第7話 呼んでいい名前
朝の仕込みを終える前に、レオンは食堂の戸へ札を掛けた。
『本日は午後も仕入れのため休みます。明日は朝から開けます』
小鍋には昨夜の残りの豆。昨日買った玉ねぎを厚めに焼き、塩を振って別皿へ移した。焦げた縁から甘い香りが立つ。温めれば一皿になるが、今日は食材より先に買うものがあった。
棚から新しい布を一枚取り、端を指でつまむ。
レオン「……これだけじゃ、足りないんだよな」
昨日、魔族領側の荷置き小屋で見たのは、傷に包帯を巻き直す少女の手だった。
ノエラは手際がよかった。それでも、熱のある男を治せるとは言わなかった。
レオンは戸を閉め、石橋の方へ歩き出した。
◇
崩れた排水溝を安全な側から回り、石橋の手前の集落に着くころには、陽が高くなっていた。
昨日、野菜を売ってくれた男は畑にいた。レオンの手元を見るなり、鍬を止める。
男「今日は空の袋か。玉ねぎなら、昨日売った分で終わりだぞ」
レオン「今日は布を探しています。包帯に使えるような、洗ってある布を売る家はありませんか」
男「布なら、向こうで袋を縫ってる女がいる。ただし、包帯に向くかは知らんぞ」
レオン「それは使う人に確かめてもらいます。ありがとうございます」
男が指した家の軒先には、厚手の布袋と、薄い白布が分けて干されていた。
女「……袋が欲しいのかい」
レオン「手当てに使う、汚れていない布を探しています。薄い方を分けていただけますか」
女「売り物は袋だよ。そっちの白いのは、縫い直し用に洗った端切れさ」
女は白布を一枚取り、日に透かして見せた。
女「穴はない。でも、どこで使うかによっちゃ、これじゃ足りないね」
レオン「怪我人がいて、包帯を替える布が足りないそうです」
女「だったら、まず使う人に長さを見てもらいな。ほら、二枚。値段はこれだけ」
レオンは示された小銭を払った。布は乾いているが、医療用に整えられたものではない。持ち帰ったら、ノエラに確かめてもらうつもりだった。
女「相手は自分で歩けるのかい」
レオン「足を怪我して、熱があります」
女「……布でどうにかなる話じゃないかもしれないね」
レオン「ええ。それも聞いてきます」
女はそれ以上尋ねず、布を乾いた包みに入れて渡した。
◇
食堂へ戻ると、入口の前に銀紫色の髪の少女が立っていた。
ミーナ「……遅い」
レオン「今日は午後も閉める札にしておいた。戻る時間が読めなくてな」
ミーナ「食べに来たんじゃないわ」
少女は腕に抱えた草籠を持ち上げた。中には香草が少しだけ残っている。
ミーナ「ノエラが、布は見つかったかって。あの人、夜中に何度も目を覚ましたから」
レオン「二枚だけ買えた。使えるかどうかは、見てもらわないとわからない」
ミーナ「……じゃあ、持ってきて」
レオンは戸を開けた。竈には、朝から火を入れるつもりで組んだ薪が残っている。
レオン「先に湯を沸かす。食事も持っていけるが、食べられそうか」
ミーナ「昨日より水は飲めてる。食べるかどうかは本人に聞いて」
レオン「ああ」
レオンは湯を小鍋へ移し、焼いた玉ねぎを汁に落とした。香ばしい匂いが湯気に混じる。器へ取り分けると、少女が布の包みを確かめた。
器の蓋を押さえていると、少女の視線が棚へ向いた。
古い料理帳が置かれている。レオンは何も言わず、器を包んだ。
ミーナ「……その本、料理の本?」
レオン「そうだ。古いけど、まだ使ってる」
ミーナ「ふうん。料理には、ずいぶん真面目なのね」
レオン「そこを疑われると、食堂として困るな」
ミーナ「食堂としては、ね」
言葉の最後が低くなる。
レオンは頷き、荷を持った。
◇
荷置き小屋では、ノエラが入口のそばにしゃがみ、薬草を選り分けていた。
乾きすぎた葉を除け、小瓶に残った粉を指先で確かめる。レオンに気づくと、すぐ立ち上がった。
ノエラ「布、あった?」
レオン「二枚買えた。ただ、使えるかは君が決めてくれ」
ノエラは包みを開け、一枚ずつ広げた。織り目の粗い部分を指で弾き、端のほつれを確かめる。
ノエラ「……こっちは傷に触れない外側に使える。もう一枚は、洗い直してから。買ってきたまま巻くのは嫌だな」
レオン「わかった。湯も持ってきた」
ノエラ「ありがとう。そこへ置いて。中は私がやる」
小屋の奥から、男の声がした。
