第10話 違う治し方
王都を発って五日目の夕方、リリアは西の町の門をくぐった。
教会の定期馬車は途中の宿場で二度荷を積み替え、雨でぬかるんだ道では半日ほど足止めされた。座りっぱなしの腰より先に、医療鞄を抱えた腕が痛くなった。
リリア「……着いた」
御者「そっちの荷物、降ろすぞ」
リリア「はい。あ、それは下に置かないでください。包帯が入ってます」
御者「最初に言ってくれて助かったよ」
リリアは慌てて鞄を受け取った。
西の町の教会は、王都の建物よりずっと小さかった。廊下の奥にある一室が、今回の臨時救護の拠点になる。寝台は二つ。戸棚には空いた棚板が目立った。
受付係は派遣状を読むと、ほっと肩の力を抜いた。
受付係「本当に来てくれたんですね。先行連絡は昨日届いたんですけど、馬車が遅れていないか心配で」
リリア「予定より少し遅れました。今からできることはありますか」
受付係「まず、これを」
渡された紙には、足を深く切った荷運びの男について書かれていた。薬師の署名、続く発熱、往診の希望。無断で移送しないこと。数日前に石橋手前の集落から運ばれてきた依頼だという。
リリア「この人、今どこに?」
受付係「国境近くの荷置き小屋です。返信の便を待たせてあります。ただ、町から行くには道が悪くて」
リリア「傷を診た薬師さんには、連絡できますか」
受付係「集落の方です。今朝、別の運び手から伝言が届きました。熱はいったん下がったけれど、まだ足は腫れていて、歩かせていないそうです」
リリアは紙をもう一度見た。
患者が何日もただ待っていたわけではない。それでも、よくなったという報告ではなかった。
リリア「私が行きます。明日の朝に出れば、集落までは?」
受付係「町を出てから一日半ほどを見てください。荷車は途中で止まります」
リリア「わかりました。薬師さんにも会えるよう、今いる運び手の方に伝えてもらえますか」
受付係「帰りの便で伝えます。費用は臨時救護の旅費から出せます。ただし、患者を町へ運ぶ費用は、本人の了承が必要です」
リリア「はい。私が勝手に決めません」
受付係は、部屋の端に小さな包みを置いた。
受付係「夕食です。冷めないうちにどうぞ」
リリア「……そんなに顔に出てますか」
受付係「お腹の音は、廊下でも聞こえました」
リリアは鞄を下ろした。
◇
そのころ、魔族領側の荷置き小屋では、ノエラが男の足元にしゃがんでいた。
集落の薬師は朝晩に様子を見に来ていた。最初の夜から続いた熱は、処置と休養を重ねて少し下がった。だが、傷の周囲にはまだ赤みがあり、立とうとすると男は顔をしかめる。
負傷者「もう五日も寝てる気がするぞ」
ノエラ「もっと前から寝てるよ」
負傷者「正直すぎないか」
ノエラ「起きて荷を担がれたら困るもの」
ノエラは薬師から渡された残りの清潔な布を数えた。昨日洗ったものはまだ乾ききっていない。薬草の包みも、底が見えている。
薬師「熱が下がったからといって、安心するのは早いよ」
ノエラ「わかってる。でも町から返事が来なかったら、次にどうするか……」
薬師「そのときは、今ある手で見続けるしかない。ただし、悪くなれば運ぶ危険と、ここで待つ危険を本人に説明する」
男は寝台の上から口を挟んだ。
負傷者「話すときは、俺にも聞こえるところでな」
ノエラ「もちろん」
小屋の外ではミーナが籠の蓋を閉めていた。売り物にする乾いた香草の一部を、ノエラが必要だと言った分だけ、代金を受け取って渡したところだった。
ミーナ「次は、ちゃんと必要な量を先に言って」
ノエラ「ごめん。足りなくなるのが怖くて」
ミーナ「だからって、全部持っていったら私が売るものなくなるでしょ」
