夫」


 少年が笑ったので、リリアも笑った。


     ◇


 笑っていられたのは、包帯を替えるまでだった。


 年配の医師が、少年の傷を明かりに向けた。赤みの引いた皮膚の奥に、小さな黒いものが残っている。


医師「リリア。これを見てごらん」

リリア「……木の欠片、ですか」

医師「そうだと思う。釘が突き出ていた木箱の破片だろう。傷の中に異物が残っていれば、表面だけ癒やしても具合が悪くなる」


 リリアは息をのんだ。


リリア「私、傷を閉じようとしていました」

医師「途中で止めたのはよかった。ここからは洗浄と処置が必要だ。君の魔法だけに任せるわけにはいかないよ」


 医師は少年と父親に説明し、同意を得てから清潔な器具を準備した。


 リリアは手を貸したが、器具の並べ方ひとつにも迷った。どの布を傷に当て、何を別にしておくべきなのか、年配の医師に確かめながら動く。


リリア「回復魔法の練習なら、何度もしてきたのに」

医師「それで助かった痛みもある。指が動くようになったのは、君の仕事だよ」

リリア「でも、木片には気づけませんでした」

医師「なら、次は気づくことだ。知らないまま治ったと言わなかったのは、大事なことだよ」


 処置を終えると、少年は新しい包帯を巻かれた手を大事そうに胸へ抱えた。


少年「明日も、お姉ちゃんがいる?」

リリア「いるよ。今度はちゃんと、先生と一緒に診るから」


 その言葉に、医師が静かに頷いた。


     ◇


 治療室を出ると、廊下でセシリアが待っていた。


セシリア「その顔は、うまくいった半分と、うまくいかなかった半分ね」

リリア「……顔に出ていますか」

セシリア「ええ。とても」


 セシリアはリリアの手に水の入った杯を渡した。


セシリア「先に飲んで。魔力を使ったあとでしょう」

リリア「ありがとうございます」


 杯を空にする間、リリアは少年のことを話した。


リリア「傷の痛みは和らげられました。でも、木片が残っているのが見えなくて。危うく、表面だけを閉じるところでした」

セシリア「医師が処置したのね」

リリア「はい。私には、洗い方も道具の扱いも、知らないことが多すぎます」


 セシリアは責めなかった。


セシリア「回復魔法が得意なのは、あなたの強みよ。けれど、痛みが消えることと、傷が治りきることは同じじゃない」

リリア「……はい」

セシリア「ところで、お昼は?」

リリア「食べました」

セシリア「何を?」

リリア「パンを……半分」

セシリア「それを食べたとは言わないわね」

リリア「残りは今から食べます」

セシリア「よろしい」


 以前、似たようなやり取りを別の誰かとした気がする。セシリアは一瞬だけ口元を緩めた。


 そのとき、廊下の奥から教会の事務官が歩いてきた。


事務官「大聖女様。西方の巡回救護について、定期報告の控えをお持ちしました」


 セシリアは受け取り、立ったまま目を通した。


 西の町から王都へ、数日前の定期便で送られたものだ。途中の中継を経て、今日ようやく届いた。個人の手紙ではなく、西方の救護所が毎週まとめている報告だった。


セシリア「……清潔な布が不足。治癒術師の巡回は先月から途絶えている」

事務官「戦時中の担当者が戻らず、手当ての経験がある人も足りないそうです。町の施設で受け入れられる人数にも限りがあります」


 報告には、国境周辺の患者が移動できない場合の対応先が空欄になっていた。


 リリアは少年の手のひらを思い出した。傷の中に残った小さな木片。王都では、医師が隣の部屋から来てくれた。


リリア「向こうでは、誰が傷の中を確かめるんですか」

事務官「そこが、まだ決まっていません」


 セシリアが紙を伏せた。


セシリア「今ある救護所で、臨時に受け入れられる場所は?」

事務官「西の町の教会施設なら一室使えます。石橋手前の集落には常設の治療室はありません」

セシリア「西の町の窓口に、すぐ確認を。患者を待たせず、巡回に出られる人員が要るわ」


