第6話 幼なじみの手
湯が沸いても、誰も取りに来なかった。
昨夜、レオンは小鍋を火にかけたまま、しばらく戸口を気にしていた。けれど、銀紫色の髪の少女も、包帯を持った少女も戻ってこなかった。
頼まれてもいない湯を冷ますのは、少し間が抜けている。
レオン「……明日の仕込みには使えるか」
そう言って火を落としたが、結局、鍋を洗ってから眠った。
翌朝は、昨日買った玉ねぎを厚めに切った。油を薄く引いた鍋に並べ、片面に焼き色がつくまで動かさない。裏返すと、焦げ目のついた表面から甘い匂いが立った。
仕上げに塩を振り、煮ておいた豆を添える。
パンは残り少ない。今日売る分と、自分で食べる分を分けておかなければならなかった。
レオン「……皿の数より、パンの数が先に決まるな」
小さく笑ったところで、入口の扉が開いた。
◇
昨日の少女が二人、並んで立っていた。
銀紫色の髪の少女は草籠を抱え、もう一人は革袋を胸の前に寄せている。包帯の端が、昨日より短くなっていた。
ノエラ「……ここ、お湯を分けてもらえる?」
レオン「沸かせる。どれくらい要る?」
ノエラ「小鍋に一つ分。それから、洗ってある布があれば、見せてほしい。買えるものなら買う」
レオンは厨房の棚を見た。
レオン「新しい布は、皿を拭くために取ってあるのが二枚だけだ。まだ使っていない」
ノエラ「二枚ともは要らない。一枚でいい。いくら?」
そこまで聞かれて、レオンは相手が何に使うのかも知らないと気づいた。
レオン「怪我人がいるんだな」
ノエラ「……昨日、聞いてたの?」
レオン「戸口で少し。聞くつもりじゃなかった」
ノエラの表情が硬くなった。
ノエラ「魔族よ。それでも売る?」
レオン「布は種族で使い道が変わらないだろう。ただ、手当てに使うなら、台所の布で足りるのかは俺にはわからない」
ノエラ「……沸いた湯で洗う。今の布よりはましにできると思う」
少女は革袋を開けた。中には小さな薬瓶と、使い切った布の包みがあった。
ミーナ「ノエラ、急いだ方がいい」
ノエラ「わかってる」
レオンは二人を見比べた。
レオン「湯はすぐ沸かす。布は一枚、細かい銅貨一枚でどうだ。新品として買った分があるから、ただでは渡せないけど」
ノエラ「それでいい。湯の薪代は?」
レオン「合わせて、その値段でいい。小鍋一つなら足りる」
ノエラは硬貨を出した。レオンが受け取ると、彼女は少しだけ肩の力を抜いた。
ミーナ「……値段を聞くのは、ちゃんとするのね」
レオン「君に教わったからな」
ミーナ「私、先生になった覚えはないけど」
ノエラが二人の顔を交互に見た。
ノエラ「昔からそうなの? 人の話を聞いてないようで、聞いてるところ」
ミーナ「昔からじゃないわ。私が知るわけないでしょ」
ノエラは口を閉じた。
レオンはそれ以上、二人のことを尋ねず、竈に薪を足した。
◇
湯が沸くのを待つ間、ノエラは入口近くの椅子に腰を下ろした。革袋の紐をほどき、薬瓶を一つずつ確かめている。
レオン「食事も要るか?」
ノエラ「私じゃない。怪我をした人に、何か温かいものを食べさせたい。でも、食べられるかわからない」
レオン「持っていけるようにしようか。豆と焼いた玉ねぎならある。小さな器に分けられる」
ノエラ「……値段は?」
レオン「一皿、小銅貨一枚。器は返してくれればいい」
ノエラは財布を開きかけて止まった。
ノエラ「私が払う。……でも、ここへ戻すのは明日になるかもしれない」
レオン「それで構わない」
ミーナ「先に、その人が食べられるか聞いた方がいいんじゃない?」
ノエラは頷いた。
ノエラ「意識はある。水も飲めてる。昨日から、食べるものがほとんどなかった」
レオン「なら、柔らかくした豆を少し。玉ねぎは別にしておく」
レオンは木椀へ豆を取り分け、煮汁を足した。上から蓋をして布で包む。焼いた玉ねぎは小皿に載せ、汁へ入れずに渡した。
ノエラ「……あの人が食べなかったら?」
レオン「君が食べればいい。食べ物を捨てるよりは」
ノエラが小さく笑った。
ノエラ「それは、たぶん私もそうする」
レオンは器を渡しながら聞いた。
レオン「どこへ運ぶんだ? 重ければ、俺が持つ」
ノエラ「……信用しろってこと?」
レオン「器の話だ。持っていく場所がわからなければ、ここで渡すだけにする」
ノエラは黙ってミーナを見た。
ミーナは少し考えてから、草籠を肩に掛け直す。
ミーナ「道具と湯を持っていくなら、一人じゃ手が足りない。……運ぶだけなら、来てもいいんじゃない」
ノエラ「ミーナ」
ミーナ「助けてもらうんじゃなくて、使うの。値段だって払ったでしょ」
ノエラはレオンへ向き直った。
ノエラ「怪我人には、近づく前に聞いて。嫌だと言われたら、そこで帰って」
レオン「ああ。それでいい」
◇
食堂から魔族領側へ少し入ったところに、古い荷置き小屋があった。
屋根の半分は傾き、壁には隙間がある。ここで暮らしている者はいないらしい。今は荷を運んでいた者が、傷んだ足を休ませるために借りているという。
レオンは戸口で足を止めた。
