第12話 二人で救った命
ノエラが記録の端に新しい印をつけたとき、小屋の中で器の割れる音がした。
ノエラ「……今の、あの人?」
駆け込むと、荷運びの男が寝台の端に身を乗り出していた。落ちた水差しのそばで、片手が宙を探っている。
負傷者「すまん。水を取ろうとして……」
声がかすれていた。額に触れたノエラは、すぐに手を引いた。
ノエラ「さっきより熱い。ねえ、私が誰かわかる?」
負傷者「……草の先生」
ノエラ「それ、名前じゃないよ」
いつもなら返ってくる軽口がない。
リリアが戸口に立ち、男の顔色を見た。唇は乾き、息も浅い。夕方まで自分で持てていた器を、今は握れない。
リリア「薬師さんを呼びます」
ノエラ「私が行く。あなたはここにいて、急に動かさないで」
ノエラは飛び出しかけて、足を止めた。
ノエラ「……先に魔法をかけないで。今の様子を、ちゃんと見ていて」
リリア「はい。戻るまで目を離しません」
戸が閉まる。リリアは割れた器を足元から遠ざけ、男の呼吸に合わせて声を掛け続けた。
リリア「私の声、聞こえますか」
負傷者「……聞こえるさ。そんなに大きな声じゃなくても」
リリア「よかった。すみません、少し大きかったですね」
男の返事を聞いて、ようやく自分の声が震えていたことに気づいた。
◇
年配の薬師は、ノエラとともに小屋へ戻ってきた。
傷を確かめた薬師の顔から、いつもの穏やかさが消えた。
薬師「赤みが広がっている。熱だけじゃないね。身体もずいぶん弱っている」
ノエラ「昼の記録と比べても、急に変わった。昨日までとは違う」
薬師「今夜は山になるかもしれない」
男が目を開けた。
負傷者「……山って、何の山だ」
薬師「具合が悪くなっている。ここでできる手当てを続けるが、危険はある。町の医師に診せたい状態だ。ただ、この暗い道をすぐ運べば安全というものでもない」
男は少し考えてから、毛布の端をつかんだ。
負傷者「俺の足、切られるのか」
薬師「今ここで、そんなことは決められないよ。まず傷をもう一度確かめたい。リリアの魔法にも力を借りる。いいかい」
負傷者「……頼む。まだ、帰りたいところがある」
ノエラが顔を上げた。
ノエラ「どこ?」
負傷者「西の町へ運ぶ荷の、預かり札を返してない。仕事を途中で放り出すのは嫌なんだ」
リリア「荷物のことは、今すぐ考えなくても」
負傷者「そういう話じゃない。……帰ったら、仕事仲間に『遅かったな』って笑われたいんだよ」
そこで一度、息が途切れた。
負傷者「俺はダルク。ずっと『怪我人』って呼ばれるのも、そろそろ飽きた」
ノエラは小さく頷いた。
ノエラ「ダルク。わかった。じゃあ、帰って文句を言われるまで生きてて」
ダルク「……手厳しい先生だな」
声は弱かったが、今度は笑おうとしていた。
◇
薬師はノエラの記録を最初から読み直した。
薬師「赤い場所が、ここからこちらへ移ったのはいつ?」
ノエラ「一昨日の朝。昨日は変わらなかった。でも今日は、ここに新しく出てる」
薬師「傷の奥に、まだ悪くしているものが残っているかもしれない。私の見立てだけで無理はできないが、処置のし直しは必要だ」
リリアは隣で傷を見た。王都で診た少年の手に残っていた木片が、脳裏をよぎる。
リリア「表面は閉じません。私ができるのは、今の苦痛を和らげて、身体が持ちこたえる力を少し支えることです」
ノエラ「でも、痛みを消したら、変化がわからなくなる」
リリア「だから、今の痛い場所を先に聞いてください。使うなら、薬師さんが診る間だけにします」
ノエラはリリアを見た。
ノエラ「……本当に、それだけ?」
リリア「それ以上できると言いたいです。でも、今は言えません」
薬師がダルクに必要な処置を説明した。怖ければ途中で止めてよいこと、終わってもすぐに治るとは限らないことを告げる。
ダルク「全部、聞こえてる。……やってくれ」
ノエラは傷の変化を確かめ、薬師へ必要なものを渡した。薬師は経験に基づいて傷の状態を改めて調べ、以前の処置では届かなかった部分への対応を進める。リリアはダルクが耐えられるよう、魔力を細く保った。
