第26話 向こうの森へ
豆を潰しすぎると、今度は匙から落ちなくなる。
レオンは小鍋の中身をかき混ぜ、少し水を足した。昨夜から浸しておいた麦に、細かく刻んだ根菜と豆を合わせた朝の煮込みだ。仕上げに、ミーナから買った乾燥香草を指先で揉み入れる。
香りが立ったところで、戸が開いた。
客「今日は早いな。教会の人はまだ来てないのか」
レオン「工事の方は、もう現場にいますよ。ここはいつもどおりです」
客「じゃあ一皿。朝から腹が減っててな」
客は昨日も石を運んでいた男だった。小銅貨一枚を受け取り、レオンは温めた麦の煮込みを木皿へ盛った。
匙を入れると、麦の粒がほろりと離れる。豆のとろみが根菜を包み、口へ運んだ男が息を吐いた。
客「……これなら昼まで働ける」
レオン「午後も工事ですか」
客「ああ。石はまだ山ほど要る。昨日置いた一つだけじゃ、壁にもならんからな」
男は空になった皿を戻し、現場へ向かった。
窓の向こうでは、教会の敷地に新しい縄が張られている。昨日、最初の基礎石が据えられた場所だ。そこへ続く道には、資材を背負った職人の姿も見えた。
レオンは器を洗い、残った煮込みを自分の朝食にした。今日の昼は店を閉める。待っている人がいるからだ。
鍋を片づけ、竈の火を落とす。戸に掛ける木札は、昨夜のうちに用意していた。
『昼は畑の確認のため休業します。朝の営業は終了しました』
戸締まりをして、レオンは石橋へ向かった。
◇
崩れた排水溝の手前では、目印の布が風に揺れていた。
石の縁を踏まず、安全な徒歩道を通る。工事の資材を運ぶ人たちが使っている迂回路は、相変わらず細い。荷車が通れるようになったわけではない。
橋を越え、バルドに教わった脇道へ入ると、土の匂いが変わった。
乾いた街道と違い、ここには水の気配がある。細い水路が畑の間を曲がり、段差を下るたび小さな音を立てていた。
畑は三段。いちばん上に、左へ曲がった一本の角が見えた。
バルド「……来たか」
レオン「約束した昼ですから」
バルド「来ない方に賭けてた奴が、一人いる」
レオン「何を賭けたんですか」
バルド「芋一つ」
レオン「それは、もったいないですね」
バルドの口元がわずかに動いた。だが、すぐに真顔へ戻る。
そばには二人の魔族がいた。一人は背の曲がった年配の女で、もう一人は長柄の農具を持つ男だ。少し離れたところには弓を背負った猟師と、土地の世話役だという男も立っている。
農具を持つ男は、レオンの顔を見るなり眉をひそめた。
男「……あんたが、魔王を倒した人間か」
レオン「そうです」
男「なら、うちの畑には入らないでくれ。バルドに頼まれたから話は聞くが、それとこれは別だ」
レオンは足を止めた。
レオン「わかりました。道から見える範囲で構いません」
年配の女が、男を横目で見た。
女「下の畑は私の持ち分だよ。畝を踏まなきゃ、水路沿いだけはいい。ただし、苗には触らないでおくれ」
男「俺は、中段には入れると言ってないぞ」
バルド「俺の上段は入っていい。三軒で相談したとおり、誰の畑も持ち主が決める」
世話役が一歩進み出た。
世話役「今日は痕跡を見るための立ち入りだけだ。バルドの上段と、許しの出た下段の水路沿い。中段は境の道から見る。森へはまだ入るな」
レオン「狩りは?」
猟師「ここじゃ俺たちの仕事だ。見回りの話は聞いてるが、今日は誰にも討伐を許してない。危なくなったら、まず人を逃がす」
レオン「それでお願いします」
弓を背負った猟師は、意外そうにレオンを見た。
猟師「……剣も持ってないのか」
レオン「返しました」
猟師「変わった元勇者だな」