ノエラ「……うん。それは困る」
ミーナは視線をそらした。
ミーナ「困るってわかってるなら、いいけど」
◇
リリアが石橋手前の集落に着いたのは、西の町を出て二日目の昼過ぎだった。
町の教会から紹介された徒歩の案内人に礼を払い、村の端で待っていた年配の薬師に会う。道の傷んだ場所は、案内人が手前で足を止めて教えてくれた。
薬師「魔族の患者だと聞いてるね」
リリア「はい。本人が診察を望んでいるとも聞いています」
薬師「なら、私からも状態を話そう。熱は一時より落ちた。けれど深い傷でね。今は無理に歩かせられない」
リリア「これまでの処置を教えてください。傷を見てから、何ができるか考えます」
薬師は頷いた。
崩れた排水溝を避ける細道では、鞄が膝に当たった。荷車が通れないのも納得できる。リリアは一度足を滑らせ、案内人が差し出した手を借りた。
リリア「……患者さんのところに着く前に、私が包帯を使うところでした」
薬師「笑っていられるうちは大丈夫さ。足元は見ておくれ」
旧村へ続く道の脇に、小さな食堂があった。
入口の看板には『食堂』とだけ書かれている。
リリア「……本当に、それだけなんですね」
扉を開けると、鉄鍋から香ばしい匂いが流れてきた。
レオン「いらっしゃいませ」
リリア「すみません。持ち運べる食事と、水をお願いできますか。荷置き小屋へ行く途中なんです」
レオン「小屋なら、怪我をした人のところですか」
リリア「……はい。西の町の教会から来ました。診療の依頼を受けています」
レオンは驚いた顔をしたが、すぐに厨房へ戻った。
レオン「だったら、食べやすい方がいいな。今日は薄い麦の焼き物があります。石橋の集落で買えた根菜を細く切って、少し油で焼いたものです」
リリア「一つください。ここで食べていきます」
レオン「先に食べていきますか」
リリア「……そうした方がいいですか」
レオン「歩きながら熱いものを食べるのは難しいですよ」
リリアは椅子に座った。
焼きたての麦生地は縁がかりっとしていて、中の根菜は甘かった。塩気は控えめだが、よく噛むと香りが広がる。
リリア「おいしい……」
レオン「ありがとうございます」
リリア「もう一つ、同じものを包んでもらえますか。小屋にいる人たちの分も、必要なら買いたいんです」
レオン「今残っているのは一つだけです。追加なら夕方に。材料も少なくて」
リリア「では、ある分で十分です」
リリアが代金を払うと、レオンは持ち運び用の紙で焼き物を包んだ。
レオン「小屋では、ノエラという人が手当てをしています。薬師さんも一緒なら、わかると思います」
リリア「ええ。まず、今までの処置を聞きます」
◇
小屋の入口で、ノエラがリリアの前に立った。
ノエラ「……人間の治癒術師?」
リリア「リリアです。西の町の教会から来ました。依頼を見て、診察に来ました」
ノエラ「私はノエラ。この人の手当てをしてる。……勝手に連れていくつもりなら、先に言って」
リリア「連れていくかどうかは、傷を見てから本人と相談します」
ノエラは一瞬、返事に迷った。
ノエラ「じゃあ、中へ。まず本人に聞いて」
男は上体を起こしかけたが、薬師に止められた。
負傷者「町から来た人か。俺の足、見てくれるんだな」
リリア「はい。まず診察をして、それから魔法を使っていいか相談させてください」
負傷者「治るのか?」
リリア「まだ、言い切れません。傷の状態によります」
男はため息をついた。
負傷者「みんな、それを言うな」
ノエラ「治るって嘘をつかれるよりいいでしょ」
負傷者「……まあな」
薬師が布を外し、これまでの処置を説明した。ノエラは足先の色の変化と、赤みが広がった日付を記した紙を見せる。
