第8話 料理帳の最後
店の戸を閉めたあとも、レオンはしばらく竈の前にいた。
今日は臨時休業した。明日は開ける、と札にも書いた。王都から持ち込んだ麦粉の袋を確かめ、鍋を洗い、残り少ないパンを布で包む。麦粉も底が近い。明日の焼き物に使えば、あとはわずかだ。
それでも、いつものように寝台へ向かう気にはなれなかった。
棚の奥から、古い料理帳を取り出す。
表紙の角は擦り切れている。王都から運んできた荷の中でも、特別な思いのある一冊だった。
レオン「……料理帳なのに、料理以外のことばかり考えるな」
ページを開くと、油の染みと古い書き込みが並んでいた。何度も作った料理の横に、試していない料理もある。
その間に、一通の手紙が挟まっていた。
差出人の字を、レオンは知っている。
自分が討った魔王ヴァルディスの筆跡が、そこに残っていた。
◇
勇者レオンへ。
この手紙を読んでいるということは、
料理をする決意をしてくれたのだろうか。
……まぁ、好奇心で料理帳を開いただけかもしれんがな。
どちらにせよ、私の言葉が届いたことを嬉しく思う。
あの村で、再び人間と魔族が同じ鍋を囲む。
それがどれほど難しいことか、
お前もわかっているだろう。
だが、不思議なものだな。
百年続いた戦争の果てに、
私はそんな景色を思い描いている。
お前があの場所に何を作り、
どんな者たちを集めるのか。
……見られぬのが、少し残念だ。
さて、最後にもう一つ。
料理帳の最後に、ミーナへの手紙を挟んである。
あの子に渡す頃合いは、お前に任せたい。
私からの頼みは、それだけだ。
勇者よ。
お前が作る場所が、
どんな場所になるのか楽しみだ。
ヴァルディス
◇
レオンは、指先で紙の端を押さえた。
魔王ヴァルディスを討ったのは自分だ。
その事実は、手紙を何度読み返しても変わらない。あの男が死んだあとも、娘は生きている。レオンの顔を見るたびに、父を奪った相手だとわかっていて、それでも食堂へ来る。
今日、ミーナは自分の名前を告げた。
その小さな選択を、ヴァルディスの願いが叶い始めた証拠にしていいとは思えなかった。
彼女は一度だって、許すと言っていない。
料理帳の最後を開く。
そこにはもう一通、封のされた手紙が挟まっていた。表には、ミーナの名だけが記されている。
レオンは封に触れず、元の位置へ戻した。
手紙を渡す時を任されたからといって、読む時まで決めていいわけではない。
そもそも、ここに食堂を開くと決めたのは自分だった。
誰かを敵だと命じられるのではなく、訪ねてきた人に何を出すかを自分で決めたい。その気持ちは、手紙を開く前からあった。
ただ、今夜は少しだけ、料理帳の重さが違って感じられる。
レオン「……まだ、同じ鍋どころじゃないな」
今日、魔族の負傷者は食堂の飯を食べた。人間の薬師が、その足を診た。
同じ席についたわけではない。顔を見せたくない者もいた。それでも、誰かが食べ、誰かが傷を確かめたことは本当だった。
レオンは手紙を挟み直し、料理帳を棚に戻した。
◇
翌朝、食堂の扉を開けると、草の先に陽が差していた。
石橋手前の畑で買った玉ねぎは、あと一つ。レオンはそれを薄く切り、王都から持ち込んだ残り少ない麦粉に水と塩を加えて練った生地に載せた。平たくのばして鉄鍋へ入れると、端が膨らみ、焦げ目のついた玉ねぎから甘い香りが立ち上る。
生地の縁を返して両面を焼く。表面はぱりっとして、中は少し柔らかい。
レオン「……これは、包んで持てるな」
試しに半分に折ると、熱で指先が赤くなった。
レオン「持てるけど、すぐには持てないか」
布を一枚余分に用意する。
昼前、荷を背負った男が看板を見て足を止めた。
男「食堂って、ここかい。昨日は閉まってたな」
レオン「すみません。仕入れに出ていました」
男「今日は食えるのか」
レオン「麦の焼き物なら。玉ねぎ入りです」
男「肉は?」
レオン「ありません」
男「正直だな。……じゃあ、それを一つ」
男は椅子に腰掛けた。焼きたての麦生地をかじると、ぱり、と音がした。
男「お、これなら道で食うのにもよさそうだ」
レオン「今、そう思っていたところです」
男「先に値段を決めとけよ。食い終わってから高かったら困る」
レオン「……小銅貨一枚です」
男「よし。それなら文句はない」
レオンは慌てて木札に値段を書き足した。
客が帰ると、椅子の上には細かい麦の欠片が残っていた。掃き集めていると、戸口にノエラが現れた。
ノエラ「……今日は開いてるんだ」
レオン「昨日の分も開けたいところだが、二日分の客は入らないな」
ノエラ「それは、そうだね」
彼女は笑いかけたものの、すぐに表情を戻した。
ノエラ「昨日の薬師さん、夜も少し残って診てくれた。熱はまだある。傷の具合が気になるから、町の治癒術師に診せた方がいいって」
レオン「男の人は、どうするって?」
ノエラ「今は動きたくないって。薬師さんから説明を聞いて、町の人を呼ぶなら診てもらうって言った。費用も、先に聞きたいって」
