第4話 国境の道に、足音が増えた
朝の竈から、豆の煮える匂いが漂っていた。
昨夜から水に浸しておいた豆を、レオンは小鍋でことこと煮ている。柔らかくなったところへ刻んだ玉ねぎと、残してあった根菜を加えた。蓋の隙間から白い湯気が逃げる。
木匙で豆をひと粒すくう。舌でつぶれるほど柔らかい。塩を少し加えると、控えめだった甘みがはっきりした。
レオン「……よし」
昨日、少女に聞かれて答えた料理だ。もっとも、相手は今日も来るとは言っていない。
レオンは火を落とし、鍋を脇へ寄せた。
その前に、やることがある。
◇
古い石橋へ続く道の途中で、レオンはしゃがみ込んだ。
昨日、草を刈って目印を立てた穴だ。朝の光の下で見ると、古い排水溝の石組みが崩れて空洞になっていた。上を土で覆えば、次に誰かが踏んだとき、まとめて落ちるだろう。
補助魔法で割れた石を浮かせ、溝の外へ運ぶ。使えそうな石を並べ直してみたが、底から水が流れるようにするには、もう少し考える必要があった。
レオン「塞ぐだけじゃ駄目か」
ミーナ「駄目でしょ。雨が降ったら、水が行き場をなくすもの」
背後から声がした。
振り返ると、銀紫色の髪の少女が少し離れた場所に立っていた。今日は布袋のほかに、短い枝を一本持っている。
レオン「おはよう」
ミーナ「……よくそんな普通に挨拶できるわね」
レオン「朝だからな」
少女は返事をしなかった。穴の手前に立てた目印を見て、枝の先で地面をつつく。
ミーナ「昨日より広がってる。端っこも空洞になってるんじゃない?」
レオンは魔法で薄い土の層を持ち上げた。下から、欠けた石組みがのぞく。
レオン「……本当だな」
ミーナ「踏んで確かめなくてよかったでしょ」
レオン「それは助かった」
少女は枝を地面へ放り、腕を組んだ。
ミーナ「別に、アンタの仕事を手伝いに来たわけじゃないから」
レオン「わかってる。道を通るんだろ」
その答えに、彼女は少しだけ目を細めた。
レオンは石を元に戻さず、穴の周囲へ動かして低い囲いを作った。ひとまず人が落ちないようにする。溝そのものを直すのは、材料を調べてからだ。
ミーナ「……食堂、開けなくていいの?」
レオン「朝の仕込みは済んだ。豆が煮えてる」
少女が顔を上げた。
ミーナ「本当に作ったんだ」
レオン「昨日、そう言ったからな」
少女は何か言いかけて、やめた。
◇
食堂へ戻る途中、道の先から車輪の音が聞こえた。
小さな手押し車を引く男が、草を避けながら歩いてくる。荷台には布をかけた包みがいくつか。日に焼けた顔には汗が浮かんでいた。
男「おお、助かった。ほんとに食堂があった!」
男は矢印の看板を指差した。
男「街道の入口に板が立ってたろ。誰かが戻ってきたのかと思ってな」
レオン「店を始めたばかりです」
男「それなら、何か食わせてもらえるか? 朝から歩きっぱなしで」
レオン「豆の煮込みとパンならあります」
男「願ってもない。ああ、その前に一つ。石橋へはこの道で合ってるか?」
男の手押し車を見て、レオンは首を横に振った。
レオン「道は合ってます。ただ、途中の排水溝が崩れています。車輪を通すのは危険です」
男「げっ。やっぱりか……」
男は額の汗を拭った。荷物をひとつ持ち上げて重さを確かめる。
男「向こうの集落まで、小物を売りに行けるか見ておきたかったんだ。戦争が終わって、通れる道が増えたかと思ったんだが」
道を見つめる男の横で、ミーナは黙っていた。
かつて行軍中には、こういう道の先へ斥候を出した。危険なら迂回し、間に合わなければ先へ進むのを諦めた。今は食堂に来る荷車が一台、先へ進めずにいる。
男「ま、飯にありつけただけでも収穫だ。車はここに置いていいかい?」
レオン「店の脇なら邪魔になりません」
男はようやくミーナに気づいたらしい。角へ目をやり、少しだけ言葉を止めた。