レオンは返事の代わりに、畑へ視線を向けた。
◇
上段の畑では、芋の葉が土に伏していた。
掘り返された畝の脇に、細かな根が散らばっている。だが、バルドが持ってきた芋の傷とは別に、妙なものが残っていた。
濡れた泥が、畑の外へ向かって細い筋を引いている。
レオン「この跡、夜の雨ですか」
バルド「雨は降ってない。水路の水がこっちへ溢れたんだ」
バルドがしゃがみ、芋の根元に付いた砂を払った。
バルド「水だけなら、朝には引く。だが、見てみろ」
土の表面に深い凹みがある。その隣には、浅く細長い跡がいくつも続いていた。
レオン「足跡が二種類?」
猟師「少なくとも、大きさは違う。小さい方は重なっていて数が読めん。人間側でお前が倒した獣と同じかは、これじゃわからん」
レオンは頷いた。あちらの獣は、短い角と牙を持つ大きな一頭だった。こちらの畑には、同じ大きさの足跡だけが残っているわけではない。
バルドは水路の方へ歩いた。
バルド「最初は森から畑へ入ってきたんだと思った。だが、昨夜、下の畑の方から水が溢れた音がした」
上段から中段へ落ちる水路は、古い板で流れを分けていた。板の片側には泥が詰まり、もう片側では水が細く糸を引いている。
境の道から覗くと、水路の底に倒れた木の枝が引っかかっていた。折れた枝というには太く、根ごと土を抱え込んでいる。
女「流れが弱くなったのは、そのせいかい」
バルド「昨日までは、ここまで見えなかった」
男「だからって、俺の畝へ入って片づけるなよ」
中段の持ち主は、相変わらず農具を握っている。
猟師は水路の縁へしゃがみ、濡れた土を指でなぞった。
猟師「こっちにも跡がある。水が引いたあとを歩いてるんだ。獣は森から真っすぐ畑へ来たんじゃなく、溝沿いに動いてるかもしれん」
レオン「このままだと、次も同じ道を通る?」
猟師「断定はしない。ただ、畑の真ん中で待ち伏せするより、水路の出口を見た方がいい」
そのとき、下段の方で水がはねた。
年配の女が振り返る。
女「ちょっと待って。うちの苗の方へ流れてる!」
塞がれた水路の脇から、濁った水が畝へ染み出していた。土がゆっくり崩れ、植えたばかりの苗が一列、傾く。
バルドが走りかけたが、世話役に止められた。
世話役「畝を踏むな。まず水を止められる場所があるだろう」
バルド「上の分水板だ。閉めれば、下へ行く水も止まる」
女「止めておくれ。今なら苗を戻せる」
男「待て。うちの畑まで水を切られたら困る」
声がぶつかった。
レオンは水の通り道を見た。上段の取水口から中段の板を経て、下段へ落ちる。詰まりのある場所だけ水が横へ逃げ、土を削っている。
レオン「木を取れば流れは戻りそうです。でも、その間だけ上の水を弱められませんか」
男「俺の畑の中を通らずに、どうやって取る気だ」
答えたのはバルドだった。
バルド「境の道から届く。あの枝の根元に縄を掛ければ」
猟師「引き抜くなら下流に人を立たせるな。泥が一気に流れる」
世話役が中段の男を見た。
世話役「今の案なら畝へ入らずに済む。それでも嫌なら、今日は触らん。決めるのはお前だ」
男は崩れかけた下段の畝を見つめた。やがて農具を地面へ置く。
男「……水路の中だけだ。苗を踏んだら承知しない」
レオン「触りません」
◇
上の分水板をバルドが少し閉じると、水音が弱まった。
世話役は下流の道へ回り、女を安全な側に下がらせた。猟師は枝が動く方向を確かめ、縄を渡した。
猟師「根に巻け。途中で千切れたら止める。無理に引くなよ」
レオンは道の上から身をかがめ、縄の輪を枝の根元へ掛けた。泥を含んだ木は重く、水底に食い込んでいる。
