第11話 魔法では消えない傷
翌朝、リリアは借りた寝台で目を覚ました。
石橋の手前の集落で、布を縫っている女が一晩だけ空き部屋を貸してくれた。宿代は教会から渡された旅費の中から払っている。
窓の外には畑が見えた。王都の教会で目にする整った庭とは違い、土の畝が朝露に濡れている。
リリア「……今日は、転ばないようにしないと」
昨日、排水溝の脇で足を滑らせたことを思い出す。鞄の中の包帯を数え直し、寝台の端に置いた派遣状を畳んだ。
西の町を拠点にする救護活動は十日間。王都からの往路五日と、帰りの旅程は含まれない。町に着いた翌日から数えて、今日は現地活動の三日目だ。十日が終われば帰還し、延ばすなら改めて許可を得なければならない。
昨日の患者を、今日も診る。そのために残った朝だった。
◇
荷置き小屋に入る前、ノエラがリリアの足元を見た。
ノエラ「靴、泥だらけ」
リリア「昨日の道で。診察には関係ないと思っていました」
ノエラ「中へ入る前に落として。床に敷いた布を汚したくないから」
リリア「……わかりました」
リリアは入口で靴底を拭った。
言い方は少し刺さった。でも、床には洗った布が敷かれている。昨日まではなかったものだ。
負傷した荷運びの男は、薄い毛布を胸まで掛けていた。年配の薬師が水を運んでいる。
負傷者「おう。昨日の光るお嬢さんか」
リリア「……その呼び方、長くなりませんか」
負傷者「名前を覚えるより早い」
リリア「リリアです」
負傷者「じゃあ、リリア。昨日は久しぶりに眠れた」
笑った男の額には、まだ汗が浮かんでいる。
ノエラ「朝の熱は昨日とあまり変わらない。足先は動く。でも、腫れたところの色が濃くなってる」
ノエラは記録を差し出した。日ごとに小さな印があり、熱が上がった時刻も書き添えられている。
リリア「痛みを和らげた後の変化まで、記録してくれたんですね」
ノエラ「眠れたからって、傷が治ったわけじゃないもの」
昨日、自分も同じことを言ったはずだ。だが、ノエラの口から聞くと、別の重さがあった。
◇
薬師が男へ、今日の診察について説明した。
薬師「昨日より奥の状態を確かめたい。辛ければ途中で止める。いいかい」
負傷者「頼む。……ただ、足はまだ動かしたくない」
ノエラ「無理には動かさない」
包帯が外されると、男の顔が強張った。リリアは目をそらさなかった。
傷の周りは赤く腫れている。外から見える部分だけで、奥に何が残っているかはわからない。
リリア「痛みを抑えれば、診察は少し楽になります。ただし、傷を塞ぐ魔法は使いません」
ノエラ「待って。今どこが一番痛いか、先に聞きたい」
リリア「でも、苦しそうです」
ノエラ「痛い場所が変わっているなら、薬師さんにも見てほしいから」
言い返しかけて、リリアは男を見た。
自分が楽にしてあげたいと思うことと、今知る必要があることは、同じではない。
リリア「……そうですね。先に確かめましょう」
ノエラは男に場所を指してもらい、昨日の印と比べた。薬師が腫れの様子を見て、小さく頷く。
薬師「赤みは一部、広がっていない。だが、奥の痛みは残っているね。今から行う手当ての間だけでも楽にできるなら助かる」
リリアは改めて男へ向き直った。
リリア「痛みを少し和らげる魔法を使ってもいいですか。変な感じがしたら、すぐ教えてください」
負傷者「ああ。頼むよ」
手をかざすと、淡い光が足首を包んだ。昨日より弱い、細い光だった。リリアは傷の表面へ力を集めず、男の表情を見ながら魔力を加減する。
男が握りしめていた毛布を離した。
負傷者「……少し、楽になった」
そこでリリアは手を引いた。まだ十分に立っていられるだけの力を残す。
薬師の指示を受け、ノエラが傷の状態を確かめる。湿った布を取り替え、薬の量も前の記録と照らした。リリアは求められた水を渡し、男の顔色が変わらないか見ていた。
処置が終わると、ノエラは新しい布を巻いた。
ノエラ「足先、動かせる?」
負傷者「……動く。昨日より、力を入れなくてもいい」
薬師「腫れの一部が引いたのはよかった。でも、まだ歩く許可は出せないよ」
負傷者「やっぱりか」
薬師「やっぱりだ」
男は残念そうに笑い、それから静かに目を閉じた。
傷は塞がっていない。熱もある。それでも、処置の途中で何度も身体を起こしていた昨日と違い、男は落ち着いて横になれた。
◇
小屋の外で、ノエラは使い終えた道具を片づけていた。
ノエラ「……昨日より、魔法が短かったね」
リリア「傷を治し切れないのに使いすぎたら、次に必要なとき動けなくなりますから」
ノエラ「そういうこと、考えるんだ」
リリア「考えますよ。……少しは」
ノエラが手を止めた。
ノエラ「さっき、私が止めなかったら、先に痛みを消してた?」
リリア「たぶん。苦しそうだったから」
ノエラ「そうすると、どこが痛いか聞けなくなることもある」