負傷者「……今日は何を持ってきたんだ」
ノエラ「新しい布と、ご飯。食べられる?」
負傷者「腹は減ってる。足は、相変わらずだけどな」
男の返事に、ノエラは少しだけ表情を緩めた。
彼女はまず男に声を掛け、巻いていた布を外す。レオンは入口の外で待った。中から、水を移す音と短い問いが聞こえる。
ノエラ「足の先、昨日と同じように動かしてみて」
負傷者「……これでいいか」
ノエラ「うん。無理しないで。赤いところはまだ広いね」
ノエラは傷の周りを洗い、用意した布を使って巻き直した。母親から教わったのは、薬を多く塗ればいいということではない。汚れた布を替え、傷の変化を見逃さないことだと、昨夜ミーナに話していた。
しばらくして、ノエラが外へ出てきた。
ノエラ「今の手当てはできた。でも、熱が続いてる。傷の奥まで悪くなっていたら、私だけじゃどうにもならない」
レオン「回復魔法では?」
ノエラ「私も使えなくはないよ。だけど、小さな擦り傷を楽にするのがやっと。あの人の足には足りない」
ノエラは薬瓶の蓋を閉めた。
ノエラ「母さんは、治せないときほど、治せるふりをするなって言ってた」
ミーナ「じゃあ、どうするの」
ノエラ「傷を診られる人を探す。できれば、ちゃんと回復魔法を使える人も」
小屋の中で、木匙が椀に当たった。
負傷者「……町へ運ぶなら、俺にも相談してくれよ」
ノエラ「わかってる。勝手に担いでいったりしない」
レオン「近くの集落にも、傷を診られる人がいないか聞けます。こちらへ来てもらうよう頼んでみますか」
小屋の中で匙の音が止まった。
負傷者「……来てくれるのか」
レオン「まだわかりません。見つかれば、怪我のことを伝えて頼みます。会うかどうかは、あなたが決めてください」
負傷者「足を切ったことと熱があることなら話していい。診てもらいたい。……ただ、勝手に運び出されるのは困る」
ノエラ「ここで診てもらえるか、先に聞く。私も一緒に話すよ」
男は一度、短く頷いた。
レオンは外から声を掛けた。
レオン「石橋の先に、布を売ってくれた家がありました。西の町は歩いて二日です。俺には治せませんが、人を探すときに食料を用意することはできます」
負傷者「……あんた、勇者だって?」
レオン「元、です。今は食堂をやっています」
負傷者「勇者なら、足くらい何とかできそうな気がするな」
レオン「戦うのと、傷を治すのは違います」
男は少し黙り、やがて短く笑った。
負傷者「そりゃ、そうか。……飯はうまいよ」
レオン「それは、ありがとうございます」
小屋の中で匙がまた動き出した。
◇
昼過ぎ、レオンが食堂へ戻ろうとすると、ミーナが後ろからついてきた。
ミーナ「ノエラ、昨日からほとんど寝てないの」
レオン「そうだろうな」
ミーナ「小さい頃からああ。怪我した子を見つけると、草籠を放り出して走ってく。私があとで拾うのよ」
レオン「……君の籠まで?」
ミーナ「ノエラの籠よ。自分のだったら置いてかない」
レオンは少し笑った。少女は気づいて、眉を寄せる。
ミーナ「何がおかしいの」
レオン「いや。昔から一緒なんだなと思って」
ミーナ「だからって、アンタまで仲間になったつもりにならないで」
レオン「わかってる」
少女は足を止めた。
ミーナ「……また、それ」
昨日と同じ低い声だった。
ミーナ「アンタが誰を殺したか、私が忘れると思ってる?」
レオン「思ってない」
ミーナ「じゃあ、どうして来るの。頼まれてもないのに」
レオンは腕の中の空の鍋を見た。
レオン「最初は、頼まれてない湯を沸かした。あれは俺の勝手だった。今日は布を探してほしいと言われたから、探した。これからも、何をするかは聞いて決める」
ミーナ「……その方がいいわ」
少しの沈黙があった。
草の向こうで、風が揺れた。
ミーナ「さっき、ノエラが私を名前で呼んでたでしょ」
レオン「ああ」
ミーナ「知ってても、アンタは呼ばないのね」
レオン「君が自分で教えてくれたわけじゃないからな」
少女はしばらくレオンを見ていた。
ミーナ「……ミーナよ」
レオン「うん」
ミーナ「今なら、そう呼んでもいい。でも、それだけだから」
レオン「わかった。ミーナ」
初めて口にした名前に、少女の肩がわずかに動いた。
ミーナ「……呼んでいいって言ったのは、今だけよ」