男「……先客がいたか」
ミーナ「道の話をしてただけ」
ミーナは先に歩き出した。男はそれ以上聞かず、車を食堂の脇へ寄せた。
◇
椅子は四脚。男が座ったのは入口に近い椅子で、ミーナはいつもの窓際を選んだ。
レオンは小鍋の煮込みを温め直し、木椀へ盛った。豆はほろりと崩れ、細かく切った根菜がとろみのついた汁に沈んでいる。焼いたパンを添えると、香ばしい匂いが店いっぱいに広がった。
男「こりゃいい。こんな場所で温かい飯にありつけるとはな」
男は壁の値札を探した。
レオン「豆の煮込みとパンで、小銅貨一枚です」
男「お、安いな。……その値段で続けられるのか?」
レオン「今、そこを考えているところです」
男「正直だなあ、店主さん」
男は笑って硬貨を置いた。ミーナは壁の木札を見上げたまま、眉を寄せる。
ミーナ「また新しい料理の値段を書いてない」
レオン「……そうだった」
男「えっ、常連さんが店のこと見てるのか?」
ミーナ「値札がおかしいだけよ!」
男は驚いて匙を止めた。
ミーナもそれ以上は言わず、椀に口をつける。少し冷ましてから豆をすくい、ゆっくり噛んだ。
男は二口ほど食べてから、満足げに息を吐いた。
男「こういうのが一番だな。昨日の晩は固い干しパンだけだったから、腹に染みる」
レオンは店の奥から板切れを持ってきた。新しい料理名と値段を書き、既存の木札の下へ掛ける。
男「名前はなんていうんだ?」
レオン「レオンです」
男「俺はトビアス。西の町で日用品を売ってる。今日は向こうへ通る道を見に来た。壊れてるなら、荷物は持ち帰るしかないな」
トビアスは匙を置き、車のある方へ目をやった。
トビアス「道が直ったら教えてほしい、と言いたいところだが……こっちへ来る用事がないだろうな」
レオン「仕入れには行きたいんです。野菜も、そろそろ足りなくなる」
トビアス「西の町までなら歩いて二日だ。俺の店を探してみな。だが、仕入れを頼まれても、この道を車で通れるようになるまでは運べんぞ」
レオン「承知しました。店の場所を教えてもらえますか」
トビアスは荷物の包み紙の裏に、簡単な道順を書いた。レオンは受け取り、調理台の引き出しにしまう。
窓際で、ミーナが椀を空にした。
ミーナ「……豆、柔らかかった」
レオン「水に浸しておいたからな」
ミーナ「そう」
少女は小銅貨を置き、立ち上がった。
トビアスはその背中を見ながら、口を開きかけて閉じた。何も尋ねず、煮込みの残りを食べ始める。
◇
夕方、トビアスは手押し車を引いて帰っていった。崩れた排水溝の先へは進まず、来た道を引き返す。
トビアス「道が直れば、また来るよ。今度は売り物を少し多めに積んでな」
レオン「お気をつけて」
男が見えなくなると、レオンは店の前の道を眺めた。
数日前まで、足跡もほとんどなかった道だ。
今日は三人分の足跡と、車輪の跡が残っている。
レオンは厨房へ戻り、食材の袋を確かめた。豆はまだ少し残っているが、根菜はもう心もとない。先ほど教わった店まで行くには、往復で何日も必要だ。
夕食用に火を起こしながら、レオンはふと棚の隅を見た。
そこには、欠けた古い椀が置いてある。初めてこの建物へ入った日に拾ったものだ。
その隣の棚には、今日洗った椀が二つ、伏せて並んでいた。
レオン「……明日は、石をもう少し見てみるか」
危険な穴は、まだ直っていない。
けれど、道を直せば通れる人が増えるかもしれない。通る人が増えれば、店に立ち寄る人もいるだろう。
レオンはトビアスの道順が入った引き出しを見た。西の町まで二日。仕入れに出れば、そのあいだ店は閉まる。せっかく道を探して来た客に、閉じた扉を見せることになる。
レオンは残った豆を器へ移し、水を注いだ。
今度は何人分にするか、少しだけ迷ってから。