リリア「こんなに細かく見ていたんですか」
ノエラ「毎日、同じところを見ないと変わったかどうかわからないから」
リリアは傷を見つめた。
深いところはまだ塞がっていない。熱は少し下がったとはいえ、腫れは残っている。リリアは王都の少年の手のひらを思い出した。
リリア「傷の表面を閉じるのは、今は避けたいです。中に汚れが残っていたら危険なので」
ノエラ「閉じないで。昨日ようやく、奥の様子が少し見えるようになったところなんだから」
リリア「はい。だから、痛みと腫れを少し和らげることだけ試せるかもしれません」
ノエラ「『かもしれない』で魔法をかけるの?」
声が鋭くなった。
リリア「効果と危険を説明して、本人が望むならです。ここでできない処置はしません」
ノエラ「……私は、この人の足を何日も見てきた。今日来た人に、急に触られるのは怖い」
リリア「その気持ちはわかります。でも、痛みを減らせるなら、試す価値はあります」
薬師が二人の間へ静かに口を挟んだ。
薬師「決めるのは、この人だよ」
男は二人を見比べた。
負傷者「夜、痛くて寝られない。それが少し楽になるなら、やってほしい。傷を閉じないって約束してくれるなら」
リリア「約束します。途中でつらくなったら止めます」
ノエラ「……私がそばで見ててもいい?」
負傷者「いてくれ。いつもどおりにな」
リリアは傷に直接触れず、手をかざした。
淡い光が掌の下で揺れ、ゆっくり足首の周りへ広がる。痛みを抑えようと魔力を流すと、男の強張った眉が少しずつ緩んだ。
負傷者「……さっきより、楽だ」
リリアはそこで手を引いた。
指先に冷たさが走る。これ以上は無理をしない方がいい。
リリア「少しだけです。傷そのものは、まだ治っていません」
ノエラは男の顔と足を交互に見た。
ノエラ「……寝られそう?」
負傷者「今なら、ちょっと眠れそうだ」
その声を聞いて、ノエラの肩が下がった。
◇
外へ出ると、日が傾き始めていた。
リリアは石に腰掛け、水を飲んだ。薬師は薬袋を数え、ノエラは傷の記録を折り畳んでいる。
リリア「……あの記録、助かりました。熱が下がった日だけじゃなく、足の色まで書いてあって」
ノエラ「母さんが、毎日見るところを決めろって教えてくれたの」
リリア「私には、まだそこまでできません」
ノエラ「私は、あんなふうに痛みを取れない」
短い沈黙が落ちた。
リリア「それでも、傷の奥がどうなっているかは、私にもわかりません。薬師さんの判断も必要です」
ノエラ「……魔法をかければ終わり、とは言わないんだね」
リリア「昨日までの私なら、少しは思っていたかもしれません」
ノエラは首をかしげた。
ノエラ「それ、言っていいの?」
リリア「言わない方がよかったですか」
ノエラ「……別に」
小屋の中から、男の寝息が小さく聞こえた。
薬師「今夜は、あの人が休めるだけでも違う。だが、傷の赤みがまた広がるようなら、次の判断を急がなきゃならない」
リリア「西の町の医師にも、診察結果を送ります。必要なら、移送の危険と手段を本人に説明して相談します」
ノエラ「その前に、私にも知らせて。今までの経過なら話せるから」
リリア「はい。お願いします」
ノエラはすぐには頷かなかった。
ノエラ「……まだ、あなたを信用したわけじゃないから」
リリア「わかっています」
その答えに、ノエラは少しだけ眉を寄せた。
ノエラ「じゃあ、明日もここへ来る?」
リリア「来ます。患者さんが望むなら」
小屋の戸が、風で小さく鳴った。
眠っている男の足には、まだ深い傷が残っている。
違う手で治す二人が、明日も同じ場所へ来なければならない理由は、それだけで十分だった。