レオン「明日は駄目か?」
ミーナ「明日になったら考える!」
そう言って、ミーナは先に歩き出した。
レオンは追いかけなかった。
◇
店に戻ると、午後も休むと書いた札が風で少し曲がっていた。
直してから扉を開ける。客が来た形跡はない。竈には炭が残り、鍋の中には豆の汁が少しだけあった。
レオンは椅子を一つ引き、遅い昼食を取った。
食べ終えたところで、戸口から足音がした。
ノエラだった。革袋を肩に掛け、顔には疲れが残っている。
ノエラ「……もう一つ、頼める?」
レオン「何だ?」
ノエラ「さっきの話。あの人が診てもらいたいって言ってくれたから、ちゃんと探したい。でも、石橋の集落で誰に聞けばいいのかわからない」
レオン「布を売ってくれた人なら、知っているかもしれない。一緒に行こう」
ノエラ「……今日は店を閉めたままでいいの?」
レオン「札にはそう書いた。明日の仕込みは戻ってからだ」
◇
石橋の手前の集落へ再び着いたころ、夕日が畑の向こうへ傾きかけていた。
布袋を縫っていた女は、レオンとノエラを見て手を止めた。
女「今度は二人かい。布が足りなかった?」
レオン「布は使えました。今度は傷を診られる方を探しています。足に深い傷があって、熱が続いているそうです」
ノエラ「本人も診てもらうことに同意しています。できれば、動かさずに診てほしいんです」
女は針を布へ刺して立ち上がった。
女「集落の端に、旅の手当てをしてきた薬師がいる。医者じゃないから、どこまで診られるかは本人に聞いとくれ。私が場所を教えるよ」
案内された家の軒先では、白髪の薬師が干した布を取り込んでいた。
薬師「深く切って熱がある? ……それなら明日まで放っておく話じゃないね」
ノエラ「私が洗って巻き直しています。でも、赤いところが広がって、熱も下がりません。私だけでは判断できなくて」
薬師「傷を見ないうちに薬も診立ても約束できない。歩けない人なら、こちらから行こう。ただし、道は?」
レオン「石橋から旧村の方は排水溝が崩れています。徒歩で避けられますが、荷車は通れません。小屋までは俺が案内します」
薬師「なら、今から行く。暗くなる前に着けるならね。帰りの灯りは持ってきてる」
ノエラは息を詰めたように顔を上げた。
ノエラ「……診てもらえますか」
薬師「まず本人に会って、傷を確かめる。手当ての代金は、見てから必要な分を説明するよ。往復の足代は細かい銅貨二枚。払えるかい?」
ノエラ「私が払います。傷の手当ては、値段を聞いて本人と相談します」
ノエラが硬貨を二枚差し出すと、薬師は受け取って袋へ入れた。
薬師「これで訪ねる約束は成立だ。案内を頼むよ」
◇
荷置き小屋へ着くころ、空はまだ赤かった。
ノエラが先に中へ声をかける。
ノエラ「集落の薬師さんに来てもらったよ。傷を見てもらってもいい?」
負傷者「……ああ。頼む」
薬師は男の返事を聞いてから入った。レオンは水の入った器を戸口へ置き、求められた灯りをともした。
中で薬師が包帯を外す気配がした。短い問いが続く。いつ切ったか。足の先は動くか。熱はいつからか。
薬師「ここまで手当てを続けたのは、あんたかい?」
ノエラ「はい。でも、熱が……」
薬師「治ると言い切ることはできない。今の状態なら、町の治癒術師にも診てもらう必要がある。まず私にできる処置をする。そのあと運ぶかどうかも、本人と決めよう」
負傷者「……今夜、ここにいてもいいか」
薬師「動かすより先に、状態を確かめよう。勝手には運ばないよ」
ノエラが外へ出てきたとき、顔から疲れが消えたわけではなかった。それでも、革袋の紐を握りしめる手は少し緩んでいた。
ノエラ「……来てもらえた」
レオン「ああ。間に合ってよかった」
ノエラ「まだ治ってないよ」
レオン「そうだな」
レオンは小屋の灯りを見た。あの足の傷がどうなるかは、まだわからない。
けれど、今日できたのは布を渡すことだけではなかった。診ることのできる人が来て、本人に会い、次の処置を考え始めている。
日暮れの道を食堂へ戻る。今日は予定していた皿をほとんど売れなかった。
レオン「……明日は、ちゃんと店を開けないとな」
厨房の棚には古い料理帳がある。
レオンはそれを開かず、竈の薪を組み直した。
今夜はまず、明日の食堂の火を絶やさないことにした。




