第5話 帰ってきた草籠
豆の袋を持ち上げると、底の形が手のひらに伝わった。
レオン「……明日の分までは、あるな」
昨夜から水に浸していた豆は、小鍋の中でゆっくり膨らんでいる。玉ねぎは残り半分。根菜は、小さな切れ端まで集めても二皿分ほどだ。
西の町へ行けば買える。だが、片道二日。今日出ても、戻るのは早くて四日後になる。
レオンは入口に掛けた『食堂』の看板を見た。
レオン「……四日閉めたら、店があることを忘れられそうだな」
笑いごとにするには、開けたばかりだった。
豆を火から下ろし、今日の分だけを小鍋に移す。薄く切った玉ねぎを加えて塩を振り、煮汁が少なくなるまで温めた。豆がほどけ、木匙の先にねっとりと絡む。
パンに挟めば、少ない具でも腹にはたまりそうだ。
◇
昼前にやって来た少女は、今日は椅子に座らなかった。
銀紫色の髪の下で、黒い角が二本、窓の明かりを受けている。片腕に掛けた草籠には、乾いた束と、摘んだばかりの青い葉が分けて入っていた。
ミーナ「……昨日の豆、まだある?」
レオン「ある。パンと一緒に出せるぞ」
ミーナ「それより、これを見て」
少女は籠を台の端に置き、細い葉を一本つまみ上げた。
ミーナ「料理に使う草。先の方だけ摘んだから、茎の苦いところは少ない」
レオン「売り物か?」
ミーナ「そう。食べさせてあげるつもりはないから」
レオン「値段は?」
少女はひと呼吸置いた。値を聞かれることまで考えていたらしい。
ミーナ「乾いた束は小銅貨一枚。生の方は細かい銅貨二枚。傷むのが早いから、今日使うならそっち」
レオン「香りを確かめても?」
ミーナ「一本だけ。束をほどかないで」
レオンは渡された葉を指先で軽く揉んだ。青い香りのあとに、少し甘い匂いが残る。
レオン「豆に合いそうだ。生の方をもらう」
ミーナ「ちゃんと使い切れる?」
レオン「……今日は二皿分を作るつもりだ」
ミーナ「それなら半分で十分。残りは別の客に売る」
少女は自分で葉の束を二つに分け、片方を差し出した。
ミーナ「半分なら細かい銅貨一枚」
レオン「助かる」
ミーナ「安くしたわけじゃないの。半分しか渡してないから」
レオン「そうだな」
レオンは代金を払い、葉を小皿に置いた。少女は硬貨を確かめて籠の内側へしまう。
それで話は終わるはずだった。
ところが少女は、棚に並んだパンを見て眉を寄せた。
ミーナ「……それ、まだ残ってたの?」
レオン「昨日の分だ。焼き直せば食べられる」
ミーナ「豆もパンも減ってる。町まで買いに行かないの?」
レオン「行くつもりだ。ただ、往復四日以上となると、その間は店を閉めることになる」
ミーナ「なら、近くで買えば?」
レオン「近くに売ってくれるところがあるのか」
ミーナ「石橋の手前に畑がある。人間の家だけど」
最後の言葉だけ、少し低くなった。
ミーナ「売ってくれるかは知らない。私はあそこで買ったことないもの」
レオン「行ってみる価値はあるな」
ミーナ「……私に案内しろって言わないでよ」
レオン「言わない。君も仕事の途中だろう」
少女は籠を持ち直した。
ミーナ「そうよ。草が湿る前に売らなきゃいけないんだから」
◇
レオンは店を昼まで開けた。
売れたのは、豆を潰して焼いたパンに挟み、生の香草を少し散らした一皿だった。
表面を温めたパンは薄く音を立てて割れ、中から塩の利いた豆がのぞく。葉の青い香りが豆の甘さを引き締め、噛むほどに腹が温まる。
食べ終えた客は、皿の端に残った豆までパンで拭って帰った。
レオン「……二皿分、作っておいてよかったな」
残りの一皿を自分で食べ、戸に札を掛ける。
『本日は午後から仕入れに出ます。明日は朝から開けます』
町へ出るなら四日。石橋の手前なら、まだ日があるうちに戻れるかもしれない。
レオンは小銭を数え、空の背負い袋を持って歩き出した。
◇
崩れた排水溝には、昨日と同じ石の囲いが残っていた。
レオンはその手前で立ち止まり、草を払って安全な側を確かめた。石の上を荷車は通せない。人なら慎重に回れるが、荷を多く積めば足元が見えなくなる。
レオン「買いすぎるのも困るな」
