第25話 最初の石
朝の空気を割るように、石を置く音が響いた。
旧村の東寄りにある空き地では、職人たちが地面に張った縄を確かめていた。杭の位置を測り直す者、掘り出した土を運ぶ者。その中央で、石工が基礎に使う石を一つずつ選んでいる。
ここに建つのは、国境の新しい教会だ。
レオンは食堂の戸口から現場を眺めた。朝の仕込みに取りかかる前に、働く人たちへ湯を届けてきたところだった。
レオン「本当に始まったんだな」
草の伸びた空き地だった場所に、今は縄が張られ、土が掘り返されている。職人の声が飛び交い、木槌の音が響く。
建設を決めたのは、王都の大聖女セシリアだ。教会の新設を申請してから、王都では土地の記録と建設費の確認が進められ、現地では所有者と管理する側の同意が確かめられた。着工許可が下り、職人の手配が整って、ようやく今日を迎えた。
教会の敷地は、レオンの食堂がある一区画とは別の土地だ。現場の監督役は同意書と許可証を預かり、セシリアが承認した予算で工事を進めている。レオンが土地を貸したわけでも、工事を取り仕切っているわけでもない。
◇
現場では、石工の男が縄の端を持ち上げた。
石工「そこの杭を半歩、外へ。基礎の幅が足りなくなる」
監督役「図面では、この位置です」
石工「図面の線は地面の石まで見てくれん。ここは昔の水路跡だ。掘った土が湿っている。浅いまま石を置けば、雨のあとに沈む」
石工は土を指でつまみ、湿り具合を確かめた。監督役は図面を見直し、彼の判断に合わせて杭を打ち直す。
そのそばで、ナディアが木材の束を数えていた。救護小屋の戸を直したときと同じ、使える物と使えない物を見分ける目をしている。
レオン「ナディアさんも、今日は現場の仕事ですか」
ナディア「頼まれたのは、届いた木材の確認と仮置きの手伝い。運び賃とは別に、仕事代も決まってるよ」
レオン「建物の設計まで任されたのかと思いました」
ナディア「冗談じゃない。私は戸や窓を直す職人だ。石組みの基礎は石工の仕事。できないことまで引き受けたら、あとで困るのは使う人だよ」
ナディアは節の浮いた板を一本抜き、脇へ分けた。
ナディア「これは屋根の下地には使わない。反りが出てる。仮囲いなら使えるから、そっちへ回す」
監督役が頷き、運び手に別の板を運ぶよう指示した。仕事の範囲も、判断する責任も分かれている。
大きな荷車は、まだ食堂の近くまで入れない。石橋の先にある排水溝が崩れたままだからだ。資材は荷車が安全に止められる場所で小分けにし、背負い枠や小型の手押し車で運んできた。
基礎に使う石も、一つずつ重さを確かめて運ぶ。無理に大きな石を通そうとはせず、現地で使える石を選び、足りない分だけ小口の便で追加する。余分な運搬費は教会側の予算から出る。
レオン「道が直るまでは、運ぶ人の手間がかかりますね」
ナディア「だからって、危ないところへ荷車を入れるわけにはいかない。石を一つ割れば、運ぶ手間より高くつく」
レオンは頷いた。道が悪いからといって、急いで通せばいいわけではない。
◇
昼近く、救護小屋からノエラとリリアが現場を見に来た。
ノエラは薬草の小袋を腰に下げ、リリアは診療道具をまとめた鞄を持っている。二人とも患者の様子を確認してから出てきたらしく、長居はできないようだった。
リリア「ここに教会ができれば、雨の日に道具を濡らさずに済む場所が増えますね」
ノエラ「建物ができても、魔族が中へ入れるとは限らないでしょ」
リリアはすぐには答えなかった。
リリア「そうですね。建てる人が決めることでも、私一人が決めることでもありません。来る人が安心できるように、使い方を考えないと」
ノエラ「人間の患者だけを先に診るなら、今の小屋と変わらない」
リリア「その不安は、なくなったことにしません。私も、あなたが働き始めたときに何を言われたか知っています」
ノエラは現場の石を見た。石工が土の底を確かめ、基礎の深さを測っている。
ノエラ「少なくとも、屋根があれば薬草を乾かす場所は作れる。患者の寝台と離して、湿気がこもらない部屋が必要だけど」
リリア「その希望は、セシリア様に伝えましょう。診療の場所を作るなら、あなたの知識も必要です」
ノエラ「必要だからって、何でも言うことを聞くわけじゃないからね」
リリア「ええ。条件は一緒に考えましょう」
二人はまだ同じ考えになったわけではない。それでもノエラは、帰る前に仮置きされた木材の束を指さした。
ノエラ「その板、地面に直置きしない方がいい。朝露を吸う。下に石をかませて風を通して」
ナディアが振り向いた。
ナディア「そうするつもり。気づいてくれて助かったよ」
ノエラは小さく頷き、リリアと一緒に救護小屋へ戻っていった。