リリア「ええ。でも、あなたが痛みの場所を確かめてくれたから、私は安心して魔法を使えました」
ノエラは答えず、布を折った。
リリア「それに、昨日より赤い範囲が広がっていないこと、私一人ならわかりませんでした」
ノエラ「毎日見てればわかるよ」
リリア「私は毎日見ていなかったので」
しばらくして、ノエラが顔を上げた。
ノエラ「……だからって、教会の人を信用したわけじゃない」
リリア「わかっています」
ノエラ「それも、すぐ言う」
リリア「何と答えたらいいですか」
ノエラ「……知らない」
リリアは小さく笑った。ノエラは笑わなかったが、追い返しもしなかった。
◇
昼過ぎ、レオンは小屋の入口まで、蓋付きの器を運んできた。
レオン「今日は根菜のスープです。昨日、石橋の農家で少し分けてもらえたので」
薄く切った根菜をよく煮て、塩を控えめにしたものだった。鍋の底までさらって三人分。レオンの店の棚にも、もう多くは残っていない。
ノエラ「……また店を閉めたの?」
レオン「今日は昼前の客を見送ってからだ。夕方には戻る」
リリア「私の分も、ありますか」
レオン「一皿分なら。小銅貨一枚です」
リリア「買います」
リリアが硬貨を渡し、湯気の立つ器を受け取った。
リリア「……おいしい」
レオン「ありがとうございます」
ノエラ「治癒術師が倒れたら、困るものね」
リリア「えっ」
ノエラ「食べて。昨日もちゃんと食べてなさそうだったから」
セシリアと似たことを言う。リリアは匙を持つ手を止め、素直にスープを飲んだ。
負傷者にも、薬師の許可と本人の希望を確かめてから器を渡した。男は数口だけ食べ、残りを後にすると言った。
レオンは無理に勧めなかった。
レオン「器はまた取りに来ます」
負傷者「借りてばかりだな」
レオン「返してもらえれば、次の客にも使えますから」
男が笑ったとき、ノエラが一度だけ、その顔を見た。
◇
それから数日後。
王都の教会へ届いた封書を見て、セシリアは筆を置いた。
西の町の取次所から、さらに王都行きの便へ載せ替えられた手紙だった。封には見慣れた文字で、セシリアの名が書かれている。
セシリア「……やっと書いてくれたのね」
屋根は直った。食堂を開けた。人間も魔族も訪ねてくるが、一緒に食べるところまではまだ遠い。
読み進めるうち、セシリアの表情が変わった。
国境近くでは清潔な布が足りず、怪我人を診られる者も遠い。レオンは誰かの病名を決めつけることなく、自分が見たことだけを綴っていた。
最後の一行を読んで、セシリアは少しだけ笑った。
セシリア「……あなたこそ、食べているのかしら」
すぐに事務官を呼ぶ。
セシリア「西方の定期報告と、リリアの派遣状を出してちょうだい」
事務官「何か新しい知らせが?」
セシリア「ええ。別の人から、同じ不足を聞いたの」
報告には布の不足と巡回の空白。レオンの手紙には、実際に困った人がいること。リリアは現地で十日間の臨時救護に入っているが、それだけで医療が続くわけではない。
セシリア「西の町の教会へ、清潔な布と包帯を追加で送りましょう。巡回用に分け、受け取った数量を記録してもらって」
事務官「費用は?」
セシリア「今回の臨時救護費の予備枠から。足りない分は私の権限で追加承認します。ただし、次の便に載せられる量を先に確かめて」
セシリアはさらに一枚、指示書を用意した。
セシリア「西の町に、国境方面の救護相談を受ける担当を決めて。リリアの十日が終わった後も、患者の連絡先が消えないように」
事務官「新しい施設を作るのですか」
セシリア「いいえ。今ある町の教会で、まず受け付けを続けるの。建物の話は、それからよ」
事務官は印を押した指示書を受け取り、倉庫係へ運ぶために席を立った。廊下では、発送する布束の数を確かめる声が始まっている。
セシリアはレオンの手紙を折り直した。
セシリア「……屋根が直ったなら、次は雨の日の客ね」
遠い国境の食堂には、まだ返事は届かない。
◇
その日の夕方、石橋の集落へ戻る準備をしていたリリアのところへ、薬師が来た。
薬師「さっき、あの人の足を見た。昼は楽そうだったが、夕方になって腫れたところが熱を持ち直している」
リリア「……また、ですか」
薬師「奥の状態がまだわからない。町の医師へ送る記録をまとめよう。明日の診察で動かす必要があるか、本人とも話す」
ノエラは膝の上の記録を広げた。
ノエラ「昨日より赤いところが一つ増えてる。小さいけど、前にはなかった」
リリアはその印を見た。魔法で和らげた痛みの下に、まだ見えていない傷がある。
リリア「次は、私が先に魔法をかけるべきじゃないですね」
ノエラ「……うん。まず、一緒に見て」
ノエラは記録を二人の間に置いた。
昨日までは、自分だけが書き込んでいた紙だった。
小屋の中から、男が寝返りを打つ音がした。
痛みは減らせても、消えない傷がある。
その傷が次に何を奪うのか、二人ともまだ知らなかった。