崩れた溝を安全な側から迂回し、石橋の手前の集落へ向かってしばらく歩くと、畑の端で鍬を持つ男がいた。白髪交じりの髪に、日に焼けた首筋。畝には小ぶりの玉ねぎが並んでいる。
レオン「すみません。野菜を分けていただけませんか」
男「……店か何かやってるのか?」
レオン「旧国境村で食堂を始めました」
男「あの廃村で?」
レオン「はい。王国側の一区画だけですが」
男は鍬を地面へ立てかけ、レオンの袋を見た。
男「大した量は運べなさそうだな」
レオン「今日は持って帰れるだけで十分です」
男「それなら売れる。だが、こっちも種に残す分がある。好きなだけとはいかんぞ」
男は小ぶりの玉ねぎを二つ、土のついた根菜を三つ選んだ。レオンが値段を聞くと、男は少し考えてから小銭を示した。
レオン「その額でお願いします」
男「安くしろとは言わんのか」
レオン「店で使うものですから。そちらも商売でしょう」
男「……変わった店主だな。野菜を売る方は助かるが」
男は布を一枚出して根菜を包み、袋に入れる順番も教えた。重いものを下へ、玉ねぎは潰さないよう上へ。
レオン「毎日、少しずつ買いに来ることもできますか」
男「毎日は困る。畑の手が止まる。売れる分がある日に、まとめてならな」
レオン「わかりました。次は先に、都合を聞きます」
男「売るものがない日は、来ても増えんぞ」
レオン「それは、俺の店も同じです」
男が笑った。
レオンは袋を背負い、来た道を戻った。帰りの荷は確かに重くなったが、町へ出るために四日も店を閉めずに済んだ。
◇
夕方の食堂には、新しく買った野菜が並んでいた。
玉ねぎ二つと根菜三つ。乾燥豆はまだ少し残っている。これで何日も安心というわけではない。それでも、明日の鍋に入れるものが決まった。
レオンは買ったばかりの玉ねぎをひとつ持ち上げ、乾いた棚へ置いた。
レオン「……明日は、これを焼いてみるか」
煮るばかりではもったいない。厚く切って焼き目をつければ、少ない塩でも甘くなるだろう。
店の戸締まりをしようとしたとき、草を踏む足音が二つ、聞こえた。
少女の声がする。
ミーナ「だから、ここで草を売ってるだけだって言ってるでしょ」
返ってきたのは、聞き覚えのない少女の声だった。
ノエラ「それは聞いた。でも、わざわざこの店なの?」
レオンは扉に掛けた手を止めた。
窓の外には、草籠を抱えた銀紫色の髪の少女と、同じように角を持つもう一人の少女が立っていた。後から来た方は少し年上に見える。肩から提げた革袋の口には、清潔そうな布が巻かれた小瓶と、細く畳んだ包帯が押し込まれていた。
その少女は布がほどけかけているのに気づくと、口を結び直した。指先の動きが早い。
ミーナ「買う人がいるんだから、来るでしょ」
ノエラ「……ミーナ。あの人が誰だか、忘れたわけじゃないよね」
ミーナ「忘れるわけないでしょ」
名前を呼ばれた少女の横顔が、きつくなる。
ノエラと呼ばれる少女は、食堂の看板へ目を向けた。だが、すぐに視線を戻す。
ノエラ「じゃあ、どうして魔王様を倒した勇者の店に通ってるの?」
ミーナ「……食べ物も草も、取引してるだけよ」
ノエラ「そう。なら、それ以上は今、聞かない」
ノエラは革袋を肩へ掛け直した。包帯の端が少しのぞいた。
ノエラ「ごめん、急ごう。あの人、朝より熱が上がってた。母さんに教わった薬だけじゃ、傷の方が心配なの」
ミーナ「……布、足りそう?」
ノエラ「今持ってる分では、一度巻き直すくらい。戻って確かめないと」
二人は食堂から離れ、草の細道へ足を速めた。
レオンは扉を開けかけたまま、声を掛けずにいた。
何を手伝えるのかも、誰が困っているのかも、まだ知らない。追いかけて行って、元勇者だから任せろと言える話ではなかった。
それでも、布の足りない傷という言葉が耳に残った。
食堂の棚には、買ってきた野菜が二つと三つ。奥には、王都から持ってきた料理帳が置いてある。
レオンは料理帳から目を離し、戸を閉めずに竈の方を振り返った。
湯を沸かすことなら、今すぐできる。
必要かどうかを決めるのは、まだ彼女たちの方だった。