ダルクの足は、まだ歩ける状態ではない。二人が現場に残って重い物を運ぶことはない。今も救護を必要とする人がいる。その仕事を置いて建設に加わる理由はなかった。
◇
昼を過ぎると、食堂の戸が続けて開いた。
工事の人間が増えたとはいえ、店の椅子は四つだけだ。レオンは一度に大勢を座らせず、現場の休憩時間をずらしてもらい、四人ずつ食事を取ってもらうことにした。
今日の献立は、根菜と豆の煮込み、それに薄く切った麦パン。肉料理はない。先日作った肉の煮込みは売り切れており、新しい肉も仕入れていない。
鍋では玉ねぎと根菜を先に炒めてある。油の中で甘みが出たところへ豆と水を加え、弱火で煮込んだ。根菜が柔らかくなったら木匙で一部を押しつぶし、煮汁にとろみをつける。最後に乾燥香草を揉んで散らした。
湯気に乗って、玉ねぎの甘い香りが店に広がる。
運び手「今日は肉じゃないのか」
レオン「今日は豆と根菜です。肉料理は、仕入れがある日に出します」
運び手「じゃあ、それを一皿。いくらだ?」
レオン「小銅貨一枚です」
男は硬貨を一枚、卓に置いた。
四人が席につき、レオンは順に皿を運んだ。煮込みは熱く、豆の粒が舌の上でほどける。根菜には玉ねぎの甘みが染み、麦パンを浸すと最後の一滴まで食べられた。
石工「現場で冷えた手に、これはありがたい」
運び手「西の町から来たが、ここに食堂があって助かった。朝から荷を分けて運んで、腹が減っていたんだ」
レオン「遠くから来たんですか」
運び手「石工の親方と一緒に来た。明日も作業がある。ところで、この辺りに泊まれる場所はないか」
レオンは答えに詰まった。
レオン「今は、宿屋がありません。食堂にも泊まる場所はないんです」
運び手「そうか。西の町まで戻るには遠いし、現場の近くで夜を越せる場所を探すしかないな」
男は窓の外を見た。資材を積んだ荷車は、夜のうちに動かす予定ではない。監督役に相談し、許可を得て現場の安全な場所に置かせてもらうしかなさそうだった。
運び手「荷台に毛布を敷いて休むことになるか。雨が降らなきゃいいが」
レオン「温かい夕食なら、店で用意できます。宿にはなりませんが」
運び手「それだけでもありがたい。夕方、もう一度食べに来るよ」
男は煮込みを食べ終え、空の皿を卓の端へ寄せて席を立った。椅子が空くと、次の四人が入ってくる。レオンは器を洗い、鍋の火を確かめてから次の皿を盛った。
食堂は工事の休憩所ではない。料理を作り、代金を受け取り、客に食べてもらう店だ。だからこそ、働く人たちも遠慮なく食事を頼める。
◇
夕方、現場の人々が片付けを始めたころ、監督役が石工に声を掛けた。
監督役「今日の作業を終える前に、最初の石を据えましょう。位置は確認できていますか」
石工が頷く。監督役の手元には、セシリアの署名が入った指示書があった。王都にいる彼女へ、今日の施工結果と次に必要な資材を報告することになっている。
石工は基礎の底に敷いた砕石を木槌で軽く叩き、沈みがないか確かめた。その上に据える石を選ぶ。表面の平らな面を上にし、隣の石と噛み合う向きを探した。
石工「これなら据えられる。押さえるぞ」
運び手が石の端を支え、石工が木の当て木を使って少しずつ位置を調整した。石が基礎の上に収まる。石工は水平を確かめ、最後に木槌で側面を二度叩いた。
低い音が、地面に伝わった。
監督役「これを、最初の基礎石とします」
誰かが大げさに拍手をすることはなかった。職人たちは次の石を確かめ、運び手は道具を片づけ始める。工事はまだ始まったばかりだ。壁も屋根もなく、患者を迎えられる日は先にある。
それでも、地面に据えられた石は、朝にはなかったものだ。
レオンは食堂の前から、その石を見つめた。
救護小屋では、ノエラとリリアが今日も患者を診ている。ここに教会ができれば、二人が働く場所も、助けを求める人が訪れる場所も増える。だが、建物ができただけで不安が消えるわけではない。誰が中へ入れるのか、どんな人を迎えるのか。決めていくことはまだ残っている。
それでも、最初の石は置かれた。
遠くから来た運び手は、今夜、荷車のそばで毛布にくるまることになる。宿がない不便を、レオンは初めて自分の店の客から聞いた。食堂だけでは足りないものが、少しずつ見えてきている。
店の中では、夕食を待つ客のために鍋が温まっていた。
レオン「宿はまだないけど、飯なら出せる。明日も、ちゃんと開けよう」
レオンは戸口の札を裏返した。明日の献立は、朝の仕入れを見てから決める。
村に建ったのは、まだ一つの石だけだ。
けれど、その石の上に、誰かが帰ってこられる場所を作ろうとしている。