ノエラ「中にいるのは、荷運びをしていた男の人。古い鉄片を踏んで、足を深く切った。昨日から熱がある」
小屋の中から、かすれた声がした。
負傷者「……誰か来たのか」
ノエラ「お湯と食べ物。運ぶ人を一人連れてきたけど、入ってもいい?」
短い沈黙があった。
負傷者「……人間か?」
レオン「そうです。食堂をやっています。器と湯を持ってきました。中には入りません」
さらに間が空いた。
負傷者「それなら、そこへ置いてくれ」
レオンは小屋の外の平らな石に荷を下ろした。
レオン「器は、後で返してもらえれば十分です」
負傷者「……飯代は?」
ノエラ「払った。私が」
負傷者「また借りが増えるな」
ノエラ「じゃあ、治ってから私の薬草を運んで。今は動かないで」
負傷者が何か答えようとして咳き込んだ。
ノエラは湯を小さな容器へ移し、昨日使った布を取り外す準備を始めた。ミーナが薬瓶を開ける。レオンは求められた分だけ水を渡し、邪魔にならないところへ退いた。
小屋の中から、ノエラの落ち着いた声が聞こえる。
ノエラ「痛かったら言って。今から布を外すよ」
負傷者「もう、ずっと痛い」
ノエラ「じゃあ、痛みが強くなったら。……うん、ここは昨日より赤いね」
ノエラが湯で手と道具を洗い、傷の周りを清潔な布でそっと拭う。古い薬を無理にはがさず、皮膚の状態を確かめてから新しい包帯を巻き直した。
手つきは速かったが、急いではいなかった。
ミーナ「お母さんに教わった巻き方?」
ノエラ「そう。きつくしすぎると、足の先まで冷たくなるから。……ここ、指は動く?」
負傷者「動くよ。痛いけどな」
ノエラは小さく息を吐いた。
レオンには傷の具合を正しく判断する知識がない。ただ、昨日の布より清潔なものに替わったことは、外からでもわかった。
やがてノエラが小屋から顔を出した。
ノエラ「食べ物、運んでくれる? 中には私が持って入る」
レオン「ああ」
レオンが包みを差し出すと、ノエラは木椀を受け取り、負傷者のそばへ戻った。
ノエラ「少しずつでいい。熱いから、急がないで」
負傷者「……豆か」
ノエラ「嫌い?」
負傷者「昨日の乾いたパンより、ずっといい」
匙が器に当たる音がした。
◇
食事を終えるころ、ノエラは小屋の外へ出てきた。
ノエラ「……ありがとう。少し食べられた。でも、熱が下がらない」
レオン「何か足りないものは?」
ノエラ「清潔な包帯と、傷を診られる人。私の薬だけじゃ、悪くなるのを止められないかもしれない」
ノエラは自分の掌を見た。
ノエラ「回復魔法も試した。でも、私にはほとんど効かせられない。母さんは、無理に魔力を使うより、傷を見て手を動かせって言ってた」
ミーナは空の薬瓶を一つ受け取った。
ミーナ「新しい草なら、私が探す。でも、今すぐ何でも治る薬なんてない」
ノエラ「……うん」
レオンは小屋を振り返った。
レオン「食堂にある布は、もう一枚だけだ。明日以降の手当てには足りないな」
ノエラ「足りない。町へ行けば、洗った包帯も薬もあるかもしれないけど、往復する間に悪くなったら……」
小屋から小さく咳が聞こえた。
レオンは西の町への道を思い浮かべた。徒歩で片道二日。今すぐ出ても、必要なものが手に入るまでには時間がかかる。
レオン「石橋の手前の集落なら、町より近い。使える布があるか、明日、店の仕入れと合わせて聞いてみる」
ノエラ「……頼んだ覚えはないよ」
レオン「そうだな。だから、買えるか聞くだけにする。勝手に持ってきたり、治せると言ったりはしない」
ノエラはしばらく黙っていた。
ノエラ「……布が見つかったら、値段も聞いて。私が払える分なら買う」
レオン「わかった」
ミーナは小屋の入口へ目を向けていた。
ミーナ「それまで、私はここにいる。帰るついでに売り先を探すのは、また後でいい」
ノエラ「売り物、傷まない?」
ミーナ「乾いた草は明日でも売れる。生の方は……使い道を考える」
ミーナはいつものように、少し不機嫌そうに言った。
レオンは空になった木椀を受け取り、布で包んだ。
レオン「食べられたなら、よかった」
ノエラ「……ご飯はね」
ノエラの声は小さかった。
ノエラ「傷の方は、まだわからない」
◇
食堂へ戻ったとき、空は夕方の色になっていた。
竈の火はすっかり落ちている。レオンは棚に残った一枚の布を取り、手のひらの上で広げた。
清潔な布一枚。食事一皿。湯を入れた小鍋。
自分が渡せたのは、それだけだった。
料理帳はいつもの棚にある。あの帳面をここへ持ってきた理由も、そこに挟まれた手紙のことも、レオンは忘れていない。
だが、今日は紙を開かなかった。
小屋で聞いた咳と、包帯を巻き直す少女の手が、まだ頭に残っている。
明日の店を開けるには、仕込みがいる。布を探しに行くなら、閉める時間も決めなければならない。
レオン「……今度は、食材だけじゃないな」
レオンは残った玉ねぎを半分に切り、明日の鍋に入れる分を取り分けた。
西の町は遠い。
そして、たった一枚の布が必要な人は、思っていたより近くにいた。