 リリアは杯を両手で持ち直した。


リリア「……私が行きたいです」


     ◇


 セシリアはすぐには頷かなかった。


セシリア「リリア。あなたの魔法は頼りになる。でも、さっき自分で言ったでしょう。知らないことが多いと」

リリア「はい。だから、一人で治せるとは言いません。処置のできる人を探して、一緒に診ます」

セシリア「現地で見つからなかったら?」

リリア「治せる範囲だけを伝えます。必要なら町の医師へ相談する。……少なくとも、何も見ないうちに『治ります』とは言いません」


 言い終えると、急に心細くなった。王都の治療室なら、わからないことを医師に尋ねられる。国境では、そうはいかないかもしれない。


リリア「怖くないわけじゃありません」

セシリア「そうでしょうね」

リリア「でも、向こうの人は、もう待っているんですよね」


 セシリアは報告の空欄をもう一度見た。


セシリア「……わかったわ。臨時救護の派遣を出します。あなたに担当してもらう」


 事務官が筆を取った。


セシリア「期間はまず十日間。王都から西の町までは教会の定期馬車で移動し、着いてから町の教会施設を拠点に周辺を巡回。旅費、宿泊費、給与は教会の救護費から出します」

事務官「出発は?」

セシリア「明後日の朝便に乗せます。道中の日数は予定表どおり確保して。現地には先行便で受け入れを知らせてください」


 リリアの胸が強く鳴った。


セシリア「清潔な布と洗浄用の水袋、包帯、記録用紙。それから、現地の医師や薬師と連絡を取れる紹介状を持っていきなさい。使い慣れていない器具を、形だけ揃えて持っていく必要はないわ」

リリア「わかりました」

セシリア「患者を診る前には必ず同意を取ること。種族を理由に診る相手を選ばないこと。できない処置は、できないと言うこと」

リリア「はい」

セシリア「それから」

リリア「まだありますか」

セシリア「食事を抜かないこと」

リリア「……そこまで辞令に書くんですか」

セシリア「書いた方が守りそうなら、書くわよ」


 リリアは思わず笑った。


 事務官は派遣状に印を押した。リリアの名、十日間の任務、旅費の支給、出発する便。必要なことが一枚の紙に揃った。


 セシリアはそれを手渡した。


セシリア「行ってらっしゃい。帰ってきたら、何が必要だったか教えて」

リリア「はい。必ず」


     ◇


 翌日、王都の教会の倉庫で、リリアは布の束を数えていた。


 薬草の包みを見ても、まだ種類と使い道がすべてわかるわけではない。年配の医師から渡された簡単な手引きを開き、持っていくものと現地で確かめるものを分けた。


 昨日治療した少年が、父親と一緒に挨拶に来た。


少年「お姉ちゃん、明日いないの?」

リリア「少し遠くで、怪我をした人を診てくるの」

少年「じゃあ、これ」


 少年は包帯の巻かれていない方の手で、小さな焼き菓子を差し出した。


父親「お礼にと思って。診ていただいた先生にも渡してきました」

リリア「ありがとうございます。……ちょうど、お腹がすいていたところです」

少年「お昼、半分しか食べてなかったんでしょ?」

リリア「誰から聞いたの?」

少年「大聖女様」


 リリアは天井を見上げた。


 明朝、馬車は王都を発つ。到着には何日もかかる。その間に患者の傷がどう変わるか、まだわからない。


 同じ日の夕方、西の町の教会窓口には別の知らせが届いた。


 石橋手前の集落から歩いてきた運び屋が差し出したのは、年配の薬師の署名がある診療依頼だった。足を深く切った患者に熱が続き、移動させる前に往診の費用と可否を知りたいという。


 受付係は依頼を開き、赤く印をつけた。


受付係「……巡回の治癒術師が必要だわ」


 王都からの先行連絡は、まだその窓口には届いていない。


 けれど、患者の側から来た紙には、もう待てない理由が書かれていた。

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