バルド「一人で引けるのか」
レオン「少し重いだけなら」
脚と腕に魔力を巡らせる。急に引けば水路の石まで動く。レオンは縄を張ったまま、枝の根がどこに引っかかっているかを確かめた。
レオン「右の石に噛んでます。そちらを見てもらえますか」
猟師「石は動かすな。枝の方を少し浮かせろ」
教えられた角度に力を掛け直す。水底で、ごり、と鈍い音がした。
枝が浮いた。
レオンは水路の外へ引き上げ、誰も立っていない道の脇に下ろした。泥が落ちる音に続いて、詰まっていた水が一気に流れ始める。
下段へ向かって濁った水が走る。猟師の合図を受け、バルドが分水板を少しずつ開いた。
流れは水路の内側に収まった。
女「……ああ、よかった」
年配の女は畝へ降り、倒れた苗の根元に土を寄せた。水を吸いすぎた葉はまだ伏せている。それでも、根が流される前に間に合った。
中段の男は水路を覗き込み、短く息を吐いた。
男「全部持っていかれるところだったな」
レオン「バルドさんが板の場所を知らなければ、間に合いませんでした」
男「……あいつは水路ばっかり見てるからな」
バルド「誰の芋も、水がなきゃ育たんだろ」
男は言い返さなかった。
猟師が水底を指した。
猟師「枝の下に、土が削れて小さな通り道ができてる。獣の跡もそこへ続いてるな。今夜は畑に立つんじゃなく、森側の出口を離れたところから見張った方がいい。ただし森へ入る許可は別だ」
世話役が頷く。
世話役「今日はここまでだ。夜は畑に誰も入れない。出口の見張りは猟師と相談して、許された場所に限る」
倒した獣は一頭もいない。けれど、水路の詰まりは取れ、これ以上苗を流さずに済んだ。人が危険な畑の中で夜を明かす必要も、今夜はなくなった。
◇
帰り際、バルドは上段の畑から細長い芋を一本掘り出した。
バルド「見ろ。これが、うちで作ってる芋だ。一昨日、食堂で食ったのとは違うだろ」
手に載せると、泥に覆われた皮の下に細い筋が見える。先の方は曲がっているが、傷はない。
レオン「煮崩れしにくいんでしたね」
バルド「ああ。今日は見せるだけだ。持って帰っていいとは言ってない」
レオン「わかっています」
バルドは芋を布で拭き、籠へ戻した。
バルド「明日、橋の向こうへ荷を運ぶついでに、売れる分を少し持っていく。うちの畑の分だけだ。隣の家の物まで勝手に売れない」
レオン「店に寄ってもらえますか。量を見て、値段を相談したいです」
バルド「相場より安くしろって言うなよ」
レオン「仕入れですから。運ぶ手間も聞きます」
バルドは、レオンの手に残った縄の泥を見た。
バルド「……今日は、獣を殺しに来たんじゃなかったな」
レオン「畑を見せてもらう約束でしたから」
バルド「俺はまだ、あんたが何を考えてるのかわからん。でも、今日の水路は助かった」
レオン「苗が残ってよかったです」
バルドは少し迷ったあと、手を差し出した。
レオンはその手を握った。農具を握り続けた硬い掌だった。
バルド「明日、値段が折り合わなきゃ売らない。それでいいな」
レオン「もちろん」
バルド「……変な店主だ」
手を放し、バルドは畑へ戻っていった。
レオンは橋へ向かう道を歩きながら、空の背負い袋を確かめた。今日持ち帰る野菜はない。代わりに、どんな芋が育つのか、その形と手触りを覚えた。
森にいる獣の正体はまだわからない。土地の決まりも、解決したわけではない。
それでも、畑の水は流れ始めた。
明日、店の戸が開いたとき、あの細長い芋が籠に入って届くかもしれない。
そのときレオンがするのは、まず値段を聞くことだ。