レオン「それなら、その条件も伝えた方がいいな」
ノエラは革袋から折った紙を取り出した。
ノエラ「薬師さんが書いてくれた。傷の様子と、今までにした手当て。西の町で診られる人へ渡してほしいって。でも、私は患者さんを置いて二日も歩けない」
レオンは紙の端についた小さな印を見た。
薬師が自分で書いたものだ。負傷者は、傷と熱のことを診療先に伝えるのは構わないと言っている。ただし、無断で町へ運ぶことはしない、と念を押したらしい。
レオン「西へ向かう人なら、集落で探せるかもしれない」
ノエラ「……また店を閉めるの?」
レオン「今日は閉めない。午後の客がいなくなってから行く。頼める人がいなければ、別の手を考える」
ノエラは紙を握り直した。
ノエラ「私は、手当てに戻る。返事が来たら教えて。代金が必要なら、私だけじゃ決められないから」
レオン「ああ。本人にも確かめてもらおう」
彼女が帰ると、レオンは壁の木札を見た。
今日売れたのは、一皿。明日も火を入れるなら、麦を買う道も考えなければならない。
◇
午後遅く、レオンは店を閉めて石橋手前の集落へ向かった。
昨日布を売ってくれた女が、軒先で糸を巻いている。
女「今日は何を買いに来たんだい」
レオン「今日は、運んでくれる人を探しに。西の町へ行く便はありますか」
女「荷をまとめてる男なら、明日の朝に出るよ。町へ着くのは二日以上先だろうけどね」
女が指した荷置き場へ行くと、縄を締めている男がいた。レオンは王都行きの手紙と、薬師の書いた診療の依頼文をそれぞれ別に見せた。
運び屋「西の町の取次所までなら持てる。王都の教会宛ての方は、その先の便が引き受けるかどうか確かめることになるぞ」
レオン「お願いします。届くまで時間がかかるのは承知しています」
運び屋「なら、取次所までの持ち込みは細かい銅貨二枚。王都行きの先の運賃は別に預かる。受け付けてもらえなければ、手紙と残金を戻す」
レオン「先の分は細かい銅貨四枚を預けます。足りないなら送らずに持ち帰ってください」
運び屋は二つの布包みに硬貨を分け、受け取った。
運び屋「で、もう一通は?」
レオン「西の町で、治癒術師を探している患者の診療依頼です。薬師が書いたものです。教会か診療を受け付ける窓口へ届けて、往診できる人がいるか確かめてもらえますか。料金と移動日数も、返事が欲しいんです」
運び屋「直接、治癒術師を連れて帰る約束はできんぞ」
レオン「ええ。患者本人が診療を望んでいても、費用と移動の相談はまだです」
運び屋「町の教会窓口へ渡して、返事を受け取るところまでなら引き受けよう。ただし、そっちは届け先が違う。別に手間賃がかかる」
レオンが金額を聞くと、今日の売上だけでは足りなかった。手持ちから不足分を出す。ノエラへ勝手に治療費を約束したわけではない。ここで払うのは、問い合わせを運ぶ代金だった。
レオン「明日の朝、出発ですね」
運び屋「ああ。西の町へ着いてからは、向こうの返事次第だ。戻る便に乗せられりゃ届けるよ」
レオン「お願いします」
レオンは二通を別々に包む運び屋の手を見ていた。
王都宛ての手紙と、西の町宛ての依頼。
どちらもまだ、届け先へ着いたわけではない。
◇
食堂へ戻るころには、空が暗くなりかけていた。
王都宛ての手紙は、今朝、食堂の机で書いたものだった。
『セシリアへ。屋根は直った。』
そんな書き出しをしてから、レオンは思わず笑った。もっと早く知らせるつもりだったのだ。
看板は『食堂』のままであること。人間も魔族も客として来たこと。ただし、同じ席を囲めるほど簡単な話ではないこと。仕入れに苦労し、ときには店を閉めながら、何とか火を絶やさずにいること。
近くで怪我人が出て、清潔な布も、診られる人も足りていないことも書いた。誰の病気かは書かない。自分の知らないことを知っているようにも書かない。
最後に、セシリアこそきちんと食べているか、と尋ねた。
レオン「……これで、約束は守ったことになるかな」
まだ届いていない。王都まで何日かかるかもわからない。
それでも、手紙は明日の朝、食堂より先に西へ向かう。
棚に戻した料理帳の背へ目をやる。
あの帳面の最後にも、届けなければならない手紙がある。
ただ、そちらは運び屋へ渡すわけにはいかない。
ミーナが自分で受け取ろうと思える日が来るまで、レオンは封を守るつもりだった。
窓の外で、夜の風が道を渡っていく。
西の町への依頼には、負傷者の熱と傷のことが記されている。どれだけ急いでも、紙が届くには二日以上かかる。その間、ノエラは今夜も手当てを続ける。
レオンは残りの麦粉を量り、明朝使う分を小さな袋に分けた。もう一度焼けば、買い足さなければならない。
誰かが診に来られるかもしれない。その人が帰るまで、温かいものを出せる店でありたい。
翌朝、二通の手紙を預かった運び屋は、西の町へ向けて集落を発った。
王都へ向かう封書は、まだ遠い。
だが、西の町の教会へ渡す依頼は、先に傷病者の救護を担当する人々の手へ届くはずだった。