痛みを和らげる光が、掌から静かにこぼれる。
強く使えば、一度に楽にできるかもしれない。だがリリアは力を抑えた。今必要なのは、まぶしい光ではなく、最後まで役に立てる手だった。
ノエラ「リリア。少しだけ、待って」
リリア「どうしました?」
ノエラ「今、足先の色を見たい。魔法はそのままでいいから」
リリアは頷いた。
薬師が一度手を止め、状態を確かめる。ノエラの指が示した場所を見て、処置の方針を変えた。
薬師「よく気づいたね。そこは無理に触らず、今日はここまでにしよう」
ノエラ「……はい」
時間がひどく長く感じられた。
やがて薬師が布を掛け直し、リリアへ目を向けた。
薬師「もういい。魔法を止めても大丈夫だ」
光が消える。
リリアは壁に手をついた。膝が重い。けれど、まだ倒れてはいなかった。
ダルクは薄く目を開けた。
ダルク「……終わった?」
ノエラ「今夜の手当ては。まだ、そばにいるよ」
ダルク「そうか」
目を閉じた男の呼吸は、さっきよりゆっくりしていた。
しかし熱は高いままだった。
◇
夜半、レオンが食堂から湯と柔らかい食事を届けに来た。
レオン「店の火を落とす前に、何か要るかと思って」
ノエラ「湯は助かる。でも、今は食べられないと思う」
レオン「じゃあ、無理に出さない。残りは君たちが食べてくれ」
ノエラは小屋を振り返った。
ノエラ「……この人がどうなるか、まだわからない」
レオン「そうか」
ノエラ「勇者だったら、こういうとき何とかできた?」
レオンは手にした器を見下ろした。
レオン「俺にはできない。だから、今夜は君たちに任せるしかない」
ノエラは唇を結んだ。慰めも、英雄らしい約束も返ってこなかった。
レオン「腹が減ったら食べてくれ。代金は、食べた分だけ後でいい」
ノエラ「……明日、ちゃんと払う」
レオン「ああ」
レオンが帰ると、リリアは湯気の立つ器を見た。
リリア「あなたも、少し食べてください」
ノエラ「リリアこそ」
リリア「私は今から食べます。倒れたら役に立てないので」
ノエラ「……それはそう」
二人は小屋の外で、交代で温かい汁を口にした。
中では薬師がダルクを見守っている。やるべきことは、まだ終わらない。
◇
夜明け前、ダルクの息が一度荒くなった。
ノエラが呼びかけると、返事はあったが、目を開ける力がない。
薬師が様子を確かめ、リリアへ短く告げた。
薬師「もう一度、力を借りたい。今度は処置の間じゃない。身体が弱り切らないように支えてほしい」
リリア「わかりました。でも、長くは続けられません」
ノエラ「必要な変化は私が見る。リリアは、魔法に集中して」
昨日までなら、ノエラはその言葉を口にできただろうか。
リリアは考える間もなく手をかざした。
白い光が、ダルクの胸元と肩を淡く照らす。身体を一気に治す力ではない。乱れた息を少し楽にし、消耗した身体が朝まで持ちこたえられるよう支える、小さな助けだった。
ノエラは薬師とともに状態を見守り、気づいた変化をすぐ伝えた。
薄明かりが窓の隙間に差し込むころ、ダルクの呼吸が静かになった。
リリアが手を下ろす。
薬師はしばらく男の様子を確かめてから、深く息を吐いた。
薬師「……今すぐ命を落とす危険は、越えたようだ」
誰もすぐには返事をしなかった。
ノエラはダルクの額に触れ、昨日から書き続けてきた記録に目を落とした。熱は少しずつ落ち着いている。呼びかけには、はっきりした返事が返る。
ノエラ「……ダルク。私が誰かわかる?」
ダルク「草の先生」
ノエラ「また、それ!」
男が笑った。
ダルク「ノエラ。それと、光るお嬢さん」
リリア「……名前、昨日教えましたよね」
ダルク「リリア。覚えた。二人とも、うるさいくらい覚えた」
ノエラは顔を伏せた。
笑っているのか、泣いているのか、自分でもわからなかった。
薬師は二人に向き直った。
薬師「命の山は越えた。でも足は、まだ治っていない。傷の様子を診続けて、町の医師とも相談する。歩けるかどうかも、今は約束できない」
ダルク「それでも……帰って、文句を言われる日は来そうか」
薬師「そのための次の相談を、今から始められるよ」
ダルクは目を閉じ、今度は穏やかに眠った。
◇
昼前、食堂には久しぶりに二人続けて客が来た。
石橋手前の農家の男が、小さな籠を台に置く。
男「昨日、頼まれた分だ。根菜を少しと、皮の薄い小芋。畑で売れる分だけ選んできた」
レオン「ありがとうございます。値段は、聞いていたとおりで」
男「そうしてくれると助かる。毎日は無理だが、今日は畑の手が空いた」
レオンは小銭を払い、芋をひとつ手に取った。
薄く切って鉄鍋へ並べる。油はほんの少し。焼き目がついたところへ、ミーナから買って残しておいた乾いた香草を砕いて散らした。熱で香りが立ち、店の中へ広がる。
焼けた芋を麦の薄い生地で包む。塩気のある表面と、ほくりと崩れる中身。少ない材料でも、ひと口ごとに違う食感があった。
客「……これ、肉なしなのか」
レオン「はい」
客「肉がないのに、肉が欲しくなる匂いだな」
レオン「その感想は、褒められているんでしょうか」
客「食い終わってから決める」
客は最後の一口を食べ、空の皿を押し出した。
客「もう一つ」
レオン「褒められたと受け取っていいですか」
客「代金も払う。文句ないだろ」
レオン「ありません」
今日の売上は、小さなものだった。
それでも皿を下げるとき、レオンは少し笑っていた。
◇
午後、ミーナが草籠を持ってやって来た。
ミーナ「……この匂い、昨日の草?」
レオン「前に買った乾いた分を使った。もう残りが少ない」
ミーナ「なら、今日は新しい束がある。前と同じ値段。値下げはしないから」
レオン「値下げを頼んだ覚えはないぞ」
ミーナ「先に言ったの」
レオンは香りを確かめ、代金を払った。
ミーナが硬貨をしまったところで、ノエラが戸口に現れた。
目の下に疲れがある。それでも昨日より足取りは軽かった。
ノエラ「……ダルク、助かったよ」
ミーナ「本当に?」
ノエラ「うん。熱が落ち着いて、話もできる。足はまだこれからだけど、薬師さんも今夜は大丈夫そうだって」
ミーナは草籠を抱き直した。
ミーナ「……よかった」
それだけ言うと、窓の方を向いた。
ノエラはレオンへ小さな硬貨を差し出した。
ノエラ「昨日のご飯代。それと、今日はもう一皿買って帰る。ダルクが『味のあるものを食べたい』って」
レオン「食べられるものは、薬師さんに確認したか?」
ノエラ「うん。少しずつならいいって。柔らかくできる?」
レオン「できる。焼いた芋を、少し汁で煮よう」
レオンが鍋を取ると、ミーナが不思議そうに見た。
ミーナ「……今日は、ずいぶん嬉しそうね」
レオン「そう見えるか?」
ミーナ「見える。理由くらい、わかるけど」
レオンは返事をせず、芋を薄く切った。
ダルクの命を救ったのは、ここにいない二人と薬師だ。
その人たちが今夜食べるものを作れるなら、食堂を開いた意味は少し増える気がした。
◇
帰り際、ノエラはミーナと並んで店の外へ出た。
ノエラ「リリア、明日も来るって。あの人が歩けるようになるまで、ずっとはいられないけど」
ミーナ「王都の人なんでしょ」
ノエラ「うん。まだ、よく知らない」
ミーナ「……信用してるの?」
ノエラ「全部は。でも、昨日はあの人がいなかったら、ダルクは朝まで持たなかったと思う」
ミーナは黙った。
ノエラ「逆に、私が記録してなかったら、リリアも何をしていいかわからなかったって」
ミーナ「……そう」
草籠の中で、乾いた葉がかさりと鳴る。
ノエラ「ねえ、明日もここの食堂に寄る?」
ミーナ「仕事で来るかもしれない。それだけ」
ノエラ「私も、食事を買いに来るかも」
ミーナ「……先に言っとくけど、アンタの分まで草は安くしないからね」
ノエラ「知ってる」
二人の声が遠ざかっていく。
レオンは食堂の入口から、その背中を見送った。
明日の客が何人になるかはわからない。
けれど今日は、帰りたい場所のある男が、生きて朝を迎えた。
そして明日は、その男のために別々の道を歩いてきた人たちが、また同じ食堂の扉を開けるかもしれなかった。




